BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第36話 森の歩幅

ヤグルマの森の朝は、町の朝より音が多かった。

 

鳥ポケモンの声。葉が擦れる音。見えないところで何かが跳ねる気配。湿った土を踏むたびに、靴の裏が少しだけ沈む感触がある。シッポウシティを出てまだそれほど経っていないのに、四人のまわりの景色はもうすっかり別のものになっていた。

 

先頭を歩くトウヤが、細い枝を払う。

 

「こっち」

 

振り返りもせずに言う声に、ベルが少し慌ててついていく。

 

「ま、待って。道、ちゃんと合ってる?」

 

「合ってる」

 

「なんでそんなにすぐ分かるの」

 

「見たら分かるだろ」

 

「分かんないよ!」

 

即答に、後ろのシンが吹き出した。

 

「ベルは五本くらいある木全部同じに見えてそう」

 

「見えてないもん! ……ちょっとしか!」

 

「見えてるじゃないか」

 

チェレンが呆れたように言う。だがその声も、昨日までよりどこかやわらかい。

 

森へ入ってまだ一時間も経っていないのに、歩く速さの差はもうはっきりしていた。トウヤは前へ出るのが速い。ためらいがないぶん、枝の間を抜ける足も自然と早くなる。チェレンは少し後ろで周囲と地面を見て、分かれやすい場所や踏み外しそうな根を先に拾っていく。ベルはムンナを抱えたまま遅れないようにしつつ、気になる音がするとすぐそちらを見てしまう。シンはその間で、三人と森の様子を見比べながら歩いていた。

 

同じ道を進んでいるのに、歩き方はやっぱり違う。

 

シンがそう思ったとき、前を歩いていたトウヤが急に足を止めた。

 

「……待って」

 

すぐ後ろのチェレンも止まる。ベルが危うくぶつかりそうになり、シンが肩を押さえて止めた。

 

「な、なに?」

 

「静か」

 

トウヤが短く言う。

 

ベルがきょとんとする。だがシンもその一言で気づいた。

 

さっきまでしていた細かな羽音や葉の擦れる音が、急に薄くなっている。鳥の声も、少し遠い。森そのものが息を潜めたような感じだった。

 

「野生のポケモンか?」

 

シンが小さく言う。

 

トウヤはうなずく代わりに、視線だけを左奥へ流した。茂みの向こう、木の根元あたりの葉が、ほんのわずかに揺れた。

 

「何かいる」

 

ベルの腕の中で、ムンナがぴくりと耳を動かす。警戒しているらしい。

 

「出てこないなら、こっちから無理に近づかないほうがいいかも」

 

チェレンが声を抑えて言う。

 

その判断にシンも賛成しかけた。だが次の瞬間、別の方向から小さな鳴き声がした。

 

高くて、切羽詰まったような声だった。

 

「……いまの」

 

ベルの顔色が変わる。

 

鳴き声はもう一度した。今度はさっきより近く、何かに引っかかったように短く途切れる。

 

トウヤがすぐ動いた。

 

「こっちだ」

 

草を分けて進む。チェレンが「待て」と言いかけるより早く、ベルも追った。結局、シンとチェレンもそのあとにつづくしかない。

 

数歩進んだ先の小さな斜面で、原因はすぐに見つかった。

 

「クルミル……!」

 

低木の枝葉に、小さなクルミルが引っかかっていた。体の葉っぱごと絡まってしまったのか、もがくたびに余計抜けなくなっている。その周囲を、紫色の小さな影が何匹も取り囲んでいた。

 

フシデだ。

 

丸まった体を持ち上げるようにして、じりじりと近づいている。威嚇なのか、排除なのか、すぐには分からない。だが少なくとも、クルミルが落ち着いて抜け出せる状況ではなかった。

 

「なんで囲んでるんだ」

 

シンが眉をひそめる。

 

「縄張りに入り込んだのかもしれない」

 

チェレンがすぐに周囲を見る。

 

「このあたり、草が踏み荒らされてる。たぶんこの辺一帯を使ってたんだろう」

 

クルミルはまた短く鳴いた。ベルが一歩前へ出る。

 

「助けないと」

 

「でも、まとめて刺激したら危ない」

 

チェレンの言う通りだった。フシデはまだ進化前でも、群れると厄介だ。とくに森の狭い場所では動きが読みにくい。

 

トウヤが低く言う。

 

「散らせばいい」

 

「簡単に言うなよ」

 

シンが返した瞬間、一匹のフシデがこちらに気づいた。頭を上げ、警戒するように小さく鳴く。それを合図にしたみたいに、他の個体も一斉にこちらへ向いた。

 

ベルの腕の中でムンナが身を固くする。

 

「来る」

 

トウヤが短く告げたのと同時に、二匹のフシデが跳ねるように飛び出してきた。

 

「ツタージャ、頼む!」

 

トウヤのボールが開く。白い光の中からツタージャが現れ、しなるように着地した。

 

「つるのムチ、右!」

 

鋭い蔓が地面を打ち、右から来たフシデの進路をずらす。もう一匹はそのまま前へ来たが、今度はベルが声を上げた。

 

「ムンナ、さいみんじゅつ!」

 

淡い波がふわりと広がり、飛び出してきたフシデの動きが鈍る。完全には眠らない。それでも一瞬止まっただけで十分だった。

 

「いけ、ミジュマル!」

 

シンのミジュマルが前へ出る。ほたちを構え、眠りかけたフシデの体当たりを受け止めた。

 

重い、とは言わない。けれど速い。

 

「シン、無理に押すな!」

 

チェレンの声が飛ぶ。同時にポカブも場へ出ていた。

 

「ポカブ、ひのこは地面に!」

 

火の粉が直接フシデを狙うのではなく、手前の落ち葉を散らすように弾ける。熱と光に、周囲のフシデたちが一歩だけ下がった。

 

その隙を見て、トウヤがクルミルへ向かう。

 

「ベル、ムンナで抑えて」

 

「う、うん!」

 

「シン、左!」

 

言われる前に、シンの目も動いていた。左から別のフシデが低く突っ込んでくる。ミジュマルはとっさに横へずれたが、完全にはかわしきれず肩をかすめられた。

 

「くっ……みずでっぽう!」

 

反撃の水流。フシデは浅くかわす。体が小さいぶん、直線の水は当てにくい。

 

シンの顔が引き締まる。

 

小回りが利く。正面からのぶつかり合いより、差し込みが速い。しかも一匹だけじゃない。複数いると、次の動きが読みにくくなる。

 

だが見えないわけじゃない。

 

よく見ると、前へ出る個体は決まっている。後ろで囲むだけの個体と、明確に突っ込んでくる個体がいる。その中でも、一匹だけ妙に迷いがないやつがいた。

 

少し大きい。

 

動きも鋭い。

 

群れの中心というより、先頭に立って確かめているような動きだった。

 

「あいつだ」

 

シンが小さく呟く。

 

「ミジュマル、正面!」

 

言葉に反応したように、そのフシデがまっすぐ来た。今度は見える。踏み込みが速いんじゃない。距離の詰め方がうまい。

 

ミジュマルがほたちを構えて受ける。衝撃。小さな体が半歩下がる。だがすぐに踏みとどまった。

 

「みずでっぽう!」

 

至近距離の水が入る。フシデがわずかに後退した。

 

そこでシンは、周りの気配が少し変わったことに気づく。ベルとムンナが残りを牽制し、チェレンのポカブが広く近寄らせず、トウヤがクルミルの枝葉をほどいていた。

 

なら、自分は目の前の一匹に集中できる。

 

「ミジュマル、もう一回!」

 

フシデが低く体を丸める。次に来る。シンは今度、飛び出す前のわずかな沈み込みを見逃さなかった。

 

「横だ!」

 

ミジュマルが半歩だけずれ、真正面の体当たりを外す。フシデは勢いを殺しきれず、少しだけ前へ流れた。

 

「そこ!」

 

ミジュマルのたいあたりが横腹へ入る。フシデが地面を転がるようにして体勢を立て直す。だがさっきより明らかに動きが乱れた。

 

シンは小さく息を吸う。

 

一回受けた。

 一回見た。

 なら次は少し合う。

 

その感覚が、昨日のアロエ戦の続きみたいに胸の中で繋がった。

 

「シン!」

 

トウヤの声が飛ぶ。

 

振り向くと、クルミルはもう自由になっていた。だが他のフシデたちはまだ完全には引いていない。中心にいた一匹がどうするかを見ているようにも見える。

 

シンは目の前のフシデと視線を合わせた。

 

敵意はある。けれど、むやみに噛みついてくる感じじゃない。こちらの出方を見ている。シンとミジュマルがどう動くかを確かめるような目だった。

 

「……ミジュマル、下がるな」

 

ミジュマルが小さく鳴く。

 

「みずでっぽう、足元!」

 

水が地面を打ち、湿った土と葉が跳ねる。フシデの踏み込みが一瞬だけ鈍る。

 

「今だ、たいあたり!」

 

今度の一撃はきれいに入った。フシデが大きく後ろへ転がり、他の個体たちがざわっと動く。群れ全体の空気が揺れた。

 

しばらくの沈黙。

 

やがて、中心にいたフシデがゆっくり起き上がる。威嚇するように体を持ち上げたあと、もう一度だけシンたちを見た。

 

逃げるでも、突っ込むでもない。

 

それからくるりと向きを変え、茂みの奥へ消えていった。

 

残りの個体も、それを追うように散っていく。

 

あとに残ったのは、ほどけた葉を震わせるクルミルと、少し荒れた地面だけだった。

 

「……行った」

 

ベルがほっと息を吐く。

 

ムンナも力を抜いたように目を細めた。ポカブが鼻を鳴らし、ツタージャは一度だけ尾を振ってからトウヤの足元に戻る。

 

シンはミジュマルの頭を撫でた。

 

「ありがとな」

 

ミジュマルは得意そうに胸を張る。肩をかすめたところは少し痛そうだったが、戦える顔はまだしている。

 

クルミルはしばらくその場でおろおろしていたが、やがてベルのほうを見て、小さく鳴いた。ベルがしゃがみ込む。

 

「もう大丈夫だよ」

 

ムンナの隣で優しく言うと、クルミルは葉を揺らし、それから森の奥へ走っていった。

 

その背中を見送ってから、チェレンが周囲を確かめる。

 

「怪我は?」

 

「大丈夫」

 

トウヤが短く答える。

 

「ポカブも平気そう」

 

「ムンナもだいじょうぶ」

 

ベルが答え、最後にシンがミジュマルの肩を見た。

 

「ちょっと当たったけど、ひどくはない」

 

「なら、少し休んだほうがいい」

 

チェレンの言葉に、今度は誰も反対しなかった。

 

少し開けた切り株のそばで休むことになり、水を飲ませ、ミジュマルの肩を軽く冷やす。ベルはムンナを膝に乗せたまま、まだ少し興奮の残った声で言った。

 

「びっくりした……でも、ただ襲ってきたって感じじゃなかったよね」

 

「たぶん縄張りだろう」

 

チェレンが答える。

 

「クルミルが入り込んで、あいつらも追い払おうとしてた。僕らが割って入ったから余計に警戒した」

 

「でも、最後の一匹」

 

シンが地面を見ながら言う。

 

「なんか、ちょっと違った」

 

トウヤがそちらを見る。

 

「強かった?」

 

「強いっていうか……ちゃんと見てた。こっちのこと」

 

言葉にすると曖昧だった。だが感覚は残っている。ただ暴れるんじゃなく、踏み込みも引き際も確かめるみたいな動きだった。

 

チェレンが少し考えてから言う。

 

「群れの中で、前に出る役だったのかもな」

 

「そうかも」

 

シンはうなずいた。

 

そして、ふと森の奥に目を向ける。

 

もう姿はない。気配も遠い。なのに、見られている感じだけが、まだ薄く残っていた。

 

「シン?」

 

ベルに呼ばれ、我に返る。

 

「いや、なんでもない」

 

「ほんと?」

 

「ほんと。ちょっと考えてただけ」

 

ベルは納得しきらない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 

しばらく休んでから、四人は再び歩き出した。森の中の道は相変わらず狭く、枝葉は多い。それでもさっきより足取りは少し落ち着いていた。

 

トウヤが前を行き、チェレンが道を見る。ベルは今度こそはぐれまいと意識して少し真ん中寄りに歩き、シンはミジュマルと並んで後ろから全体を見る。

 

「さっきの、よかったな」

 

シンが小声で言うと、ミジュマルが「ミジュ」と短く返す。

 

「一回受けたら、次はちゃんと合わせられてた」

 

昨日のアロエ戦と同じだ、とシンは思った。

 

最初から全部うまくいくわけじゃない。

 でも、一回見たものは残る。

 受けた重さも、踏み込みの癖も、次にはもう少しだけ自分のものになる。

 

ミジュマルも、それにちゃんとついてきてくれている。

 

「シン、遅れるぞ」

 

前からトウヤの声が飛ぶ。

 

「はいはい」

 

返しながら歩幅を速めた、そのときだった。

 

右後ろの茂みが、ほんのわずかに揺れた。

 

シンは反射的にそちらを見る。

 

気のせいかと思うほど短い動きだった。だが、紫色の丸い背中が、一瞬だけ葉の隙間に見えた気がした。

 

フシデ。

 

さっきの一匹かどうかまでは分からない。けれど、ただの見間違いではない気がした。

 

「……」

 

シンは何も言わなかった。

 

もし本当にあのフシデなら、今ここで無理に追う必要はない。追えば逃げるだろうし、群れごと刺激するかもしれない。けれど、向こうがまだこちらを見ているのなら、またどこかで会う気もした。

 

見られているだけじゃない。

 見定められているような感じだった。

 

「どうしたの?」

 

ベルが後ろを振り向く。

 

「いや」

 

シンは森の奥から目を離し、少しだけ笑った。

 

「なんか、まだ終わってない気がしてさ」

 

ベルはよく分からないという顔をしたが、チェレンは何か気づいたように小さく目を細めた。トウヤは振り返らずにただ一言だけ言う。

 

「なら、そのうちまた来る」

 

妙にあっさりした言い方だった。

 

でも、たぶんそうなのだろうとシンも思った。

 

森の道はまだ続く。

 自分たちの歩き方も、まだ途中だ。

 なら、さっきのフシデとも、きっとこれで終わりじゃない。

 

シンはもう一度だけ茂みを見たあと、ミジュマルと並んで前を向いた。

 

同じ森を、違う歩幅で進んでいく。

 その先でまた何を見て、何を覚えるのか。

 

湿った土の匂いの中で、彼の足は少しだけ軽くなっていた。

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