朝のヒウンシティは、昨日よりもっと速かった。
ポケモンセンターを出た瞬間から、人の流れが途切れない。荷車を押す人、店を開ける人、通りを駆ける配達員。昨日はただ「広い」と思った街が、今日は「止まらない街」に見えた。
シンはその流れを目で追いながら、小さく息を吐く。
隣でミジュマルが胸を張るように立ち、足元ではフシデが地面を確かめるみたいに前脚を動かしていた。どちらも、もう昨日ほど落ち着かない様子ではない。ただ、完全に気を抜いているわけでもなかった。
「……昨日の視線、気のせいじゃなかったと思う」
シンが言うと、ベルがすぐに頷いた。
「うん。ムンナも、あのあとずっと落ち着かなかったの」
ベルの腕の中で、ムンナが小さく身を寄せる。怯えている、というよりは、嫌なものを思い出した時の顔だった。丸い身体を預けながらも、目だけはきちんと開いている。
チェレンは腕を組んだまま、通りの向こうへ視線を流した。
「だったら警戒は続けるべきだ。根拠が薄くても、ポケモンの反応は無視できない」
「でも、ずっと固まって歩くのも目立つよな」
トウヤが気楽そうに言って、けれどその目は笑っていなかった。
「見るなら、向こうも見る。こっちが警戒してるって悟られたくない」
「じゃあ、どうするの?」
ベルが訊く。
トウヤは少しだけ肩をすくめた。
「昨日と同じで、自然に動く。けど、今日は合流の場所と時間をもっと細かく決めとく」
「賛成だ」
チェレンが即答する。
「散開するなら、情報共有の精度が必要だ。怪しいものを見たら追うんじゃなくて、まず知らせる。単独で深入りしない」
言葉はいつも通り理屈っぽいのに、今のチェレンの声には前より熱があった。ベルもそれに気づいたのか、少しだけ目を丸くしてから、しっかり頷く。
「分かった。わたし、ちゃんと連絡する」
「おう」
トウヤが笑う。
「その“ちゃんと”が昨日より信用できるの、結構すごいよな」
「なによそれ」
「褒めてる」
ベルがむっとして、でも少しだけ嬉しそうに口を尖らせた。
そんなやり取りを横で聞きながら、シンは思う。
昨日までなら、ベルはたぶん「大丈夫かな」と自分で言っていた。今は違う。できるかどうかじゃなく、やるって顔をしている。
変わってきている。
ベルも。チェレンも。
たぶん、自分も。
中央広場に近づくにつれて、ムンナの身体が少しずつ固くなっていくのが分かった。
「……いるの?」
小さく訊くと、ムンナは返事の代わりみたいに、ぴくりと耳を動かした。
人は多い。笑い声もする。屋台の匂いも、道端の大道芸も、昨日と変わらないはずなのに、今日はどこか空気が薄い気がした。
「ベル」
隣のシンが足を止める。
「あれ」
視線の先には、揃いの白と黒の服を着た集団がいた。
人通りの多い一角で、ひとりの男が声を張っている。
「ポケモンは、道具ではありません! 人の都合で縛られるべき存在でもない!」
演説だった。
足を止めて聞いている人もいる。難しい顔で頷く大人もいれば、なんとなく面白そうに眺めている子どももいる。
言っていることだけを聞けば、間違っているようには思えなかった。
でも。
「……やだ」
ベルは無意識に呟いていた。
ムンナが怖がっているからじゃない。
自分でも分かるくらい、あの人たちの声が冷たかった。
優しいことを言っているのに、優しく聞こえない。
シンが小さく頷く。
「うん」
それだけだった。けれど、その短い返事で十分だった。
同じものを感じていると分かったから。
演説している男の後ろでは、別の団員らしき人物たちが、広場にいるトレーナーたちを見ていた。顔を見るんじゃない。連れているポケモンを見る目だ。
誰が強そうか。
誰が一人か。
誰なら狙えるか。
そんなふうに品定めしている目だった。
ベルの腕の中で、ムンナが小さく震える。
「大丈夫」
そう言って撫でると、ムンナはぴたりと額を押しつけてきた。甘えているんじゃない。警告している。気をつけて、と。
ベルは息を吸って、ゆっくり吐いた。
守られるだけじゃ、だめだ。
怖いなら、怖いまま見なきゃいけない。
演説の輪から少し離れた場所で、シンたちは自然に散った。
露骨に集まれば相手も警戒する。だから、距離だけ取る。
トウヤは反対側の通りへ回り込み、チェレンは少し高い段差のある場所から全体を見た。ベルはムンナを抱えたまま、人の流れに紛れて移動する。
シンはミジュマルとフシデを連れて、広場の端を歩いた。
その途中で、ひとりの団員が、母親とはぐれたらしい小さな男の子に声をかけるのが見えた。
「迷子かな? よければ案内しよう」
柔らかい声だった。
けれど男の視線は、男の子の足元にいるヨーテリーへ向いていた。
ヨーテリーは尻尾を振っていない。背を低くして、唸る寸前みたいに喉を鳴らしている。
シンの横で、ミジュマルの耳が立った。
フシデの触角も、ぴたりと前を向く。
「……シン」
少し離れた位置から、ベルが呼んだ。
それと同時に、トウヤが動いた。
「おーい」
あまりにも自然な声だった。
友達を見つけたみたいな調子で、トウヤがその男と子どもの間に入る。
「その子、向こうでお母さん探してたぞ」
男の目が、一瞬だけ細くなった。
「そうですか。私は親切で――」
「うん、分かる」
トウヤは笑ったまま言う。
「でも、うちのポケモンたちがさっきからお前のこと嫌ってる」
その場の空気が、すっと変わった。
言葉にできない違和感が、輪郭を持ったみたいだった。
男の子が不安そうにヨーテリーを抱き上げる。ヨーテリーは震えながらも、しっかりと男を睨んでいた。
次の瞬間、シンの後ろからチェレンの声が飛ぶ。
「ベル、その子を連れて離れて!」
「うん!」
ベルが即座に動く。迷いがなかった。男の子に目線を合わせ、しゃがんで手を差し出す。
「こっち。大丈夫、いっしょにお母さん探そ」
ムンナもベルの腕から身を乗り出し、男の子を安心させるみたいに小さく鳴いた。
男は舌打ちこそしなかったが、明らかに表情を変えた。
「……ずいぶん失礼ですね。私たちはポケモンの未来を考えているだけです」
「だったら」
チェレンが前に出る。
「怯えている子どもに近づく必要はない」
「怯えさせたのはそちらでしょう」
「違うね」
今度はトウヤの声だった。
「怯えたのは、最初からだ」
男は数秒だけ黙った。
その沈黙の短さで、シンは逆に確信した。言い逃れの言葉を探した時間じゃない。ここで揉める価値があるかを計算した時間だった。
やがて男は、薄く笑った。
「……覚えておきますよ。あなたたちのように、ポケモンを縛ることに慣れた人間の顔は」
そう言って身を翻す。
奥の演説集団も、いつの間にか散り始めていた。最初から長く留まる気はなかったのかもしれない。
「待て!」
チェレンが一歩踏み出す。
けれど、シンは反射的にその腕を掴んだ。
「追わない方がいい」
「なぜだ」
「向こう、逃げる足取りが軽すぎる。見られて困る場所まで案内する動きじゃない」
チェレンがシンを見る。
熱くなっていた目が、一瞬だけ冷えた。
「……なるほど」
「それに」
シンは通りの先を見る。
「たぶん、まだ街の中にいる」
フシデが低く身を伏せる。
怒っていた。普段より少しだけ前脚に力が入っていて、今すぐ追いたいのが分かる。ミジュマルも同じだった。剣みたいに貝を握って、鼻息を荒くしている。
でも、今は違う。
追う時じゃない。覚える時だ。
どんな顔で近づくのか。どんな時に距離を詰めるのか。どんな言葉で隙を作るのか。
シンはその全部を頭の中に置いていく。
次に会った時、見落とさないために。
「……腹が立つな」
それは、気づいた時には口から出ていた。
広場の喧騒は戻りつつある。助けた男の子も母親と合流し、ベルが何度も手を振られていた。ひとまず、大事にはならなかった。
それでも胸の奥に残るものは、消えない。
ポケモンのためだと口にしながら、あの連中はポケモンの怯えを利用しようとしていた。
理屈があるから正しいんじゃない。
正しそうに見える言葉で、人を騙そうとするやり方が、ひどく不快だった。
「チェレン」
ベルが呼ぶ。
振り向くと、ベルは少し緊張した顔のまま、それでも目を逸らさずに立っていた。
「さっき、ありがと」
「……僕は何も」
「ううん。言ってくれて助かった」
ベルは一度だけ息を整えてから続ける。
「怖かったけど、動けたの、みんながいたからだけじゃないの。昨日より、ちゃんと見ようって思えたから」
チェレンは言葉を返せなかった。
その変化を、自分はずっと近くで見てきたはずだった。なのに今、改めて突きつけられた気がした。
ベルはもう、守られるだけの位置にいない。
怖さごと前へ出ることを覚え始めている。
なら、自分も。
ただ正しいことを言うだけじゃ足りない。
必要な時に、熱を持って前へ出なければいけない。
「次は」
チェレンは、散っていった白黒の背中を見ながら言った。
「逃がさない」
隣でポカブが短く鳴いた。
低く、小さい声だった。けれどその声には、はっきりとした同意があった。
その日の夕方、四人はポケモンセンターへ戻る前に、広場の噴水近くで足を止めた。
昼の出来事のあと、みんな少しずつ口数が減っていた。疲れたというより、考えることが増えたからだと思う。
「ねえ」
ベルが最初に口を開く。
「あの人たち、また来ると思う?」
「来る」
トウヤが即答した。
「街の使い方がうまかった。場所も人の流れも分かってる動きだったし」
「一度きりの扇動ではないだろうね」
チェレンも頷く。
「目的が演説だけなら、ああいう探るような視線は必要ない」
シンは黙って聞きながら、フシデの背を撫でた。
フシデはまだ少し硬い。けれど逃げようとはしていない。警戒を解いていないだけだ。ミジュマルも膝の上で腕を組み、不満そうな顔のまま広場を見ていた。
「……じゃあ、待つ?」
ベルの問いに、シンは顔を上げた。
「待つだけじゃ足りないと思う」
「だよな」
トウヤがにやっと笑う。
「俺もそう思ってた」
「情報を集めるべきだ」
チェレンが言う。
「街の人間で、彼らの動きを追っている人物がいるかもしれない。ジム側が把握している可能性も高い」
その時だった。
「お、君たち」
聞き覚えのない、けれど妙に明るい声がした。
振り向くと、緑の髪を跳ねさせた青年が、通りの向こうからこちらへ歩いてくるところだった。派手な服装なのに、不思議と街の色に馴染んでいる。
けれどシンが最初に見たのは服でも笑顔でもなく、その目だった。
軽そうに見えて、きちんと周囲を見ている目。
「さっき広場で、変なのに絡まれてた子を助けてたろ?」
青年は四人を見回して、少しだけ口角を上げた。
「話、聞かせてくれないか。オレも、あいつらのこと探してる」
風が一度だけ強く吹いて、広場の喧騒を揺らした。
ミジュマルがすっと立ち上がる。
フシデの触角が、また前を向いた。
街の空気が、昼より少しだけはっきりした気がした。
何かが、動き出している。
シンはその青年を見返しながら、静かに頷いた。
たぶん、ここからだ。