ベルがアロエからベーシックバッジを受け取ったあとも、シッポウジムの空気は、まだ静まらなかった。
勝敗は決している。試合も終わっている。審判も、アロエも、次の準備へ移ろうとしている。けれど、観客席の端に立つチェレンの中では、さっきの一戦が終わる気配を見せていなかった。
ベルが勝った。
その事実だけなら、もう何度も頭の中で繰り返した。繰り返したはずなのに、そのたびに同じ場所が熱を持つ。胸の奥の、理屈では片づかない場所だ。
ベルが、勝った。
しかもただ運よくではない。押されても折れず、迷っても止まらず、自分にできる戦い方をその場で選び直して、最後まで立って勝ち切った。整ってはいなかった。美しくもなかった。けれど、あの勝ち方は間違いなく、ベル自身のものだった。
そのことが、チェレンには何よりも重かった。
「……次、今からでも構いません」
自分の口から出た言葉は、驚くほどすぐに形になった。待つ理由がなかったわけではない。むしろ、少し時間を置いたほうが頭は冷えただろう。ベルの試合を見た直後のこの状態が、冷静とは言い難いことくらい、自分が一番わかっている。
それでも、待てなかった。
待てば待つほど、自分の中に居座った熱は、きっと別の形になる。焦りを隠すための理屈になり、悔しさをごまかすための整理になり、最終的には「次こそ確実に勝つため」という、聞こえのいい言い訳に変わっていく。
そんなものにしたくなかった。
アロエは試合場の中央からチェレンを見る。館長としての穏やかさではなく、挑戦者の内側まで測るような、ジムリーダーの目だ。
「いいわ。でも忠告はしたはずよ。焦っているときほど、人は得意な形に逃げ込む」
「わかっています」
答えた声は、思ったより硬かった。
アロエはそれ以上何も言わず、ただ静かにうなずいた。
トウヤが近くへ来て、小さく声を落とす。
「無理はするな」
「しないさ」
短く返す。自分でも、その返答がきれいすぎると思った。
シンは壁にもたれたまま、半分笑っているような顔で言った。
「ベルに先越されたくらいで、変な力むなよ」
「……余計なお世話だよ」
「ならいいけど」
軽い口調だが、シンは見ている。いつもそうだ。ふざけたふりをしながら、人がいちばん見られたくないところを外さない。
ベルは二匹を抱えたまま、少し戸惑ったような顔でチェレンを見上げていた。勝ったばかりなのに、自分のことで浮かれていられないらしい。その危なっかしさが、前までなら少し苛立たしく、同時に放っておけなかった。
けれど、いまは違う。
放っておけない相手が、もう自分の知らない場所まで歩いていってしまったような気がする。
「チェレン」
呼ばれて、視線が向く。
ベルは、さっきまで泣きそうになっていた目のまま、けれどまっすぐに言った。
「わたし、見てるから」
たったそれだけだった。
励ましとしては、あまりにも簡単だ。もっと気の利いたことを言えるだろうに、と昔の自分なら思ったかもしれない。けれど、その言葉はまっすぐすぎて、逆に逃げ道がなかった。
見ている。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに熱いのだろう。
「……そう」
それだけ返して、チェレンは前を向いた。
足を踏み出す。試合場の木の床が靴底の下で乾いた音を返す。ベルが立った場所だ、と意識してしまった瞬間に、胸の奥がまたざわついた。
自分は、いつからこんなにも、ベルを基準にしていたのだろう。
いや、違う。
基準にしていたわけじゃない。していたのは、配置だ。
トウヤは前へ出る人間だ。シンは崩れそうな場面でも妙にしぶとく食らいつく。ベルは――守るべき側の人間だった。迷い、立ち止まり、転びそうになるたびに、誰かが手を伸ばす相手。自分はその位置関係を、ごく当たり前のものとして受け入れていた。
受け入れていたというより、決めつけていたのかもしれない。
だからこそ、あの勝利が刺さった。
ベルは守られるだけの場所から、一歩前へ出た。誰かに押し出されたわけではなく、自分で怖がりながら、震えたまま前へ出た。
それを見てしまった以上、前までと同じ見方は、もうできない。
「準備はいいかしら」
アロエの声で意識を戻す。
チェレンは腰のボールに触れた。
「はい」
「それでは、始めましょう。使用ポケモンは二匹。交代は自由。先に相手二匹を戦闘不能にした側の勝ち」
審判が手を上げる。
ジムの空気が、また静かに張りつめた。
「最初はあなたからでいいわ、チェレンさん」
「……マメパト、頼む」
ボールが開き、白い光の中からマメパトが現れる。青灰色の羽をふくらませ、一度小さく羽ばたいた。チェレンがシッポウに来るまでの道で仲間になった一羽だ。まじめな性格で、指示をよく聞く。空から見て動きをつかむのが得意で、チェレンにとっては扱いやすい相手だった。
対するアロエが繰り出したのは、やはりハーデリアだった。
トウヤやベルと戦ったあとでも、その眼差しにゆるみはない。床を低く踏み、飛び込む寸前の姿勢を取る。
開始の合図が響いた瞬間、チェレンの頭は一気に澄んだ。
「上を取れ、マメパト」
ハーデリアが踏み込むより先に、マメパトがふわりと跳ぶ。床を駆ける相手に対し、上から見て角度をずらす。単純だが有効な初手だった。
「すなかけは使わないのね」
アロエがわずかに言う。
「視界を奪っても、この相手には立て直されますから」
「そう」
ハーデリアが低く走る。追いすがるように跳ねる軌道を、マメパトは羽を打って回避した。
「でんこうせっか!」
上からの急降下。ハーデリアの背にぶつかり、着地と同時に距離を取る。いい動きだ。迷いもない。チェレンはすぐさま次をつなげる。
「もう一度、上から」
「かみつく!」
ハーデリアが今度は待たずに飛びつく。予測が少しずれた。マメパトの翼の先を牙がかすめる。羽が数枚舞った。
だが、まだ許容範囲だ。
相手は地上、こちらは空中。焦らず削ればいい。理屈の上ではそうだった。チェレンの頭も、その計算をなめらかに続けていた。
問題は、そのなめらかさの奥に、別の熱が残っていたことだ。
観客席のベルが、見ている。
さっきまでそこに立っていた。勝って、バッジを受け取って、いまは自分を見ている。
その視線を意識した瞬間、指示が半拍だけ速くなった。
「マメパト、つつく、続けてでんこうせっか!」
普段なら、一手ごとに相手の対応を見る。だが今回は違った。流れを握っているうちに押し込みたかった。きれいに。無駄なく。遅れず。
マメパトが二連続で仕掛ける。つつくが入り、ハーデリアが体勢を崩す。続くでんこうせっかも悪くない。だが、二度目の突進の着地にわずかな乱れが出た。
そこへアロエが迷わず差し込む。
「いまよ。たいあたり!」
真正面からの衝突。マメパトが小さく悲鳴を上げて弾かれる。飛べないほどではないが、明らかにダメージは大きい。
チェレンは舌打ちしそうになるのをこらえた。
いまのは急ぎすぎた。わかっている。わかっているのに、手を緩めるのが嫌だった。きれいに優位を取ったまま勝ちたかった。ベルの勝利の熱がまだ残っているうちに、自分はもっと明確に、もっと正しく勝てると示したかった。
示したかった相手は、誰に対してだろう。
アロエにか。自分にか。それとも――。
「チェレン!」
ベルの声が飛んだ。
はっとする。マメパトがもう一度突っ込もうとしていた。指示を出す寸前だった。危ない。いま飛び込めば、迎撃される。
「戻れ、マメパト!」
赤い光が間一髪でマメパトを飲み込む。直後、ハーデリアの突進が空を切った。
チェレンは息を詰めた。
いまのは、ベルに助けられた。
その事実が、勝手に胸を熱くした。情けなさと、妙な悔しさと、理解しがたい感情が混じる。
「ポカブ、行くよ」
次に出したのはポカブだった。四つ足で着地したポカブが、鼻先から小さく火花を散らす。チェレンの最初の相棒。理屈で組み立てるだけではなく、正面から押し返す力も持っている存在だ。
アロエの口元がわずかに上がる。
「ここで炎を前に出すのね」
「長引かせたくありませんから」
「そういう焦り方、嫌いじゃないわ」
言葉の意味を考えるより早く、ポカブが走り出した。
「ひのこ!」
火の玉が弧を描き、ハーデリアの前足のあたりではじける。直接の決定打にはならないが、足を止めるには十分だ。
「そのまま、たいあたり!」
ポカブが体を低くして突っ込む。ぶつかった勢いでハーデリアが大きくよろめいた。ここまではいい。流れは取れている。
「畳みかけなさい、ポカブ!」
強い口調が、自分でも少し意外だった。
ポカブは一瞬だけ耳を揺らしたが、すぐに前へ出る。チェレンはさらに続けようとして――そこで、アロエの声に遮られた。
「ハーデリア、受けてから、かみつく!」
まともにぶつかり合う。ポカブの火の粉が散り、ハーデリアの牙が肩に食い込む。ポカブが苦鳴を漏らした。
強引だった。
もう一手、位置を作るべきだったのだ。わかっている。だが、引くより押したかった。勢いを切りたくなかった。取り返したかった。何を、と問われれば答えに困るのに、取り返さずにはいられなかった。
「ポカブ、こらえる!」
低く踏ん張ったポカブが、食い込む痛みに耐えた。押し返す。チェレンは息を詰め、声を張る。
「ひのこ、近距離で!」
至近距離で弾けた火花が、ハーデリアをのけぞらせた。そこへ続けて体当たり。今度こそ均衡が崩れ、ハーデリアが床へ伏せる。
「ハーデリア、戦闘不能!」
一匹目を取った。
だが、チェレンの胸には勝ち取った感触より、妙なざらつきが残った。
きれいではない。
勝っているはずなのに、どこか噛み合っていない。
アロエがハーデリアを戻す。次のボールを持つ手元は落ち着いている。焦れているのは、むしろ自分のほうだと、チェレンは嫌でも理解した。
「あなた、上手いわね」
アロエが言う。
「相手の動きを見るのも、切り替えるのも早い。使うポケモンの役割分担も明確。無駄が少ない」
「ありがとうございます」
「でも」
ミルホッグが光の中から現れた。
直立した体、鋭い目、重心のぶれない立ち姿。ベルのムンナを深く削った強敵だ。
「今日は少し、急いでる」
その一言が、木槌みたいに胸へ落ちた。
チェレンは返せない。
アロエは続ける。
「勝ちたいというより、遅れたくない顔をしてるわ」
審判の合図と同時に、ミルホッグが動いた。
「かたきうち!」
「ポカブ、右へ!」
衝突はぎりぎりで避けた。だが回避が半歩遅い。ポカブの脇腹をかすめた一撃で、体勢が崩れる。
「ひのこ!」
反射的な反撃。ミルホッグは腕で払い、正面から受けない。
「どわすれもさいみんじゅつもない相手は、少し気が楽かしら?」
アロエの声には挑発とも事実確認ともつかない静けさがあった。
チェレンは返答のかわりに指示を重ねる。
「ポカブ、前へ。たいあたり!」
ぶつかる。押し合う。ミルホッグのほうが重い。押し切れない。なら横から崩すべきだ。頭ではわかるのに、また正面を選んでいる。
なぜだ。
前へ出たいからだ。
誰よりもはっきりと。
さっきのベルよりも、もっと明確に。
その思考に、自分自身が一瞬遅れて気づいた。
違う。そんなはずはない。ベルに勝った負けたの話じゃない。ジム戦はそれぞれ別の試合で、自分は自分の勝ち方をすればいい。そういう理屈なら、いくらでも並べられる。
なのに、理屈の裏で確かに燃えているものがある。
自分より明確に弱かったはずのベルが、一歩前に出た。
守られる側だったベルが、誰かの後ろでおろおろしていたベルが、自分の怖さを抱えたまま勝った。
なら、自分は何だ。
あれだけ整理して、考えて、強くなろうとしてきた自分が、そこで立ち止まるわけにはいかない。
負けられない。
絶対に。
「ポカブ、押し込め!」
声が鋭くなる。ポカブが一瞬だけためらった。それでも前へ出る。
ミルホッグの反撃は重かった。
「かみくだく!」
鋭い歯がポカブの肩をとらえる。悲鳴。火花。足が滑る。
「まだだ、こらえる!」
ポカブは踏みとどまる。だが無理をさせている。チェレンにはその事実が痛いほどわかった。わかったのに、止まれなかった。
「ひのこ! 続けてたいあたり!」
最適化された連携のはずだった。痛みに耐えた直後、至近距離から火を入れ、怯んだ隙に押し返す。普段のチェレンなら、ここで迷いはない。
けれど今日の指示は、どこかひりついていた。
ミルホッグが火を浴びて顔をしかめる。次の体当たりが入る。だが、完全には崩れない。アロエはすぐに見抜いていた。
「いまよ、かたきうち!」
真正面からの重い一撃。
ポカブの体が床を滑った。さすがに耐えきれず、片膝をつくみたいに姿勢が落ちる。
「ポカブ!」
チェレンの声が少し裏返った。
観客席の空気が張るのがわかる。シンもトウヤも、ベルも息を呑んだはずだ。だがいまのチェレンに、それを確かめる余裕はない。
ただ、ポカブの荒い呼吸だけが目に入る。
自分が急がせた。
勝ち急いだ。
きれいに勝ちたくて、証明したくて、ポカブの足で踏むべき場所まで、自分の焦りで踏ませた。
アロエの声が落ちる。
「その子は、あなたに置いていかれてる」
チェレンの肩が跳ねた。
「……」
「速くて、正しくて、無駄が少ない。それはあなたの強さよ。でも、いまのあなたは、その強さで自分の焦りを隠してる。ポケモンを引っ張ってるんじゃない。一人で先へ行こうとしてる」
ミルホッグは次の指示を待ち、微動だにしない。アロエの落ち着きが、かえってチェレンの内側を照らし出していた。
「勝ちたいんじゃないわね、あなた」
アロエの目が、まっすぐ刺さる。
「追いつきたいのよ」
その瞬間、チェレンの中で、何かが音を立てて崩れた。
否定したかった。そんなはずはないと切り返したかった。けれどできない。図星だったからだ。
追いつきたい。
誰に。
ベルに。
そんなことを認めるのは、ひどく不格好だった。ずっと自分のほうが先にいると思っていた相手に、追いつきたいと願ってしまう自分は、あまりにもみっともない。
けれど、みっともなくても、そこにある。
ベルに勝たれたことが悔しい。
ベルが前へ出たことが、どうしようもなく熱い。
置いていく相手だと思っていたのに、目を離したくない。
気づけばいつも、視界のどこかにベルがいる。
転ばないか気にしていたはずなのに、いまは自分のほうが、その一歩に揺さぶられている。
なら、それが答えだった。
ベルは、もう守られるだけの相手じゃない。
自分を変えてしまう相手だ。
厄介で、危なっかしくて、まっすぐで、自分の中の整ったものを簡単に揺らしてくる。そのくせ、こちらが熱くなっていることには、たぶん半分も気づいていない。
だから厄介で、だから目が離せない。
「……ポカブ」
チェレンは低く呼ぶ。
ポカブが苦しそうに、それでも耳を動かして応えた。
チェレンは息を吸い込む。胸の奥に残っていた熱は消えなかった。消えなくていい、と初めて思った。
理屈の邪魔になる熱だと思っていた。恥ずかしい焦りだと思っていた。けれど、その熱があるからここに立っているのなら、無理に切り捨てる必要はない。
ただ、その熱だけで前へ出て、ポケモンを置いていくのは違う。
「ごめん」
ポカブに向けて、はっきり言った。
「急ぎすぎた。ここからは、一緒に行く」
観客席が静まる。チェレンはもう一度、ミルホッグを見る。
正面から押し勝とうとしたのが間違いなら、やり方を変えればいい。止まって整えるのではなく、動きながら整える。ベルがそうやって前へ出たのなら、自分もそうするしかない。
「戻れ、ポカブ」
赤い光がポカブを包む。
アロエがわずかに目を細めた。
「……ようやく見えたみたいね」
「ええ。少しだけ」
チェレンは二つ目のボールを握る。
「マメパト、もう一度だ」
傷を負ったマメパトが再び場へ出る。さっきより羽の動きは重い。だが目は死んでいない。
「上を取るぞ。でんこうせっか、触ってすぐ離れろ」
指示は短い。無理に決めにいかない。ぶつかって、離れ、角度を変える。マメパトが低空から一度だけ体当たりを入れ、すぐに上へ抜ける。ミルホッグの視線が上がる。
「次、つつく。目じゃない、肩口を狙え」
鋭い一撃。ミルホッグが腕を上げる。その防御を見てチェレンは即座に読む。
「いま、下がれ!」
空振りした反撃が、羽ばたきひとつ分遅れて空を切った。
さっきまでと違う。急がない。けれど止まらない。動きながら位置を整え、相手の重さを少しずつずらしていく。
アロエの口元がかすかに緩む。
「そう。あなた、そっちのほうがいいわ」
「どうも」
ミルホッグが苛立ったように踏み込む。
「かたきうち!」
「受けるな。横を抜けろ」
マメパトがぎりぎりでかわす。だが翼の端を打たれ、体勢が落ちる。もう限界が近い。
「ありがとう、戻れ」
チェレンは迷わず交代を選んだ。
ここだ。
相手の重心は前。目線は上。床を蹴った勢いが、まだ残っている。
「ポカブ!」
再び出たポカブは、さっきより低く、地面を這うような姿勢で着地した。
「いけるか」
ポカブが鼻を鳴らす。
それを見て、チェレンは笑いそうになった。さっきまで自分だけが前へ行こうとしていたのに、いまはちゃんと隣にいるとわかる。
「右から回れ。ひのこ!」
火の玉がミルホッグの進路をずらす。直撃ではなく、動線を切るためのひのこだ。ミルホッグがわずかに止まる。その一歩のぶれを見逃さない。
「踏み込め、たいあたり!」
ポカブの突進が横腹へ入る。真正面ではない。押し合いにしない。崩したところへぶつける。
ミルホッグが体勢を持ち直す前に、チェレンは続ける。
「離れろ、ひのこ、もう一度!」
距離を作って火を散らす。火を嫌って腕を上げたその瞬間、チェレンは声を張った。
「いまだ、こらえて前へ!」
次の反撃をポカブがあえて受ける。かたきうちの重みが直撃する。苦しい。けれど、崩れない。
ポカブの目が、チェレンを見た。
チェレンも応える。
「いける。お前なら、いける。……押し返せ!」
ひのこではない。たいあたりでもない。ただ一緒に前へ出るための声だった。
ポカブが吠える。足を踏み込む。受け止めた衝撃ごと前へ押し返し、至近距離で火花が弾けた。赤く、小さく、それでもまっすぐな火だった。
「ひのこ!!」
火がミルホッグの顔の前ではじける。ひるんだ一瞬へ、最後の体当たりが入った。
重い音。
ミルホッグの体が大きく揺れ、そのまま床へ倒れ込む。
審判の手が上がった。
「ミルホッグ、戦闘不能! 勝者、挑戦者チェレン!」
数秒、自分の耳がその言葉をうまく受け止められなかった。
勝った。
だがさっき思い描いていたような、完璧な勝利ではない。もっと整った手順で、もっと無駄なく取れるはずだった。実際、途中まではそのつもりだった。
けれど最後に残ったのは、汗と息切れと、少し不格好な熱を抱えた勝利だった。
それでも――いや、だからこそ、自分の勝ちだった。
ポカブがふらつきながらこちらへ戻ってくる。チェレンはすぐしゃがみ込み、その頭を抱えた。
「よくやった」
ポカブが短く鳴く。責めるような気配はない。ただ、やっと噛み合ったことを確かめるみたいに、鼻先をチェレンの手に押しつけてきた。
アロエが歩み寄ってくる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「途中までは危なかったわね」
「ええ」
否定はできない。アロエもそれをわかっていて、少しだけ柔らかい顔になる。
「あなたは頭がいい。先を読むのも上手いし、形を作るのも上手い。でも、強さって、整っていることだけじゃないのよ」
チェレンは黙って聞く。
「揺れる日がある。悔しくて、焦って、自分の思った通りにいかない日がある。それでも、その揺れをなかったことにしないで、連れて前へ出られるなら、それも立派な強さよ」
言葉が静かに胸へ沈んでいく。
「今日は、少し大人になった顔をしてるわ」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、試合の途中からはね」
アロエはベーシックバッジを差し出した。チェレンは両手で受け取る。ひんやりした感触が、じわじわと手のひらになじんでいく。
勝った。
追いついたのではない。誰かを下に置き直したのでもない。ただ、自分の中で何かが変わったまま、そこに立った。
観客席へ戻ると、最初にシンが口を開いた。
「ずいぶん熱かったな、今日」
「うるさいよ」
「褒めてる」
シンは肩をすくめた。トウヤも短くうなずく。
「途中からよかった」
「最初はだめだったって言いたいのか」
「言いたい」
即答に、チェレンは思わず息をついた。だが不快ではなかった。トウヤの言い方は単純で、そのぶんごまかしがない。
「まあ、僕もそう思う」
自分で認めると、少しだけ苦笑が漏れた。
そして最後に、ベルが立っていた。
ミジュマルはすでにボールへ戻し、ムンナだけを腕に抱いている。さっきまでの緊張が抜けきっていないのか、頬がまだ少し赤い。
「チェレン」
「なに」
「……すごかった」
その一言に、また胸が熱くなる。
勝ったあとに言われる賞賛としては、きっと普通だ。トウヤもシンも似たようなことは言った。けれど、ベルに言われると、どこか別の意味を持つ。
見ていた、と言った目だ。
自分が崩れかけたところも、熱くなりすぎたところも、立て直したところも、全部見ていた目だ。
「ありがとう」
口にしてから、自分で少し驚いた。あまりにも素直な返答だった。
ベルのほうも少し目を丸くし、次いでふわっと笑った。
「うん」
それだけで、なぜか試合のあとの疲れが少し軽くなる。
チェレンは手の中のバッジを見る。次に、その上に重なるように、ベルの勝利の場面が脳裏をよぎった。怖いまま前へ出て、震えた声で「ひとりにはしない」と言った姿。あのとき、自分の中の何かは確かに動いた。
たぶん、もう前みたいには戻れない。
ベルを守られる側だけの人間として扱うことも、その隣で平然と先頭に立っているつもりでいることも、できない。
同じ場所に立ちたいと思ってしまった。
隣に並びたいと思ってしまった。
その中心にいるのがベルだということも、もう誤魔化しきれなかった。
厄介だ、とチェレンは心の中で思う。
こんなふうに感情で戦いを乱されるのは、できれば避けたい。もっと冷静で、もっと理詰めで、自分は進むつもりだった。なのにベルは、そういう整った予定を平気で狂わせる。
守られているだけのほうが、きっと楽だった。こちらも、何をすればいいか迷わずに済んだ。
けれど、いまのベルのほうが、ずっと目を離せない。
「チェレン?」
不思議そうに覗き込まれ、チェレンははっとした。
「……何でもないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
そう言いながら、ほんとうではないと自分でわかる。ベルのほうはたぶん、そこまで気づいていない。
それでいい、と今は思った。
この熱に、名前をつけるのはまだ早い。悔しさもある。焦りもある。見失いたくない気持ちもある。それらが全部混ざっている以上、軽々しく整理しないほうがいい。
ただひとつだけ、はっきりしたことがある。
次にまたベルが前へ出るとき、自分はもう「守る側にいるから大丈夫だ」なんて顔では立てない。
ちゃんと、自分の足で隣へ並びに行かなければならない。
ベルはムンナを抱え直しながら、少しだけいたずらっぽく言った。
「でも、途中、すっごく怖い顔してたよ」
「……見てたのか」
「見てるって言ったもん」
その返しに、チェレンは言葉を失い、次の瞬間、思わず笑ってしまった。
ほんとうに、厄介だ。
自分を熱くさせて、揺らして、そのくせそんな顔で当たり前みたいに隣へ来る。
チェレンは視線をそらすふりをして、小さく息を吐いた。
「じゃあ、あとで感想を聞かせてよ」
「感想?」
「君がどう見たか、知りたい」
ベルがきょとんとしたあと、少し考えてからうなずく。
「うん。ちゃんと言う」
「……そう」
それだけでよかった。
トウヤがジムの出口のほうを見る。シンは次の自分の順番を意識しているのか、壁から背を離して首を回した。シッポウジムの一日は、まだ終わらない。バッジを得た者もいれば、これから挑む者もいる。
けれどチェレンにとっては、さっきの一戦が、ただの勝利以上のものを残していた。
正しさだけでは届かない日がある。
熱だけでは崩れる日もある。
なら、その両方を持ったまま前へ出るしかない。
ベルがそうやって一歩前に出たのなら、自分もまた、違うやり方で前へ出る。
追い抜き返すためではない。
置いていかれないためでもない。
隣に立ったとき、胸を張っていられるように。
チェレンはベーシックバッジをしまい、もう一度だけベルの横顔を見る。ムンナに頬を寄せながら、こちらに何か言おうとして、でも言葉を探している顔。少し前なら見慣れていたはずのその表情が、なぜだか今日は前よりずっと鮮やかに見えた。
たぶん、これから先も何度も揺さぶられるのだろう。
それでもいい、と今は思える。
ジムの古い木の匂いの中で、チェレンは静かに息をついた。
熱はまだ消えていない。
けれどもう、それを隠そうとは思わなかった。
その熱が、自分を次の強さへ連れていくのだと、今度はちゃんと信じられたからだ。
そしてその熱の先には、きっとまたベルがいる。
前に出た彼女の背中を、今度は追うだけじゃなく、自分も並んで見られるように。
そう思いながら、チェレンは仲間たちのほうへ歩き出した。
シッポウジムの静けさは変わらない。
けれど、その中を進む彼の足音は、試合前より少しだけ、強くなっていた。