ヤグルマの森の空気が変わったのは、午後の光が少し傾き始めたころだった。
朝からずっと頭上を覆っていた枝葉が、ゆるやかに薄くなっていく。差し込む光の筋が増え、湿った土の匂いに混じって、どこか乾いた風の気配が入り始める。森の出口が近いのだと、誰に言われなくても分かった。
「明るくなってきたね」
ベルがほっとした声で言う。ムンナを抱く腕にも、朝ほどの力みはなかった。
「たぶんもう少しだ」
チェレンが周囲を見ながら答える。彼の歩き方は、森に入った直後よりずっと落ち着いていた。分かれ道で足を止める回数は減り、逆に危なそうな根やぬかるみを見つける速さが上がっている。
トウヤは相変わらず先頭だ。光が増えても歩幅は変わらない。ただ、枝を払う手つきが朝より少しだけゆるくなっているところを見ると、彼の中でも出口の位置はだいたい読めているのだろう。
シンは最後尾に近い位置で、ミジュマルとフシデの様子を見ながら歩いていた。
フシデは、まだ完全にこちらへ馴染んだわけではない。ボールの中に入れて運ぶより、自分の足でついてくる時間のほうが長い。一定の距離を取りたがるときもあるし、逆にさっきみたいに分かれ道では前へ出ることもある。
けれど、不思議とそれが悪い感じはしなかった。
最初からぴたりと噛み合うより、見ながら少しずつ合っていくほうが、シンにはむしろしっくりくる。
「なあ」
シンが小さく呼ぶと、フシデの触角がぴくりと動いた。
「さっきの道、助かった」
返事はない。けれど、フシデは半歩だけシンのほうへ寄り、それからまた前を向いた。
そのわずかな反応に、ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。
「なんだよ、先輩ぶるなって顔か?」
シンがそう言うと、ミジュマルは胸を張った。フシデはそのやり取りを横目で見ている。
ベルが後ろを振り返って、少し笑った。
「もうちょっとで仲良くなれそう?」
「どうだろ」
シンは肩をすくめる。
「でも、嫌われてはなさそう」
「それはそうだと思うよ」
ベルは素直に言った。
「嫌だったら、まだもっと離れてる気がする」
その言葉に、シンは少しだけ考えた。
たしかにそうかもしれない。戦いの最中ではなく、こうして何も起きていない時間にこそ、相手の距離感はよく出る。フシデは決して甘えてこないが、逃げてもいない。森の音よりこちらの足音を選んで、同じ方向へ進んでいる。
それだけで、いまは十分だった。
しばらく歩くと、道はゆるやかな上りになった。左右の木々が開き始め、空の色が少しだけ見える。出口は近い。そう思ったときだった。
足元を進んでいたフシデが、不意に止まった。
「……?」
シンもすぐに足を止める。ミジュマルが一歩前へ出て、フシデと同じ方向を見た。
「どうした」
前を歩いていたトウヤも気づいたらしく、短く問いかける。
フシデは答える代わりに、低く体を構えた。威嚇というより、警戒だ。耳をすますと、前方の茂みの奥から、土を擦るような重い音がしていた。
朝に見たフシデの群れとは違う。
もっと低く、もっと太い音。
チェレンが声を潜める。
「大きいのがいる」
ベルの腕の中でムンナがぴくりと震えた。ミジュマルもほたちに手をかける。トウヤはすぐにツタージャのボールへ触れたが、まだ投げない。
やがて、茂みの奥からその姿が現れた。
「……ホイーガ」
シンが小さく呟く。
フシデの進化系。丸みを帯びた濃い紫の体が、木陰の間で鈍く光って見える。朝に見た群れの個体よりひと回りもふた回りも大きい。動きは遅く見えるのに、そこにいるだけで妙な圧があった。
ホイーガは四人ではなく、真っ先にフシデを見た。
じっと、まっすぐに。
フシデも視線を逸らさない。
「……迎えに来たのかもね」
ベルが小さく言う。
チェレンも同じことを考えたらしい。
「群れの上位個体か、あるいは近い立場の相手か」
トウヤは短く言った。
「試しに来た」
その言葉が、いちばんしっくりきた。
縄張りから外れたフシデが、なぜ人間についていったのか。ついていくなら、それがどの程度の相手なのか。ホイーガはたぶん、それを確かめに来たのだ。
シンは隣のフシデを見る。
フシデは低く身を構えたままだった。怖がっていないわけではない。進化系を前にして緊張はしているだろう。けれど、逃げ腰ではなかった。
それを見て、シンは妙に落ち着いた。
もし本当に戻りたいなら、もう少し違う顔をしている。
いまこのフシデは、戻るかどうかを迷っているというより、ここに立つ意味を測っている顔だ。
ホイーガが一歩、前へ出る。
地面を擦る音が重くなる。威圧だ。こちらへ踏み込むというより、フシデに「どうする」と問うみたいな一歩だった。
シンはしゃがみ込み、フシデと同じ高さへ目線を下ろした。
「お前が決めろ」
ベルが息を呑む。チェレンも言葉を挟まない。
「戻りたいなら止めない。ほんとに」
シンはボールに手をかけない。命令もしない。ただ、相手を見る。
「でも、もしここにいるなら」
シンは少しだけ笑った。
「一緒に立つ」
フシデの触角が、小さく揺れた。
次の瞬間、ホイーガが動いた。
転がるように低く、速く。巨体のくせに踏み込みが鋭い。一直線ではない。わずかに角度をつけて、フシデを横から弾き飛ばす軌道だった。
「フシデ!」
シンの声より半拍早く、フシデがまるくなる。小さな体を固く縮め、衝撃に備える。ホイーガの体当たりで大きく弾かれたが、潰されずに転がって着地した。
「いい、立てる!」
ミジュマルがすぐ前へ出ようとしたのを、シンは手で制した。
「待て、まだだ」
ただ守って終わるなら簡単だ。ミジュマルを前に出して、水で散らして、ホイーガを遠ざければいい。
でも、たぶんそれでは駄目だ。
いま見られているのは、シンの強さだけじゃない。
フシデが、ここに残るかどうかだ。
ホイーガがもう一度低く沈む。
次も来る。
シンは息を吸った。
「フシデ、見えてるか」
フシデが起き上がる。まだ緊張は解けていないが、目はホイーガを捉えていた。
「正面で止めるな。ずらして、当てろ」
言葉は短く、それだけだった。
細かく説明しても意味がない。フシデは、自分で見て、自分で選ぶほうが早い。シンはそこに、ほんの少しだけ進路を足す。
ホイーガが突っ込む。
今度はフシデが自分から動いた。真っ向から受けず、ぎりぎりで半身ずれる。巨体が横を抜ける瞬間、フシデのどくばりが浅く脇腹をかすめた。
ホイーガが止まる。
大きなダメージではない。だが、無視できる一撃でもなかった。
トウヤの口元が少しだけ上がる。
「通した」
シンも同じところを見ていた。
いける。
一回受けた。
一回見た。
次は少し合う。
それは自分の戦い方であり、いま目の前のフシデも似たようなことをしている気がした。
ホイーガは向きを変え、今度は真正面からフシデを見る。さっきまでの「試す」目つきに、少しだけ本気が混じった。
ベルが小さく言う。
「シン……」
「うん」
シンはもう迷っていなかった。
「ミジュマル、隣につけ」
ミジュマルがフシデの横に出る。張り合うでも庇うでもなく、ただ同じ線に立つ。フシデは一瞬だけそちらを見て、それからまた前へ向いた。
「今度は一緒にやるぞ」
ホイーガが再び踏み込む。速い。けれど、一度見た軌道だ。
「ミジュマル、みずでっぽう、足元!」
水が地面を打つ。湿った土にさらに水が加わり、ホイーガの踏み込みがわずかに重くなる。
「フシデ、まるくなる!」
小さな体が丸く縮み、次の瞬間。
「ころがる!」
ホイーガの側面へ、鋭く重なっていく一撃。正面からじゃない。踏み込みの勢いが乗り切る前の、ぶれた角度へ打ち込む。
巨体がわずかに揺れた。
「ミジュマル、たいあたり!」
すぐさま横から追撃。小さな体当たりでも、崩れた瞬間に合わせれば意味はある。ホイーガの体勢がさらに流れる。
チェレンが低く呟く。
「噛み合わせてる……」
ベルも息を止めたまま見ていた。
ミジュマルが前で受けて、フシデが崩すのではない。
フシデが先に角度を作り、ミジュマルがそこへ重なる。
さっきまで同じ旅の列に混ざり切っていなかった二匹が、戦いの中で急速に足並みを揃え始めていた。
ホイーガはそれでも倒れない。むしろ、そこで初めて小さく唸るような音を立てた。認めたのだと、シンにはなんとなく分かった。
次の動きはこれまでより速い。
シンはフシデのほうを見る。
フシデも、今度は待っていた。
「ミジュマル、受けるな。下がれ!」
ミジュマルが半歩引く。その前を、フシデが転がるように横切る。ホイーガの突進が空を切り、巨体がわずかに前へ流れた。
「今!」
フシデのころがるが、さっきより深く入る。ホイーガの体がぐらりと傾いた。
シンはそこで、声を強くした。
「ミジュマル、みずでっぽう!」
ゼロ距離の水流がホイーガの顔を打つ。完全な決定打ではない。だが、それで十分だった。
ホイーガはその場で止まり、しばらく動かなかった。
森が静かになる。
風が葉を鳴らし、どこか遠くで鳥ポケモンが一声だけ鳴いた。
やがてホイーガは、ゆっくりと体を起こした。怒っているようには見えない。警戒もまだある。だが、もう最初の圧しつけるような気配ではなかった。
その目は、最初にフシデを見たときより少しだけ静かだった。
フシデも、もう後ろへは引かない。ミジュマルの隣で、低く構えたままホイーガを見返している。
数秒の沈黙のあと、ホイーガは小さく身を翻した。
そのまま茂みの奥へ戻っていく。
振り返らない。追撃もしない。
ただ、道を譲るように消えていった。
誰もすぐには声を出さなかった。
最初に大きく息を吐いたのはベルだった。
「……行った」
「行ったな」
シンもようやく力を抜く。
トウヤが短く言う。
「認めたんだろ」
チェレンも静かにうなずいた。
「少なくとも、連れ戻す必要はないと判断したんだろうね」
その言葉を聞いて、シンはフシデを見下ろした。
フシデはまだ前を向いていた。ホイーガが消えた茂みの奥を、ほんの少しだけ長く見ている。
迷いがまったくなかったわけじゃないだろう。
でもそれでも、最後に残ったのはこっち側だ。
「……ありがとな」
シンが言う。
「ちゃんと立ったな」
フシデはようやくシンのほうを向いた。数秒見てから、今度は迷わず一歩近づく。
そして、シンの足元でぴたりと止まった。
さっきまでの“少し後ろ”ではない。
“同じ列”に入る場所だった。
ベルが小さく笑う。
「今の、ちょっと違ったよね」
「うん」
シンも笑った。
「たぶん」
ミジュマルが得意そうに鳴く。フシデはその声に少しだけ触角を動かしたが、もう距離は取らなかった。
トウヤが前を向き直る。
「行くぞ。出口、近い」
チェレンが荷物を持ち直し、ベルがムンナを抱え直す。シンも一歩踏み出した。今度はその足元に、ミジュマルとフシデが並ぶ。
森の出口へ続く道は、さっきまでより明るく見えた。
それは光のせいだけじゃない。
ここへ来るまで、ずっと測っていた距離がひとつ分縮まったからだ。
シンは歩きながら小さく言う。
「次はもっとちゃんと合わせるぞ」
フシデが短く足を鳴らす。
ミジュマルも「ミジュ」と返す。
その二つの返事が重なって、シンは少しだけ笑った。
見たもの。受けたもの。考えたこと。
それを積み上げて、少しずつ前へ進む。
自分の戦い方は、ポケモンが一匹増えても変わらない。
むしろ、こうやって一緒に積み上げられる相手がいるなら、きっともっと強くなれる。
木々の向こうに、広い空の色がはっきり見え始めていた。
ヤグルマの森は、もうすぐ終わる。
けれど、ここで手に入れた棘の歩幅は、森の外へ出たあともきっと残る。
四人と四匹は、少しだけ揃った足音で、出口の光へ向かって歩き出した。