ヤグルマの森に入ってから、半日ほどが過ぎていた。
木漏れ日は頭上にあるのに、地面まではうまく届かない。高い枝と葉が重なり合い、光は細く砕かれて、ところどころだけを白く照らしていた。湿った土の匂いと、少し青い葉の匂いが混ざっている。シッポウを出たばかりのころより、四人の服の裾にはもう細かな葉くずがいくつもついていた。
先頭は変わらずトウヤだった。
大きな枝をよけ、根の張った場所を軽く飛び越え、迷いなく歩いていく。チェレンはその少し後ろで、道の形や分かれそうな獣道を見ていた。ベルはムンナを抱えたまま、今度こそ遅れまいと意識しているのか、いつもより足元をよく見ている。シンはミジュマルと並びながら、その三人と森の様子を交互に見ていた。
何も起きていないように見える時間ほど、森はいろいろなことを教えてくる。
どこで鳥ポケモンが急に飛び立ったか。
どこの草が踏まれたばかりか。
どの音が、ただの風ではないか。
そういうものを拾っているうちに、シンは朝からずっと感じていた視線が、まだ消えていないことに気づいていた。
右後ろ。少し離れた木の根元。
視界の端に、紫が一瞬だけ見える。
気のせいではない。
「……やっぱりいるな」
小さく呟くと、足元のミジュマルが「ミジュ」と短く鳴いた。
前を歩いていたベルが振り返る。
「え、何が?」
「たぶん、朝のフシデ」
「まだついてきてるの?」
「ずっとではないけど、気づくといる」
そう答えると、ベルは少しだけ目を丸くした。
「なんでだろ」
「気になってるんじゃないか」
トウヤが前を見たまま言う。
「何が?」
「シンが」
あまりにも自然に返ってきた言葉に、シンは思わず顔をしかめた。
「そんな言い方されると、ちょっと変な気分なんだけど」
「変でも事実なら仕方ないだろ」
トウヤは本気でそう思っているらしかった。チェレンが小さく息をつく。
「君はもう少し言い方を考えてくれ」
「なんで」
「なんでもだよ」
ベルがくすっと笑う。だが、そのやり取りの最中にも、シンの意識は森の気配のほうへ伸びていた。
たしかに、ただの警戒ではない気がする。
もし縄張りから追い出したいだけなら、もっと早い段階で群れごと仕掛けてきていたはずだ。なのにあのフシデは、朝のあともずっと一定の距離を保っている。近づきすぎず、離れすぎず、見ているだけの時間が長い。
見られている、というより、測られている。
そう思うと、妙に落ち着かない。
しばらく進むと、森の道は小さな沢の前でいったん細くなった。水そのものは浅いが、そのままでは滑りやすい岩を伝うしかない。沢には苔の生えた倒木が一本渡っており、旅人はそれを橋代わりに使っているらしかった。
「ここ、気をつけて」
チェレンが先に言う。
「見た目より滑る」
「ベル、先に行け」
トウヤが倒木の向こう側へ軽く飛び移りながら言った。
「落ちると面倒だ」
「それ、わたしが絶対落ちるみたいな言い方じゃない?」
「違うのか」
「違うもん」
口ではそう返しつつ、ベルの足はかなり慎重だった。ムンナを抱えたままではバランスも取りにくい。シンはその後ろにつき、万が一のときに支えられる位置を取る。
「大丈夫、ゆっくりでいい」
そう声をかけた瞬間だった。
倒木の中ほどまで進んだベルの足先すぐ前へ、細い紫の影が飛び込んできた。
「きゃっ!?」
ベルがびくりと止まる。ムンナも驚いて耳を立てた。
フシデだ。
朝の個体より近くで見ると、やはり他のフシデより少し体つきが締まって見える。目の色も強い。だが、突っ込んできたわりには攻撃してこない。倒木の上で体を低くし、ベルの足先を遮るようにして止まっている。
「な、なんでここで……」
ベルが困惑した声を出した、その直後。
倒木の先、あと一歩で踏み出そうとしていた木肌が、ぬるりと崩れた。
見た目は乾いていたのに、内側が腐っていたらしい。表面の薄い皮だけを残して、その下が空洞になっていた。ベルがもしそのまま踏み込んでいたら、足を取られて沢へ落ちていた。
「危な……」
シンの声が途中で止まる。
フシデはベルの前を塞ぐように立ったまま、じっとこちらを見ていた。
トウヤが向こう岸から言う。
「止めたんだろ」
「え」
「ベルを」
チェレンもすぐに状況を理解したらしい。
「確かに、攻撃していない。あのまま行かせないために飛び出したなら……」
ベルは倒木の上で固まったまま、目の前のフシデを見つめた。
「もしかして、助けてくれたの?」
フシデは返事のかわりに、小さく足を動かした。それが肯定なのか警戒なのかは分からない。だが少なくとも、敵意だけで飛び出してきた動きではなかった。
シンが慎重に一歩前へ出る。
「ベル、そこで待って。ミジュマル」
ミジュマルが倒木の脇を軽く飛び、沢の浅い場所に着地する。シンはミジュマルを支えにして岩を渡り、ベルのすぐ後ろまで近づいた。
「ゆっくり戻れ」
「う、うん」
ベルが足を引こうとしたところで、森の奥から別の音がした。
乾いた葉を踏み散らすような、短く速い音。
ひとつではない。いくつも。
チェレンが真っ先に反応する。
「来る!」
次の瞬間、沢の向こう側の茂みから、数匹のフシデが一斉に現れた。朝の群れとは別だ。数は多くないが、こちらの進路を塞ぐには十分だった。さっき倒木が崩れた音で刺激されたのか、あるいは見張り役の動きに反応したのかもしれない。
向こう岸にいるトウヤのツタージャが、即座に身を低くする。
「つるのムチ、まとめて払え!」
しなる蔓が先頭のフシデを弾く。だが道幅が狭い。全部を一気に散らすには向いていない。
チェレンもすぐにポカブを出す。
「ポカブ、ひのこは足元だ! 近づかせるな!」
火の粉が沢沿いの地面へ散り、フシデたちの動きを一瞬だけ鈍らせた。
ベルの前にいたフシデだけが、他の個体と違う動きを見せる。後ろを振り返り、まるでこちらへ「動け」と促すように小さく体を揺らした。
シンはその意図を半分直感で、半分は流れで掴んだ。
「ベル、戻れ! フシデ、お前も下がれ!」
ベルがそろそろと後ろへ下がる。フシデも倒木の端へ跳び、沢のこちら側へ戻ってきた。
だが他の個体は止まらない。二匹が一気にシンとミジュマルを狙ってくる。
「ミジュマル、右を受けろ!」
ほたちが一匹の体当たりを受け止める。もう一匹は横から回り込もうとしたが、その進路に、さっきのフシデが滑り込んだ。
鋭く、短い音。
どくばりが飛ぶ。
横から来たフシデがたたらを踏み、勢いを失う。
「……っ」
シンの目が見開く。
助けた。
今度ははっきりと、こちらを助ける動きだった。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
正面の個体へ水流が入り、道が開く。トウヤが向こう岸からすぐ指示を飛ばした。
「シン、そっちの一匹、合わせろ! こっちは抑える!」
「分かった!」
シンは目の前のフシデ――さっきからこちらについてきている個体――と一瞬だけ視線を合わせた。
言葉は通じない。だが、互いに何を見ているかは少し分かる気がした。
向こうも戦う。
なら、こっちも合わせる。
別の二匹が低く突っ込んでくる。
シンは声を張った。
「ミジュマル、左! あいつのあとに入れ!」
フシデが先に動く。体を丸めるようにして低く沈み、勢いをつけて転がった。
ころがる。
小さな体なのに、軌道が鋭い。正面からではなく、相手の横腹を打ち抜くような転がり方だった。一匹がそれで弾かれ、体勢を崩す。
シンはそこへ迷わず重ねる。
「今だ、たいあたり!」
ミジュマルの体当たりが入る。弾かれた個体が地面に転がる。
シンの胸が熱くなる。
分かる。
このフシデ、ただ速いだけじゃない。
最初の当たり方がうまい。
相手を正面で止めるんじゃなく、流れを崩してから次へ繋げる。
それはシンの好きな戦い方だった。
「もう一匹来るよ!」
ベルの声。右から別の個体が跳ねた。
「ミジュマル、受けるな、下がれ!」
ミジュマルが半歩引く。その前へ、またフシデが入った。今度は体を低くしたまま小さく丸くなる。
まるくなる。
次に来るのは――。
「ころがる!」
シンが思わず叫ぶのと、フシデが転がり出すのはほとんど同時だった。丸くなったぶんだけ勢いが増し、先ほどより重い一撃が相手へ決まる。明らかに手応えが違った。
シンは笑いそうになった。
「いいな、それ」
その言葉に反応したのか、フシデはちらりとだけこちらを見る。
トウヤとチェレンが沢の向こうを抑えているあいだに、こちら側の動きはほぼ決まった。ミジュマルが受ける。水で散らす。フシデが崩す。そこへシンが指示を重ねる。
一回見た動きは、次には少し合わせられる。
シンの強さは、こういうときにこそよく出た。
「ミジュマル、みずでっぽう、足元!」
沢沿いのぬかるんだ地面へ水が加わり、突っ込んできた個体の足がわずかに滑る。
「今!」
フシデのころがるがその横腹へ突き刺さり、ミジュマルのたいあたりが追い打ちをかける。
ついに、残っていた個体たちも後退を選んだ。威嚇するように一度鳴いたあと、茂みの奥へ散っていく。
あとに残ったのは、水音と荒い息だけだった。
しばらく誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのはベルだった。
「お、終わった……?」
「たぶん」
チェレンが慎重に周囲を見回す。トウヤもツタージャを戻しつつ、森の奥へ目を向けたまま頷いた。
「もう来ない」
ベルはその場でへなへなと座り込みそうになったが、ムンナを抱えていることを思い出してなんとか踏みとどまる。
「もう、ほんとに心臓に悪い……」
「倒木の上で叫んだのはちょっとうるさかったけどな」
シンが言うと、ベルが即座に睨んだ。
「叫ぶでしょ普通! 急にフシデが飛び出してきたんだよ!?」
「でも助けてくれた」
そう言いながら、シンは目の前のフシデを見た。
フシデはまだそこにいた。逃げていない。沢のこちら側、倒木の端で、低く体を構えたままシンたちを見ている。さっきまで戦っていた熱が、まだ完全には引いていないようだった。
チェレンがゆっくり近づく。
「この個体だけ、明らかに違うな」
「うん」
シンは頷いた。
「朝からずっとついてきてたやつだし」
「気になっていたんだろうね、君が」
チェレンの言い方に、シンは少しだけむっとする。
「またそういう」
「でも間違っていないと思うよ」
チェレンは真面目な声で続けた。
「戦い方を見ていた。森での動きも見ていた。さっきはベルを止めて、今は君に合わせて動いた。無意味に近づく理由がない」
ベルもムンナを抱いたまま小さく頷く。
「わたしも、そう思う。あの子、こわいだけで来た感じじゃない」
トウヤはしばらく黙ってフシデを見ていたが、やがて短く言った。
「選べよ」
シンがそちらを見る。
「なにを」
「一緒に来るかどうか」
言葉は簡単だった。けれど、その一言で空気が決まった気がした。
シンはもう一度フシデを見る。
この森で偶然会っただけかもしれない。
ここで別れても、不自然ではない。
でも、朝から続いている視線も、ベルを止めた動きも、さっきの連携も、全部を見たあとでは、ただの偶然で終わらせるのは違う気がした。
シンはミジュマルの隣でしゃがみこむ。
「……お前、強いな」
フシデの触角がわずかに動く。
「正面からぶつかるだけじゃないし、ちゃんと見てる。戦い方、いいと思う」
ベルが少しだけ目を見開く。チェレンも黙って見ていた。
シンはポケットからモンスターボールをひとつ取り出す。だが、それをすぐには投げない。
「無理やりは嫌なんだ」
静かな声で言う。
「ついてきたいなら来い。嫌なら、それでもいい。でも、またさっきみたいに一緒にやれるなら……俺はたぶん、けっこう嬉しい」
森が静かだった。
遠くで鳥が鳴く。沢の水が小さく流れる。ベルもトウヤもチェレンも、誰も余計なことを言わない。
フシデはしばらく動かなかった。
じっと、シンと、その手の中のボールを見ている。
やがて、ゆっくりと前へ出た。
一歩。
二歩。
三歩。
警戒は消えていない。けれど逃げる気配もない。目の前まで来ると、フシデは一度だけミジュマルを見上げた。ミジュマルは「ミジュ」と短く鳴き、少し胸を張る。
それからフシデは、シンの手元のボールへ、自分から小さく頭をぶつけた。
赤い光が弾ける。
フシデの体が吸い込まれ、ボールがシンの手の中へ落ちた。
一度、揺れる。
二度、揺れる。
三度――。
かちり、と音がした。
ベルがぱっと息を吸う。
「……入った」
シンはしばらく、そのボールを見つめていた。
軽い。なのに中身のある重さがある。昨日のベーシックバッジと似ているようで、でも少し違う。これは勝って得たものじゃない。見られて、測られて、そのうえで選ばれた重さだった。
「シン」
ベルが嬉しそうに顔をのぞきこむ。
「おめでとう」
「……うん」
シンの返事は少し遅れた。まだ実感が追いついていなかったからだ。
チェレンが肩の力を抜くように息をつく。
「やっぱりね」
「何がやっぱりだよ」
「朝からあれだけ分かりやすく伏線を置かれていれば、さすがに」
「言い方がひどいな」
だがそのやり取りに、シンも少し笑った。
トウヤは先に倒木を渡り直しながら、振り返らずに言う。
「置いてくぞ」
「ちょっと待てよ!」
「新入りに森の歩き方教えろ」
「それ今言う?」
「今だろ」
ベルがくすくす笑い、ムンナもそれに合わせるように目を細めた。
シンはボールを見下ろし、それから腰の空いた場所へつける。ミジュマルがその動きをじっと見ていたので、頭を軽く撫でた。
「よろしくな」
誰に向けた言葉か、自分でも少し曖昧だった。ミジュマルにも、ボールの中のフシデにも、たぶん両方だ。
沢を越えて先へ進む道は、さっきまでより少しだけ違って見えた。
四人旅だった形に、またひとつ新しい足音が加わる。
それはまだ小さい。けれど確かに、これから先の歩き方を変えていく音だった。
ベルが並んで歩きながら言う。
「でも、あの子、ほんとにシンのこと見てたんだね」
「だからそう言っただろ」
トウヤが前から返す。
「気になってたんだよ、シンが」
「もうその言い方やめろって」
「合ってるのに」
チェレンが珍しく少し笑って言い、シンは思いきり顔をしかめた。
「なんでみんなしてそっち側なんだよ」
「だって事実っぽいもん」
ベルまでそう言うので、シンはとうとう諦めたみたいに肩を落とした。
「……まあ、いいけど」
ほんとうは、少しだけ嬉しかった。
見たものを積み上げていく自分の戦い方が、ポケモンに選ばれる理由になるのだとしたら、それは思っていたよりずっと悪くない。
森の奥からまた風が吹く。葉が鳴り、木漏れ日が揺れる。
シンは前を向いた。
同じ道を、違う足で進む旅。
その列の中に、今度は新しい棘の足音が混ざる。
ヤグルマの森はまだ終わらない。
けれど、その先へ向かう歩幅は、さっきまでより少しだけ賑やかになっていた。