BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第37話 追ってくる棘

ヤグルマの森に入ってから、半日ほどが過ぎていた。

 

木漏れ日は頭上にあるのに、地面まではうまく届かない。高い枝と葉が重なり合い、光は細く砕かれて、ところどころだけを白く照らしていた。湿った土の匂いと、少し青い葉の匂いが混ざっている。シッポウを出たばかりのころより、四人の服の裾にはもう細かな葉くずがいくつもついていた。

 

先頭は変わらずトウヤだった。

 

大きな枝をよけ、根の張った場所を軽く飛び越え、迷いなく歩いていく。チェレンはその少し後ろで、道の形や分かれそうな獣道を見ていた。ベルはムンナを抱えたまま、今度こそ遅れまいと意識しているのか、いつもより足元をよく見ている。シンはミジュマルと並びながら、その三人と森の様子を交互に見ていた。

 

何も起きていないように見える時間ほど、森はいろいろなことを教えてくる。

 

どこで鳥ポケモンが急に飛び立ったか。

 どこの草が踏まれたばかりか。

 どの音が、ただの風ではないか。

 

そういうものを拾っているうちに、シンは朝からずっと感じていた視線が、まだ消えていないことに気づいていた。

 

右後ろ。少し離れた木の根元。

 視界の端に、紫が一瞬だけ見える。

 

気のせいではない。

 

「……やっぱりいるな」

 

小さく呟くと、足元のミジュマルが「ミジュ」と短く鳴いた。

 

前を歩いていたベルが振り返る。

 

「え、何が?」

 

「たぶん、朝のフシデ」

 

「まだついてきてるの?」

 

「ずっとではないけど、気づくといる」

 

そう答えると、ベルは少しだけ目を丸くした。

 

「なんでだろ」

 

「気になってるんじゃないか」

 

トウヤが前を見たまま言う。

 

「何が?」

 

「シンが」

 

あまりにも自然に返ってきた言葉に、シンは思わず顔をしかめた。

 

「そんな言い方されると、ちょっと変な気分なんだけど」

 

「変でも事実なら仕方ないだろ」

 

トウヤは本気でそう思っているらしかった。チェレンが小さく息をつく。

 

「君はもう少し言い方を考えてくれ」

 

「なんで」

 

「なんでもだよ」

 

ベルがくすっと笑う。だが、そのやり取りの最中にも、シンの意識は森の気配のほうへ伸びていた。

 

たしかに、ただの警戒ではない気がする。

 

もし縄張りから追い出したいだけなら、もっと早い段階で群れごと仕掛けてきていたはずだ。なのにあのフシデは、朝のあともずっと一定の距離を保っている。近づきすぎず、離れすぎず、見ているだけの時間が長い。

 

見られている、というより、測られている。

 

そう思うと、妙に落ち着かない。

 

しばらく進むと、森の道は小さな沢の前でいったん細くなった。水そのものは浅いが、そのままでは滑りやすい岩を伝うしかない。沢には苔の生えた倒木が一本渡っており、旅人はそれを橋代わりに使っているらしかった。

 

「ここ、気をつけて」

 

チェレンが先に言う。

 

「見た目より滑る」

 

「ベル、先に行け」

 

トウヤが倒木の向こう側へ軽く飛び移りながら言った。

 

「落ちると面倒だ」

 

「それ、わたしが絶対落ちるみたいな言い方じゃない?」

 

「違うのか」

 

「違うもん」

 

口ではそう返しつつ、ベルの足はかなり慎重だった。ムンナを抱えたままではバランスも取りにくい。シンはその後ろにつき、万が一のときに支えられる位置を取る。

 

「大丈夫、ゆっくりでいい」

 

そう声をかけた瞬間だった。

 

倒木の中ほどまで進んだベルの足先すぐ前へ、細い紫の影が飛び込んできた。

 

「きゃっ!?」

 

ベルがびくりと止まる。ムンナも驚いて耳を立てた。

 

フシデだ。

 

朝の個体より近くで見ると、やはり他のフシデより少し体つきが締まって見える。目の色も強い。だが、突っ込んできたわりには攻撃してこない。倒木の上で体を低くし、ベルの足先を遮るようにして止まっている。

 

「な、なんでここで……」

 

ベルが困惑した声を出した、その直後。

 

倒木の先、あと一歩で踏み出そうとしていた木肌が、ぬるりと崩れた。

 

見た目は乾いていたのに、内側が腐っていたらしい。表面の薄い皮だけを残して、その下が空洞になっていた。ベルがもしそのまま踏み込んでいたら、足を取られて沢へ落ちていた。

 

「危な……」

 

シンの声が途中で止まる。

 

フシデはベルの前を塞ぐように立ったまま、じっとこちらを見ていた。

 

トウヤが向こう岸から言う。

 

「止めたんだろ」

 

「え」

 

「ベルを」

 

チェレンもすぐに状況を理解したらしい。

 

「確かに、攻撃していない。あのまま行かせないために飛び出したなら……」

 

ベルは倒木の上で固まったまま、目の前のフシデを見つめた。

 

「もしかして、助けてくれたの?」

 

フシデは返事のかわりに、小さく足を動かした。それが肯定なのか警戒なのかは分からない。だが少なくとも、敵意だけで飛び出してきた動きではなかった。

 

シンが慎重に一歩前へ出る。

 

「ベル、そこで待って。ミジュマル」

 

ミジュマルが倒木の脇を軽く飛び、沢の浅い場所に着地する。シンはミジュマルを支えにして岩を渡り、ベルのすぐ後ろまで近づいた。

 

「ゆっくり戻れ」

 

「う、うん」

 

ベルが足を引こうとしたところで、森の奥から別の音がした。

 

乾いた葉を踏み散らすような、短く速い音。

 

ひとつではない。いくつも。

 

チェレンが真っ先に反応する。

 

「来る!」

 

次の瞬間、沢の向こう側の茂みから、数匹のフシデが一斉に現れた。朝の群れとは別だ。数は多くないが、こちらの進路を塞ぐには十分だった。さっき倒木が崩れた音で刺激されたのか、あるいは見張り役の動きに反応したのかもしれない。

 

向こう岸にいるトウヤのツタージャが、即座に身を低くする。

 

「つるのムチ、まとめて払え!」

 

しなる蔓が先頭のフシデを弾く。だが道幅が狭い。全部を一気に散らすには向いていない。

 

チェレンもすぐにポカブを出す。

 

「ポカブ、ひのこは足元だ! 近づかせるな!」

 

火の粉が沢沿いの地面へ散り、フシデたちの動きを一瞬だけ鈍らせた。

 

ベルの前にいたフシデだけが、他の個体と違う動きを見せる。後ろを振り返り、まるでこちらへ「動け」と促すように小さく体を揺らした。

 

シンはその意図を半分直感で、半分は流れで掴んだ。

 

「ベル、戻れ! フシデ、お前も下がれ!」

 

ベルがそろそろと後ろへ下がる。フシデも倒木の端へ跳び、沢のこちら側へ戻ってきた。

 

だが他の個体は止まらない。二匹が一気にシンとミジュマルを狙ってくる。

 

「ミジュマル、右を受けろ!」

 

ほたちが一匹の体当たりを受け止める。もう一匹は横から回り込もうとしたが、その進路に、さっきのフシデが滑り込んだ。

 

鋭く、短い音。

 

どくばりが飛ぶ。

 

横から来たフシデがたたらを踏み、勢いを失う。

 

「……っ」

 

シンの目が見開く。

 

助けた。

 

今度ははっきりと、こちらを助ける動きだった。

 

「ミジュマル、みずでっぽう!」

 

正面の個体へ水流が入り、道が開く。トウヤが向こう岸からすぐ指示を飛ばした。

 

「シン、そっちの一匹、合わせろ! こっちは抑える!」

 

「分かった!」

 

シンは目の前のフシデ――さっきからこちらについてきている個体――と一瞬だけ視線を合わせた。

 

言葉は通じない。だが、互いに何を見ているかは少し分かる気がした。

 

向こうも戦う。

 なら、こっちも合わせる。

 

別の二匹が低く突っ込んでくる。

 

シンは声を張った。

 

「ミジュマル、左! あいつのあとに入れ!」

 

フシデが先に動く。体を丸めるようにして低く沈み、勢いをつけて転がった。

 

ころがる。

 

小さな体なのに、軌道が鋭い。正面からではなく、相手の横腹を打ち抜くような転がり方だった。一匹がそれで弾かれ、体勢を崩す。

 

シンはそこへ迷わず重ねる。

 

「今だ、たいあたり!」

 

ミジュマルの体当たりが入る。弾かれた個体が地面に転がる。

 

シンの胸が熱くなる。

 

分かる。

 

このフシデ、ただ速いだけじゃない。

 最初の当たり方がうまい。

 相手を正面で止めるんじゃなく、流れを崩してから次へ繋げる。

 

それはシンの好きな戦い方だった。

 

「もう一匹来るよ!」

 

ベルの声。右から別の個体が跳ねた。

 

「ミジュマル、受けるな、下がれ!」

 

ミジュマルが半歩引く。その前へ、またフシデが入った。今度は体を低くしたまま小さく丸くなる。

 

まるくなる。

 

次に来るのは――。

 

「ころがる!」

 

シンが思わず叫ぶのと、フシデが転がり出すのはほとんど同時だった。丸くなったぶんだけ勢いが増し、先ほどより重い一撃が相手へ決まる。明らかに手応えが違った。

 

シンは笑いそうになった。

 

「いいな、それ」

 

その言葉に反応したのか、フシデはちらりとだけこちらを見る。

 

トウヤとチェレンが沢の向こうを抑えているあいだに、こちら側の動きはほぼ決まった。ミジュマルが受ける。水で散らす。フシデが崩す。そこへシンが指示を重ねる。

 

一回見た動きは、次には少し合わせられる。

 シンの強さは、こういうときにこそよく出た。

 

「ミジュマル、みずでっぽう、足元!」

 

沢沿いのぬかるんだ地面へ水が加わり、突っ込んできた個体の足がわずかに滑る。

 

「今!」

 

フシデのころがるがその横腹へ突き刺さり、ミジュマルのたいあたりが追い打ちをかける。

 

ついに、残っていた個体たちも後退を選んだ。威嚇するように一度鳴いたあと、茂みの奥へ散っていく。

 

あとに残ったのは、水音と荒い息だけだった。

 

しばらく誰も動かなかった。

 

最初に息を吐いたのはベルだった。

 

「お、終わった……?」

 

「たぶん」

 

チェレンが慎重に周囲を見回す。トウヤもツタージャを戻しつつ、森の奥へ目を向けたまま頷いた。

 

「もう来ない」

 

ベルはその場でへなへなと座り込みそうになったが、ムンナを抱えていることを思い出してなんとか踏みとどまる。

 

「もう、ほんとに心臓に悪い……」

 

「倒木の上で叫んだのはちょっとうるさかったけどな」

 

シンが言うと、ベルが即座に睨んだ。

 

「叫ぶでしょ普通! 急にフシデが飛び出してきたんだよ!?」

 

「でも助けてくれた」

 

そう言いながら、シンは目の前のフシデを見た。

 

フシデはまだそこにいた。逃げていない。沢のこちら側、倒木の端で、低く体を構えたままシンたちを見ている。さっきまで戦っていた熱が、まだ完全には引いていないようだった。

 

チェレンがゆっくり近づく。

 

「この個体だけ、明らかに違うな」

 

「うん」

 

シンは頷いた。

 

「朝からずっとついてきてたやつだし」

 

「気になっていたんだろうね、君が」

 

チェレンの言い方に、シンは少しだけむっとする。

 

「またそういう」

 

「でも間違っていないと思うよ」

 

チェレンは真面目な声で続けた。

 

「戦い方を見ていた。森での動きも見ていた。さっきはベルを止めて、今は君に合わせて動いた。無意味に近づく理由がない」

 

ベルもムンナを抱いたまま小さく頷く。

 

「わたしも、そう思う。あの子、こわいだけで来た感じじゃない」

 

トウヤはしばらく黙ってフシデを見ていたが、やがて短く言った。

 

「選べよ」

 

シンがそちらを見る。

 

「なにを」

 

「一緒に来るかどうか」

 

言葉は簡単だった。けれど、その一言で空気が決まった気がした。

 

シンはもう一度フシデを見る。

 

この森で偶然会っただけかもしれない。

 ここで別れても、不自然ではない。

 でも、朝から続いている視線も、ベルを止めた動きも、さっきの連携も、全部を見たあとでは、ただの偶然で終わらせるのは違う気がした。

 

シンはミジュマルの隣でしゃがみこむ。

 

「……お前、強いな」

 

フシデの触角がわずかに動く。

 

「正面からぶつかるだけじゃないし、ちゃんと見てる。戦い方、いいと思う」

 

ベルが少しだけ目を見開く。チェレンも黙って見ていた。

 

シンはポケットからモンスターボールをひとつ取り出す。だが、それをすぐには投げない。

 

「無理やりは嫌なんだ」

 

静かな声で言う。

 

「ついてきたいなら来い。嫌なら、それでもいい。でも、またさっきみたいに一緒にやれるなら……俺はたぶん、けっこう嬉しい」

 

森が静かだった。

 

遠くで鳥が鳴く。沢の水が小さく流れる。ベルもトウヤもチェレンも、誰も余計なことを言わない。

 

フシデはしばらく動かなかった。

 

じっと、シンと、その手の中のボールを見ている。

 

やがて、ゆっくりと前へ出た。

 

一歩。

 二歩。

 三歩。

 

警戒は消えていない。けれど逃げる気配もない。目の前まで来ると、フシデは一度だけミジュマルを見上げた。ミジュマルは「ミジュ」と短く鳴き、少し胸を張る。

 

それからフシデは、シンの手元のボールへ、自分から小さく頭をぶつけた。

 

赤い光が弾ける。

 

フシデの体が吸い込まれ、ボールがシンの手の中へ落ちた。

 

一度、揺れる。

 二度、揺れる。

 三度――。

 

かちり、と音がした。

 

ベルがぱっと息を吸う。

 

「……入った」

 

シンはしばらく、そのボールを見つめていた。

 

軽い。なのに中身のある重さがある。昨日のベーシックバッジと似ているようで、でも少し違う。これは勝って得たものじゃない。見られて、測られて、そのうえで選ばれた重さだった。

 

「シン」

 

ベルが嬉しそうに顔をのぞきこむ。

 

「おめでとう」

 

「……うん」

 

シンの返事は少し遅れた。まだ実感が追いついていなかったからだ。

 

チェレンが肩の力を抜くように息をつく。

 

「やっぱりね」

 

「何がやっぱりだよ」

 

「朝からあれだけ分かりやすく伏線を置かれていれば、さすがに」

 

「言い方がひどいな」

 

だがそのやり取りに、シンも少し笑った。

 

トウヤは先に倒木を渡り直しながら、振り返らずに言う。

 

「置いてくぞ」

 

「ちょっと待てよ!」

 

「新入りに森の歩き方教えろ」

 

「それ今言う?」

 

「今だろ」

 

ベルがくすくす笑い、ムンナもそれに合わせるように目を細めた。

 

シンはボールを見下ろし、それから腰の空いた場所へつける。ミジュマルがその動きをじっと見ていたので、頭を軽く撫でた。

 

「よろしくな」

 

誰に向けた言葉か、自分でも少し曖昧だった。ミジュマルにも、ボールの中のフシデにも、たぶん両方だ。

 

沢を越えて先へ進む道は、さっきまでより少しだけ違って見えた。

 

四人旅だった形に、またひとつ新しい足音が加わる。

 それはまだ小さい。けれど確かに、これから先の歩き方を変えていく音だった。

 

ベルが並んで歩きながら言う。

 

「でも、あの子、ほんとにシンのこと見てたんだね」

 

「だからそう言っただろ」

 

トウヤが前から返す。

 

「気になってたんだよ、シンが」

 

「もうその言い方やめろって」

 

「合ってるのに」

 

チェレンが珍しく少し笑って言い、シンは思いきり顔をしかめた。

 

「なんでみんなしてそっち側なんだよ」

 

「だって事実っぽいもん」

 

ベルまでそう言うので、シンはとうとう諦めたみたいに肩を落とした。

 

「……まあ、いいけど」

 

ほんとうは、少しだけ嬉しかった。

 

見たものを積み上げていく自分の戦い方が、ポケモンに選ばれる理由になるのだとしたら、それは思っていたよりずっと悪くない。

 

森の奥からまた風が吹く。葉が鳴り、木漏れ日が揺れる。

 

シンは前を向いた。

 

同じ道を、違う足で進む旅。

 その列の中に、今度は新しい棘の足音が混ざる。

 

ヤグルマの森はまだ終わらない。

 けれど、その先へ向かう歩幅は、さっきまでより少しだけ賑やかになっていた。

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