シッポウシティの朝は、博物館の町らしく静かだった。
まだ店の戸も半分しか開いていない時間、石畳の通りには掃き清められた水の筋が細く残り、空気には夜の冷たさが少しだけ残っている。けれど、その静けさの中で、四人の足取りだけは昨日までとどこか違っていた。
トウヤ、ベル、チェレン、シン。
四人ともアロエからベーシックバッジを受け取った。
同じジムを越え、同じ町を出ようとしている。
なのに、その胸の中に残っているものは、まるで同じではなかった。
ポケモンセンターの前で、最初に外へ出てきたのはトウヤだった。肩に小さな荷物を引っかけ、いつも通りの顔で空を見上げている。勝ったあとの高揚を引きずるでもなく、かといって気が抜けているわけでもない。ただ、もう次の道を見ている顔だった。
そのあとにチェレンが出てくる。服の乱れひとつなく整っていて、表情も落ち着いて見える。だが近くで見れば、昨日までと同じ「整っている」ではないことがわかった。少しだけ、熱の残った整い方だった。
ベルはムンナを抱いたまま、ミジュマルと一緒に慌ただしく飛び出してきた。
「ご、ごめん、待った?」
「まだ全員そろってない」
チェレンが答える。ベルは「だよね」と笑って胸を撫で下ろした。
「でも、なんか変な感じ。ほんとにみんな勝ったんだなって」
「昨日のうちに分かってることだろ」
シンの声が後ろから飛んできた。最後に出てきた彼は、ミジュマルを連れて大きくあくびをしている。
「朝になってもまだ実感ないのかよ」
「だって、寝て起きたら夢だった、ってこともあるかもしれないし」
「お前は子どもか」
「ベルも似たようなこと言ってたぞ」
「えっ、言ってない!」
すぐさま否定が飛び、シンが笑う。トウヤはそんなやり取りを横で聞きながら、小さく口元を緩めた。
四人の間には、いつもの空気が戻っている。
けれど、いつものままではなかった。
昨日までなら、ジムを越えた達成感はもっと単純なものだったはずだ。やった、勝った、次へ進める――それで十分だった。けれど今回は違う。
ベルは、怖いまま前へ出ることを覚えた。
チェレンは、熱くなった自分ごと勝ち方を更新した。
シンは、一回ごとの経験をすぐ次に積み上げていく自分の強さに触れた。
トウヤは、そんな三人の変化を見ながら、自分の歩幅を変えずに先へ立ち続けた。
誰も同じ勝ち方をしていない。
だからこそ、同じ四つのバッジが少し不思議だった。
「行く前に、館長さんに挨拶しなくていいのかな」
ベルの言葉に、チェレンがうなずく。
「したほうがいいだろうね。博物館にも世話になったし」
「じゃあ先にそっち寄ろう」
トウヤがそう言って歩き出す。三人もそのあとに続いた。
朝のシッポウシティは、昨日より少し広く見えた。町そのものが変わったわけではない。ただ、自分たちの見え方が変わったのだと、シンは歩きながらぼんやり思う。
博物館に着くと、入口の前ではすでにアロエが職員と何か話していた。四人の姿に気づくと、すぐにこちらへ向き直る。
「おはよう。思ったより早いのね」
「出る前に挨拶くらいは」
チェレンが言うと、アロエは少しだけ笑った。
「律儀な子たち」
「お世話になったし」
ベルも続ける。ムンナが腕の中で小さく耳を動かした。
アロエは四人を順に見た。ジムリーダーの目でも館長の目でもなく、その少し両方が混じったような視線だった。
「で、次はヤグルマの森を抜けてヒウンかしら」
「そのつもりです」
トウヤが答える。
「そう。あの森は広いわけじゃないけれど、町の道とは違う。視界も狭いし、寄り道も増える。思ったより、自分の歩き方が出る場所よ」
その言い方が少しだけ印象に残った。
自分の歩き方。
たしかに、シッポウまでの道でもそれは十分見えてきている。けれど森に入れば、なおさら誤魔化しが利かなくなるだろう。速く進みたい者、細かく見たい者、不安になって立ち止まる者、気になったものに手を伸ばす者。同じ道を歩いていても、自然に差が出る。
「四人なら大丈夫よ」
アロエはそう言ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも、四人だからずっと同じ速さで進めるとは限らない。それは悪いことじゃないわ」
ベルが目を瞬かせる。シンは何となく、その言葉の先を考えたが、そこで止めた。今はまだ、その先まで考える必要はない気がしたからだ。
「昨日の勝ち方を、今日そのまま持っていこうとしないこと」
アロエは最後にそう付け加えた。
「町を越えれば、また違う相手がいる。違う道がある。そのとき、自分の強さを決めつけすぎないでね」
「はい」
四人の返事が重なる。
挨拶を終えて博物館を出ると、町の外れへ向かう道で、ベルが小さく息を吐いた。
「館長さんって、やっぱりなんか、見透かしてくるよね」
「見透かしてるっていうか、見てるんだろ」
シンが言う。
「ちゃんと」
「それが同じ意味じゃないあたり、君は意外といいことを言うな」
「意外とは余計だろ」
チェレンが少しだけ笑い、シンが不満そうに眉を上げる。ベルもつられて笑った。
トウヤは前を見たまま歩いていたが、ふと足を緩めた。
「森、入る前に一回休むか」
「え、もう?」
「ベルが今のうちに落ち着いといたほうがいい」
「なんで!?」
「入ってから慌てるよりいいだろ」
それは半分からかいで、半分本気なのだろう。ベルは頬を膨らませたが、否定はしなかった。
町のはずれ、ヤグルマの森へ続く道の手前には、小さな広場があった。旅人が腰を下ろせるよう、古い丸太のベンチがいくつか置かれている。四人はそこで荷物を置き、水筒を回した。
しばらくは誰も大きなことを言わなかった。
風が吹き、森の入口の木々がざわめく。鳥ポケモンの遠い声がして、ミジュマルが少しだけそちらを見る。ムンナはベルの膝の上で落ち着いた様子で目を細めていた。
最初に口を開いたのは、意外にもチェレンだった。
「……少し、考えてたんだ」
三人がそちらを見る。
「何を?」
ベルが聞く。
チェレンは少しだけ間を置いた。
「昨日のことを。というより、シッポウに入ってからのこと全部かな」
その言い方に、ベルの背筋がわずかに伸びる。シンも黙って耳を傾けた。トウヤはベンチの端で腕を組んだまま、静かに視線だけを向けている。
「僕はたぶん、ずっと同じように考えてたんだと思う」
チェレンはまっすぐ前を見たまま言った。
「誰が前に出るべきかとか、誰が危なっかしいかとか、どう進むのがいちばん無駄がないかとか。そういうのを、わりと早い段階で自分の中で決めてた」
ベルの指が、ムンナの背を撫でる手つきの中で少し止まった。
「でも、それがずっと正しいとは限らなかった」
チェレンの声は静かだった。自分を責める響きではない。ただ、認めている声だ。
「ベルが昨日勝ったとき、それをすごく思ったよ」
ベルが目を見開く。
「え……」
「もちろん、前から弱いって決めつけていたつもりはない。でも、守る側と守られる側みたいなものを、たぶん僕は勝手に固定していた」
シンは視線を落とした。言葉にされると、その感覚はチェレンひとりのものじゃなかった気がする。自分も、トウヤも、きっとどこかでそう思っていた。
ベルは不安そうな、でも逃げない目でチェレンを見ている。
「だから、昨日の勝ち方を見て、悔しかった」
チェレンははっきり言った。
「でも、同時にちゃんと見なきゃいけないとも思った。君が前へ出たことを」
ベルはすぐに返事ができなかった。
代わりにムンナが、小さく息を吐くように鳴いた。ベルはそれで少しだけ表情をゆるめる。
「……うれしい、でいいのかな。そう言ってもらえるの」
「いいんじゃないか」
シンが言った。
「悔しかったのまで込みで」
「君は余計な一言を足す」
「大事なとこだろ」
チェレンはため息をついたが、否定はしなかった。
そこで今度は、シン自身がぽつりと言う。
「俺も、ちょっと分かった気がするんだよな」
「なにが?」
ベルが聞く。
「自分の勝ち方」
その言葉に、トウヤが少しだけ視線を上げた。
「最初からうまくやれるタイプじゃねえのは、前から分かってた。でも昨日、アロエとやって、もっとはっきりした」
シンは自分の手のひらを見た。
「一回見たやつとか、一回食らったやつとか、そういうのを次に持っていけるんだよ。たぶん俺は。いきなり全部分かるわけじゃないけど、同じのを何回もそのまま食うのは嫌で、だから考えるし、考えたぶんちょっとずつ合っていく」
「努力型の天才、って感じだね」
ベルが素直に言う。
シンは妙な顔をした。
「その言い方、まだむずがゆいんだけど」
「でも合ってる」
トウヤが短く言った。
三人がそちらを向く。
「シンは、積んだぶんだけ強くなる。で、積むのが速い」
トウヤの言葉は簡潔だった。けれど、それだけで十分だった。余計な飾りがないぶん、言われた側にもまっすぐ届く。
シンは一瞬だけ黙って、それから笑った。
「……トウヤに言われると、なんか認めるしかねえな」
「事実だから」
「お前はそういうとこだよ」
ベルがくすっと笑う。
自然に空気がやわらいだところで、ベルが自分の膝の上のムンナを見下ろしながら言った。
「わたしは、まだ分かんないこと多いな」
三人が耳を傾ける。
「怖いのもまだ全然あるし、ちゃんとできるかわかんない時もある。でも、前みたいに、怖いから止まるしかない、って感じじゃなくなったかも」
そう言って、ミジュマルとムンナを交互に見る。
「ふたりがいてくれるからっていうのもあるし、たぶん、みんなが前にいるからでもある」
「前にいる、ね」
チェレンがその言葉を小さく繰り返した。
「うん。置いていかれたくない、って思うもん」
ベルは少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、それだけじゃなくて。同じところまで行きたいなって思う」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
風がまた吹いて、木々が鳴る。
同じところまで行きたい。
その願いはきれいだ。けれど、きれいだからこそ、そのままずっと同じ形で続くとは限らないことも、どこかで分かってしまう。
シンは何となく、森の奥を見た。
道は一本に見えて、入ってしまえば細かく分かれる。木の根を避ける者もいれば、真ん中を踏む者もいる。横道に気づく者もいれば、そのまま真っすぐ行く者もいるだろう。
同じ森を抜けても、まったく同じ歩き方にはならない。
たぶん旅もそうだ。
「トウヤは?」
ベルが聞いた。
「トウヤは、昨日のあと何か考えた?」
問われて、トウヤは少しだけ空を見た。
「考えた」
「どんなこと?」
「三人とも、前より面倒になったなって」
「は?」
チェレンが眉をひそめる。ベルは口をぱかっと開き、シンが吹き出した。
「どういう意味だよ、それ」
「前はもっと単純だった」
トウヤは平然と続ける。
「ベルは見てないと危なかったし、チェレンは考えすぎるし、シンは雑だった」
「おい」
「でも今は、ベルは自分で前に出るし、チェレンは熱くなるし、シンは途中から急に合ってくる」
そこまで言ってから、トウヤはほんの少しだけ口元をゆるめた。
「だから、見てて飽きない」
一瞬、三人とも言葉を失った。
トウヤらしいようで、トウヤらしくない言い方だった。褒めているのかどうか曖昧なのに、不思議とちゃんと認められていることだけは分かる。
最初にベルが笑い出し、次にシンが「なんだそれ」と肩を揺らし、チェレンも最後には呆れたように息をついた。
「君は本当に、言い方だけはどうにかならないのか」
「伝わってるならいいだろ」
「まあ、そうだけど」
その返しにまた笑いが起きる。
広場の空気は、さっきよりずっと軽くなっていた。
何かが解決したわけじゃない。
ここから先、またぶつかることもあるだろうし、歩幅がずれることもあるだろう。
けれど少なくとも今は、昨日の戦いで変わったものを、四人ともちゃんと抱えたまま同じ場所に座れている。
それだけで十分な朝だった。
「そろそろ行くか」
トウヤが立ち上がる。
「うん」
ベルもムンナを抱え直しながら立つ。チェレンは荷物を確かめ、シンはミジュマルの頭をぽんと叩いた。
ヤグルマの森の入口は、町道の先ですぐに色を変えていた。石畳の終わりから先は、土の匂いと木陰の濃さが支配している。光は上から差しているのに、森の中は少し暗い。道幅も狭く、見通しは急に悪くなった。
「ほんとに、町の外って感じだな」
シンが言う。
「さっきまでと空気が全然違う」
「だから面白いんだろ」
トウヤが先に踏み込む。
チェレンはその少し後ろ。ベルとシンが並び、その足元をミジュマルがついていく。ムンナはベルの腕から森を見ていた。
一歩入るたび、音が変わる。
町の足音じゃない。葉を踏む音、枝をよける音、遠くの羽音。人の手で整えられた場所ではなく、自然の中を進む音だった。
トウヤが振り返らずに言う。
「はぐれるなよ」
「誰に言ってるの」
ベルが不満そうに返す。
「一番可能性高いの、お前だろ」
「そんなことないもん」
「ある」
「あるね」
「あるよ」
三方向から同時に言われて、ベルが「ええ!?」と声を上げた。
そのやりとりを聞きながら、シンは少し笑った。
同じ道だ。
けれど、同じ足取りではない。
前にいるトウヤは、自分の速さで木々の間を読む。
チェレンは森の作りと分かれ道を見ている。
ベルは不安そうにしながら、それでも確かに前へついてくる。
自分はその全部を見て、覚えて、次に使えるものを探している。
違う。
でも、いまはまだ一緒に進んでいる。
そのことが、シンには少しだけ心強かった。
森の入口で、風がひとつ大きく鳴った。枝葉が揺れ、上からこぼれた光が四人の背中をまだらに照らす。
シッポウシティは、もうすぐ見えなくなる。
ジムを越えた昨日までの自分たちも、たぶん少しずつ背中側に回っていく。
でも、置いていくわけじゃない。
見たものも、感じたものも、勝ったことも、悔しかったことも、全部持って次へ行く。
それぞれ違う形のまま、同じ森を抜けていくために。
トウヤが先頭で枝を払い、チェレンが地面の段差を指摘し、ベルがムンナを抱いたまま「ちゃんと見てるからね」と自分にも相手にも言い聞かせるように呟く。シンはその後ろで、そんな三人の背中を一度見てから、ミジュマルに小さく言った。
「次も、いろいろ覚えそうだな」
ミジュマルが元気よく鳴く。
その返事に笑って、シンも森の奥へ足を踏み入れた。
同じ道を、違う足で進む。
その旅の続きが、静かな木漏れ日の向こうで待っていた。