ドラゴンのホネが消えた展示台の前には、不自然な空白だけが残っていた。
巨大な骨格があった場所。 町の時間が積もっていた場所。 そこだけがごっそり軽くなっているのに、空気は逆に重かった。
職員たちが来館者を外へ誘導し、展示室の出入口を閉じ、裏通路の確認に走っている。さっきまで「静かな博物館」だった場所が、いまは音を殺したまま慌ただしく動いていた。
アロエは展示台の脇で、壊された固定具と引きずり跡を一度だけ見下ろし、それから顔を上げた。
「林の方へ抜けたのは間違いないわ」
低く、はっきりした声だった。
「でも、相手はもう一度こちらの出方を見ているはずよ。追うなら、追うだけじゃ足りない」
トウヤが一歩前へ出る。
「それでも今行かないと、距離が開きます」
「わかってる」
アロエは即答した。「だから止めるんじゃない。分けるのよ」
その言葉に、チェレンがすぐ反応する。
「追う側と、残る側」
「ええ」
アロエは頷いた。
「相手は古い通路も倉庫も使っている。ひとつの線だけを見て追えば、別の線を見失う。林へ抜けた者を追う目と、町側の通路と倉庫跡へ回り込む目、その両方が必要」
シンはそこで、胸の奥にあった引っかかりが形になるのを感じた。
追うだけじゃ足りない。 残るだけでも足りない。
いま必要なのは、速い足と、全体を見る目だ。
「僕は追う」
トウヤが言う。 迷いのない声だった。最初からそこに立っていたみたいに。
チェレンはすぐに首を横に振る。
「待って。君が追うのはわかる。でも、全員がそれに引っ張られたら意味がない」
「だから全員で行くなんて言ってない」
「君ひとりで行くのも反対だよ」
二人の視線がぶつかる。
トウヤは最短距離で届こうとする。 チェレンは全体の形が崩れることを嫌う。 どちらも間違っていない。間違っていないから、簡単には噛み合わない。
「僕は残る」
チェレンが言った。
部屋の空気が少し動く。
「アロエさんと一緒に、博物館側の通路と町外れの動線を押さえる。倉庫跡へ戻る道も含めて、相手がどこへ抜けるかを見ておきたい。追跡している側へ情報を返す役がいないと、ただ林の中を追いかけることになる」
「追跡してる間に終わる可能性もある」
トウヤの声は低い。
「あるね」
チェレンは引かない。「でも、林だけ見て町側を空ければ、取り返してもまた別の手を打たれるかもしれない。僕はそっちの方が嫌だ」
ベルがムンナのボールを握る指先に力を入れる。
「わたしは……」
そこで言葉が止まる。
ベル自身にも、何を言うべきかまだ決めきれていない顔だった。追いたい気持ちはある。盗まれたものをそのままにしたくないのも本当だ。でも、ムンナを連れて前へ出ることには迷いもある。加入したばかりで、さっきの騒ぎでもかなり力を使った。
アロエがベルを見る。
「無理をさせる必要はないわ。残るのも、立派な役目よ」
その言葉に、ベルはすぐには頷かなかった。
“残る”が、置いていかれることみたいに聞こえたのかもしれない。 けれど、今のアロエの言い方には、そんな軽さはなかった。
「ベル」
シンが声をかける。
ベルがこちらを見る。
「ムンナは、いまどう?」
ベルは少し驚いた顔をしたあと、足元のムンナを見る。 ムンナは怯えていないわけではない。けれど、ベルの声を聞くと少しだけ呼吸が落ち着く。そのことをベル自身、もう知っている。
「……怖がってる」
正直に言う。
「でも、さっきみたいに、ちゃんと動こうとはしてる」
「うん」
「だから余計、迷う」
その言葉は、ベルらしかった。 動けないから残るんじゃない。動こうとしてくれるからこそ、どこへ連れていくべきか迷う。
アロエは机の上へ簡単な町の地図を広げた。 博物館、林、倉庫跡、古い搬入路、町外れへ抜ける細道。ざっくりしたものだが、考えるには十分だった。
「追う側は林から倉庫跡へ。そこから先の足を辿る」 「残る側は町側の古い通路と、倉庫へ繋がる別の出口を押さえる」 「もし相手が荷を持ったまま動いているなら、必ず“通りやすい場所”を選ぶわ」
チェレンが地図へ指を置く。
「なら、ここと、ここだ」
示したのは、林を抜けた先の細い古道と、倉庫跡から町へ回り込める乾いた水路跡だった。
「この二つを押さえれば、少なくとも完全に見失うことは減る」
「水路跡の方、ムンナが反応するかも」
ベルが言う。
全員がそちらを見る。
「さっきも、見えない方を先に気にしてた。たぶん、嫌な気配とか、ちょっと感じてるんだと思う」
自信満々ではない。 でも、ベルはもうムンナを“何ができるかわからない子”としては見ていなかった。怖がることも含めて、できることを探そうとしている。
チェレンが頷く。
「それなら、ベルは残る側がいい。前線で追うより、出口を読む方でムンナの感覚を使った方が合う」
ベルはその言葉に少しむっとしそうになったが、反発しなかった。 たぶん、正しいと思ったからだ。
「じゃあ、追うのは」
トウヤが言って、視線がシンへ向く。
チェレンも、ベルも、アロエも、同じようにシンを見た。
その瞬間、シンは少しだけ息を止めた。
いつもなら、ここで誰かの選んだ方に寄っていたかもしれない。 トウヤについていくか。 全体のために残るか。 そのどちらかを、“納得できる理由”が後からついてくるまで待っていたかもしれない。
でも、いまは違う。
トウヤひとりで追えば、たぶん速い。 でも速すぎる。 チェレンが残るなら、向こう側には“見ながら止める役”がいる。 ベルはムンナと一緒に、出口側を押さえた方が力を出せる。
じゃあ、自分は。
「俺、行く」
言葉は思ったより自然に出た。
「トウヤと追う」
トウヤの目がわずかに細くなる。 チェレンは反論より先に、理由を待つ顔をした。
「トウヤひとりだと、届くのは速い。でも、相手が捨てるものと残すものを選んだ時、誰か見てるやつがいる」 「チェレンが残るなら、そっちは回る」 「ベルとムンナが出口側を見るなら、追う方は“速いだけじゃない”方がいい」
言いながら、自分で少し驚いていた。 うまく説明できているかはわからない。 でも、誰かの背中をただ追うために言っているのではないことだけは、自分ではっきりわかった。
トウヤが短く笑う。
「言うようになったね」
「いまそれ言う?」
「ちょっとだけ安心した」
その返しに、シンは言葉を失いかける。 だが嫌ではなかった。
チェレンは地図へもう一度目を落とし、やがて頷いた。
「……いいと思う。トウヤの速さと、シンの対応力なら、追いすぎずに見られる」
「対応力って、ちょっと盛ってない?」
「盛ってない。最近ちゃんと見るようになったから」
その言い方は相変わらず素直じゃないが、認めているのはわかった。
ベルは少しだけ口を尖らせる。
「じゃあわたしは残るんだ」
「嫌?」
シンが訊くと、ベルは即答しなかった。
「……嫌、っていうか、悔しいは悔しい」
でも、と続ける。
「たぶん、こっちの方がムンナは動けると思う。人が少ないところで、出てくる方を見張る方が」 「それに、もしそっちが追いすぎたら、戻る場所を残しとく人もいるでしょ」
その言い方に、チェレンが少しだけ目を細めた。
「ちゃんとわかってるじゃないか」
「何その上から」
「褒めてるんだよ」
「わかりにくい!」
けれど、その応酬で緊張が少しほどける。
アロエは四人の顔を見回し、ゆっくり頷いた。
「決まりね」
その一言で、空気が形になる。
「追跡はトウヤとシン。林から倉庫跡、その先の痕跡を追って。無理に奪い返すことより、位置を見失わないことを優先」 「チェレンとベルは私と一緒に動く。古い通路、水路跡、町側の出口を押さえる。相手が戻るにしても、別のものを運ぶにしても、必ずどこかに痕跡を残すはずよ」
全員が頷く。
もう迷っている時間はなかった。
分かれる準備は、驚くほど早く終わった。
トウヤとシンは荷物を最低限に絞る。走る時に邪魔なものは職員へ預け、ボールの位置だけを確かめる。チェレンは地図をたたみながら町側の動線を頭へ入れ直していた。ベルはムンナの前にしゃがみ、ミジュマルにも顔を向ける。
「いい? 追いかけるんじゃなくて、出てくる方を見るの」 「ムンナ、怖かったらちゃんとわたし見るんだよ」 「ミジュマル、先に飛び出しすぎないでね」
ミジュマルは不満そうに鼻を鳴らしたが、ベルの真剣さはわかったらしい。 ムンナも小さく身体を揺らして応えた。
シンはその様子を見て、ふと胸の奥が静かになるのを感じた。 ベルは残る。 でも、置いていかれるわけじゃない。 ベルにしか見られないものを見に行くのだ。
「シン」
ベルが立ち上がって呼ぶ。
「ん?」
「無茶しないで」
「トウヤにも言って」
「言っても聞かなそうだから、シンが止めて」
「なんで俺が」
「止められそうだから!」
その会話に、トウヤが小さく笑う。
「完全に役割分担されてるね」
「笑い事じゃない」
「わかってる」
でも、たぶん少しだけ嬉しそうだった。
アロエが扉を開く。
「行きましょう。時間をあけるほど、相手の選択肢が増える」
そこで一度だけ、全員が互いを見る。
同じ旅をしてきた。 同じ場面を見てきた。 でも今は、同じ方向へ走らない。
それでも、ばらばらになる感じはしなかった。
「じゃあ、あとで」
シンが言う。
「うん。ちゃんと戻ってきて」
ベルが答える。
「そっちも」
チェレンは短く頷いた。
次の瞬間には、二手が動き出していた。
林へ向かう道は、行きと帰りでまるで長さが違って感じた。
今度は迷いなく進く。 前にはトウヤがいる。 だがシンは、ただその背中を追っているだけではなかった。
町外れを抜け、林道へ入り、土の踏み跡を追う。 倉庫跡までの最短線を走りながらも、シンの目は左右へ開いていた。荷を運んだ跡、草の倒れ方、枝の折れ方。トウヤが速さで拾うものを、自分は別の角度で拾う。
「右」
トウヤが短く言う。
倉庫跡の手前で足跡が分かれていた。 ひとつは行きに見た方角。もうひとつは、さらに林の深い方へ流れている。
シンが地面を見る。
「重いもの引きずったのは左だ」
「うん。右は見張りか、散らす役」
「じゃあ左」
「左」
確認はそれだけで足りる。
倉庫跡を横切ると、中はもう空だった。木箱は一部倒れ、床には急いで動いたあとの擦れ跡が増えている。
「ここ、すぐ出たな」
シンが言う。
「ベルたちが戻ったあと、向こうも動いたんだろうね」
トウヤの声は落ち着いていた。 焦っているようで、焦りに飲まれていない。
倉庫裏から出る古い踏み跡は、林の外れへではなく、逆にやや低地へ向かっていた。斜面を下り、木の密度が薄くなる方角。乾いた水路跡へ通じる線だ。
シンの胸に、さっきの地図がよみがえる。
「水路の方だ」
「うん。チェレン当てたね」
「じゃあ……」
「だから急ぐ」
トウヤが少しだけ速度を上げる。
乾いた水路跡は、人が荷を運ぶには思ったより都合がよかった。足音が吸われ、左右に身を隠せる土壁があり、上からも見えにくい。雨のない季節なら、古道よりむしろ使いやすいかもしれない。
その縁へ出た時、シンは足を止めた。
「いた」
少し先。 水路の曲がり角の向こうに、白い服の端が見えた。 ひとりではない。二人。何かを担いでいる。
トウヤもすぐに見つける。
「距離はまだある」
「でも見えてる」
「十分」
追いつくために全力で駆ければ、相手もすぐ散るだろう。 ここで必要なのは接触ではなく、位置を切らさないことだ。
シンはそこで初めて、自分が“追う”の意味を少しだけ掴んだ気がした。
追いつくことだけじゃない。 見失わないこと。 相手に楽な形で消えさせないこと。 そのために走る。
「トウヤ」
「うん」
「近づきすぎない」
「わかってる」
「ほんとに?」
「今のはわかってる」
少しだけ笑いそうになる。 でも、足は止めない。
曲がり角の先で、白い服の片方が一度だけ振り返った。 気づかれたかもしれない。 それでも、まだ完全には撒けていないと向こうもわかったはずだ。
その時、遠くの町側から、かすかに音がした。
笛だ。 短く、二回。
シンは顔を上げる。
「合図?」
「アロエさんたちだ」
トウヤがすぐ言った。
町側の出口に、動きがあったのだろう。
一方その頃、町側ではチェレンとベルがアロエとともに乾いた水路跡の出口近くへ回っていた。
人の少ない脇道。 普段なら誰も気にしないような低い石橋の下を、水のない細道が抜けている。林から来るなら、荷を抱えたままでも通れなくはない。チェレンの読み通りだった。
ベルはムンナを出したまま、浅く息をつく。
「……なんか、やっぱり落ち着かない」
「落ち着く方が珍しい状況だよ」
チェレンは橋脚の影を見ながら答える。 その声は静かだが、視線は鋭かった。
アロエは職員を二人だけ離れた位置へ置き、自分はもっとも出口が見える場所に立っていた。正面で止めるのではない。出てきた瞬間に動線を読む位置だ。
「ベル」
アロエが言う。
「ムンナの様子は?」
ベルはすぐに答えず、ムンナを見る。 ムンナは緊張している。だがさっきより明確に、乾いた水路の奥を見ていた。怖がっているだけではない。来る、と感じている時の顔だ。
「……います」
ベルは小さく言った。
「たぶん、来る」
チェレンが笛を取り出す。 町側の動きを追跡側へ知らせるために、アロエが持たせたものだ。
「合図、出す」
アロエが頷く。
短く二回。 音が町外れに散る。
それとほとんど同時に、水路の奥で石が転がる音がした。
ベルの背筋が伸びる。 ムンナが一歩前へ出た。 ミジュマルも低く構える。
「来るよ」
ベルが囁く。
“追う”側と、“残る”側。 別れたはずの二つの動きが、ここでひとつの線になろうとしていた。
水路の先で、白い服が角を曲がる。
林側から走るトウヤとシンは、それを見て速度を少しだけ上げた。 町側ではベルとチェレンが息を詰める。
追う背中と、残る役目。 どちらかだけでは届かなかった線が、ようやく交わりはじめる。
そしてシンは、走りながらはっきり思う。
自分はもう、ただトウヤの背中を追っているだけじゃない。 ベルやチェレンが残った意味ごと前へ運ぶために、ここにいる。
次の一手は、もうすぐ目の前だった。