ヒウンシティに足を踏み入れた瞬間、四人はほとんど同時に立ち止まった。
ヤグルマの森を抜け、スカイアローブリッジを渡り切った先に広がっていたのは、これまで見てきたどの町とも違う景色だった。高い建物が空を切り取るように並び、石と鉄とガラスの匂いが風の中に混ざっている。道は広いのに、人も多い。行き交う足音、車輪の音、遠くの呼び込み、窓の向こうのざわめき――何もかもが重なって、街全体が大きな生き物みたいに動いていた。
「……すご」
最初に声を漏らしたのはベルだった。
ムンナを抱く腕が、わずかに強くなる。驚いているのは顔を見ればわかる。けれど、それだけじゃない。少し怖くて、でもちゃんと見たい、という気持ちが混ざっている顔だった。
ムンナはそんなベルの腕の中で静かに目を細めていた。騒がしい音に怯えるというより、ベルの胸の高鳴りをそのまま受け取っているみたいだった。ベルが無意識に息を止めると、ムンナの耳がぴくりと動く。そこでベルがゆっくり息を吐くと、ムンナの体からも少しだけ力が抜けた。
「でかいな」
シンが呟く。
昨日までの森の匂いが、もう背中のずっと遠くへ追いやられていく。足元のミジュマルは、最初こそ目を丸くしてきょろきょろしていたが、すぐに胸を張り直した。知らない場所に来ると、こいつはたまにこういう顔をする。ちょっとだけ不安なくせに、それを認めたくなくて、むしろ「別に平気だけど?」みたいな顔をするのだ。
その横でフシデは、はっきりと緊張していた。
森では自分の足で地面を確かめるように進んでいたのに、街へ入ってからは一歩ごとに触角が細かく動く。硬い石畳。人の多さ。耳に入る音の量。全部が未知だ。さっきまでシンの少し前を歩いていたのに、今はいつの間にか足元へ戻ってきている。
シンが気づいて小さく笑う。
「……さすがにここは落ち着かないか」
フシデは返事のかわりに、シンの靴の影へ半歩だけ寄った。
その仕草に、ミジュマルがちらっと横目を向ける。いつものように偉そうに胸を張るかと思ったが、今日は違った。少しだけ前へ出て、フシデとシンの間に立つ。庇うほど露骨ではない。ただ、「この辺なら平気だぞ」とでも言いたげに、いつもよりしっかり前を向いた。
シンはその背を見て、思わず口元をゆるめた。
「先輩ぶりたい日か」
ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。違うと言いたいのか、そうだと言いたいのか、どっちとも取れる声だった。
トウヤはそんな三人と二匹の様子をひととおり見てから、街の先を見上げていた。高い建物の影を、視線だけでなぞるように見る。目新しいものに浮かれるというより、どこへどう道が伸びているのかを先に掴もうとしているようだった。
足元ではツタージャが、街の騒がしさにほとんど動じていない。涼しい顔で尾を揺らし、トウヤの歩幅に合わせている。けれど、本当に何も感じていないわけではないのを、トウヤは知っていた。知らない場所に入るとき、ツタージャは逆に落ち着いた顔を作る。落ち着いていれば主導権を握れると思っているようなところがあるのだ。
「こいつ、ちょっと気取ってるな」
トウヤがぼそりと言うと、ツタージャがすぐに不満そうな目を向けた。
それを見たシンが笑う。
「分かるのかよ」
「長いし」
「雑な説明だな」
チェレンは一歩遅れて街並みを見ていた。驚いていないわけではない。むしろ四人の中ではかなり強く興味を引かれているほうだろう。だが、その驚きをそのまま顔に出さないだけだ。
足元のポカブは、そんなチェレンの気配をよく分かっているらしかった。知らない匂いの多い街に少し落ち着かなさそうに鼻をひくつかせながらも、チェレンが平静を保っているぶん、必要以上にはしゃがない。むしろ、チェレンの足元に近い位置を選んで歩いている。
シンがそれに気づく。
「ポカブ、今日やけに静かだな」
チェレンは少しだけ視線を落とした。
「……たぶん、警戒してるんだろう。森とは違うから」
そう言いながら、チェレンの声はやわらかかった。ポカブは強気だが、知らない環境では一度だけ様子を見る。無鉄砲に見えて、案外そういうところがある。その慎重さを、チェレンはたぶん嫌いじゃない。
ベルがきょろきょろと辺りを見回したまま言う。
「ねえ、まずどこ行くの?」
「ポケモンセンターだろ」
シンが即答する。
「森も橋も越えてきたんだし」
「さんせい」
ベルはすぐうなずいた。ミジュマルもムンナもそれなりに疲れているし、何よりベル自身が一度落ち着きたいのだろう。ムンナがそんなベルの胸元へさらに体重を預ける。甘えているというより、「落ち着く場所ならここ」と決めている重みだった。
トウヤが短く言う。
「行くか」
四人は人の流れに沿って歩き始めた。
ヒウンの道は広い。なのに、人の数が多すぎて、むしろ歩幅を自分たちで決めにくい。前から人が来る。横を誰かが追い抜く。店の前で立ち止まる人もいれば、急いで道を渡る人もいる。
その流れに最初に乱れたのは、やっぱりベルだった。
「わっ、す、すみません……!」
肩が触れそうになって、慌てて横へよける。ムンナを落とすことはないが、つられて自分の足元が乱れる。そこへ別の人影が来て、さらによろけそうになったところを、横からツタージャの蔓が軽くベルの袖を引いた。
「え?」
ベルが目を瞬く。
ツタージャはそれ以上は何もせず、すぐに蔓を引っ込めた。まるで「そっちは危ない」とだけ告げたような短い動きだった。
トウヤが振り返る。
「前見ろ」
「み、見てたもん」
「見えてない」
「う……」
反論しきれずに肩を落とすベルの腕の中で、ムンナが小さく鳴いた。責めるでもなく、ベルの腕に頬を押しつける。落ち着け、と言っているみたいだった。
シンが苦笑する。
「ベルは真ん中歩いとけって」
「そうする……」
チェレンもすぐに位置を調整した。トウヤが前、ベルを中央、その横にシン、少し後ろにチェレン。自然とそんな並びになる。ポケモンたちもそれに合わせるみたいに、ツタージャは前、ミジュマルとフシデはシンの近く、ムンナはベルの腕、ポカブはチェレンの足元へ収まった。
その形が整うと、少し歩きやすくなった。
「街だと、並びまで変わるんだな」
シンがぽつりと言う。
「森とは違うからね」
チェレンが答える。
「森は幅が狭いし、危険は前後から来やすい。街は横から人の流れが入ってくる」
「そういうふうに見るのかよ」
「見るだろ、普通」
「普通かなあ……」
ベルが首をかしげる。
そのやり取りを聞いていたポカブが、チェレンの歩幅に合わせて小さく鼻を鳴らした。褒められているわけでもないのに、どこか得意そうだ。チェレンが周囲を見て道を整えるたび、ポカブは「そうそう、それでいい」とでも言いたげに落ち着く。トレーナーが自分の得意な形に戻ると、ポケモンも安心するのだと、シンは何となく思った。
しばらく歩いて、ポケモンセンターの赤い屋根が見えてきたとき、フシデがまた足を止めた。
「ん?」
シンも立ち止まる。
フシデの触角は、センターの出入口を行き来する人やポケモンの群れへ向いていた。数が多い。扉は自動で開いて閉じる。中からも外からも匂いがする。森の中ならなかった種類の戸惑いが、体の向きにそのまま出ていた。
シンは少し考えたあと、しゃがみこんだ。
「最初はびっくりするよな」
フシデはちらりとシンを見る。
「でも、ここは大丈夫な場所だ」
言葉が通じるかは分からない。けれど、そう言うしかなかった。
ミジュマルが先にとことこと扉のほうへ歩いていく。半分くらい進んだところで、わざとらしく振り返った。来るのか来ないのか、見ている顔だ。しかも、ただ待つんじゃなく「別にこっちは平気だけど?」という顔をしている。
シンは吹き出しそうになった。
「お前、そういうとこだぞ」
ミジュマルは胸を張る。フシデはその後ろ姿をしばらく見つめていたが、やがて小さく足を動かした。
一歩。
二歩。
三歩。
シンの足元から離れて、ミジュマルの後ろへついていく。
その様子を見ていたベルが、思わず声をひそめた。
「……今の、ちょっとよかった」
「な」
シンも小さく笑う。
「先輩したいんだよ、あいつ」
「ミジュマル、えらいねえ」
ベルの柔らかい声に、ミジュマルはますます胸を張った。だが、照れくさいのかそれ以上ベルのほうは見ない。フシデはその後ろで、まだ完全には安心しきっていない足取りのまま、でも止まらずに扉をくぐった。
ポケモンセンターの中は外よりさらに人が多かった。回復を待つトレーナー、休憩している旅人、交換会めいたことをしている子どもたち。誰かのポケモンが鳴けば、別のどこかで返事みたいな声がする。
ベルはまた少し目を回しそうな顔になったが、ムンナが腕の中で落ち着いているぶん、さっきほどは慌てなかった。ムンナは騒がしさそのものより、ベルが「ここは安全」と思い始めるのを待っているみたいだった。ベルが受付の並びを見て「思ったより平気かも」と呟いた瞬間、ムンナの体の強張りも少し緩む。
チェレンはすぐに必要な手続きを頭の中で整理し始め、ポカブはその横で大人しく待つ。だが、順番が近づくたびに鼻先が少し上を向く。焦れているのだ。早く休みたいのか、それとも周りの匂いが気になるのか。たぶん両方だろう。
トウヤのツタージャは、こういう場所でもあまり態度が変わらない。ただ、耳をすませるように時々顔を上げる。新しい場所でも、自分の見える範囲に収めようとしているのだ。トウヤに似ている、とシンは思う。
そして自分の足元では、フシデがまだ完全には落ち着いていなかった。
ミジュマルのほうへ寄ったかと思えば、次の瞬間にはシンの影へ戻る。人が横を通るたびに触角が揺れ、目がそちらへ向く。だが逃げはしない。慣れないなりに、ここに留まって状況を飲み込もうとしていた。
「……努力家だな、お前も」
シンが小さく言うと、フシデは一瞬だけ見上げてきた。
そうかもしれない、と思った。
森の中でただ勢いがあるだけの個体なら、人間についてきたりしない。見て、測って、選ぶ。そのくせ、一度決めたらちゃんと慣れようとする。自分に似てる、とまでは言わないが、少なくとも噛み合いそうだとは思う。
受付を済ませ、回復を終えたあと、四人はセンターの休憩スペースに腰を下ろした。
人の多い街に入ってまだそれほど経っていないのに、もう朝とは別の疲れ方をしている。森を歩いた足の疲れとは違う、情報の多さに押される疲れだ。
ベルがテーブルに頬をつけそうになりながら言う。
「ヒウン、すごい……」
「まだ入口だけどな」
シンが言う。
「入口でこれなら中どうなるの」
「さあ」
トウヤは相変わらず短い。
だがその短さの裏で、彼の目も少しだけ楽しそうだった。見たことのない街に対して、警戒より先に「どうなってるんだろう」が勝っている顔だ。
チェレンは窓の外の人の流れを見ながら、静かに言った。
「たぶん、ここから先は“同じものを見る”のがもっと難しくなる」
ベルが顔を上げる。
「どういうこと?」
「単純に、物も人も多いから」
チェレンは言葉を選ぶように続けた。
「気になるものが違えば、立ち止まる場所も違う。進みたい速さも変わる。今までより、それぞれの目線が出やすい場所だと思う」
シンは何も言わず、その言葉を聞いていた。
橋の上でも似たような予感はあった。
でも街へ入ってみると、それは想像よりずっと現実味があった。
トウヤは先へ行きたがるだろう。
チェレンは見て整理したがる。
ベルはきっと目を奪われるものがたくさんある。
自分は自分で、見たもの全部を覚えたくなる。
同じ場所にいても、同じ速さでは進めない。
そのことを、ポケモンたちもどこか感じているようだった。
ムンナはベルの膝の上で静かにしているが、ベルが少し遠くを見るたびに耳を動かす。
ポカブはチェレンの足元で丸くなりながらも、主人の気配が硬くなるとまぶたを上げる。
ツタージャは外の景色を見ているトウヤを横目で確認してから、自分も窓の外を向く。
ミジュマルはフシデのほうをちらちら見つつ、わざと落ち着いた顔をしている。
フシデは、そんなミジュマルの隣にいることを、もう完全には嫌がっていなかった。
ベルがふと笑った。
「でも、なんかちょっと安心する」
「何が?」
シンが聞く。
「街がすごくても、ポケモンたち見てると、あんまり一人じゃない感じする」
その言葉に、ムンナがベルの腕に頭を預け直した。
“それでいい”と言っているみたいな、静かな重みだった。
シンは足元を見る。
ミジュマルは相変わらず偉そうだし、フシデはまだ完全には馴染みきっていない。けれど、その二匹が同じテーブルの下にいるだけで、さっきまでの街の広さがほんの少しだけ手の届くものに思えた。
「……まあ、分かる」
シンが言うと、ベルは少し嬉しそうに笑った。
トウヤが立ち上がる。
「少し休んだら出るぞ」
「どこ行くの?」
「まずは歩く」
「雑!」
ベルが抗議する。だがトウヤは気にしない。
チェレンが小さく息をついた。
「でも、間違ってはいない。情報を集めるにしても、実際に見たほうが早い」
「チェレンまでそっち側なの?」
「今日はそうだね」
ベルは納得がいかない顔をしながらも、最後には笑った。
街はまだ始まったばかりだ。
見たことのないものは山ほどある。
同じように歩いてきた四人でも、ここから先は、立ち止まる場所が少しずつ変わっていくかもしれない。
けれど今はまだ、同じテーブルを囲み、同じ街の匂いに驚いていられる。
それで十分だと、シンは思った。
ミジュマルが小さく鳴き、フシデがその声に反応して触角を動かす。
その何気ないやり取りひとつで、街のざわめきの中にも、自分たちの小さな輪郭がちゃんとある気がした。
ヒウンシティの午後は、まだ長い。
四人と、それぞれのポケモンたちは、新しい景色の中へもう一度立ち上がる準備をしていた。