ポケモンセンターを出たとき、ヒウンシティの午後はもう完全に動き出していた。
橋を渡ってきたときには「大きい」としか言えなかった街が、いざ中へ入ってみると、その大きさを細かく分けて見せてくる。通りごとに匂いが違う。人の流れの速さも違う。建物の高さだけじゃなく、窓の飾りや看板の色、道端に並ぶ屋台の音まで、それぞれが勝手に主張していた。
ベルはポケモンセンターの階段を下りたところで、また少しだけ立ち止まってしまった。
「……やっぱり多い」
「人が?」
シンが隣で聞く。
「人も、物も、音も」
ベルはムンナを抱え直しながら、目の前を横切る人の波を見た。森の中では聞こえなかった種類のざわめきが、途切れず続いている。声を張る店員。笑っている子ども。荷車を押す音。窓の上から鳴る鐘みたいな音。どれかひとつなら平気でも、まとめて来ると少し息苦しい。
その腕の中で、ムンナが小さく身じろぎした。
落ち着きなく暴れるわけではない。むしろ逆だった。ベルの腕に収まる位置を少しだけ変え、体重を預け直す。ベルが慌てて抱き直す必要のない、ちょうどいい重みで。
「……ありがと」
ベルが小さく言うと、ムンナは目を閉じたまま耳だけをぴくりと動かした。
返事の代わり、みたいだった。
シンはその様子を見て、少しだけ笑う。
「ムンナ、ほんとベルのことよく見てるよな」
「う、うん。なんか、わたしより先に分かってる時ある」
「それはお前が分かるの遅いだけじゃないか?」
「失礼だなあ」
頬をふくらませるベルの足元で、ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。どこかシンに同意しているような声色で、ベルはますます不満そうな顔になった。
「ミジュマルまでそっち!?」
ミジュマルは胸を張る。
やっぱりちょっと偉そうだ、とシンは思う。
だがそのすぐ横では、フシデがまだ少し落ち着かない様子だった。森の中では自分で先へ出たり道を選んだりしていたのに、ヒウンへ入ってからは逆だ。シンの靴のそば、あるいはミジュマルの一歩後ろを選んで歩く。人が近づくたびに触角が細かく揺れる。
それを見て、シンはしゃがみこんだ。
「まだ慣れないよな」
フシデはすぐには見上げなかった。代わりに、シンの影へ半歩寄る。
それだけの動きなのに、前よりずっと分かりやすい。
この街は怖い。
でも、ここにいる。
その両方が、ちゃんと伝わる仕草だった。
「無理に急がなくていいぞ」
シンが言うと、フシデの触角がわずかに緩んだ。
ミジュマルはそんな二匹の様子を見てから、また少しだけ前へ出る。頼られているのが分かると、こいつは露骨に気合いが入る。見栄っ張りだな、とシンは思うが、悪いことではなかった。
「じゃあ、まずどっち行く?」
ベルが改めて聞いた。
トウヤは通りの先を見ている。チェレンは建物の並びと人の流れを見ている。シンは屋台の匂いがちょっと気になっている。そしてベルは、見るものが多すぎて逆に決めかねている顔だった。
最初に答えたのはチェレンだった。
「とりあえず大通りを一周したい」
「へえ、意外」
シンが言う。
「もっと博物館とか図書館とか、そういう場所を真っ先に言うかと思った」
「それも気になるよ。でも、こういう街は最初に全体の形を見たほうがいい」
チェレンは少し顎を上げ、遠くの交差点を見た。
「通りがどう繋がってるか。人の流れがどこへ向かっているか。どの辺が賑やかで、どこが落ち着いているか。把握しておけば、あとで動きやすい」
なるほど、とシンは思う。
チェレンらしい答えだ。
トウヤも異論はないらしい。
「じゃあ歩くか」
「食べ歩きは?」
ベルが聞く。
「途中で見つけたら」
「雑!」
「でも、ベル」
チェレンが冷静に言う。
「君は先に何か食べたほうがたぶん落ち着く」
「えっ」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「そんなに」
ベルはしばらく口を開けたまま黙り、それから観念したように肩を落とした。
「……じゃあ、途中でなんか食べる」
「素直でよろしい」
シンが言うと、ベルはむっとしたが、ムンナが腕の中で小さく体を揺らしたので、結局それ以上は言い返さなかった。
ムンナも、ベルが空腹で余裕を失いがちなのを分かっているのかもしれない。そう思うと少しおかしくて、ベルはひとりで小さく笑った。
大通りへ出ると、人の流れはさらに濃くなった。
左右には店が並び、ガラス越しに並ぶ服や小物がきらきらしている。屋台からは甘い匂いと香ばしい匂いが交互に漂ってきて、ベルの視線が露骨にそちらへ引っぱられる。上を見れば、建物と建物の間に長い旗のようなものが渡され、風に揺れていた。
「ヒウンって、なんかずっとお祭りみたい」
ベルが呟く。
「毎日こうなんじゃないか」
トウヤが答える。
「毎日これなら、住んでる人すごくない?」
「慣れるんだろ」
「慣れるかなあ……」
ベルは言いながら、足を止めた。
目の前の店先に、小さな飾り細工が並んでいた。木の実や葉っぱを模したアクセサリーで、色合いがどこか森を思わせる。街の中で見ると余計に目を引いた。
「かわいい……」
ベルの声が自然にやわらかくなる。
ムンナもそれを見て、少しだけ首を傾けた。キラキラしたものに興味があるというより、ベルの声の温度が変わったのを感じ取っている顔だった。
チェレンが一歩進んでから振り返る。
「もう立ち止まるのか」
「だ、だって今のは仕方ないでしょ」
「まだ通りの入口だよ」
「でも気になるもん」
その言葉に、チェレンは呆れたようにため息をついた。だが本気で急かしているわけでもない。それはポカブの様子を見ると分かる。
ポカブはチェレンの足元で止まっていたが、苛立った様子はなく、むしろ少し前のめりで店先を見ていた。火の匂いでもするのか、あるいはベルたちの足が止まることで、チェレンの中の「予定通りじゃない」が少し顔を出しているのを感じているのかもしれない。
ポカブはそういう時、なぜか少し楽しそうになる。
チェレンが完璧に整っていない時ほど、こいつは「それでも進めるだろ」と言いたげな顔をする。
シンがそれを見て、口元をゆるめた。
「ポカブ、お前ちょっと面白がってないか?」
ポカブは鼻を鳴らし、得意そうに胸を張った。
「……図星か」
「何が?」
チェレンが聞く。
「いや、なんでもない」
言ったところで、チェレンは分かっていない顔をした。だが、その脇でポカブは明らかに分かっている顔をしている。トレーナーより先に、ポケモンのほうが心の揺れを拾う時もあるのだ。
店先からようやく離れ、さらに通りを進む。
今度はトウヤが少しだけ足を止めた。
視線の先には、街路樹の上へ器用に登っているチラーミィの姿があった。素早く動き、葉の間を滑るように渡っていく。すぐに見えなくなったが、その身軽さにツタージャがぴくりと反応する。
ただし飛び出しはしない。
目だけで追い、尾をわずかに揺らす。
興味はある。
でもここは自分の縄張りでも戦場でもない。
そういう判断まで含めて、ツタージャの沈着さだった。
「気になるか」
トウヤが低く言うと、ツタージャは一瞬だけ見上げてきた。
トウヤはそれ以上何も言わない。
ただ、少しだけ歩く速度を落とす。
シンはそのやり取りを見て、やっぱり似てるなと思った。トウヤもツタージャも、強く「こうしろ」と押し付けない。その代わり、相手が何を見ているかはちゃんと気づいていて、必要なら歩幅だけで合わせる。
ベルがそれに気づいたらしく、小声で言った。
「トウヤ、今ちょっと優しかったね」
「は?」
「ツタージャに」
「いつも優しいだろ」
「自分で言うんだ」
ベルは笑った。ツタージャは少しだけそっぽを向いたが、その尾の揺れ方はわずかに落ち着いて見えた。
通りの角を曲がったところで、シンの足元のフシデがまた止まった。
今度は人の多さに怯えたわけではない。
目の前を、大きなタイヤのついた荷車が通ったのだ。重い音、揺れる荷物、見慣れない大きな影。フシデはとっさに低く身を構え、ミジュマルもその動きに引っ張られるように一歩前へ出た。
「大丈夫」
シンがすぐに声をかける。
「敵じゃない。通るだけ」
フシデはまだ完全には構えを解かなかった。だが、シンの声を聞いたあと、荷車からではなくシンのほうを見た。
その一瞬の視線に、シンは少しだけ驚く。
前はまず周囲を見て、自分で全部判断しようとしていた。
今はそこに、シンの言葉を挟む余地ができている。
小さいけれど、大きな変化だ。
ミジュマルもそこで不用意に前へ出すぎない。
フシデが怯えているのを分かっていて、その代わり「自分がいるから平気だぞ」と言いたげに少し胸を張る。
やっぱり見栄っ張りだ。
でも、その見栄が誰かを落ち着かせることもあるのだと、シンは思った。
「えらいな、二匹とも」
そう言うと、ミジュマルは当然だとばかりに鳴いた。フシデは無言のまま、少しだけシンの足元から離れる。今度は逃げではなく、自分で立つための半歩に見えた。
ようやく、ベルの念願だった屋台の並ぶ一角へ辿り着く。
焼いた生地の匂い、甘いソースの匂い、果物の匂い。ベルの顔が分かりやすく明るくなった。
「ここ、絶対なんか食べたい」
「さっきからそれしか言ってないな」
シンが笑う。
「だってほんとにおいしそうなんだもん」
ベルがそう言うと、ムンナもほんの少しだけ身を起こした。匂いに惹かれているのか、ベルの気持ちが上向いたのを感じたのかは分からない。ただ、さっきよりずっと表情が柔らかい。
チェレンは屋台の列を見て、どこが比較的早く買えそうかを考えている顔をしていた。ポカブはそんなチェレンの足元で、今度ははっきりと期待したように鼻先を上げている。火を使う食べ物の匂いに、完全に心を奪われていた。
「ポカブ、お前分かりやすすぎるな」
シンが言うと、ポカブはまったく隠す気なく鳴いた。
ベルが笑い出す。
「チェレンより素直」
「それ、僕に失礼じゃないか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないよ」
やり取りの横で、トウヤはすでに一番並びの短い屋台を見つけていた。ツタージャは屋台そのものより、そこへ集まっている人たちを観察している。新しいものへ食いつくより、まず全体を見る。やっぱりトウヤと似ている。
「じゃ、あそこ」
トウヤが言う。
「決めるの早っ」
「並ぶなら早いほうがいいだろ」
「それはそうだけど……」
ベルは言いつつも、もう顔が楽しそうだった。
屋台の前で待っているあいだ、ポケモンたちの様子も少しずつ違って見えてきた。
ムンナはベルの腕の中で、落ち着ける場所を知っている顔。
ポカブは期待を隠さない顔。
ツタージャはすました顔の裏で観察している顔。
ミジュマルは先輩ぶった顔。
フシデはまだ戸惑いながら、それでも少しずつ街の空気を飲み込もうとしている顔。
どの顔も、トレーナーに似ていて、でもちゃんと別の個性があった。
シンはそのことが、なんとなくうれしかった。
ヒウンは広い。
たぶんここから先、もっとたくさんのものを見る。
四人の目線も、ポケモンたちの興味も、少しずつ違う方向へ伸びていくかもしれない。
でも、だからこそ面白いのだと思えた。
「はい、お待ちどう」
屋台のおじさんから包みを受け取って、ベルがぱっと笑う。
「わ、あったかい」
その声にムンナが耳を動かす。ベルの嬉しさが、そのまま伝わっているみたいだった。
チェレンも自分の分を受け取り、熱さを確かめる。ポカブはその手元を見上げて、今にも飛びつきそうな勢いで鳴いた。
「駄目だよ、熱いから」
チェレンが言うと、ポカブは不満そうに鼻を鳴らす。けれど離れない。少し待てば自分にも何かあると分かっているのだろう。そのあたりの信頼は、長く一緒にいる相手らしかった。
シンは自分の包みを片手に、足元を見る。
ミジュマルが興味津々で、フシデは匂いの正体を測りかねている顔をしていた。
「街って忙しいな」
シンがぽつりと言う。
それに返事をしたのはベルだった。
「うん。でも、ちょっと楽しい」
怖さもある。疲れもある。人も多すぎる。
それでも、楽しいと言えるくらいには、彼女の目も前を向いていた。
ムンナがその腕の中で静かに身じろぎする。
それは、たぶん同意だった。
ヒウンの街はまだまだ広い。
けれど四人とポケモンたちは、その広さの中で少しずつ、自分たちの居場所の作り方を覚え始めていた。