ヤグルマの森の朝は、町の朝より音が多かった。
鳥ポケモンの声。葉が擦れる音。見えないところで何かが跳ねる気配。湿った土を踏むたびに、靴の裏が少しだけ沈む感触がある。シッポウシティを出てまだそれほど経っていないのに、四人のまわりの景色はもうすっかり別のものになっていた。
先頭を歩くトウヤが、細い枝を払う。
「こっち」
振り返りもせずに言う声に、ベルが少し慌ててついていく。
「ま、待って。道、ちゃんと合ってる?」
「合ってる」
「なんでそんなにすぐ分かるの」
「見たら分かるだろ」
「分かんないよ!」
即答に、後ろのシンが吹き出した。
「ベルは五本くらいある木全部同じに見えてそう」
「見えてないもん! ……ちょっとしか!」
「見えてるじゃないか」
チェレンが呆れたように言う。だがその声も、昨日までよりどこかやわらかい。
森へ入ってまだ一時間も経っていないのに、歩く速さの差はもうはっきりしていた。トウヤは前へ出るのが速い。ためらいがないぶん、枝の間を抜ける足も自然と早くなる。チェレンは少し後ろで周囲と地面を見て、分かれやすい場所や踏み外しそうな根を先に拾っていく。ベルはムンナを抱えたまま遅れないようにしつつ、気になる音がするとすぐそちらを見てしまう。シンはその間で、三人と森の様子を見比べながら歩いていた。
同じ道を進んでいるのに、歩き方はやっぱり違う。
シンがそう思ったとき、前を歩いていたトウヤが急に足を止めた。
「……待って」
すぐ後ろのチェレンも止まる。ベルが危うくぶつかりそうになり、シンが肩を押さえて止めた。
「な、なに?」
「静か」
トウヤが短く言う。
ベルがきょとんとする。だがシンもその一言で気づいた。
さっきまでしていた細かな羽音や葉の擦れる音が、急に薄くなっている。鳥の声も、少し遠い。森そのものが息を潜めたような感じだった。
「野生のポケモンか?」
シンが小さく言う。
トウヤはうなずく代わりに、視線だけを左奥へ流した。茂みの向こう、木の根元あたりの葉が、ほんのわずかに揺れた。
「何かいる」
ベルの腕の中で、ムンナがぴくりと耳を動かす。警戒しているらしい。
「出てこないなら、こっちから無理に近づかないほうがいいかも」
チェレンが声を抑えて言う。
その判断にシンも賛成しかけた。だが次の瞬間、別の方向から小さな鳴き声がした。
高くて、切羽詰まったような声だった。
「……いまの」
ベルの顔色が変わる。
鳴き声はもう一度した。今度はさっきより近く、何かに引っかかったように短く途切れる。
トウヤがすぐ動いた。
「こっちだ」
草を分けて進む。チェレンが「待て」と言いかけるより早く、ベルも追った。結局、シンとチェレンもそのあとにつづくしかない。
数歩進んだ先の小さな斜面で、原因はすぐに見つかった。
「クルミル……!」
低木の枝葉に、小さなクルミルが引っかかっていた。体の葉っぱごと絡まってしまったのか、もがくたびに余計抜けなくなっている。その周囲を、紫色の小さな影が何匹も取り囲んでいた。
フシデだ。
丸まった体を持ち上げるようにして、じりじりと近づいている。威嚇なのか、排除なのか、すぐには分からない。だが少なくとも、クルミルが落ち着いて抜け出せる状況ではなかった。
「なんで囲んでるんだ」
シンが眉をひそめる。
「縄張りに入り込んだのかもしれない」
チェレンがすぐに周囲を見る。
「このあたり、草が踏み荒らされてる。たぶんこの辺一帯を使ってたんだろう」
クルミルはまた短く鳴いた。ベルが一歩前へ出る。
「助けないと」
「でも、まとめて刺激したら危ない」
チェレンの言う通りだった。フシデはまだ進化前でも、群れると厄介だ。とくに森の狭い場所では動きが読みにくい。
トウヤが低く言う。
「散らせばいい」
「簡単に言うなよ」
シンが返した瞬間、一匹のフシデがこちらに気づいた。頭を上げ、警戒するように小さく鳴く。それを合図にしたみたいに、他の個体も一斉にこちらへ向いた。
ベルの腕の中でムンナが身を固くする。
「来る」
トウヤが短く告げたのと同時に、二匹のフシデが跳ねるように飛び出してきた。
「ツタージャ、頼む!」
トウヤのボールが開く。白い光の中からツタージャが現れ、しなるように着地した。
「つるのムチ、右!」
鋭い蔓が地面を打ち、右から来たフシデの進路をずらす。もう一匹はそのまま前へ来たが、今度はベルが声を上げた。
「ムンナ、さいみんじゅつ!」
淡い波がふわりと広がり、飛び出してきたフシデの動きが鈍る。完全には眠らない。それでも一瞬止まっただけで十分だった。
「いけ、ミジュマル!」
シンのミジュマルが前へ出る。ほたちを構え、眠りかけたフシデの体当たりを受け止めた。
重い、とは言わない。けれど速い。
「シン、無理に押すな!」
チェレンの声が飛ぶ。同時にポカブも場へ出ていた。
「ポカブ、ひのこは地面に!」
火の粉が直接フシデを狙うのではなく、手前の落ち葉を散らすように弾ける。熱と光に、周囲のフシデたちが一歩だけ下がった。
その隙を見て、トウヤがクルミルへ向かう。
「ベル、ムンナで抑えて」
「う、うん!」
「シン、左!」
言われる前に、シンの目も動いていた。左から別のフシデが低く突っ込んでくる。ミジュマルはとっさに横へずれたが、完全にはかわしきれず肩をかすめられた。
「くっ……みずでっぽう!」
反撃の水流。フシデは浅くかわす。体が小さいぶん、直線の水は当てにくい。
シンの顔が引き締まる。
小回りが利く。正面からのぶつかり合いより、差し込みが速い。しかも一匹だけじゃない。複数いると、次の動きが読みにくくなる。
だが見えないわけじゃない。
よく見ると、前へ出る個体は決まっている。後ろで囲むだけの個体と、明確に突っ込んでくる個体がいる。その中でも、一匹だけ妙に迷いがないやつがいた。
少し大きい。
動きも鋭い。
群れの中心というより、先頭に立って確かめているような動きだった。
「あいつだ」
シンが小さく呟く。
「ミジュマル、正面!」
言葉に反応したように、そのフシデがまっすぐ来た。今度は見える。踏み込みが速いんじゃない。距離の詰め方がうまい。
ミジュマルがほたちを構えて受ける。衝撃。小さな体が半歩下がる。だがすぐに踏みとどまった。
「みずでっぽう!」
至近距離の水が入る。フシデがわずかに後退した。
そこでシンは、周りの気配が少し変わったことに気づく。ベルとムンナが残りを牽制し、チェレンのポカブが広く近寄らせず、トウヤがクルミルの枝葉をほどいていた。
なら、自分は目の前の一匹に集中できる。
「ミジュマル、もう一回!」
フシデが低く体を丸める。次に来る。シンは今度、飛び出す前のわずかな沈み込みを見逃さなかった。
「横だ!」
ミジュマルが半歩だけずれ、真正面の体当たりを外す。フシデは勢いを殺しきれず、少しだけ前へ流れた。
「そこ!」
ミジュマルのたいあたりが横腹へ入る。フシデが地面を転がるようにして体勢を立て直す。だがさっきより明らかに動きが乱れた。
シンは小さく息を吸う。
一回受けた。
一回見た。
なら次は少し合う。
その感覚が、昨日のアロエ戦の続きみたいに胸の中で繋がった。
「シン!」
トウヤの声が飛ぶ。
振り向くと、クルミルはもう自由になっていた。だが他のフシデたちはまだ完全には引いていない。中心にいた一匹がどうするかを見ているようにも見える。
シンは目の前のフシデと視線を合わせた。
敵意はある。けれど、むやみに噛みついてくる感じじゃない。こちらの出方を見ている。シンとミジュマルがどう動くかを確かめるような目だった。
「……ミジュマル、下がるな」
ミジュマルが小さく鳴く。
「みずでっぽう、足元!」
水が地面を打ち、湿った土と葉が跳ねる。フシデの踏み込みが一瞬だけ鈍る。
「今だ、たいあたり!」
今度の一撃はきれいに入った。フシデが大きく後ろへ転がり、他の個体たちがざわっと動く。群れ全体の空気が揺れた。
しばらくの沈黙。
やがて、中心にいたフシデがゆっくり起き上がる。威嚇するように体を持ち上げたあと、もう一度だけシンたちを見た。
逃げるでも、突っ込むでもない。
それからくるりと向きを変え、茂みの奥へ消えていった。
残りの個体も、それを追うように散っていく。
あとに残ったのは、ほどけた葉を震わせるクルミルと、少し荒れた地面だけだった。
「……行った」
ベルがほっと息を吐く。
ムンナも力を抜いたように目を細めた。ポカブが鼻を鳴らし、ツタージャは一度だけ尾を振ってからトウヤの足元に戻る。
シンはミジュマルの頭を撫でた。
「ありがとな」
ミジュマルは得意そうに胸を張る。肩をかすめたところは少し痛そうだったが、戦える顔はまだしている。
クルミルはしばらくその場でおろおろしていたが、やがてベルのほうを見て、小さく鳴いた。ベルがしゃがみ込む。
「もう大丈夫だよ」
ムンナの隣で優しく言うと、クルミルは葉を揺らし、それから森の奥へ走っていった。
その背中を見送ってから、チェレンが周囲を確かめる。
「怪我は?」
「大丈夫」
トウヤが短く答える。
「ポカブも平気そう」
「ムンナもだいじょうぶ」
ベルが答え、最後にシンがミジュマルの肩を見た。
「ちょっと当たったけど、ひどくはない」
「なら、少し休んだほうがいい」
チェレンの言葉に、今度は誰も反対しなかった。
少し開けた切り株のそばで休むことになり、水を飲ませ、ミジュマルの肩を軽く冷やす。ベルはムンナを膝に乗せたまま、まだ少し興奮の残った声で言った。
「びっくりした……でも、ただ襲ってきたって感じじゃなかったよね」
「たぶん縄張りだろう」
チェレンが答える。
「クルミルが入り込んで、あいつらも追い払おうとしてた。僕らが割って入ったから余計に警戒した」
「でも、最後の一匹」
シンが地面を見ながら言う。
「なんか、ちょっと違った」
トウヤがそちらを見る。
「強かった?」
「強いっていうか……ちゃんと見てた。こっちのこと」
言葉にすると曖昧だった。だが感覚は残っている。ただ暴れるんじゃなく、踏み込みも引き際も確かめるみたいな動きだった。
チェレンが少し考えてから言う。
「群れの中で、前に出る役だったのかもな」
「そうかも」
シンはうなずいた。
そして、ふと森の奥に目を向ける。
もう姿はない。気配も遠い。なのに、見られている感じだけが、まだ薄く残っていた。
「シン?」
ベルに呼ばれ、我に返る。
「いや、なんでもない」
「ほんと?」
「ほんと。ちょっと考えてただけ」
ベルは納得しきらない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
しばらく休んでから、四人は再び歩き出した。森の中の道は相変わらず狭く、枝葉は多い。それでもさっきより足取りは少し落ち着いていた。
トウヤが前を行き、チェレンが道を見る。ベルは今度こそはぐれまいと意識して少し真ん中寄りに歩き、シンはミジュマルと並んで後ろから全体を見る。
「さっきの、よかったな」
シンが小声で言うと、ミジュマルが「ミジュ」と短く返す。
「一回受けたら、次はちゃんと合わせられてた」
昨日のアロエ戦と同じだ、とシンは思った。
最初から全部うまくいくわけじゃない。
でも、一回見たものは残る。
受けた重さも、踏み込みの癖も、次にはもう少しだけ自分のものになる。
ミジュマルも、それにちゃんとついてきてくれている。
「シン、遅れるぞ」
前からトウヤの声が飛ぶ。
「はいはい」
返しながら歩幅を速めた、そのときだった。
右後ろの茂みが、ほんのわずかに揺れた。
シンは反射的にそちらを見る。
気のせいかと思うほど短い動きだった。だが、紫色の丸い背中が、一瞬だけ葉の隙間に見えた気がした。
フシデ。
さっきの一匹かどうかまでは分からない。けれど、ただの見間違いではない気がした。
「……」
シンは何も言わなかった。
もし本当にあのフシデなら、今ここで無理に追う必要はない。追えば逃げるだろうし、群れごと刺激するかもしれない。けれど、向こうがまだこちらを見ているのなら、またどこかで会う気もした。
見られているだけじゃない。
見定められているような感じだった。
「どうしたの?」
ベルが後ろを振り向く。
「いや」
シンは森の奥から目を離し、少しだけ笑った。
「なんか、まだ終わってない気がしてさ」
ベルはよく分からないという顔をしたが、チェレンは何か気づいたように小さく目を細めた。トウヤは振り返らずにただ一言だけ言う。
「なら、そのうちまた来る」
妙にあっさりした言い方だった。
でも、たぶんそうなのだろうとシンも思った。
森の道はまだ続く。
自分たちの歩き方も、まだ途中だ。
なら、さっきのフシデとも、きっとこれで終わりじゃない。
シンはもう一度だけ茂みを見たあと、ミジュマルと並んで前を向いた。
同じ森を、違う歩幅で進んでいく。
その先でまた何を見て、何を覚えるのか。
湿った土の匂いの中で、彼の足は少しだけ軽くなっていた。