博物館の応接室に戻ったあと、空気は目に見えないところで一段深く張りつめた。
林で見つけた倉庫跡。 古い通路に繋がる痕跡。 白い服の男たち。 そして、彼らが運搬の手順を試していたらしいこと。
四人が見てきたものを順に話すあいだ、アロエは一度も口を挟まなかった。机の上に置かれた布包みを開き、その中の石板片を見たときだけ、ほんのわずかに目の奥の色が変わったが、それでもすぐには何も言わない。
全部聞き終えてから、彼女は低く息を吐いた。
「ありがとう。状況は、思っていたより悪いわ」
ベルの肩が小さく揺れる。 シンも無意識に背筋を伸ばした。
アロエは石板片をそっと布の上に戻した。
「これは展示品そのものではないの。昔の資料を移動・固定するときに使う補助の石材で、単体ではそれほど価値が高いものじゃない」
「じゃあ、やっぱり」
チェレンが言う。
「試してたんですね」
「ええ」
アロエは迷いなく頷いた。「何を、どのくらいの重さで、どう運べるか。たぶんそれを見ていたのよ」
トウヤがすぐ訊く。
「本命は?」
アロエは数秒だけ黙った。 その沈黙は、言いづらいからではなく、口にする重さを測っているように見えた。
「この博物館で、いま狙われる可能性がいちばん高いのは――ドラゴンのホネよ」
部屋が、さらにひとつ静かになる。
シッポウシティの博物館にある象徴的な展示。 町に入ったとき、正面で彼らを見下ろしていた巨大な骨格。 旅人の目を引く大きな展示である以上に、この町の歴史の顔のひとつでもあるもの。
「展示室の……」
シンが呟くと、アロエは頷いた。
「ええ。あれはこの町の“古さ”を示すものでもあるの。博物館の中心に置かれているのは、見映えのためだけじゃない」
ベルが思わずムンナの方へ視線を落とす。 ムンナはベルの足元に寄ったまま、彼女の声の調子を聞いているようだった。
「狙いがわかってるなら、守れますよね」
ベルがそう言うと、アロエはすぐに「ええ」とは言わなかった。
「守るつもりよ。もちろんね」
そう前置きしてから、彼女は四人を順に見た。
「でも、狙いがわかったことと、止めきれることは別なの。相手がこちらの警戒を知れば、やり方を変えるかもしれない。むしろ、変えると考えた方がいい」
トウヤが椅子にもたれずに言う。
「なら、今のうちにホネを移せばいい」
チェレンもすぐ続く。
「僕もそれは考えました。表から消してしまえば、少なくとも展示品としての位置は隠せます」
だがアロエは首を横に振った。
「簡単ではないわ。あれは見た目以上に扱いが難しい。急いで雑に動かせば傷める。しかも、動かす過程そのものが新しい隙になるかもしれない」
「じゃあどうするんですか」
シンが訊く。
「表の警戒を強める。裏通路も封じる。職員の配置を変えて、来館者の流れも少し調整するわ」
アロエの声には迷いがなかった。 完全に安全な策ではなくても、いま打てる手を即座に並べている。
「あなたたちは、ここで待機していて。危なくなればすぐ避難。無茶に前へ出る必要はない」
その言い方は“大人”だった。 そしてたぶん、正しい。
けれど、シンの胸には少しだけ引っかかるものが残った。 待機。 避難。 もちろん無茶はするべきじゃない。 でも、自分たちはもう林まで見てきた。倉庫跡で相手と接触もした。その上で、ただ完全に後ろへ下がることが本当にできるのか。
トウヤも同じことを考えたらしい。 口には出さないが、視線がわずかに鋭くなっていた。
チェレンはむしろ、アロエの判断を理解している顔だった。ベルは不安そうにしながらも、ムンナの頭上へかざした手をそっと下ろす。
「わかりました」
最初に答えたのはベルだった。
その返事を聞いて、シンも頷く。
「……はい」
トウヤとチェレンも続いた。
それからの博物館は、見た目には大きく変わらなかった。
来館者はいる。 職員もいつも通り動いているように見える。 展示室には静かな光が落ち、ドラゴンのホネは相変わらず中央で大きく口を開けていた。
けれど内側では、確かに何かが変わっていた。
入口付近に立つ職員が増えた。 表情の固さを隠そうとしている人もいる。 展示室の奥へ出入りする回数が少し増え、普段なら閉じているらしい扉が一部だけ開け放たれている。裏通路の管理をしているのだろう。
シンたちは展示室の端、来館者の邪魔にならない場所で待機することになった。
待つ、というのは思った以上に落ち着かない。
動いている時の方がまだましだ。 何を見るか、どこへ進くか、手が勝手に忙しくなるからだ。 でも、何か来るかもしれない場所で立っている時間は、目も耳も余計な方へ広がる。
ミジュマルもどこか落ち着かなかった。 ふだんなら大きな骨格を見上げて得意げな顔をしていてもおかしくないのに、今日はシンの足元からあまり離れない。
ベルのミジュマルは逆に、気を張っているのを悟られまいとするみたいに胸を張っていた。けれどベルにはそれがわかるらしく、時々そっと頭を撫でている。ムンナはというと、館内の静かな空気には朝より慣れたようだったが、人の出入りが増えるたびに耳のような部分を揺らしていた。
「こういうの、やだな」
ベルが小さく言う。
「何も起きてないのに、ずっと起きそうな感じする」
「起きるかもしれないからね」
チェレンの返事は事実そのものだった。
「わかってるけど!」
「でも、わかってるならいい」
「よくない!」
ベルがむっとする。 そのやりとりに、ほんの少しだけ空気が緩む。
トウヤはドラゴンのホネではなく、その周囲の通路と人の流れを見ていた。
「正面から来るなら、あそこ」
ぼそっと言う。
「え?」
シンが見ると、彼は入口横の広い空間を顎で示していた。
「人を散らすならあそこが一番やりやすい。逆に裏からなら、表に気を向けさせる動きがいる」
チェレンがすぐにその考えを拾う。
「攪乱ありき、か」
「たぶん」
「嫌な想像ばっかり当たりそう」
ベルが言う。 けれど、その口調は半分本気だった。
時間が過ぎる。
昼を少し回った頃、展示室の空気は一見変わらないままだった。 だからこそ、最初の違和感は小さかった。
入口の方で、誰かが少し大きな声を出したのだ。
「おい、順番だろう!」
来館者同士の軽い言い争いに見える。 実際、博物館では起きなくもない程度の騒ぎだ。
職員のひとりがすぐに近づく。 もうひとりも様子を見るために動く。
その時、トウヤの視線が細くなった。
「変だ」
「何が」
シンが訊き返すより早く、入口近くで今度は展示ケースの倒れるような大きな音がした。
ガシャッ、と硬質な破砕音。 来館者の悲鳴。 職員の制止の声。
展示室全体の意識が、一気に正面へ引っ張られる。
「攪乱だ!」
チェレンが叫ぶ。
同時に、展示室の反対側――職員用通路に近い脇の扉が、内側から乱暴に開いた。
白い服の男たちが三人、雪崩れ込むように入ってくる。
「ポケモンを解放せよ!」 「古きものを縛る者たちに、我らの理想を――」
「うるさい!」
トウヤが一歩前へ出る。 あまりに即答で、相手の言葉の形すら切って捨てるようだった。
男のひとりがボールを投げる。 飛び出したミネズミが床を蹴って駆ける。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
シンが先に動く。 水流が低く走り、ミネズミの進路を削る。正面衝突を避け、展示台の脚へ突っ込ませないための角度だ。
「ツタージャ、まきつく!」
トウヤのツタージャがしなり、足を取られたミネズミへ絡みつく。床の上で暴れさせないよう、締め切るより先に自由だけを奪う動きだった。
別の男の前にはチョロネコが現れる。 ベルが息を吸う。
「ミジュマル、みずびたし!」
水がチョロネコへまとわりつく。毛並みが重く濡れ、身のこなしが半拍だけ鈍る。
「ムンナ、サイケこうせん!」
ベルのすぐ後に声が続く。 細い光が空気を裂き、濡れたチョロネコの横を掠めるように打つ。直撃ではない。それでも圧に押され、チョロネコが展示ケースの方ではなく脇へ跳ぶ。
ベルの目が見開かれる。 ムンナが、自分の声に合わせて前へ出たのだ。
「チェレン!」
「ああ。ポカブ、ひのこ!」
火の粉が弧を描き、相手の足元を弾く。展示物に近づけさせないための牽制だった。
正面ではなお騒ぎが続いている。 倒れた展示ケースの近くで職員が来館者を誘導し、別の男が大声で理想を叫んでいる。明らかに意識を分散させるための動きだ。
シンは戦いながら、嫌な感覚が消えないのに気づいた。
足りない。
ここにいる人数も、騒ぎの規模も、全部“ちょうどよく目を引く”くらいでしかない。 本命なら、もっと展示中央へなだれ込んでくるはずだ。 でも、そうじゃない。
「トウヤ!」
シンが叫ぶ。
「これ、足止めだ!」
トウヤも同じ結論に達していたらしい。視線だけで頷く。
「裏!」
「行け!」
だがチェレンが鋭く止めた。
「分かれるな! いま動くと各個撃破される!」
その一言で、足が止まる。
正しい。 正しいが、遅れるかもしれない。
その一瞬の迷いを、相手は逃さなかった。 奥にいた男が懐から何かを投げる。床に落ちたのは、白っぽい粉袋だった。破れて中身が舞い、展示室の空気に薄く広がる。
「なっ……」
ベルが目を細める。 ムンナもびくりと震える。
催眠や煙ほど強いものではない。 だが視界を乱し、呼吸を嫌わせるには十分だった。
「下がれ!」
アロエの声が奥から飛ぶ。
いつの間に来ていたのか、彼女は職員用通路の側から現れ、来館者ではなく“盗まれる側”を守る位置へ真っ直ぐ立っていた。大人としての制止ではない。場を支える者の声だった。
「展示に近づかせないで! 来館者は外へ!」
その指示で職員たちの動きが変わる。
シンは粉の薄い膜越しに、ベルの位置を確認した。 ベルはムンナをかばうように半歩下がりつつ、ミジュマルへ声を飛ばす。
「たいあたり!」
ミジュマルが低く駆け、粉を撒いた男の膝を横から打つ。真正面からではなく、床へ膝をつかせる角度だった。
「今、ムンナ!」
「さいみんじゅつ!」
今度のムンナの声のない技は深かった。 男のまぶたが不自然に重くなり、そのまま膝をつく。
「やった……!」
ベルが小さく息を吐く。
その瞬間だった。
展示室の奥、ドラゴンのホネのさらに裏側から、鈍い音がした。
ゴトン、と重い何かが外れたような音。 それに続いて、木の滑るような音。
シンの背中が冷える。
「まさか――」
トウヤがもう走っていた。
ドラゴンのホネの展示台の裏側へ回り込む。 シンも続く。 チェレンが「待て!」と叫ぶ声が背中に飛ぶ。
展示中央の裏側は、見学者から死角になっていた。
そこに、本来あるはずのものがなかった。
巨大な頭骨を支える固定台の一部が外され、奥の支え枠だけが無残に残っている。人ひとりでは動かせないような重さを、あらかじめ緩めていたのだろう。裏通路側へ引きずられた痕が床に残っている。
「……ない」
シンの口から、ほとんど息のように漏れた。
ドラゴンのホネが、ない。
アロエが追いついてくる。 彼女は一瞬だけその光景を見て、ほんのわずかに息を止めた。
それだけだった。
叫びもしない。 崩れもしない。 けれど、次の一歩を踏み出すまでの間に、その失われたものの重さが全部入っているように見えた。
「どこへ」
低い声で問う。 相手にではない。状況そのものへ向けた問いだ。
チェレンがすぐ床を見る。 引きずり跡。 外された支え。 裏通路側の扉の隙間。
「裏です」
トウヤが短く言う。
「こっちから抜けてる」
「やっぱり……」
ベルが青ざめた顔でムンナを抱えるように寄せる。 さっき戦っていた連中は囮だったのだ。表で意識を散らし、展示中央裏の死角で本命を運び出す。そのために、林で試していた。
シンは歯を噛みしめる。 わかっていたはずなのに、止めきれなかった。
アロエは展示台の残骸に手を触れた。 壊れた支えの木片を一度だけ確かめ、それから立ち上がる。
「職員は残って来館者の安全確認と館内封鎖。展示室の出入口を閉じて、裏通路も全部確認して」
その指示は淀みがなかった。 怒りも悲しみも、今は全部後回しにしている声だ。
けれどシンには、その後回しにされたものの重さがわかった。
「アロエさん……」
ベルが小さく呼ぶ。
アロエは四人の方を見た。 その目は静かだったが、いつもよりずっと深い色をしていた。
「これは、ただの物じゃないの」
ぽつりと、でもはっきり言う。
「古い骨だから価値があるんじゃない。長くここにあって、この町が何を見てきたかを知っているものだから、重いのよ」
誰も口を挟めなかった。
シンは、さっきまで自分が“巨大な展示”として見ていたものを思い出す。 ベルは博物館に入ったとき、あれを見て声を漏らしていた。 トウヤは戦うならどう動くかなんて言っていた。 チェレンは説明板を読んでいた。
見方は違った。 でも、そこにあること自体は当たり前だと思っていた。 なくなるまで、その重さをちゃんと知らなかった。
「盗まれたのは、骨だけじゃない」
アロエは続ける。
「町の時間よ。ここで積み重ねてきたものを、理屈ひとつで持っていこうとした」
その言葉に、シンの胸の内側で何かが強く鳴る。
プラズマ団のやっていることは、ポケモンの解放だとか理想だとか、そういう言葉で薄められるものじゃない。見たいものだけを切り取って、自分たちの正しさに当てはめているだけだ。昨日ムンナにしたことも、今ドラゴンのホネにしたことも、根っこは同じだ。
トウヤが低く言う。
「追います」
迷いのない声だった。
チェレンがすぐに反応する。
「追うにしても、経路を確認してからだ。林と倉庫と通路が繋がってるなら、向こうもすぐ散るかもしれない」
「散る前に行くしかないだろ」
「だからって一直線に突っ込むのは違う!」
二人の声が、いつもより少しだけ強くぶつかる。
ベルはムンナとミジュマルを見て、次にアロエを見る。 怖いのだろう。 でも引きたいだけの顔ではなかった。
シンはその間で、息を吸った。
追うべきだと思う。 でも、追うだけでは足りない。 博物館側に残る役目もあるかもしれない。 何が必要か、まだ全部は見えていない。
アロエが短く言う。
「待って」
二人の声が止まる。
「追うかどうかは、追う準備が揃ってから決めるわ。相手は通路も林も使っている。無計画に出れば、また利用されるだけよ」
トウヤは唇を結ぶ。 チェレンも反論しない。 どちらも、感情だけでは動いていないからこそ、止まれる。
展示室の外から、別の職員が駆け込んでくる。
「アロエさん! 裏通路の外に、運搬跡が続いています! 町はずれの方へ!」
全員の視線がそちらへ向く。
やはり、倉庫だ。 倉庫跡と古い通路は、完全に一本に繋がった。
アロエは目を閉じるでもなく、一度だけ深く息を吐いた。
「……なら、次は向こうね」
その声には、もう迷いがなかった。
シンはミジュマルの頭へ手を置く。 ベルはムンナへそっと「ごめんね、もう少しだけ」と言う。 チェレンは頭の中で線を引きなおしている顔をしている。 トウヤは最初から一歩目を踏み出しかけていた身体を、ようやく止めなくて済むと知ったような目をした。
盗まれたものの重さは、いまや全員の足に乗っている。
大きいから重いんじゃない。 昔のものだから重いんでもない。 それがここにあった意味を、誰かが勝手に奪っていったから重いのだ。
博物館の静かな光の中で、その不在だけがひどくはっきり見えていた。
シッポウシティはまだ壊れていない。 でも確かに、何かを失った。
それを取り返せるかどうかは、ここから先にかかっている。
そしてその先では、ただ追えばいいだけじゃないことも、もう全員わかりはじめていた。