シッポウジムの空気は、博物館の静けさとよく似ている。
古い木の匂い。磨かれた床の乾いた光。壁際に並ぶ書架や標本箱の向こうで、誰かの足音がひとつ響けば、それだけで場の輪郭がくっきりと浮かび上がる。けれど、同じ静けさでも、いまこの場所に満ちているものは、展示物を前にした落ち着きではなかった。
挑む者を試すための静けさだ。
トウヤの試合が終わったあとも、その余韻はまだ床に残っているようだった。アロエのハーデリアとミルホッグを相手に、押されながらも踏み止まり、崩れかけた形を支え直して勝ち切った戦い。その様子を観客席から見ていたベルは、トウヤがバッジを受け取る瞬間まで、ずっと胸の前で手を握ったままほどけずにいた。
トウヤが戻ってくる。
「おつかれ」
シンが短く言うと、トウヤは小さく息を吐いてうなずいた。
「思ったより、きつかった」
「思ったよりで済むんだな、お前は」
チェレンがそう返した声は、いつものように平静だった。けれどベルには、その平静さが少しだけ固いものに聞こえた。
次は自分だと、チェレンはたぶん考えている。
それは自然な流れだった。トウヤが先に勝ち、次にチェレンが挑む。ベルも、昨日まではそう思っていた。そう思っていたのに。
アロエが試合場の中央からこちらを見る。
「さて。次に来るのは誰かしら」
その一言で、胸の奥にしまっていたものが、一気に持ち上がってきた。
怖い。
昨日の夜から、ずっと怖かった。トウヤの勝ち方を見てしまったいまはなおさらだ。勝つためには、ただ技を出せばいいわけじゃない。押されても折れないこと。読み違えても立て直すこと。相手の強さを受け止めたうえで、自分の形を崩しすぎないこと。
そんなこと、自分にできるのだろうか。
ミジュマルは前よりもずっと頼もしくなった。ムンナも自分でついてきて、自分で隣にいてくれるようになった。でも、だからこそ怖い。負けることより、うまく支えられないことが怖かった。
ベルは喉の奥でひとつ息を詰まらせた。
言わなければ、チェレンが行く。
それでたぶん、順番としては正しい。
でもその「正しい」に乗ってしまったら、次に自分の番が来たとき、もっと怖くなる気がした。考える時間が増えるほど、自分はきっと、自分の足を止める。
だからベルは、止まる前に口を開いた。
「……わ、わたし」
三人が一斉に振り向いた。
ベルは自分でも驚くほど、声が小さかった。けれどもう一度、今度ははっきりと言う。
「次、わたしがやる」
チェレンの目がわずかに見開かれる。トウヤは何も言わず、ただまっすぐベルを見た。シンは一拍おいてから、ふっと息を抜くみたいに笑った。
「いいじゃん」
「ベル」
チェレンが呼ぶ。その声には驚きと、ほんの少しだけ、止めたい気持ちが混じっていた。
「本気で言ってるのか」
「う、うん」
問い返された瞬間に足がすくみそうになる。それでもベルはうなずいた。
「本気。……いまのほうが、いいの。たぶん、あとにしたら、わたし、もっと考えちゃうから」
チェレンは何か言いかけて、やめた。理屈としては、否定しにくいのだろう。ベル自身が挑む気でいる以上、順番を決めつけることはできない。けれど、納得していないことは表情に出ていた。
それがわかったから、ベルは少しだけ胸が痛んだ。
でも、ここで下がるほうが、もっといやだった。
アロエが静かにうなずく。
「決まりね。ベルさん、前へ」
呼ばれて、ベルは試合場へ歩き出した。
一歩ごとに、靴の裏から固い感触が伝わる。逃げたくないのに、逃げたくなる。足先が冷たい。観客席にいる三人の気配が背中にある。とくにチェレンの視線が、はっきりとわかる。
追い越すつもりなんて、なかった。
だけど結果として、そうなる。
そのことを意識した途端、胸がまたきゅっと縮んだ。
それでも、進む。
試合場の定位置につくと、アロエは普段の館長の顔とは違う、ジムリーダーとしての目を向けてきた。
「バトル形式は二対二。使用ポケモンの交代は自由。相手が戦闘不能になれば勝ち。準備はいい?」
「……はいっ」
声が裏返りそうになりながら、ベルは返事をした。
その緊張を見透かしたように、アロエはわずかに口元をやわらげる。
「怖いのは悪いことじゃないわ。問題は、怖いから何もしないか、怖いまま立つかよ」
ベルは、息をのんだ。
まるで心の中を読まれたみたいだった。
「それじゃ、始めましょう」
先に出てきたのは、アロエのハーデリアだった。
きりりと引き締まった体つき。低く重心を落とし、いつでも飛び込める姿勢を取っている。視線が鋭い。トウヤの試合を見たあとでは、その落ち着きがなおさらこわく見えた。
ベルはボールを握りしめる。
「ミジュマル、お願い!」
白い光が弾けて、ミジュマルが前に出た。小さな体で胸を張り、ほたちを構える。ベルの気配を感じ取ったのか、いつもより少しだけ真面目な顔をしていた。
「始め!」
アロエの声と同時に、ハーデリアが床を蹴った。
「はやっ……!」
「たいあたり!」
一直線の突進。ミジュマルはとっさに身をひねったが、完全には避けきれない。肩口をかすめるようにぶつかられ、よろけた。
「だ、大丈夫、みずでっぽう!」
ミジュマルが反撃の水流を放つ。だがハーデリアは横に跳び、濡れた床を利用するように角度を変えて再び距離を詰めてくる。
「にらみつける必要もないわね。正面から押すわよ、かみつく!」
牙が迫る。
「ほたちで受けて!」
ミジュマルは殻を差し出して噛みつきを受け止めた。けれど勢いまでは殺しきれず、後ろへ滑る。床に爪がきしる音がした。
強い。
ただ強いだけじゃない。相手が迷った瞬間に、その隙間へ迷いなく踏み込んでくる。ミジュマルは一匹でよく耐えている。それがわかるから、ベルの焦りが増した。
どうしよう。どうするのが正しい?
もっと指示を細かく? いや、ミジュマルが追いつかないかもしれない。強く押し返す? でも正面からでは分が悪い。
迷っているうちに、ハーデリアがまた動く。
「たいあたり!」
「こらえて、みずでっぽう!」
ぶつかりながらの至近距離射撃。水しぶきが上がり、ハーデリアの足がわずかに止まる。だが止まったのは一瞬だけだった。踏ん張り直したハーデリアが、低く唸る。
押し切られる。
その予感が、ベルの背中に冷たく走った。
そこでベルは、怖さより先に、別の気持ちをつかんだ。
ひとりで持たせようとしてる。
ミジュマルに。
それが急に、すごくいやだった。
「戻って、ミジュマル!」
赤い光がミジュマルを包む。
観客席で、チェレンがわずかに息をのむ気配がした。早い交代だ。様子見ではなく、押し切られかけたところでの撤退。たぶんチェレンなら、もう少し粘らせたかもしれない。あるいは、もっと有利な形を作ろうとしたかもしれない。
でもベルは、ここで替えたかった。
「ムンナ、お願い!」
桃色の体が光の中から現れる。ムンナは場に出た瞬間、ぴくりと耳を震わせた。小さな目を細めて、ハーデリアをじっと見る。その額から、ふわりと夢のけむりがにじんだ。
「よちむ……」
ベルは思わずつぶやく。
強い技を感じ取る、ムンナの特性。場に出た瞬間、ムンナがわずかに身をすくめた理由が、ベルにはなんとなくわかった。あの犬みたいなポケモンは、次もまっすぐ来る。しかもさっきより強く。
なら、受ける準備をする。
「ムンナ、どわすれ!」
ムンナの周囲の空気がやわらかく揺れる。意識を奥へ沈めるように、呼吸が静かになる。
「積ませないわよ。かみつく!」
ハーデリアが飛び込む。牙がムンナの脇腹に食い込んだ。ベルの肩が跳ねる。けれどムンナは悲鳴を上げず、押し込まれながらも踏みとどまった。
「いける……! さいみんじゅつ!」
ムンナの目が淡く光る。揺れるような波がハーデリアへ届き、その動きがふっと鈍った。二歩、三歩とよろめき、その場に崩れそうになる。
「まだ浅いわ、ハーデリア!」
アロエの声に応じて、ハーデリアは頭を振った。完全には眠っていない。けれど、その一瞬で十分だった。
「サイケこうせん!」
ねじれた光がまっすぐ突き抜ける。ハーデリアの肩口に直撃し、体勢が大きく崩れた。続けざまにムンナがもう一度光を放つ。今度は正面から受けたハーデリアが、たまらずひざをついた。
静まり返っていたジムに、ざわめきが走る。
ベルは目を見開いた。
勝っている。ムンナが、押している。
けれどアロエは顔色ひとつ変えない。
「立ちなさい、ハーデリア」
その声に応えるように、ハーデリアが立ち上がった。足はふらついている。それでもまだ戦意は消えていない。
強い。ほんとうに。
だからベルは、畳みかけるより先に、確かめるように声を出した。
「ムンナ、だいじょうぶ?」
ムンナは振り返らない。ただ、耳だけが少し後ろを向いた。
それが返事だった。
「……うん。じゃあ、もう一回! サイケこうせん!」
ムンナの光が、今度こそハーデリアを倒した。
大きな体が床に伏し、審判が手を上げる。
「ハーデリア、戦闘不能!」
ベルは息を止めたまま、その宣告を聞いた。
勝った。
いや、まだ一匹だ。まだ終わっていない。そうわかっていても、胸の奥で何かが大きく跳ねる。観客席のほうを見る余裕はない。ただ、チェレンがいま何を思っているのか、それだけがなぜか痛いほど気になった。
アロエはハーデリアを戻し、二つ目のボールを手にする。
「いい交代だったわ、ベルさん。自分のポケモンを一匹で抱え込ませなかった」
褒められているはずなのに、ベルは素直に安心できなかった。
次が来る。
ハーデリアより重い一撃が。
「でも、ここからよ。ミルホッグ!」
現れたミルホッグは、ハーデリアとは別種の圧を持っていた。直立した体がやけに大きく見える。眼光が鋭いというより、射抜くようだった。出てきた瞬間、ムンナがびくりと震える。
まただ。
よちむが、危険を告げている。
しかも今度はさっき以上に強い。
ベルの喉がひりついた。
「先手はもらうわ。ミルホッグ、かたきうち!」
床を蹴る音がひとつ響いたと思った次の瞬間には、ミルホッグがムンナの目の前にいた。
「ムンナ!」
咄嗟の悲鳴と衝撃が重なる。
まともに受けたムンナの体が大きく弾かれ、床を転がった。観客席から息をのむ音。ベルの足先から、血の気がすっと引いていく。
強い。さっきムンナが感じ取ったのはこれだ。
倒れた仲間の分まで威力を増した、重い反撃。
「ムンナ、立てる!?」
返事はない。けれど数秒のあと、ムンナはゆっくり体を起こした。息は荒い。目も少し揺れている。
ここで交代させる?
ミジュマルならまだ動ける。けれど、出した瞬間に狙われたら。ミルホッグは一撃が重い。ムンナを下げても、今度はミジュマルが押し切られるかもしれない。
考えが急に散らばる。
だめだ。怖い。
失敗したらどうしよう。替えるのが遅かったら。替えるのが早すぎたら。ムンナが無理をしていたら。ミジュマルが受けきれなかったら。
頭の中で声が増える。
そのとき、不意にアロエが言った。
「ベルさん」
試合の最中なのに、その呼びかけは静かだった。
「見なさい」
ベルははっとする。
「ポケモンじゃなくて、自分の迷いを見るんじゃないわ。いま見るのは、隣にいる子よ」
心臓が、どくんと鳴った。
ベルは前を見る。
ムンナはふらつきながら、それでもミルホッグから目を逸らしていなかった。逃げたそうではない。怖がっていないわけでもない。でも、まだそこにいる。
ベルは唇を噛む。
怖いのは自分だ。
ムンナじゃない。ミジュマルじゃない。
自分が怖がって、隣に立てなくなるのがいちばんまずい。
「……ムンナ」
声が震える。
でも、その震えた声のままでいいと思った。
「わたし、こわい。すごくこわい。どうしたらいいか、まだちゃんとはわかんない。でも……でも、ひとりにはしない」
観客席の空気が変わるのがわかった。
チェレンが、シンが、トウヤが見ている。
ベルは逃げずに続けた。
「ムンナ、つきのひかり!」
天窓から差し込む薄い光が、試合場の上にやわらかく広がる。ムンナの体がその光を受け、少しずつ呼吸を整えていく。完全には戻らない。それでも、倒れかけていたさっきよりは明らかにましだった。
「眠らせるわよ、ミルホッグ。さいみんじゅつ!」
ミルホッグの目が妖しく光る。
「ムンナ、かわせ――」
間に合わない。
揺れる波がムンナをとらえる。ムンナのまぶたが重く落ちかけた、その瞬間。
ベルは反射みたいに叫んでいた。
「戻って! ミジュマル、お願い!」
入れ替わりで飛び出したミジュマルが、眠りの波をかすめながら着地する。完全には避けきれず、頭を振った。けれど意識は保っている。
「そのまま、ほたち!」
ミルホッグの追撃を、ミジュマルが殻で受ける。重い。腕が震える。それでも踏みとどまった。
ベルは息を吸った。
いまなら見える。
無理に一匹で押し切る必要はない。ムンナが受けて、ミジュマルがつなぐ。ミジュマルが前に立ち、ムンナが支える。それでいい。それが、いまの自分たちの戦い方だ。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
至近距離からの水流。ミルホッグが顔をそむける。
「お返しよ、かみくだく!」
鋭い前歯が迫る。ミジュマルは横へ転がってかわしたが、掠めただけで痛そうに顔をゆがめた。だがすぐに立つ。ベルはその姿を見て、今度は迷わなかった。
「ミジュマル、いったん下がって! ムンナ!」
再び交代。戻ってきたムンナはまだ万全ではない。それでもベルの声に応えるように前へ出た。
ミルホッグの目がまた光る。催眠だ。
「どわすれ!」
ムンナの意識が深く沈み、揺れる波を受け流す。完全には防げなくても、眠りに落ちるほどではない。
「今! サイケこうせん!」
ねじれた光がミルホッグを打つ。大きくよろめいたが、まだ倒れない。
「踏み込んで、かたきうち!」
ミルホッグが再び突っ込む。ムンナの体が浮く。ベルの視界が揺れた。
でも今度は、そこで終わらない。
「ありがとう、ムンナ! 戻って! ミジュマル、受けて!」
光が入れ替わり、ミジュマルが飛び出す。勢いの乗ったミルホッグの体当たりを、真正面からほたちで受け止めた。床がきしむ。ミジュマルの足が後ろへ滑る。もう限界に近い。それでも倒れない。
観客席から、シンの低い声が飛んだ。
「いいぞ、ミジュマル!」
ベルはその声に背中を押されたような気がした。
目の前にいるのは、自分のミジュマルだ。怖いなら、ちゃんと見ればいい。無理をしているなら、無理だと認めればいい。その上で、どう支えるか決めればいい。
ベルは胸の前で強く手を握った。
「ミジュマル、まだいける?」
ミジュマルは振り返りもしない。ただ、ほたちを握る手に力を込めた。
答えはもう十分だった。
「じゃあ、一緒にいこう」
ベルの声から、余計な震えが少し消えた。
「みずでっぽう!」
ミジュマルの口から放たれた水流が、今度はさっきより明らかに太い。ダメージが重なり、げきりゅうが近づいているのだとベルは気づいた。水圧を受けたミルホッグがたじろぐ。
アロエの眉がわずかに動く。
「……そう。そこで来るのね」
ミルホッグもまだ倒れない。だが足が止まった。
ベルは、その一瞬を逃したくなかった。
「ミジュマル、そのまま前! たいあたり!」
小さな体が勢いよくぶつかる。派手さはない。けれど押し込むための一歩としては十分だった。
「止めなさい、ミルホッグ!」
アロエの指示で、ミルホッグが踏ん張る。力比べなら分が悪い。押し返される。そのときベルは、最後の一手を決めた。
「戻って、ミジュマル! ムンナ、お願い!」
また交代。
観客席でチェレンが息をのむ。何度もつなぐ戦い。効率だけなら悪いのかもしれない。だが、ベルはもうそこを迷わなかった。
前に押し出されたミルホッグの重心が、わずかに崩れている。
その隙に、ムンナが目を開いた。
「サイケこうせん!!」
これまででいちばんまっすぐな光だった。
迷いのない、細く強い一閃。
ミルホッグの体がのけぞり、そのまま大きく後ろへ倒れる。床に響いた重い音が、ジムの静けさを塗り替えた。
数拍の沈黙。
そして審判の声が、はっきりと響く。
「ミルホッグ、戦闘不能! よって勝者、挑戦者ベル!」
ベルはしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。
勝者。
挑戦者ベル。
自分が。
本当に。
「……え」
気の抜けた声が漏れる。次の瞬間、ミジュマルが足元に飛びついてきた。ムンナもふらふらしながら寄ってくる。ベルはあわててしゃがみこみ、二匹を抱きしめた。
「かった……? 勝った、の……?」
ミジュマルが元気よく鳴く。ムンナは目を細めて、ベルの腕の中に重みを預けた。
そこで初めて、ベルの目の奥が熱くなった。
「ありがと……ありがと、ふたりとも……っ」
涙で前が少しにじむ。みっともないかもしれない、と思ったけれど、もう止められなかった。怖かった。最後までずっと怖かった。でも、その怖さのせいで手放さなくてよかったと思えた。
アロエが歩み寄ってくる。
「見事だったわ、ベルさん」
ベルはあわてて涙をぬぐい、立ち上がった。
「す、すみません、泣いて……」
「泣くのは自由よ。勝ったんだもの」
アロエはそう言ってから、少しだけ真顔になる。
「あなたの戦い方は、きれいに整ってはいないわ。迷いも多い。判断だって速くはない。でも、あなたは途中でひとりの形にこだわるのをやめた。ひとりで背負わず、隣にいる子を信じて、つなぎ続けた」
ベルは息をひそめて聞く。
「強い子を上手に使ったんじゃない。怖いまま、支え方を選び続けた。その強さは、本物よ」
差し出されたのは、ベーシックバッジだった。
小さな光を受けて、それは落ち着いた色で輝いていた。ベルは両手で受け取る。思ったよりもずっと重く感じた。
「……ありがとうございます」
その声は、自分でも驚くくらい静かで、まっすぐだった。
観客席へ戻ると、最初に駆け寄ってきたのはシンだった。
「やったじゃん、ベル」
いつもの軽さを少しだけ抑えた声だった。ちゃんと見てくれていたんだとわかる声だ。
「う、うん……あの、なんか、まだふわふわしてる」
「だろうな」
シンが笑う。次にトウヤが前へ出て、短くうなずいた。
「いい勝ち方だった」
「ほんと?」
「ああ。ムンナもミジュマルも、ちゃんとベルの隣にいた」
その言葉がうれしくて、ベルはまた泣きそうになるのをこらえた。
そして最後に、チェレンが来た。
彼はすぐには口を開かなかった。視線がベルの手の中のバッジに落ちる。それからミジュマルとムンナを順に見て、ようやく言った。
「……おめでとう」
「チェレン……」
「いい戦いだったよ」
言葉だけなら、いつものチェレンらしい、きちんとした称賛だった。けれど、声の奥にかすかなひっかかりがあるのを、ベルは聞き逃さなかった。
悔しいのだ。
たぶん、思っていた以上に。
ベルが自分より先にアロエに勝ったことが。
ベルは胸の前でバッジを握りしめた。申し訳ない、とは違う。でも、ただ喜ぶだけでも違う気がした。
「……ありがと」
それしか言えなかった。
チェレンは小さくうなずいたあと、アロエのいる試合場へ目を向けた。その横顔はいつも通り整っていたけれど、指先だけが、ポケットの布をわずかに掴んでいる。
シンがその様子をちらりと見て、何も言わずに視線を外した。トウヤもまた、静かに黙っていた。
言わなくてもわかることがある。
いまベルは、一歩前へ出た。
そしてその一歩は、残された者に、見たくないものまで見せる。
アロエが書類を整えながらこちらを見る。
「次の挑戦者は、少し時間を置く?」
問いかけに、チェレンがすぐ反応した。
「いいえ」
その返事は早かった。早すぎるくらいに。
「今からでも構いません」
ベルが思わず顔を上げる。チェレンはもう迷いを隠すこともしないように、まっすぐ試合場を見ていた。
アロエは一拍だけ黙って、うなずく。
「……そう。なら準備なさい。でもひとつだけ忠告するわ」
ジムリーダーの声が、静かに響く。
「焦っているときほど、人は得意な形に逃げ込む。あなたが何を頼りに立つのか、ちゃんと自分で決めてから前へ出なさい」
チェレンのまぶたがわずかに動いた。
ベルは、その言葉が自分だけでなく、次に立つチェレンへも向けられていることを理解した。
さっきまでの自分と同じようで、でも少し違う。
チェレンの怖さは、負けることそのものではないのだろう。自分より後ろにいたはずの誰かが先へ行くこと。積み上げてきた理屈や正しさだけでは届かないものがあると、認めさせられること。
ベルはそっとミジュマルの頭を撫でた。ムンナは腕の中で浅く息をしている。
勝ったのに、物語はここで終わらない。
むしろ、ここからまたひとつ動くのだと、はっきりわかった。
トウヤがチェレンのほうへ一歩近づく。
「無理はするな」
「しないさ」
チェレンは短く答えた。だがその声には、無理をしないと言い切るには少し硬すぎる響きがある。
シンが肩をすくめる。
「ベルに先越されたくらいで崩れるなよ」
「崩れないよ」
「ならいいけど」
軽く交わされるやり取りの裏で、空気はずっと張ったままだった。
ベルは何か言いたくなった。ごめん、でも違う。がんばって、でもそれも違う。自分が勝った直後の言葉は、どんなものでも刺さってしまう気がした。
だからただ、小さく言う。
「チェレン」
彼が振り向く。
「……わたし、応援してる」
子どもみたいに単純な言葉だった。けれど、それしかなかった。
チェレンは一瞬だけ目を細め、それからごく浅く笑った。
「知ってる」
その返事に、ベルは少しだけ救われた。
完全に届いたわけじゃない。悔しさが消えたわけでもない。でも、言葉そのものは拒まれなかった。
アロエが試合場を整えるため、審判と短く確認を交わしている。古い木の匂いのするジムの中で、新しい緊張が形を取りはじめていた。
ベルは手の中のバッジを見下ろした。
自分がこれを持っていることが、まだ少し信じられない。だけど、指の腹に当たる固い感触は本物だ。ミジュマルの体温も、ムンナの重みも、本物だ。
ひとりで立てたわけじゃない。
でも、ひとりじゃなかったから立てたのだ。
それを、今日はちゃんと覚えていられる気がした。
そして同時に、誰かに追いつくことと、誰かを追い越すことは、同じではないのだとも思う。追いつきたいと願っていたはずなのに、いざ前へ出てしまえば、そのぶんだけ後ろに残される気持ちも生まれる。
旅は、横一列では進まない。
同じ道を歩いていても、前に出る日と、立ち止まる日がある。
たぶん、今日の自分は前に出た。
なら、明日はまた別の誰かが前に出るのだろう。
「ベル」
トウヤに呼ばれて顔を上げる。
「少し休んでろ。次、長くなりそうだ」
その視線の先では、チェレンが静かにボールを握り直していた。
悔しさを隠しきれないまま、それでも整えようとしている背中。
ベルはうなずき、観客席の端へ下がった。ミジュマルを膝に乗せ、ムンナを隣に寝かせる。ふたりとも疲れているのに、まだ試合場のほうを見ていた。
「ありがとね」
そっと言うと、ミジュマルが小さく鳴いた。
ムンナは眠りかけのまま、耳だけをぴくりと動かした。
そのしぐさがかわいくて、ベルは少し笑う。
試合場の中央へ、チェレンが歩いていく。
まっすぐで、きれいな歩き方だった。けれどベルには、さっきまで気づかなかった重さが、その背中にのっているように見えた。
アロエが位置につく。
審判が手を上げる。
シッポウジムの静けさが、もう一度、挑む者を包み込んだ。
ベルはバッジを握ったまま、その先を見つめる。
自分が勝ったことの意味は、たぶん、まだ終わっていない。
それはこの場に残る誰かの中で、これから形を変える。
怖いまま前に出た一歩が、次の誰かを揺らす。
揺らされたその先で、何を掴み直すのか。
その答えは、きっと次の戦いの中にある。
ベルは深く息を吸った。
まだ胸はどきどきしている。うれしさも、怖さも、少しの痛さも、全部残っている。
それでももう、さっきまでの自分ではなかった。
隣にいてくれる相手を見て、怖いままでも手を伸ばせる自分だ。
そしてその事実を、いちばん近くで見せつけられたチェレンが、このあとどんな顔で前へ出るのかを、ベルは目を逸らさずに見届けようと思った。
ジムの中央で、チェレンがボールを構える。
アロエの声が、低く、よく通った。
「それでは、次の試合を始めましょう」
その宣言を合図に、静かな木造のジムは、また新しい物語の音を立てはじめた。