ヤグルマの森を抜ける光は、森の中で見るそれとはまるで違っていた。
枝葉に砕かれず、まっすぐ地面へ落ちてくる白い光。湿った土ではなく、乾いた道の匂い。頭上を覆っていた緑の天井が途切れた瞬間、四人はほとんど同時に目を細めた。
「……出た」
最初にそう言ったのはベルだった。
その声には、安心と、ちょっとした感動と、くたびれた疲れが全部混ざっていた。ムンナを抱えた腕を少し下ろし、大きく息を吐く。
「ほんとに出た……」
「なんだその感想」
シンが笑う。
「だって、森の中ってずっと同じに見えるんだもん。あと少しって言われても、ほんとにあと少しなのか分かんないし」
「まあ、それは分かる」
チェレンも珍しくすぐ否定しなかった。森を抜けた直後の彼も、どこかほっとした顔をしていた。表情そのものはいつも通り整っているのに、肩の力が少しだけ落ちている。
トウヤは一歩先で立ち止まり、森の外を見ていた。
木々の切れ目から伸びる道。その先に広がる空。そして、まだ遠いはずなのに、すでに存在感だけははっきり分かる巨大な構造物。
ベルがトウヤの視線を追って、目を見開いた。
「え……」
シンもその先を見て、息を止める。
「うわ」
森を出た先、遠くに見えるのはスカイアローブリッジだった。
ただの橋ではない。道の延長に見えるには、あまりにも大きすぎる。空へ向かって伸びるような白い骨組み。そこから先に、さらにぼんやりと高い建物の影まで見える。
ヒウンシティ。
これまで旅してきた町や道とは、明らかに違う大きさがそこにはあった。
「……でかいな」
シンがようやく言う。
トウヤは短くうなずいた。
「思ってたより」
「思ってたより、で済ませるの?」
ベルの声が少し裏返る。
「わたし、こんなの初めて見るんだけど」
「僕も実際に見るのは初めてだよ」
チェレンはそう言いながら、視線を橋とその先へ向けていた。驚いていないわけではない。だが、彼の驚きはベルみたいに前へ跳ねるのではなく、内側へ沈んで整理されていく類のものだった。
「橋というより、もう建造物だな」
「それ同じじゃないのか?」
「少し違う」
「なんでだよ」
「説明すると長い」
「じゃあいいや」
シンが即座に引く。ベルが笑い、チェレンもわずかに口元をゆるめた。
森の出口近くには、橋へ向かう旅人がひと息つけるような小さな休憩所があった。木の柵と簡単な屋根、長椅子がいくつか並んでいるだけの場所だが、森を抜けた直後の四人には十分だった。
「少し座るか」
トウヤの言葉に、ベルが真っ先に賛成した。
「座る」
「即答だな」
「だって疲れたもん」
ベルはムンナを抱えたまま長椅子に腰を下ろす。ミジュマルもそのそばに座り込み、フシデは少し迷ってからシンの足元へ寄った。森の中より、距離がまた少し縮まっている。
シンがそれに気づいて、小さく笑う。
「やっとその辺にいるの慣れてきたか?」
フシデは触角を動かしただけだったが、前みたいに半歩下がったりはしない。ミジュマルもわざわざ主張せず、当たり前みたいに隣へ収まっている。
ベルがそれを見て、柔らかく言った。
「なんか、もうちゃんと仲間っぽいね」
「さっきホイーガとやったあたりからな」
シンはフシデを見ながら答える。
「たぶん、あれで向こうも決めたんだと思う」
「決めた、か」
チェレンがその言葉を小さく繰り返す。
ベルは橋のほうを見たまま、ぽつりと言った。
「ヒウンって、どんなところなんだろうね」
誰もすぐには答えなかった。
見えているのは橋と、その向こうの高い建物の影だけだ。けれど、それだけでもう十分に分かることがある。あれは、いままで自分たちが歩いてきた町とは違う。人の多さも、道の数も、流れる速さも、たぶん何もかもが違う。
トウヤが先に立ち上がった。
「行って見れば分かる」
「それはそうだけど」
ベルは苦笑しながらも、その返しが少しだけうれしそうだった。
結局、それがいちばんトウヤらしい答えだ。
休憩を終え、四人は橋へ向かって歩き出した。
森の土道から、整えられた広い道へ。木々の匂いから、少し乾いた風の匂いへ。景色が変わるたびに、旅の足音まで変わっていくようだった。
スカイアローブリッジの入口へ近づくほど、その巨大さはますます現実味を増していった。遠くから見たときはただ大きいだけだった白い構造が、近づくと一本一本の梁や支柱の太さを伴って迫ってくる。橋脚の根元に立った瞬間、ベルは思わず立ち止まった。
「……これ、ほんとに渡るの?」
「そのために来たんだろ」
シンが言う。
「分かってるけど!」
ベルは口ではそう返しながら、橋の上の高さを見上げて少しだけ身をすくめた。
「高くない? すごく高くない?」
「高いな」
「トウヤ、それで終わり?」
「高いのは事実だろ」
チェレンがため息をつく。
「ベル、高さばかり見ないほうがいい。目の前の道を見ろ」
「それ、分かってるけど、分かってるけどさ……」
ぶつぶつ言いながらも、ベルはちゃんと一歩を踏み出した。
橋の上は、地上から見上げたとき以上に広かった。左右に高い柵があり、海から吹き上げる風が長い通路を抜けてくる。下を見れば遠い水面が光り、前を見れば橋が空へ続いているように見える。
さっきまで森の中にいたのが、もうずいぶん昔のことみたいだった。
「すご……」
ベルの声が、今度は素直な感嘆になる。
ムンナも不思議そうに目を細め、ミジュマルは風に向かって少し胸を張った。フシデは最初こそ足を止めかけたが、シンの足元に寄ってくると、そのまま低い姿勢で進み始める。
「橋って、こんな風なんだな」
シンが言う。
「もっと、ただ道が続いてるだけかと思ってた」
「いや、これは普通の橋じゃないだろ」
チェレンの返答は冷静だったが、視線はあちこちへ忙しく動いていた。構造を見ているのか、景色を見ているのか、自分でも半々なのかもしれない。
トウヤは前を見て歩き続ける。その歩幅はいつもと変わらない。けれど、どこか少しだけ、普段より静かだった。
橋の真ん中近くまで来ると、風がさらに強くなった。ベルの髪が煽られ、思わず「わっ」と声が出る。
シンが笑う。
「さっきから忙しいな」
「だって、森出たと思ったら今度はこれだよ?」
「ヒウンってたぶんもっとすごいんだろ」
「それ言わないで、急に不安になるから」
ベルが本気で嫌そうな顔をするので、ミジュマルまで小さく鳴いた。ムンナはベルの腕の中で揺れながらも、落ち着いていた。フシデは風に逆らうように足を踏ん張りながら進んでいる。
その様子を見て、シンはふと思った。
森の中では、フシデのほうがこの道を知っていた。
でもここは違う。
橋も、その先の街も、きっと誰にとってもまだ同じくらい未知だ。
だからこそ、次にどんな差が出るのか、少し楽しみでもあった。
橋の途中には、景色を見渡せる少し広い場所があった。四人は自然とそこで足を止める。
眼下には海。
背後にはヤグルマの森。
前方には、ヒウンシティ。
近づくほど、その町はひとつの塊ではなく、たくさんの線と面に分かれて見えてきた。高い建物。重なった道路。遠くに見える看板。動いているのが人なのか車なのか、まだここからではよく分からない。ただひとつ言えるのは、あの街がこれまでの旅と違う速度で動いている、ということだけだった。
ベルが小さく呟く。
「……なんか、ほんとに次の場所なんだね」
その言い方は少し変だった。けれど、シンには意味が分かった。
シッポウまでは、まだ“旅の途中の町”だった。
でもヒウンは、何かがひとつ変わる場所のように見える。
トウヤが前を見たまま言う。
「広いな」
それだけだった。だが、トウヤがそう言うと、それはただの感想以上の意味を持つ気がした。自分の速さで道を切っていけるトウヤにとっても、この街は無視できない大きさなのだろう。
チェレンは腕を組み、少し考えるように目を細めた。
「人が多い場所だと、今までみたいにはいかないだろうね」
「今までみたいって?」
ベルが聞く。
「四人でまとまって動きやすい、って意味だよ」
その返事に、ベルは少しだけ黙った。
シンも口を開かなかった。
言われてみれば、その通りかもしれない。森や町道では、同じ方向を向いて進めた。けれどあの街に入れば、見たいものも、気になるものも、それぞれ違ってきそうだった。
まだ別れるとか、離れるとか、そこまでの話ではない。
でも、同じ道を歩いていても、同じ速さではいられない瞬間が増える。
その予感だけは、橋の上の風みたいにはっきり感じられた。
ベルがその空気を変えるように言う。
「でも、まずはお腹すいた」
シンが吹き出した。
「お前、今それ言うのかよ」
「だってほんとにすいたんだもん」
「まあ、分かるけど」
「ヒウンって、おいしいものいっぱいあるかな」
「あるだろ」
トウヤが即答する。
「なんで分かるの」
「こういう街はある」
「雑だなあ」
チェレンが呆れ、ベルは笑う。
少し張っていた空気が、そこでようやくほどけた。
四人はまた歩き出す。橋の先はもう近い。高い建物はますます大きくなり、街の輪郭ははっきりしてくる。森の静けさも、もう背中側へ回っていた。
シンは足元を見た。
ミジュマルとフシデが並んでいる。橋の風にまだ慣れていないのか、フシデの歩幅は少し慎重だ。だが止まりはしない。知らない場所へ向かうのは、ポケモンも同じなのだろう。
「ヒウン入ったら、もっと見るもん増えるぞ」
シンが小さく言うと、ミジュマルが鳴き、フシデは触角をわずかに動かした。
見たもの。感じたもの。考えたこと。
それを積み上げていく。
自分のやり方は、街に入っても変わらない。
橋を渡り切る直前、ベルが急に立ち止まって振り返った。
ヤグルマの森が遠く見える。入り口に立ったときには広すぎて途方もなく感じた場所が、今はもうひとまとまりの緑に見えた。
「なんか、あっという間だったね」
そう言ってから、ベルは自分で首を振る。
「……いや、あっという間じゃなかったか。すごくいろいろあった」
「だいぶあったな」
シンも振り返る。
森の中での戦い。
フシデとの出会い。
見られて、選ばれて、少しずつ並んで歩くようになった時間。
短かったのに、残るものは多い。
チェレンが静かに言った。
「短い道でも、変わるときは変わるんだよ」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
やがてトウヤが一歩前へ出る。
「行くぞ」
その声に、三人が続く。
橋を渡り切った先には、ヒウンシティの入口が広がっていた。
高い建物、広い道、人の気配、これまでより速い風景。
四人と四匹は、その新しい景色の中へ足を踏み入れる。
同じ旅の続きをしながら、少しずつ違うものを見始めるために