BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第32話 こわいまま、隣に立つ

シッポウジムの空気は、博物館の静けさとよく似ている。

 

古い木の匂い。磨かれた床の乾いた光。壁際に並ぶ書架や標本箱の向こうで、誰かの足音がひとつ響けば、それだけで場の輪郭がくっきりと浮かび上がる。けれど、同じ静けさでも、いまこの場所に満ちているものは、展示物を前にした落ち着きではなかった。

 

挑む者を試すための静けさだ。

 

トウヤの試合が終わったあとも、その余韻はまだ床に残っているようだった。アロエのハーデリアとミルホッグを相手に、押されながらも踏み止まり、崩れかけた形を支え直して勝ち切った戦い。その様子を観客席から見ていたベルは、トウヤがバッジを受け取る瞬間まで、ずっと胸の前で手を握ったままほどけずにいた。

 

トウヤが戻ってくる。

 

「おつかれ」

 

シンが短く言うと、トウヤは小さく息を吐いてうなずいた。

 

「思ったより、きつかった」

 

「思ったよりで済むんだな、お前は」

 

チェレンがそう返した声は、いつものように平静だった。けれどベルには、その平静さが少しだけ固いものに聞こえた。

 

次は自分だと、チェレンはたぶん考えている。

 

それは自然な流れだった。トウヤが先に勝ち、次にチェレンが挑む。ベルも、昨日まではそう思っていた。そう思っていたのに。

 

アロエが試合場の中央からこちらを見る。

 

「さて。次に来るのは誰かしら」

 

その一言で、胸の奥にしまっていたものが、一気に持ち上がってきた。

 

怖い。

 

昨日の夜から、ずっと怖かった。トウヤの勝ち方を見てしまったいまはなおさらだ。勝つためには、ただ技を出せばいいわけじゃない。押されても折れないこと。読み違えても立て直すこと。相手の強さを受け止めたうえで、自分の形を崩しすぎないこと。

 

そんなこと、自分にできるのだろうか。

 

ミジュマルは前よりもずっと頼もしくなった。ムンナも自分でついてきて、自分で隣にいてくれるようになった。でも、だからこそ怖い。負けることより、うまく支えられないことが怖かった。

 

ベルは喉の奥でひとつ息を詰まらせた。

 

言わなければ、チェレンが行く。

 

それでたぶん、順番としては正しい。

 

でもその「正しい」に乗ってしまったら、次に自分の番が来たとき、もっと怖くなる気がした。考える時間が増えるほど、自分はきっと、自分の足を止める。

 

だからベルは、止まる前に口を開いた。

 

「……わ、わたし」

 

三人が一斉に振り向いた。

 

ベルは自分でも驚くほど、声が小さかった。けれどもう一度、今度ははっきりと言う。

 

「次、わたしがやる」

 

チェレンの目がわずかに見開かれる。トウヤは何も言わず、ただまっすぐベルを見た。シンは一拍おいてから、ふっと息を抜くみたいに笑った。

 

「いいじゃん」

 

「ベル」

 

チェレンが呼ぶ。その声には驚きと、ほんの少しだけ、止めたい気持ちが混じっていた。

 

「本気で言ってるのか」

 

「う、うん」

 

問い返された瞬間に足がすくみそうになる。それでもベルはうなずいた。

 

「本気。……いまのほうが、いいの。たぶん、あとにしたら、わたし、もっと考えちゃうから」

 

チェレンは何か言いかけて、やめた。理屈としては、否定しにくいのだろう。ベル自身が挑む気でいる以上、順番を決めつけることはできない。けれど、納得していないことは表情に出ていた。

 

それがわかったから、ベルは少しだけ胸が痛んだ。

 

でも、ここで下がるほうが、もっといやだった。

 

アロエが静かにうなずく。

 

「決まりね。ベルさん、前へ」

 

呼ばれて、ベルは試合場へ歩き出した。

 

一歩ごとに、靴の裏から固い感触が伝わる。逃げたくないのに、逃げたくなる。足先が冷たい。観客席にいる三人の気配が背中にある。とくにチェレンの視線が、はっきりとわかる。

 

追い越すつもりなんて、なかった。

 

だけど結果として、そうなる。

 

そのことを意識した途端、胸がまたきゅっと縮んだ。

 

それでも、進む。

 

試合場の定位置につくと、アロエは普段の館長の顔とは違う、ジムリーダーとしての目を向けてきた。

 

「バトル形式は二対二。使用ポケモンの交代は自由。相手が戦闘不能になれば勝ち。準備はいい?」

 

「……はいっ」

 

声が裏返りそうになりながら、ベルは返事をした。

 

その緊張を見透かしたように、アロエはわずかに口元をやわらげる。

 

「怖いのは悪いことじゃないわ。問題は、怖いから何もしないか、怖いまま立つかよ」

 

ベルは、息をのんだ。

 

まるで心の中を読まれたみたいだった。

 

「それじゃ、始めましょう」

 

先に出てきたのは、アロエのハーデリアだった。

 

きりりと引き締まった体つき。低く重心を落とし、いつでも飛び込める姿勢を取っている。視線が鋭い。トウヤの試合を見たあとでは、その落ち着きがなおさらこわく見えた。

 

ベルはボールを握りしめる。

 

「ミジュマル、お願い!」

 

白い光が弾けて、ミジュマルが前に出た。小さな体で胸を張り、ほたちを構える。ベルの気配を感じ取ったのか、いつもより少しだけ真面目な顔をしていた。

 

「始め!」

 

アロエの声と同時に、ハーデリアが床を蹴った。

 

「はやっ……!」

 

「たいあたり!」

 

一直線の突進。ミジュマルはとっさに身をひねったが、完全には避けきれない。肩口をかすめるようにぶつかられ、よろけた。

 

「だ、大丈夫、みずでっぽう!」

 

ミジュマルが反撃の水流を放つ。だがハーデリアは横に跳び、濡れた床を利用するように角度を変えて再び距離を詰めてくる。

 

「にらみつける必要もないわね。正面から押すわよ、かみつく!」

 

牙が迫る。

 

「ほたちで受けて!」

 

ミジュマルは殻を差し出して噛みつきを受け止めた。けれど勢いまでは殺しきれず、後ろへ滑る。床に爪がきしる音がした。

 

強い。

 

ただ強いだけじゃない。相手が迷った瞬間に、その隙間へ迷いなく踏み込んでくる。ミジュマルは一匹でよく耐えている。それがわかるから、ベルの焦りが増した。

 

どうしよう。どうするのが正しい?

 

もっと指示を細かく? いや、ミジュマルが追いつかないかもしれない。強く押し返す? でも正面からでは分が悪い。

 

迷っているうちに、ハーデリアがまた動く。

 

「たいあたり!」

 

「こらえて、みずでっぽう!」

 

ぶつかりながらの至近距離射撃。水しぶきが上がり、ハーデリアの足がわずかに止まる。だが止まったのは一瞬だけだった。踏ん張り直したハーデリアが、低く唸る。

 

押し切られる。

 

その予感が、ベルの背中に冷たく走った。

 

そこでベルは、怖さより先に、別の気持ちをつかんだ。

 

ひとりで持たせようとしてる。

 

ミジュマルに。

 

それが急に、すごくいやだった。

 

「戻って、ミジュマル!」

 

赤い光がミジュマルを包む。

 

観客席で、チェレンがわずかに息をのむ気配がした。早い交代だ。様子見ではなく、押し切られかけたところでの撤退。たぶんチェレンなら、もう少し粘らせたかもしれない。あるいは、もっと有利な形を作ろうとしたかもしれない。

 

でもベルは、ここで替えたかった。

 

「ムンナ、お願い!」

 

桃色の体が光の中から現れる。ムンナは場に出た瞬間、ぴくりと耳を震わせた。小さな目を細めて、ハーデリアをじっと見る。その額から、ふわりと夢のけむりがにじんだ。

 

「よちむ……」

 

ベルは思わずつぶやく。

 

強い技を感じ取る、ムンナの特性。場に出た瞬間、ムンナがわずかに身をすくめた理由が、ベルにはなんとなくわかった。あの犬みたいなポケモンは、次もまっすぐ来る。しかもさっきより強く。

 

なら、受ける準備をする。

 

「ムンナ、どわすれ!」

 

ムンナの周囲の空気がやわらかく揺れる。意識を奥へ沈めるように、呼吸が静かになる。

 

「積ませないわよ。かみつく!」

 

ハーデリアが飛び込む。牙がムンナの脇腹に食い込んだ。ベルの肩が跳ねる。けれどムンナは悲鳴を上げず、押し込まれながらも踏みとどまった。

 

「いける……! さいみんじゅつ!」

 

ムンナの目が淡く光る。揺れるような波がハーデリアへ届き、その動きがふっと鈍った。二歩、三歩とよろめき、その場に崩れそうになる。

 

「まだ浅いわ、ハーデリア!」

 

アロエの声に応じて、ハーデリアは頭を振った。完全には眠っていない。けれど、その一瞬で十分だった。

 

「サイケこうせん!」

 

ねじれた光がまっすぐ突き抜ける。ハーデリアの肩口に直撃し、体勢が大きく崩れた。続けざまにムンナがもう一度光を放つ。今度は正面から受けたハーデリアが、たまらずひざをついた。

 

静まり返っていたジムに、ざわめきが走る。

 

ベルは目を見開いた。

 

勝っている。ムンナが、押している。

 

けれどアロエは顔色ひとつ変えない。

 

「立ちなさい、ハーデリア」

 

その声に応えるように、ハーデリアが立ち上がった。足はふらついている。それでもまだ戦意は消えていない。

 

強い。ほんとうに。

 

だからベルは、畳みかけるより先に、確かめるように声を出した。

 

「ムンナ、だいじょうぶ?」

 

ムンナは振り返らない。ただ、耳だけが少し後ろを向いた。

 

それが返事だった。

 

「……うん。じゃあ、もう一回! サイケこうせん!」

 

ムンナの光が、今度こそハーデリアを倒した。

 

大きな体が床に伏し、審判が手を上げる。

 

「ハーデリア、戦闘不能!」

 

ベルは息を止めたまま、その宣告を聞いた。

 

勝った。

 

いや、まだ一匹だ。まだ終わっていない。そうわかっていても、胸の奥で何かが大きく跳ねる。観客席のほうを見る余裕はない。ただ、チェレンがいま何を思っているのか、それだけがなぜか痛いほど気になった。

 

アロエはハーデリアを戻し、二つ目のボールを手にする。

 

「いい交代だったわ、ベルさん。自分のポケモンを一匹で抱え込ませなかった」

 

褒められているはずなのに、ベルは素直に安心できなかった。

 

次が来る。

 

ハーデリアより重い一撃が。

 

「でも、ここからよ。ミルホッグ!」

 

現れたミルホッグは、ハーデリアとは別種の圧を持っていた。直立した体がやけに大きく見える。眼光が鋭いというより、射抜くようだった。出てきた瞬間、ムンナがびくりと震える。

 

まただ。

 

よちむが、危険を告げている。

 

しかも今度はさっき以上に強い。

 

ベルの喉がひりついた。

 

「先手はもらうわ。ミルホッグ、かたきうち!」

 

床を蹴る音がひとつ響いたと思った次の瞬間には、ミルホッグがムンナの目の前にいた。

 

「ムンナ!」

 

咄嗟の悲鳴と衝撃が重なる。

 

まともに受けたムンナの体が大きく弾かれ、床を転がった。観客席から息をのむ音。ベルの足先から、血の気がすっと引いていく。

 

強い。さっきムンナが感じ取ったのはこれだ。

 

倒れた仲間の分まで威力を増した、重い反撃。

 

「ムンナ、立てる!?」

 

返事はない。けれど数秒のあと、ムンナはゆっくり体を起こした。息は荒い。目も少し揺れている。

 

ここで交代させる?

 

ミジュマルならまだ動ける。けれど、出した瞬間に狙われたら。ミルホッグは一撃が重い。ムンナを下げても、今度はミジュマルが押し切られるかもしれない。

 

考えが急に散らばる。

 

だめだ。怖い。

 

失敗したらどうしよう。替えるのが遅かったら。替えるのが早すぎたら。ムンナが無理をしていたら。ミジュマルが受けきれなかったら。

 

頭の中で声が増える。

 

そのとき、不意にアロエが言った。

 

「ベルさん」

 

試合の最中なのに、その呼びかけは静かだった。

 

「見なさい」

 

ベルははっとする。

 

「ポケモンじゃなくて、自分の迷いを見るんじゃないわ。いま見るのは、隣にいる子よ」

 

心臓が、どくんと鳴った。

 

ベルは前を見る。

 

ムンナはふらつきながら、それでもミルホッグから目を逸らしていなかった。逃げたそうではない。怖がっていないわけでもない。でも、まだそこにいる。

 

ベルは唇を噛む。

 

怖いのは自分だ。

 

ムンナじゃない。ミジュマルじゃない。

 

自分が怖がって、隣に立てなくなるのがいちばんまずい。

 

「……ムンナ」

 

声が震える。

 

でも、その震えた声のままでいいと思った。

 

「わたし、こわい。すごくこわい。どうしたらいいか、まだちゃんとはわかんない。でも……でも、ひとりにはしない」

 

観客席の空気が変わるのがわかった。

 

チェレンが、シンが、トウヤが見ている。

 

ベルは逃げずに続けた。

 

「ムンナ、つきのひかり!」

 

天窓から差し込む薄い光が、試合場の上にやわらかく広がる。ムンナの体がその光を受け、少しずつ呼吸を整えていく。完全には戻らない。それでも、倒れかけていたさっきよりは明らかにましだった。

 

「眠らせるわよ、ミルホッグ。さいみんじゅつ!」

 

ミルホッグの目が妖しく光る。

 

「ムンナ、かわせ――」

 

間に合わない。

 

揺れる波がムンナをとらえる。ムンナのまぶたが重く落ちかけた、その瞬間。

 

ベルは反射みたいに叫んでいた。

 

「戻って! ミジュマル、お願い!」

 

入れ替わりで飛び出したミジュマルが、眠りの波をかすめながら着地する。完全には避けきれず、頭を振った。けれど意識は保っている。

 

「そのまま、ほたち!」

 

ミルホッグの追撃を、ミジュマルが殻で受ける。重い。腕が震える。それでも踏みとどまった。

 

ベルは息を吸った。

 

いまなら見える。

 

無理に一匹で押し切る必要はない。ムンナが受けて、ミジュマルがつなぐ。ミジュマルが前に立ち、ムンナが支える。それでいい。それが、いまの自分たちの戦い方だ。

 

「ミジュマル、みずでっぽう!」

 

至近距離からの水流。ミルホッグが顔をそむける。

 

「お返しよ、かみくだく!」

 

鋭い前歯が迫る。ミジュマルは横へ転がってかわしたが、掠めただけで痛そうに顔をゆがめた。だがすぐに立つ。ベルはその姿を見て、今度は迷わなかった。

 

「ミジュマル、いったん下がって! ムンナ!」

 

再び交代。戻ってきたムンナはまだ万全ではない。それでもベルの声に応えるように前へ出た。

 

ミルホッグの目がまた光る。催眠だ。

 

「どわすれ!」

 

ムンナの意識が深く沈み、揺れる波を受け流す。完全には防げなくても、眠りに落ちるほどではない。

 

「今! サイケこうせん!」

 

ねじれた光がミルホッグを打つ。大きくよろめいたが、まだ倒れない。

 

「踏み込んで、かたきうち!」

 

ミルホッグが再び突っ込む。ムンナの体が浮く。ベルの視界が揺れた。

 

でも今度は、そこで終わらない。

 

「ありがとう、ムンナ! 戻って! ミジュマル、受けて!」

 

光が入れ替わり、ミジュマルが飛び出す。勢いの乗ったミルホッグの体当たりを、真正面からほたちで受け止めた。床がきしむ。ミジュマルの足が後ろへ滑る。もう限界に近い。それでも倒れない。

 

観客席から、シンの低い声が飛んだ。

 

「いいぞ、ミジュマル!」

 

ベルはその声に背中を押されたような気がした。

 

目の前にいるのは、自分のミジュマルだ。怖いなら、ちゃんと見ればいい。無理をしているなら、無理だと認めればいい。その上で、どう支えるか決めればいい。

 

ベルは胸の前で強く手を握った。

 

「ミジュマル、まだいける?」

 

ミジュマルは振り返りもしない。ただ、ほたちを握る手に力を込めた。

 

答えはもう十分だった。

 

「じゃあ、一緒にいこう」

 

ベルの声から、余計な震えが少し消えた。

 

「みずでっぽう!」

 

ミジュマルの口から放たれた水流が、今度はさっきより明らかに太い。ダメージが重なり、げきりゅうが近づいているのだとベルは気づいた。水圧を受けたミルホッグがたじろぐ。

 

アロエの眉がわずかに動く。

 

「……そう。そこで来るのね」

 

ミルホッグもまだ倒れない。だが足が止まった。

 

ベルは、その一瞬を逃したくなかった。

 

「ミジュマル、そのまま前! たいあたり!」

 

小さな体が勢いよくぶつかる。派手さはない。けれど押し込むための一歩としては十分だった。

 

「止めなさい、ミルホッグ!」

 

アロエの指示で、ミルホッグが踏ん張る。力比べなら分が悪い。押し返される。そのときベルは、最後の一手を決めた。

 

「戻って、ミジュマル! ムンナ、お願い!」

 

また交代。

 

観客席でチェレンが息をのむ。何度もつなぐ戦い。効率だけなら悪いのかもしれない。だが、ベルはもうそこを迷わなかった。

 

前に押し出されたミルホッグの重心が、わずかに崩れている。

 

その隙に、ムンナが目を開いた。

 

「サイケこうせん!!」

 

これまででいちばんまっすぐな光だった。

 

迷いのない、細く強い一閃。

 

ミルホッグの体がのけぞり、そのまま大きく後ろへ倒れる。床に響いた重い音が、ジムの静けさを塗り替えた。

 

数拍の沈黙。

 

そして審判の声が、はっきりと響く。

 

「ミルホッグ、戦闘不能! よって勝者、挑戦者ベル!」

 

ベルはしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。

 

勝者。

 

挑戦者ベル。

 

自分が。

 

本当に。

 

「……え」

 

気の抜けた声が漏れる。次の瞬間、ミジュマルが足元に飛びついてきた。ムンナもふらふらしながら寄ってくる。ベルはあわててしゃがみこみ、二匹を抱きしめた。

 

「かった……? 勝った、の……?」

 

ミジュマルが元気よく鳴く。ムンナは目を細めて、ベルの腕の中に重みを預けた。

 

そこで初めて、ベルの目の奥が熱くなった。

 

「ありがと……ありがと、ふたりとも……っ」

 

涙で前が少しにじむ。みっともないかもしれない、と思ったけれど、もう止められなかった。怖かった。最後までずっと怖かった。でも、その怖さのせいで手放さなくてよかったと思えた。

 

アロエが歩み寄ってくる。

 

「見事だったわ、ベルさん」

 

ベルはあわてて涙をぬぐい、立ち上がった。

 

「す、すみません、泣いて……」

 

「泣くのは自由よ。勝ったんだもの」

 

アロエはそう言ってから、少しだけ真顔になる。

 

「あなたの戦い方は、きれいに整ってはいないわ。迷いも多い。判断だって速くはない。でも、あなたは途中でひとりの形にこだわるのをやめた。ひとりで背負わず、隣にいる子を信じて、つなぎ続けた」

 

ベルは息をひそめて聞く。

 

「強い子を上手に使ったんじゃない。怖いまま、支え方を選び続けた。その強さは、本物よ」

 

差し出されたのは、ベーシックバッジだった。

 

小さな光を受けて、それは落ち着いた色で輝いていた。ベルは両手で受け取る。思ったよりもずっと重く感じた。

 

「……ありがとうございます」

 

その声は、自分でも驚くくらい静かで、まっすぐだった。

 

観客席へ戻ると、最初に駆け寄ってきたのはシンだった。

 

「やったじゃん、ベル」

 

いつもの軽さを少しだけ抑えた声だった。ちゃんと見てくれていたんだとわかる声だ。

 

「う、うん……あの、なんか、まだふわふわしてる」

 

「だろうな」

 

シンが笑う。次にトウヤが前へ出て、短くうなずいた。

 

「いい勝ち方だった」

 

「ほんと?」

 

「ああ。ムンナもミジュマルも、ちゃんとベルの隣にいた」

 

その言葉がうれしくて、ベルはまた泣きそうになるのをこらえた。

 

そして最後に、チェレンが来た。

 

彼はすぐには口を開かなかった。視線がベルの手の中のバッジに落ちる。それからミジュマルとムンナを順に見て、ようやく言った。

 

「……おめでとう」

 

「チェレン……」

 

「いい戦いだったよ」

 

言葉だけなら、いつものチェレンらしい、きちんとした称賛だった。けれど、声の奥にかすかなひっかかりがあるのを、ベルは聞き逃さなかった。

 

悔しいのだ。

 

たぶん、思っていた以上に。

 

ベルが自分より先にアロエに勝ったことが。

 

ベルは胸の前でバッジを握りしめた。申し訳ない、とは違う。でも、ただ喜ぶだけでも違う気がした。

 

「……ありがと」

 

それしか言えなかった。

 

チェレンは小さくうなずいたあと、アロエのいる試合場へ目を向けた。その横顔はいつも通り整っていたけれど、指先だけが、ポケットの布をわずかに掴んでいる。

 

シンがその様子をちらりと見て、何も言わずに視線を外した。トウヤもまた、静かに黙っていた。

 

言わなくてもわかることがある。

 

いまベルは、一歩前へ出た。

 

そしてその一歩は、残された者に、見たくないものまで見せる。

 

アロエが書類を整えながらこちらを見る。

 

「次の挑戦者は、少し時間を置く?」

 

問いかけに、チェレンがすぐ反応した。

 

「いいえ」

 

その返事は早かった。早すぎるくらいに。

 

「今からでも構いません」

 

ベルが思わず顔を上げる。チェレンはもう迷いを隠すこともしないように、まっすぐ試合場を見ていた。

 

アロエは一拍だけ黙って、うなずく。

 

「……そう。なら準備なさい。でもひとつだけ忠告するわ」

 

ジムリーダーの声が、静かに響く。

 

「焦っているときほど、人は得意な形に逃げ込む。あなたが何を頼りに立つのか、ちゃんと自分で決めてから前へ出なさい」

 

チェレンのまぶたがわずかに動いた。

 

ベルは、その言葉が自分だけでなく、次に立つチェレンへも向けられていることを理解した。

 

さっきまでの自分と同じようで、でも少し違う。

 

チェレンの怖さは、負けることそのものではないのだろう。自分より後ろにいたはずの誰かが先へ行くこと。積み上げてきた理屈や正しさだけでは届かないものがあると、認めさせられること。

 

ベルはそっとミジュマルの頭を撫でた。ムンナは腕の中で浅く息をしている。

 

勝ったのに、物語はここで終わらない。

 

むしろ、ここからまたひとつ動くのだと、はっきりわかった。

 

トウヤがチェレンのほうへ一歩近づく。

 

「無理はするな」

 

「しないさ」

 

チェレンは短く答えた。だがその声には、無理をしないと言い切るには少し硬すぎる響きがある。

 

シンが肩をすくめる。

 

「ベルに先越されたくらいで崩れるなよ」

 

「崩れないよ」

 

「ならいいけど」

 

軽く交わされるやり取りの裏で、空気はずっと張ったままだった。

 

ベルは何か言いたくなった。ごめん、でも違う。がんばって、でもそれも違う。自分が勝った直後の言葉は、どんなものでも刺さってしまう気がした。

 

だからただ、小さく言う。

 

「チェレン」

 

彼が振り向く。

 

「……わたし、応援してる」

 

子どもみたいに単純な言葉だった。けれど、それしかなかった。

 

チェレンは一瞬だけ目を細め、それからごく浅く笑った。

 

「知ってる」

 

その返事に、ベルは少しだけ救われた。

 

完全に届いたわけじゃない。悔しさが消えたわけでもない。でも、言葉そのものは拒まれなかった。

 

アロエが試合場を整えるため、審判と短く確認を交わしている。古い木の匂いのするジムの中で、新しい緊張が形を取りはじめていた。

 

ベルは手の中のバッジを見下ろした。

 

自分がこれを持っていることが、まだ少し信じられない。だけど、指の腹に当たる固い感触は本物だ。ミジュマルの体温も、ムンナの重みも、本物だ。

 

ひとりで立てたわけじゃない。

 

でも、ひとりじゃなかったから立てたのだ。

 

それを、今日はちゃんと覚えていられる気がした。

 

そして同時に、誰かに追いつくことと、誰かを追い越すことは、同じではないのだとも思う。追いつきたいと願っていたはずなのに、いざ前へ出てしまえば、そのぶんだけ後ろに残される気持ちも生まれる。

 

旅は、横一列では進まない。

 

同じ道を歩いていても、前に出る日と、立ち止まる日がある。

 

たぶん、今日の自分は前に出た。

 

なら、明日はまた別の誰かが前に出るのだろう。

 

「ベル」

 

トウヤに呼ばれて顔を上げる。

 

「少し休んでろ。次、長くなりそうだ」

 

その視線の先では、チェレンが静かにボールを握り直していた。

 

悔しさを隠しきれないまま、それでも整えようとしている背中。

 

ベルはうなずき、観客席の端へ下がった。ミジュマルを膝に乗せ、ムンナを隣に寝かせる。ふたりとも疲れているのに、まだ試合場のほうを見ていた。

 

「ありがとね」

 

そっと言うと、ミジュマルが小さく鳴いた。

 

ムンナは眠りかけのまま、耳だけをぴくりと動かした。

 

そのしぐさがかわいくて、ベルは少し笑う。

 

試合場の中央へ、チェレンが歩いていく。

 

まっすぐで、きれいな歩き方だった。けれどベルには、さっきまで気づかなかった重さが、その背中にのっているように見えた。

 

アロエが位置につく。

 

審判が手を上げる。

 

シッポウジムの静けさが、もう一度、挑む者を包み込んだ。

 

ベルはバッジを握ったまま、その先を見つめる。

 

自分が勝ったことの意味は、たぶん、まだ終わっていない。

 

それはこの場に残る誰かの中で、これから形を変える。

 

怖いまま前に出た一歩が、次の誰かを揺らす。

 

揺らされたその先で、何を掴み直すのか。

 

その答えは、きっと次の戦いの中にある。

 

ベルは深く息を吸った。

 

まだ胸はどきどきしている。うれしさも、怖さも、少しの痛さも、全部残っている。

 

それでももう、さっきまでの自分ではなかった。

 

隣にいてくれる相手を見て、怖いままでも手を伸ばせる自分だ。

 

そしてその事実を、いちばん近くで見せつけられたチェレンが、このあとどんな顔で前へ出るのかを、ベルは目を逸らさずに見届けようと思った。

 

ジムの中央で、チェレンがボールを構える。

 

アロエの声が、低く、よく通った。

 

「それでは、次の試合を始めましょう」

 

その宣言を合図に、静かな木造のジムは、また新しい物語の音を立てはじめた。

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