BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第4話 ほどけない問いの前で

広場のざわめきは、ほんの少し前まで町の昼に溶けていた。

 

人が歩き、店先で声が交わされ、子どもが走っていく。どこにでもある町の真ん中の景色だったはずなのに、いまはその中心だけが妙に切り取られたみたいに静まっている。

 

プラズマ団の演説が終わったあとの余熱が、まだ石畳の上に残っていた。

 

その上で、シンとNは向かい合っていた。

 

風が通る。

 

誰かの服の裾を揺らし、広場の隅にたまった砂をさらっていく。

 

さっきまでただ耳を通り過ぎていたはずの風の音が、いまはやけに近かった。

 

「やるのか、本当に」

 

チェレンが低く言った。

 

止めるつもりがないわけではない。ただ、もう止まらないとも分かっている声だった。

 

シンはNから目を離さないまま、小さく頷いた。

 

「ここで引いたら、たぶん後味が悪い」

 

「後味の問題で決めるなよ……」

 

ベルが不安そうに言う。

 

それでも、もう何を言っても遅いのだと分かっているのか、その声は弱かった。

 

トウヤだけが、少し離れた位置から二人を見比べていた。

 

「まあ、やるならちゃんと見とく」

 

軽い口ぶりだったが、目は笑っていない。

 

あの静かな少年が、単なる変わり者ではないことを、トウヤも感じているのだろう。

 

Nはゆっくりとボールを持ち上げた。

 

無駄のない手つきだった。

 

見せつけるような構えでも、怯ませるための仕草でもない。ただ、当たり前にそこへ置くべきものを置いたような自然さがある。

 

「行って」

 

短い声とともに、ボールが開く。

 

白い光がひらき、広場の石畳へ影が落ちた。

 

現れたのは、チョロネコだった。

 

細い体、しなる尻尾、金色の目。

 

一番道路で見かけた野生の個体よりも、空気が締まっている。軽薄そうな見た目に反して、こちらの出方を待つような静かな気配があった。

 

「チョロネコ……」

 

ベルが小さく呟く。

 

「速そう」

 

「速いだろうね」

 

チェレンが答えた。

 

「それに、ただ動きが速いだけじゃない」

 

シンも同じことを感じていた。

 

このチョロネコは、無駄に飛びかかってくるタイプではない。

 

相手の隙を待つ目をしている。

 

「ミジュマル」

 

シンはボールを握り、短く呼ぶ。

 

白い光が弾け、相棒が石畳へ飛び出した。

 

いつものように、じっとしている気はなさそうだった。周囲の空気に呑まれることもなく、チョロネコへまっすぐ意識を向けている。

 

それだけで少し胸が熱くなる。

 

こいつはもう行く気だ。

 

あとは、自分がその勢いをちゃんと掴めるかどうかだった。

 

「始めよう」

 

Nが言った。

 

その言葉の直後、チョロネコが地面を蹴った。

 

速い。

 

低く走って、あっという間に距離を縮めてくる。

 

「右!」

 

シンの声に、ミジュマルがすぐ身をひねる。

 

爪が頬の前をかすめた。

 

紙一重だった。

 

一拍遅れて冷たいものが背中を走る。もしあのまま食らっていたら、最初から流れを持っていかれていた。

 

「みずでっぽう!」

 

かわした勢いのまま、ミジュマルが口から水を吐く。

 

だがチョロネコは、止まらない。水の軌道を読むみたいに、半歩だけ角度を変えて外へ逃れる。

 

水は石畳を叩き、広場の端で細かく弾けた。

 

「避けた……!」

 

ベルの声が上がる。

 

シンは舌打ちしそうになって、こらえた。

 

避けられたことそのものより、読み合いの主導を向こうに持たれている感じが気に食わない。

 

「焦ってるね」

 

Nの声は静かだった。

 

煽っているのではない。本当に見えたことをそのまま口にしているだけの声だった。

 

それが余計に引っかかった。

 

「うるさい」

 

「君は急ぎたがる」

 

Nは続ける。

 

「ミジュマルも、待つのは苦手だ。でも、急ぐ速さが同じじゃない」

 

その言葉が、胸のどこかを軽く引っかいた。

 

図星に近い。

 

研究所を出てから、一番道路でも少し感じていたことだ。こいつは勢いがある。自分も遅いほうではない。けれど、噛み合っている瞬間と、少しだけズレる瞬間がある。

 

それを、こんな短い時間で口にされるのがたまらなく嫌だった。

 

「だから何だよ」

 

シンは低く返す。

 

「だから、合わせるしかないだろ」

 

自分に言い聞かせるみたいに出た言葉だった。

 

それを聞いたのか、ミジュマルの耳がぴくりと動く。

 

チョロネコがまた距離を詰めてくる。

 

今度は正面ではなく、斜めからだ。

 

「追うな、待て!」

 

ミジュマルが踏み出しかけた足を止める。

 

チョロネコが一度フェイントを入れて、その反応を見る。飛びかかってくるかと思った次の瞬間、反対側へ抜けるように駆けた。

 

「左!」

 

シンの声に合わせて、ミジュマルが振り向く。

 

間に合う。

 

そう思った直後、チョロネコの動きが変わった。抜けるふりをして、低い姿勢のままもう一度鋭く切り返す。

 

「っ」

 

一瞬、遅れた。

 

そのわずかな差で、爪がミジュマルの肩をかすった。

 

「ミジュ!」

 

短い鳴き声と一緒に、ミジュマルの体がよろめく。

 

ベルが息を呑む。

 

シンの胸の奥がひやりと冷えた。

 

いまのは、自分の遅れだ。

 

チョロネコの速さだけじゃない。相手がこちらの反応を見て動きを変えた。その変化に、こっちの判断が半歩ついていけなかった。

 

Nが静かに言う。

 

「チョロネコは、相手の動きが揺れたところを狙う」

 

「説明ありがとよ」

 

シンは吐き捨てるように言ったが、そのあいだにも頭は回っていた。

 

このまま追う形に乗ると、たぶんじわじわ削られる。

 

チョロネコは真正面から力比べをしたいわけじゃない。こちらの出方を誘って、ズレたところへ爪を差しこむつもりだ。

 

じゃあ、合わせるべきは速度じゃない。

 

誘われないことだ。

 

「ミジュマル、無理に捕まえなくていい」

 

声を飛ばす。

 

「正面だけ切れ」

 

ミジュマルがこちらを見る。

 

意味は全部わかっていなくても、声の調子は伝わるらしい。さっきよりも少しだけ、動きに余計な力みが抜けた。

 

チョロネコが円を描くように位置を変える。

 

金色の目が細くなった。

 

次の手を測っているのは、向こうも同じだ。

 

「来るよ」

 

Nが言う。

 

その声が合図だったかのように、チョロネコが低く滑りこんできた。

 

速い。

 

けれど今度は、追わない。

 

「下!」

 

ミジュマルが身を沈める。

 

爪が頭上を裂く。

 

「いま、ぶつけろ!」

 

足もとから跳ね上がるように、ミジュマルが体当たりを入れた。

 

チョロネコの体がわずかに浮く。

 

「みずでっぽう!」

 

至近距離から水が叩きつけられる。

 

今度は浅くない。

 

チョロネコが石畳の上を滑り、しなる尻尾で辛うじて体勢を立て直す。

 

「入った……!」

 

ベルが思わず声を上げる。

 

シンは息を詰めたまま、相手の出方を見た。

 

効いている。

 

だが、倒れない。

 

チョロネコは苛立ったように尾を大きく振り、今度ははっきりと敵意を見せた。

 

「そうか」

 

Nが小さく呟く。

 

「君は、速さを合わせるんじゃなくて、噛み合う場所を探すんだね」

 

言われた瞬間、シンは少しだけ目を細めた。

 

さっきからこの少年は、腹が立つほどこちらをよく見ている。

 

ただ、そこに悪意だけがあるわけではない。試している。確かめている。だからこそ厄介だった。

 

「だったら何だ」

 

「悪くない」

 

Nは本当にそう思っているような声で言った。

 

その言葉に、シンは逆に調子を狂わされる。

 

褒められたいわけじゃない。

 

納得されたくもない。

 

それでも、ただ否定するだけの相手ではないと分かるほど、気分は簡単に割り切れなかった。

 

チョロネコがもう一度動く。

 

今度は細かく弾むような足取りだった。飛びかかるでもなく、完全に退くでもなく、こちらの間合いをずらしてくる。

 

「やりにくいな……」

 

シンは小さく吐く。

 

ミジュマルも落ち着かないのか、足場を何度か踏み直していた。

 

さっきの一撃は通った。けれど次も同じようにいくとは限らない。向こうもこちらの手を見た。なら、そのまま同じ形をなぞれば読まれる。

 

石畳の上を風が抜ける。

 

そのとき、シンの視界に、水が当たって濡れた地面がちらりと入った。

 

さっきのみずでっぽうで、足もとがまだ少し滑りやすくなっている。

 

チョロネコは軽い。足運びの器用さで勝負する相手だ。なら――。

 

「ミジュマル、正面じゃなくて、あっちへ追いこめるか」

 

問いかけに近い声だった。

 

ミジュマルが短く鳴く。

 

完全に理解したかは分からない。けれど、やる気は伝わる。

 

「チョロネコ」

 

Nが静かに呼ぶ。

 

それだけでチョロネコの動きが変わる。

 

攻める。今度は迷わずに来る。

 

「右から来る!」

 

トウヤが横から声を飛ばした。

 

シンの視界と重なる。

 

「受けるな、ずらせ!」

 

ミジュマルが横へ回る。

 

チョロネコもすぐ切り返す。

 

「もう半歩!」

 

石畳を蹴って、ミジュマルがさらに角度を変える。

 

追いすがるチョロネコの足が、濡れた場所へ入った。

 

ほんの一瞬。

 

ほんの少しだけ。

 

それでも十分だった。

 

「そこだ!」

 

ミジュマルが肩からぶつかる。

 

チョロネコの体が流れた。

 

「みずでっぽう、続けろ!」

 

追撃の水が飛ぶ。

 

逃げきれない。

 

水を受けたチョロネコが転がり、そのまま広場の端近くで止まった。

 

しばらくしても起き上がらない。

 

ざわめきが広がる。

 

シンは息を止めたまま、Nを見る。

 

Nは倒れたチョロネコを見つめ、それから静かにボールへ戻した。

 

「……勝負あり、かな」

 

誰ともなく呟くような声だった。

 

シンの胸に、遅れて熱が戻ってくる。

 

勝った。

 

ギリギリだった。

 

最初から押しきったわけでもない。きれいに噛み合っていたわけでもない。でも、最後はちゃんと通した。

 

「ミジュマル」

 

呼ぶと、相棒が振り返る。

 

肩にはさっきの爪の跡が少し残っていたが、目はまだ強い。

 

「よくやった」

 

ミジュマルは得意げに胸を張った。

 

さっきから本当によく胸を張るやつだ、と場違いなことが頭に浮かぶ。そのおかしさで、ようやく肩の力が少し抜けた。

 

「勝った……」

 

ベルが呆然としたように言う。

 

「ほんとに勝った」

 

「最初から疑ってたのか?」

 

シンが言うと、ベルはあわてて首を振った。

 

「違うよ! でも、なんか……相手、普通のトレーナーって感じじゃなかったし」

 

「それはそうだね」

 

チェレンが静かに言った。

 

「戦い方だけじゃなくて、見ているところが変だった」

 

「変、で済ませるのもすごい言い方だけど」

 

トウヤが肩をすくめる。

 

Nはその会話を聞きながら、まっすぐシンを見ていた。

 

負けた悔しさを強く出すでもなく、笑うでもなく、ただ、何かを確かめ終えたあとのような静かな目だった。

 

「君は、無理に自分の形を押しつけるだけの人じゃない」

 

Nが言った。

 

広場の風が、その言葉を少し伸ばした。

 

「最初は噛み合っていなかった。でも、途中で変えた。ミジュマルの動きに、自分の考えを合わせなおした」

 

シンは返事をしなかった。

 

褒められているのか、分析されているのか、よく分からない。

 

ただ、さっきまでのただ腹立たしいだけの相手、という印象からは少しずつずれていた。

 

「でも」

 

Nは続ける。

 

「まだ、君たちは完成していない」

 

その言葉に、シンの眉が動く。

 

「当たり前だろ」

 

返した声には、苛立ちがまだ残っていた。

 

「旅に出たばっかりだ」

 

「うん。だから面白い」

 

Nの声は変わらない。

 

「君たちは、まだ変わる」

 

その言い方が、妙に耳に残った。

 

見下しているわけではない。むしろ逆で、変わることを当然だと信じている響きだった。

 

けれど、それはそれで気に食わない。

 

「変わるかどうかは、こっちが決める」

 

シンが言うと、Nはほんの少しだけ目を細めた。

 

「そうかもしれない」

 

どこまで本気で同意しているのかは分からない。

 

ただ、さっきより少しだけ、こちらを見る目の角度が変わった気がした。

 

ベルがおそるおそる口を開く。

 

「えっと……じゃあ、もういいの?」

 

Nはベルのほうを見た。

 

「よくはない」

 

「えっ」

 

「まだ、僕は人とポケモンの関係が正しいと証明されたとは思っていない」

 

あまりにもまっすぐで、ベルが口をつぐむ。

 

シンは思わず眉を寄せた。

 

「勝っといて言うのも何だけど、それはそれでむかつくな」

 

「でも、少なくとも君たちのあいだに、ただの命令と服従だけではないものがあるのは分かった」

 

Nはそう言った。

 

「それは、見たかったもののひとつだよ」

 

その言葉には、演説のときの硬さとは違う個人的な温度があった。

 

プラズマ団の言葉としてではなく、N自身の言葉として発せられている感じがする。

 

トウヤがそこで口を挟んだ。

 

「お前、さっきの演説した人たちと同じこと考えてるようで、少し違うよな」

 

Nは視線だけでトウヤを見る。

 

「違うところもある」

 

「何が違うんだ?」

 

「彼らは言葉で人を動かそうとする。僕は、ポケモンの声を確かめたい」

 

「それって、結局お前の聞こえたものだけを信じるってことじゃないのか」

 

チェレンの言葉は鋭かった。

 

Nは少し黙る。

 

「……そうかもしれない」

 

否定しなかった。

 

その素直さに、シンは逆に少し引っかかった。

 

厄介だ。

 

こういう相手は、一言で切り捨てにくい。

 

ベルみたいに分かりやすく感情をぶつけてくるわけでもない。チェレンみたいに理屈で詰めてくるだけでもない。トウヤみたいに距離を測っているようで、完全に引いているわけでもない。

 

静かなまま、まっすぐこちらへ入ってくる。

 

「また会うよ」

 

Nが言った。

 

短い言葉だった。

 

けれど、それが社交辞令でもなんでもないことは、声を聞けば分かった。

 

「君とミジュマルが、これからどう変わるのか知りたい」

 

「勝手に追うなよ」

 

シンが言うと、Nはほんの少しだけ口元を緩めた……ように見えた。

 

「君たちが進めば、いずれ交わる」

 

そう言って、Nは身を翻した。

 

プラズマ団の黒い服の者たちのもとへ戻るのかと思ったが、そうではない。人の流れを横切って、広場の外れへ静かに歩いていく。その後ろ姿は、広場のざわめきから半歩だけ離れたところを通っているみたいだった。

 

完全に姿が見えなくなるまで、シンはしばらくその背を目で追っていた。

 

「……何なんだ、あいつ」

 

最初に口を開いたのはベルだった。

 

「変な人、で片づけていいのかな」

 

「変なのは間違いないけどね」

 

トウヤが答える。

 

「でも、あれで適当に言ってる感じもしない」

 

「そこが厄介なんだよ」

 

チェレンが腕を組む。

 

「本気で信じてる相手は、雑には扱えない」

 

シンは何も言わず、ミジュマルの頭に手を置いた。

 

まだ少し熱い。

 

戦いのあとだからなのか、自分の手のひらが冷えているのか、よく分からなかった。

 

ミジュマルはされるがままになりながら、少しだけ得意そうな顔をしていた。

 

こいつは勝ったことをもう自分の中で片づけているらしい。

 

さっきまでのひりつくようなやり取りも、いまはもう次へ進むためのひとつの出来事にしてしまっているのかもしれない。

 

その図太さに少し救われる。

 

「シン」

 

ベルが心配そうに覗きこむ。

 

「大丈夫?」

 

「何が」

 

「……えっと、いろいろ?」

 

曖昧な聞き方だったが、意味は分かった。

 

バトルで気が立っていないか。Nの言葉を引きずっていないか。その両方だろう。

 

シンはすぐには答えず、少しだけ空を見た。

 

昼の明るさは変わっていないのに、広場にいたあいだだけ妙に時間の流れがずれた気がする。

 

旅に出てからまだ一日も経っていない。

 

それなのに、知らない種類の問いをいきなりぶつけられた。

 

ポケモンと人間の関係。

 

信じるって何か。

 

噛み合うってどういうことか。

 

どれも、昨日までの自分なら、もう少し遠くにある話だと思っていただろう。

 

けれどいまは違う。

 

答えはまだない。綺麗に言えることもない。ただ、他人に勝手に決められたくないという気持ちだけは妙にはっきりしていた。

 

「……大丈夫だよ」

 

ようやくそう言うと、ベルは少しだけ安心した顔をした。

 

「ならいいけど」

 

「でも、ちょっと顔こわいよ」

 

トウヤが横から言う。

 

「勝ったあとにそれ言うなよ」

 

「いや、勝ったからだろ。負けてたらもっと声かけにくいし」

 

「たしかに」

 

チェレンが真面目な顔で頷くので、シンは思わず眉を上げた。

 

「お前らな」

 

その返しに、三人が少しだけ笑う。

 

張っていた空気がようやくほどける。

 

それでも、完全に元には戻らなかった。

 

さっきのやり取りが、広場のどこかにまだ残っている気がする。

 

ポケモンセンターへ戻る道すがら、ベルは何度かNのことを口にしかけてはやめた。チェレンは何かを考えこんでいて、トウヤはめずらしくしばらく黙っていた。

 

シンも、自分から話を切り出す気にはなれなかった。

 

代わりに、さっきのバトルを頭の中で何度もなぞる。

 

最初の爪のかすり方。

 

チョロネコの切り返し。

 

自分の判断が遅れた一瞬。

 

最後、濡れた石畳へ誘ったときの感触。

 

そして、Nに言われたこと。

 

急ぐ速さが同じじゃない。

 

腹が立つほど、その言葉は記憶に残っていた。

 

否定したいのに、完全には否定できない。

 

でも、だからこそそのまま放っておきたくない。

 

噛み合わないなら、噛み合わせるしかない。

 

言葉にすれば単純だ。けれど、たぶん旅というのは、そういう単純なことを何度もやる時間なのだろう。

 

「ねえ、シン」

 

ポケモンセンターの前でベルが呼び止めた。

 

「さっきさ」

 

「ん?」

 

「……かっこよかった、とは言わないでおく」

 

「何その言い方」

 

「だってなんか悔しいし」

 

ベルはむくれたあと、でも少しだけ笑った。

 

「でも、ちゃんと戦ってた」

 

その言葉は、朝に研究所を出たときの軽さとは少し違った。

 

野生戦を見たときよりも、もっと深いところを見たあとの声だ。

 

シンはすぐには返事をしなかった。

 

代わりに、ミジュマルの頭を軽く撫でる。

 

「こいつもな」

 

ミジュマルが「当然だ」とでも言いたげに鳴く。

 

ベルが吹き出し、トウヤも肩を揺らした。

 

チェレンだけは真顔のままだったが、その目つきは少しだけ和らいでいた。

 

旅はまだ始まったばかりだ。

 

たった一番道路を越えて、次の町に着いて、妙な少年と戦っただけ。

 

でも、その“だけ”の中に、もう昨日まで知らなかったものがいくつも入っている。

 

カラクサタウンの夕方にはまだ早い、昼の明るさの中で、シンはぼんやりと思った。

 

この先もきっと、答えのないことは増える。

 

納得できない相手にも会う。

 

言葉だけでは片づかないことが、もっと出てくる。

 

それでも、そういうものにぶつかりながら進むしかないのだとしたら、たぶん旅は思っていたよりずっと面倒で、思っていたよりずっと面白い。

 

ミジュマルがもう一度鳴いた。

 

さっきまでの戦いを忘れたみたいに、次の何かを急かす声だった。

 

シンはその声を聞いて、小さく息を吐く。

 

「……行くか」

 

誰に向けたともなく言うと、三人がそれぞれ顔を上げた。

 

広場で止まりかけた空気が、また少しずつ動き出す。

 

カラクサタウンでの一日は、まだ終わっていなかった。

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