ヒウンシティの午後は、歩いているだけで次の匂いがやってくる。
焼きたての生地の甘い匂い。揚げ油の香ばしさ。どこかの店先から流れてくる花の香り。人の服に残った石鹸の匂いまで、風に混ざって次々通りすぎていく。
屋台で買った軽食を手にしたまま、四人は大通りの端へ寄っていた。
「おいしい……」
ベルがしみじみ言う。
包みを両手で持ち、小さく一口かじるたびに表情がほどけていく。さっきまで人の多さに押されていた顔とは、もうだいぶ違っていた。ムンナはそんなベルの腕の中で、半分眠そうな顔のまま耳だけを動かしている。ベルの気持ちが落ち着くと、ムンナも静かになる。逆に、ベルがきょろきょろし始めると、ムンナも目を開ける。
まるで、ベルの胸の内側を一緒に呼吸しているみたいだった。
「元気出るの早いな」
シンが笑う。
「食べたから」
「分かりやすすぎるだろ」
「だって、お腹すいてると落ち着かないもん」
ベルがそう言うと、ムンナがベルの手首に頬を寄せた。
“その通り”とでも言うような、静かな重みだった。
シンは足元を見る。
ミジュマルは自分のぶんをもらえるわけでもないのに、当然のように胸を張ってこちらを見ている。食べ物の匂いにはしっかり反応しているのに、欲しいと騒ぐのは格好悪いと思っている顔だ。
「お前、ほんと変なとこで見栄張るよな」
シンが言うと、ミジュマルは「ミジュ」とひとつ鳴いた。反論なのか、肯定なのかはよく分からない。けれど、その声のあとでちらりとフシデのほうを見たので、たぶん少しは意識している。
フシデはまだ屋台の匂いそのものより、街の気配のほうに落ち着かない様子だった。人が横を通るたびに触角が動く。けれど、さっきより逃げ腰ではない。シンの足元とミジュマルの横、その間を行ったり来たりしながら、少しずつ「ここにいても大丈夫か」を確かめている。
知らないものが多い場所ほど、こいつは一歩ずつ飲み込むのだろう。
シンはそれが、自分には少し分かる気がした。
「で、次どうするの」
ベルが食べ終わった包みをきれいに畳みながら聞いた。
トウヤはすでに食べ終え、通りの先を見ている。チェレンは残りを丁寧に口へ運びつつ、頭の中ではもう次の動きに入っている顔だった。
「このまま真っすぐ行くと中央広場みたいだな」
チェレンが言う。
「広場?」
「人の流れがそっちへ寄ってる」
「そんなので分かるのかよ」
シンが聞くと、チェレンは当然だというように頷く。
「なんとなくでも分かるよ。立ち止まってる人間が少なくて、歩く速さが揃ってる。何か目印になる場所がある時の流れ方だ」
「へえ……」
ベルが素直に感心する。
その横で、ポカブがチェレンの足元にぴたりと寄っていた。周囲の音や匂いは気になっているはずなのに、チェレンが「把握できている」と判断している時のポカブは、不思議と落ち着く。むしろ少し鼻を鳴らして得意げですらある。
“ほら、進めるだろ”
そんな顔だった。
チェレンはそんなポカブに気づいていないふりをしているが、足元との距離だけは少し狭い。完全に無意識ではないのだろう。
「じゃあ広場行こっか」
ベルが言う。
「ベルはそれでいいのか?」
シンが聞く。
「もっと屋台とか見たそうだったけど」
「見たいよ?」
ベルはまったく隠さなかった。
「でも、今ぜんぶ止まってたら、たぶんこの街、どこにも着かない」
その言い方に、シンは少しだけ感心した。
ベルは変わった。
気になるものに目を奪われるのは相変わらずだ。
でも、そこでずっと足を止めるんじゃなく、“今は進むほう”を自分で選べる瞬間が増えている。
ムンナはそんなベルの腕の中で、静かに目を細めていた。
まるで、その小さな前進をいちばん近くで確かめているみたいだった。
中央広場へ向かう道は、さっきの屋台通りよりさらに賑やかだった。
高い建物の影のあいだから、噴水の水音がうっすら聞こえる。通りすがりのトレーナーが連れたポケモンの鳴き声、店先で客引きをする人の声、窓の上から吊られた看板が風に鳴る音。音が多いのに、不思議とうるさいだけではない。街そのものが呼吸している感じがした。
途中、路地の入口で小さな芸を見せているトレーナーとチョロネコの組を見つけて、ベルがまた少し立ち止まりかけた。
チョロネコが器用に柵の上を歩き、ひらりと飛び降りる。観客の小さな歓声に、チョロネコは得意そうに尾を立てた。
「かわいい……」
ベルが小声で言う。
ムンナもそちらを見る。けれど、ムンナの興味は芸そのものより、ベルが何に心を引かれているかのほうにあるようだった。ベルが一歩出そうとすると、ムンナは腕の中でほんの少しだけ体重をかける。
行きたいなら行けばいい。
でも今の流れから外れるなら、それもベル自身が決めることだ。
そういう静かな問いかけみたいな重みだった。
ベルはその重みを受けて、一瞬だけ迷う。
「……あとで見る」
結局そう呟いて、前へ戻った。
ムンナの耳が、ぴくりと動く。
シンはそのやり取りを横で見ていて、ムンナはほんとに喋らないくせに雄弁だな、と思った。
「えらいじゃん」
シンが言うと、ベルは少しむっとした。
「子ども扱いしないで」
「してないって」
「ちょっとした」
「ちょっとはした」
「ほら!」
その声に、ミジュマルが面白がるみたいに「ミジュ」と鳴く。ベルが即座にそちらを向いた。
「ミジュマルまで笑ってる!」
ミジュマルは悪びれもせず胸を張る。
すると、その横のフシデが短く足を鳴らした。
一瞬、シンにはそれが笑ったみたいに聞こえた。
「……お前もか?」
フシデは触角を揺らすだけで、答えはしない。だが、さっきまで街の空気に押されていた時より明らかに反応が増えていた。周囲を警戒しながら、それでもちゃんとこの輪の中のやりとりも見ている。
中央広場は、通りを二つほど抜けた先にあった。
石造りの広い円形広場。中央には大きな噴水があり、水が陽の光を受けてきらきら光っている。ぐるりと囲むようにベンチと花壇があり、買い物袋を下げた人や旅の途中らしいトレーナーたちが思い思いに休んでいた。
「わあ……」
ベルの声が自然にこぼれる。
さっきまでの通りの圧迫感が嘘みたいに、ここは少し空が広かった。高い建物に囲まれているのに、噴水の音のせいか、人の流れが一度ほどける場所になっている。
トウヤは広場へ出た途端、少しだけ歩幅を落とした。
見ている。
どこに何があるか。どこへ道が伸びているか。何がこの街の中心なのか。
その足元のツタージャも同じだった。人が多いのに怯えるでもなく、むしろ高い位置を取りたがるように花壇の縁へ前足をかけ、視界を広げている。
“見える場所にいれば、主導権は失わない”
そんな気質が透けていた。
「トウヤとツタージャって、こういうとこ似てるよね」
ベルが呟く。
「どこが?」
聞こえていたらしいトウヤが言う。
「なんか、分かんなくても分かってる顔するところ」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
トウヤは小さく鼻を鳴らした。ツタージャはそっぽを向く。だが、その尾の先がわずかに揺れたのを、シンは見逃さなかった。
褒められてないふりをして、案外ちゃんと拾っている。
そういうところも似ている。
広場の一角では、小規模なポケモンバトルを見物している人だかりができていた。
トレーナー同士の本格的な試合というより、旅の途中の腕試しに近い。だが見物人の声援もあり、ちょっとした催しみたいになっている。
それを見た瞬間、ポケモンたちの反応が一斉に変わった。
ミジュマルの背筋がぴんと伸びる。
ポカブは鼻を鳴らし、明らかに前のめりになる。
ツタージャは静かなままだが、目だけは細く鋭くなる。
ムンナはベルの腕の中で平静だが、ベルがその熱気に飲まれかけるとすぐ耳を動かす。
そしてフシデは、初めて街の景色より、そのバトルのほうへ強く意識を向けた。
シンはそれに気づく。
「見たいか」
フシデはほんの少し、前へ出た。
ああ、とシンは思う。
こいつにとって街はまだ怖い。
でも、戦いの気配は別だ。
そこでなら、知らない場所の中にも自分の足を置ける。
「ちょっと見てく?」
シンが言うと、ベルが「うん」と頷き、チェレンも異論はなさそうだった。
人だかりの外側に立ち、中の試合を見る。
コアルヒーとヨーテリーの小競り合いのような短い一戦だった。だが、旅慣れたトレーナー同士らしく、技の選び方には無駄が少ない。フシデはその一つ一つをじっと見ていた。動きだけではなく、間合いの取り方や、引くタイミングまで見ているような顔だ。
ミジュマルも同じように見ている。けれど、こっちは少し違う。
“次は自分が出るならどうするか”
まで考えている顔だ。
やっぱり戦うことになると、こいつの目は分かりやすい。
「ミジュマル、出たそう」
ベルが笑う。
「顔に出てるよね」
「お前んとこのも結構出るだろ」
シンが言う。
ベルのミジュマル――いまはまだ彼女の腕の中にはいないが――戦う前には必ず少し格好をつける。ベルが見ている時ほど、余計に。それを思い出してベルも笑った。
チェレンは試合そのものより、四人のポケモンたちの反応を見ていたらしい。
「同じバトルを見ても、ずいぶん違うな」
「何が?」
シンが聞く。
「ツタージャは盤面全体を見てる。ポカブは“行けるかどうか”に反応してる。ミジュマルは出る気満々だ。フシデは……」
チェレンは少し言葉を探した。
「……覚えようとしてる」
その表現に、シンははっとする。
たしかにそうだった。
フシデの目は、ただ勝ち負けを追っているのではない。技の形、受け方、間合い、相手の止まり方。そういうものをひとつひとつ拾っている目だった。
森で初めて会った時の、あの“見ている”感じに近い。
「努力型の天才の手持ちっぽい」
ベルがぽつりと言う。
「お前、その言い方まだ言うのか」
「だって合ってるし」
シンは少しだけ照れくさくなって頭をかいた。
でも、嫌ではなかった。
試合が終わり、人だかりが少し散ったところで、フシデがようやくシンの足元へ戻ってきた。来た、というより、自分で一区切りつけて戻った感じだった。
シンは自然にしゃがみこむ。
「何か拾えたか?」
フシデは言葉では答えない。だが、さっきよりずっと落ち着いた目をしていた。
街の中にも、自分が理解できるものがある。
そう確かめた顔だった。
シンは小さく笑う。
「そっか」
その一言だけで、十分だった。
広場のベンチに腰を下ろし、四人は少しだけ息をつく。
噴水の音が絶えずしている。さっきまでの大通りより、人の声が少し遠い。ここではそれぞれの考えが、少しだけ形になりやすい気がした。
最初に口を開いたのはトウヤだった。
「街、思ったより面白いな」
ベルが目を丸くする。
「トウヤがそう言うの珍しい」
「そうか?」
「そうだよ」
トウヤ自身は自覚がないらしい。だが、ツタージャはその横で妙に満足そうな顔をしていた。自分と同じように、トレーナーもこの場所を面白がっている。それが分かっている顔だ。
チェレンは噴水越しに広場全体を見ながら言う。
「面白いけど、同じだけ難しい場所でもあるな」
「難しい?」
ベルが聞く。
「見たいものが多い」
チェレンは短く言った。
「多すぎると、逆に何を見るかで人が分かれる」
その言葉に、ベルは少しだけ黙った。
シンも何も言わなかった。
広場に着くまでのほんの短い道だけでも、もう十分にそれは見えている。ベルは店先に目を引かれるし、チェレンは街の構造を見るし、トウヤは全体の流れを見る。自分は、自分で、ポケモンや人の動きから使えそうなものを拾ってしまう。
同じ街にいても、見ているものが違う。
けれど今はまだ、それが嫌なことには思えなかった。
違うからこそ、誰かが気づくものに、別の誰かが乗れる。
ムンナがベルの腕の中でゆっくり身じろぎする。
ポカブはチェレンの足元で丸くなりながら、まだ時々通りのほうを気にしている。
ツタージャは広場全体を飽きずに見ている。
ミジュマルはフシデをちらちら見ながらも、やっぱり少し偉そうだ。
フシデはその隣で、街の音に耳を澄ませていた。
ポケモンたちも同じだ。
同じ場所にいて、違うものを感じている。
ベルがふっと笑った。
「なんかさ」
「なに」
シンが聞く。
「ここだと、みんなちょっとずつ違う方向見てるのに、それでもちゃんと一緒にいる感じする」
ムンナがその言葉に合わせるように、ベルの腕の中で少しだけ力を抜いた。
シンは足元のミジュマルとフシデを見る。
ミジュマルは相変わらずだが、フシデはもう完全に“逃げ場”としてではなく、“並ぶ場所”として自分たちのそばにいる。
「……まあ、分かる」
そう答えると、ベルは少しうれしそうに笑った。
ヒウンシティはまだ広い。
きっとここから先、もっとたくさんの“ちがう目線”が出てくる。
でも、今はまだ、それを面白いと思えるだけの余裕があった。
噴水の水が陽に光る。
そのまぶしさの中で、四人とポケモンたちは、同じ街の中でそれぞれの見方を少しずつ増やしていった。