フシデがシンの手持ちに加わってから最初の休憩は、思っていたよりずっと落ち着かなかった。
ヤグルマの森の中ほど、小さく開けた切り株のそばで四人が腰を下ろしても、空気はどこかそわそわしている。理由は単純だった。さっきまで野生としてこちらを見定めていたフシデが、今はシンのボールの中にいるからだ。
「出してみないの?」
ベルがムンナを膝に乗せたまま聞いた。
「出すよ」
シンはそう答えたものの、すぐにはボールを開かなかった。
捕まえたばかりだ。しかも、向こうから選んで入ってきたとはいえ、いきなり全部が丸く収まるとも思っていない。さっきまで一緒に戦っていたとはいえ、まだお互いのことはほとんど分かっていないのだ。
ミジュマルが横で「ミジュ」と短く鳴く。
「分かってるって」
シンは苦笑して、ようやくボールを手に取った。
「フシデ、出てこい」
赤い光が弾け、紫色の小さな体が地面に現れる。
フシデは着地した瞬間、まずミジュマルを見た。次にシンを見て、それからすぐには近づかず、切り株の影へ半歩だけ下がる。完全に警戒しているわけではないが、安心もしていない。そんな距離感だった。
「やっぱりすぐには慣れないか」
シンがしゃがみこむ。
「まあ、そうだよな」
フシデは触角をわずかに揺らした。返事とも警戒とも取れる微妙な動きだ。
ベルが少しだけ前のめりになる。
「かわいい」
「お前さっきまで『こわい』って言ってなかった?」
「こわいのとかわいいのは両立するよ」
真顔で言い切られて、シンは思わず笑った。チェレンも小さく息をつく。
「その感覚はよく分からないな」
「チェレンは分からなくていいの」
「なんで」
「なんとなく」
ベルの適当な返答に、トウヤが木にもたれたまま口を挟む。
「近づきすぎるなよ」
「分かってる」
ベルは頬をふくらませつつも、そこでちゃんと止まった。ムンナもベルの膝からフシデを見ている。眠たげな顔をしているくせに、観察だけは意外と細かい。
シンは自分の荷物から小さな実を取り出した。森に入る前に買っておいた、携帯しやすい木の実だ。
「食うか?」
フシデの前にそっと置く。
フシデはすぐには口をつけなかった。まず匂いを確かめる。視線を上げる。シンを見る。ミジュマルを見る。そこまでしてから、ようやく少しかじった。
「慎重だな」
シンが言うと、チェレンが肩をすくめる。
「森で生きてきた個体なら普通だよ。むしろそのくらいでいい」
「でも、選ぶのは早いよな」
シンはさっき沢で見た動きを思い出していた。
どくばりを打つタイミング。
丸くなってから転がる間。
相手を正面で止めるんじゃなく、ずらして崩すやり方。
勢いだけじゃない。見て、選んで、出ている。
それがなんとなく、自分の戦い方と噛み合いそうだと思えた。
「シンと似てるのかもね」
ベルが言う。
「なにが」
「ちゃんと見てから動くところ」
シンは少しだけ目を丸くした。自分ではそこまで意識していなかったからだ。
「でもシンのほうが、もうちょっと雑」
続けざまにそう言われて、今度はむっとする。
「褒めたあとに落とすなよ」
「事実だもん」
「否定しきれないのが悔しいな」
そのやり取りを聞きながら、フシデは木の実を食べ終えた。食べ終えてもなお、シンの足元までは来ない。ただ、さっきより距離は縮まっている。
トウヤが立ち上がる。
「行くぞ」
「もう?」
ベルが言う。
「止まると暗くなる」
森の中では、その判断が一番正しい。見上げればまだ日が高いはずなのに、頭上の葉が厚いぶん、時間の感覚が狂いやすい。このままのんびりしていれば、出口を見つける前に森の夜が来る。
四人は荷物をまとめ、再び歩き出した。
今度は隊列が少しだけ変わった。先頭は変わらずトウヤ、その後ろにチェレン。ベルとムンナが真ん中に入り、シンが最後尾に近い位置につく。その足元にミジュマル、そして――フシデは、シンの真横ではなく、少し後ろをついてきた。
「完全に様子見されてるな」
シンが小さく言うと、ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。
「お前はもうちょっと偉そうでもいいのに」
ミジュマルは胸を張った。だが、フシデのほうはちらりと見ただけで、そのまま一定の距離を保っている。
森の道は相変わらず狭い。根が張り出した場所を越え、低い枝を避け、時おりぬかるんだ足場を選ぶ。歩いているだけなら単純な道でも、誰とどう進むかで雰囲気が変わる。
トウヤは速い。
チェレンは安定している。
ベルは遅れまいとして足元をよく見る。
シンは全体を見ながら、次に何か起きたときのことを考えている。
ミジュマルはその場その場で器用に合わせる。
そしてフシデは、誰かに引かれるでもなく、自分で距離を測っていた。
その違いが、歩いているだけでも分かる。
「なんか不思議」
ベルが前を見たまま言った。
「なにが?」
シンが聞く。
「さっきまで野生だった子が、もう一緒に歩いてるの」
「まだ“一緒に歩いてる”っていうか、“ついてきてる”感じだけどな」
「でも、それでもすごいよ」
ベルは少しだけ笑う。
「選んでくれたんだもん」
その言い方が、シンには少しだけくすぐったかった。だが嫌ではない。
「まあ、そうかもな」
答えたところで、トウヤが急に手を上げた。
「止まれ」
全員の足が止まる。
前方の道は、倒れた大木でほとんど塞がれていた。完全に通れないわけではないが、幹の下の隙間をくぐるか、横の茂みをかき分けるかしないと進めない。
チェレンがすぐに周囲を見る。
「横はぬかるんでる。くぐるほうが安全かな」
「ベル、先にムンナだけ通すか?」
シンが言う。
「ううん、大丈夫。わたしもいけると思う」
「ほんとか」
「ほんと!」
声だけは勢いがある。
トウヤが先に幹の下をくぐり、向こう側へ出る。チェレンが続き、荷物が引っかからないよう位置を直す。ベルはムンナを抱えたまましゃがみ込み、恐る恐る進んだ。シンは後ろから見守り、最後にミジュマルを促す。
問題はフシデだった。
幹の前まで来ると、ぴたりと止まる。くぐれないわけではない。だが、暗くて狭い下の隙間を嫌がっているらしかった。
「ん?」
シンがしゃがみ込む。
「そこ苦手か」
フシデは返事のかわりに、幹を一度つついた。それから少し後ろへ下がる。無理やり押し込めば通るだろうが、それを今やるのは違う気がした。
ベルが向こう側から覗き込む。
「どうする?」
「……待てよ」
シンは幹の横を見た。ぬかるみはあるが、完全に沈むほどではない。ただ、足の置き方を間違えると滑りそうだ。
ミジュマルなら行ける。自分も慎重に踏めば大丈夫かもしれない。だがフシデは足が多いぶん、逆に泥を嫌がる可能性もある。
そこで、シンはさっきの沢で見た動きを思い出した。
「フシデ」
呼びかけると、触角が動く。
「丸くなれるよな」
フシデがじっとこちらを見る。
「だったら……」
シンは横の少し高くなった根元を指差した。
「そこから、転がって越えられないか?」
チェレンが少し驚いた顔をした。
「そんな通し方をするのか」
「無理ならやめる。でも、あいつならいけそうなんだよ」
フシデは幹の横の根元を見て、それから自分で少し動いて角度を確かめた。シンが余計な指示を足さずに待っていると、やがて小さく体を丸める。
「……お」
次の瞬間、フシデは根元を使ってくるりと身を転がし、幹の脇を抜けて向こう側へ出た。
ベルが思わず笑う。
「すごい、ほんとに行った」
フシデは着地したあと、得意げでもなく平然と立っていた。だが、シンのほうを見たその一瞬だけ、目の色が少し変わった気がした。
通じた、のだ。
戦いだけじゃなく、こういう小さなやり方でも。
シンは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「ありがとな」
そう言うと、今度はフシデが半歩だけ近づいた。
たったそれだけのことが、妙にうれしかった。
幹を越えた先で道は二つに分かれていた。片方はやや広いが踏み荒らされており、もう片方は細いが地面は固い。トウヤはすぐ左を見た。チェレンは右の地面を確かめる。ベルはその間で、どっちも同じに見えるという顔をしている。
「左」
トウヤが言う。
「いや、右だと思う」
すぐにチェレンが返す。
「左は人かポケモンが多く通ってる。広いけど、森を抜ける主道から外れてるかもしれない」
「右は枝が低い」
「でも地面は生きてる」
短いやり取りに、ベルが困ったようにシンを見る。
「どっち?」
「いや、俺に聞くなよ」
そう言いながらシンも周囲を見た。どちらもあり得る。トウヤは感覚で森を読む。チェレンは痕跡で道を読む。どちらの見方も分かるだけに、簡単には決められない。
そのとき、足元でフシデが動いた。
右へ数歩進み、振り返る。
「……そっち?」
シンが言うと、フシデはもう一度だけ足を動かした。
チェレンが目を細める。
「群れで動いていた個体なら、森の通りやすい道は知っているはずだ」
「じゃあ右か」
トウヤは意外なほどあっさり言った。
「いいの?」
ベルが聞く。
「森のやつに聞くほうが早い」
それも一理あった。
結局、四人はフシデの示した右の道を選んだ。細いが、進んでみるとたしかに枝の密度にむらがあり、見た目より歩きやすい。途中で倒木を避ける小さな回り道も自然にできている。踏み跡としては弱いが、ポケモンが通る道としては確かに生きていた。
「ほんとにこっちだったんだ」
ベルが感心したように言う。
「すごいね」
シンはなんとなく誇らしい気持ちになったが、別に自分の手柄でもないと思い直して咳払いした。
「まあ、森育ちだしな」
「なんでちょっと得意そうなの」
「別に得意そうじゃないだろ」
「なってるよ」
ベルに言われ、チェレンまで小さくうなずくので、シンはとうとう諦めたように肩をすくめた。
「……ちょっとだけな」
その返答に、ベルが声を立てて笑う。
歩きながら、フシデは少しずつ位置を変えていった。最初はシンの後ろだったのが、いつの間にかミジュマルの横に移り、また少しするとシンの斜め前にいる。先導するほどではないが、もう完全に“様子見だけ”の距離ではなかった。
ミジュマルもそれを受け入れているらしい。時おりちらりと見て、無理に張り合いもせず、ただ同じ歩幅で進んでいる。
「ミジュマルって、こういうとき意外と兄貴っぽいよね」
ベルがぽつりと言う。
「そうか?」
シンが聞き返す。
「うん。前からそうだったけど、さっきの感じとか特に」
シンはミジュマルを見る。言われてみれば、たしかにそうかもしれない。自分が新しい相手に対してまだ探り探りでいるぶん、ミジュマルのほうが少し先に“仲間の側”へ寄っているようにも見えた。
「先輩面してるだけじゃないか?」
シンが言うと、ミジュマルが不満そうに鳴いた。
チェレンが淡く笑う。
「それも含めて悪くないよ。群れに入るとき、最初に同族じゃない近い年齢の相手がどう振る舞うかは大きい」
「年齢って……ポケモンにもそういうのあるのか?」
「あるだろう。少なくとも立場は」
「チェレン、そういう時だけ妙に先生っぽいよね」
ベルの言葉に、チェレンは少しだけ言葉を止めた。
「……そう見える?」
「うん」
「別に嫌じゃないけど」
ベルはさらりと言って前を向く。チェレンは一瞬だけその横顔を見て、何も言わなかった。けれど、その沈黙が沈んだものではないことを、シンはなんとなく感じた。
午後の森は、朝より少しだけ風が強かった。高い場所の枝が鳴り、葉が降る。道はやがて緩やかに上り、そこを越えた先で、不意に視界が明るくなった。
「出口……?」
ベルがぱっと顔を上げる。
まだ完全な森の外ではない。だが木々の密度は明らかに薄くなっていた。先のほうから、町の空気に近い乾いた風が流れてくる。
「近いな」
トウヤが言う。
「たぶん、もう半分以上は抜けてる」
チェレンも周囲を確かめてうなずく。
「日が落ちる前に出られそうだ」
ベルがほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……」
「まだ気を抜くなよ」
シンが言うと、
「分かってるもん」
と返ってくる。だがその声は少しだけ弾んでいた。
シンは足元を見た。
ミジュマルの横に、フシデがいる。
朝にはまだ野生だった小さな棘の塊が、いまは同じ道を進んでいる。その歩き方はまだ完全にこちらへ馴染んだものではない。ときどき先に出て、ときどき立ち止まり、森の匂いを確かめる。でも、それでいい気がした。
最初から全部ぴたりと揃う必要はない。
見て、感じて、少しずつ合わせていけばいい。
それはたぶん、ポケモンとの距離だけじゃなく、この四人の旅そのものにも言えることだった。
「なあ、フシデ」
シンが小さく呼ぶ。
触角が動く。
「次、もうちょいちゃんと一緒にやろうな」
フシデは短く足を鳴らした。
返事になっているのか、ただの癖なのかは分からない。けれど、シンにはその音が悪くないものに聞こえた。
木漏れ日の向こうに、少し広い空が見え始めている。
森を抜ける前の最後の光の中で、六つの足音――いや、四人と二匹分の気配が、少しずつひとつの流れになっていた。