朝のポケモンセンターは、思ったより静かだった。
ヒウンシティの外はもう動き出しているはずなのに、この建物の中だけは、少しだけ時間の流れが遅い。
シンは窓際の席で、紙コップに入った水を一口飲んだ。
向かいではミジュマルが腕を組み、いつもより少しだけ真面目な顔で座っている。足元のフシデは丸くなっているように見えて、触角だけは絶えず動いていた。落ち着いているわけではない。ただ、じっとしていられるようになっただけだ。
昨日の夜から、ずっとそうだ。
身体は休んでいるのに、頭のどこかが起きたままになっている。
「起きてたんだね」
ベルがトレイを持ってやってきた。
パンとスープ。それから、ムンナ用に分けた木の実が少し。
「そっちも」
「うん。なんか、寝たのに寝た気がしなくて」
ベルは苦笑いして席についた。
ムンナは昨日より少しだけ落ち着いた顔をしている。けれど、ぼんやりしているわけでもない。ベルの手が離れるたび、ちゃんとその先を見ていた。
「こわい?」
シンが訊くと、ベルは少しだけ目を丸くしたあと、すぐに頷いた。
「こわいよ」
隠さなかった。
「でも、それだけじゃなくなってきたかも」
「それだけじゃない?」
「うん。昨日は、止めなきゃって思ったの」
ベルはスープの湯気を見ながら言う。
「それで動けた。でも今日は、ちゃんと勝ちたいって思ってる」
「ジム戦?」
「うん」
ベルはそこで、ムンナの頭をそっと撫でた。
「ムンナと一緒に、今のわたしたちでどこまで行けるか試したい」
ムンナが目を細める。
甘えているというより、その言葉を受け取っている顔だった。
シンは頷く。
ベルはもう、ただ守られたいから勝ちたいわけじゃない。
自分で前に出るために、勝ちたいと思い始めている。
少し遅れて、チェレンとトウヤも食堂へ入ってきた。
トウヤはいつも通りの顔で手を上げる。
「おはよー」
「まるで普通だね」
ベルが呆れたみたいに言うと、トウヤは肩をすくめた。
「普通じゃないときほど、普通っぽくしといたほうが楽だろ」
その肩にいるツタージャは、いかにも当然だという顔で目を細めている。
一方でチェレンは、トレイを置く音までいつもより固かった。
ポカブはその足元にぴったり寄っている。落ち着かせようとしているのか、あるいは自分も離れたくないのか、その両方かもしれない。
「整理しよう」
席につくなり、チェレンが言った。
「昨日のことも、今日のことも」
「はいはい、議題は?」
トウヤがパンをちぎりながら言う。
「まず昨日の件。プラズマ団と名乗っていないにせよ、少なくともあの連中は組織的に動いている」
「うん」
シンが頷く。
「広場と倉庫街で役割が分かれてた」
「そう。目立つ場所で空気を作る人間と、見えにくい場所で実際に手を出す人間」
チェレンは一度区切る。
「そして、これはたぶんヒウンシティだけの話じゃない」
その場の空気が少しだけ重くなった。
ベルがムンナを抱く腕に力を込める。
「じゃあ、またどこかで……」
「あるだろうね」
チェレンははっきり言った。
「だからこそ、昨日の経験を“たまたま切り抜けた”で終わらせたくない」
「なるほど」
トウヤが笑う。
「それで今日のジム戦にもつなげたいわけか」
「当然だ」
チェレンの返事は速かった。
「見て、考えて、相手に応じて動く。その精度は、対人戦でもジム戦でも変わらない」
シンはその言葉を聞きながら、フシデを見る。
フシデは昨日、ただ熱くなって突っ込むだけじゃなかった。
ミジュマルの動きのあとに自分の一手を重ねられるようになってきている。
経験が積み上がっている。
戦うたびに、少しずつ。
「シン?」
ベルに呼ばれて顔を上げる。
「どうしたの?」
「……いや」
シンは少し考えてから言った。
「昨日のこと、バトルにも似てるなって」
「似てる?」
「相手のやり方を見て、次に備えるところ」
ミジュマルが胸を張る。
フシデも前脚を小さく鳴らした。
「一回見た動きは、次は前より対応しやすい」
「それ、シンっぽいね」
トウヤが言う。
「お前、初見は普通でも二回目から急に嫌な相手になるし」
「嫌な相手って言い方」
ベルが苦笑する。
「でも、分かるかも」
その言葉に、シンは少しだけ肩の力が抜けた。
言語化しきれないものを、誰かが自然に受け取ってくれると助かる。
「ベルは?」
チェレンが真面目な顔で訊く。
「今日、どう戦うつもりだ」
ベルは少しだけ考えたあと、ムンナを見た。
「こわい時に、こわいってちゃんと分かるようにしたい」
「……それが戦い方か?」
「うん」
ベルは頷く。
「無理に平気なふりすると、ムンナにも伝わると思うから」
ムンナが小さく鳴く。
否定ではない。たぶん、賛成だ。
「だから、怖いなら怖いまま行く。でも、そこで止まらない」
ベルは顔を上げる。
「今のわたしにできるの、たぶんそれだから」
チェレンは何か言いかけて、やめた。
その代わり、静かに頷いた。
「……悪くない」
短い言葉だった。
でも、ベルはちゃんと嬉しそうに笑った。
食事を終えたあと、四人はポケモンセンター裏の小さなバトルスペースへ移動した。
ジムへ向かう前に、身体を少し動かしておきたかった。
街の真ん中にある簡易スペースだから、広くはない。けれど、今の彼らにはちょうどよかった。
「軽くだけな」
トウヤが言う。
「本番前に消耗したら意味ないし」
「分かってる」
チェレンが答える。
「確認だけでいい」
確認。
その言葉が、今日は妙にしっくりきた。
勝てるかどうかじゃなく、今の自分たちがどこにいるのか。
それを確かめる時間だ。
最初に前へ出たのはベルだった。
「ムンナ、お願い」
ムンナがふわりと浮かぶ。
向かいにはチェレンのポカブ。
ポカブは最初から構えすぎず、ベルたちの出方を待っている。
チェレンの戦い方がよく出ていた。
「ムンナ、ねんりき」
早すぎない指示だった。
ベルはちゃんと、自分の声が届く間を作っている。
透明な力が伸びる。
「ポカブ、左」
チェレンの短い声に、ポカブが半歩だけずれる。
完全には避けきれない。
けれど、直撃もしない。
力を流されたムンナが少しだけ体勢を崩す。
その瞬間、ベルの目が揺れた。
不安が出る。
でも、以前ならそこで止まっていたはずだ。
「だいじょうぶ、ムンナ」
今のベルは、すぐ次の声をかける。
「もう一回、いける」
ムンナの耳がぴんと立つ。
その声で立て直せるのは、ベルの言葉を信じているからだ。
シンはそこを見ていた。
技の強さじゃない。
揺れたあと、戻ってこられる速さ。
それが前よりずっと良くなっている。
「……なるほど」
隣でトウヤが小さく言う。
「ベル、ちゃんとトレーナーになってきたな」
その言い方に、チェレンが少しだけ目を細めた。
でも否定はしなかった。
たぶん、同じことを感じている。
次はシンだった。
「ミジュマル、フシデ」
二匹が前に出る。
向かいはトウヤのツタージャだけだ。
「二対一?」
ベルが言うと、トウヤは笑う。
「いいよ。相性じゃなくて確認だし」
ツタージャは涼しい顔だった。
数の不利なんて最初から勘定に入れていないような顔。
シンは一度だけ呼吸を整える。
頭の中に置くのは、昨日の夜の動きだ。
先に突っ込むと、トウヤは速い。
だから、先に置く。
「フシデ、いとをはく」
白い糸が地面を走るように伸びる。
当てるためじゃない。
ツタージャの踏み込み先を狭めるためだ。
ツタージャはすぐ横に跳ぶ。
その動きを、もう待っていた。
「ミジュマル、みずでっぽう」
ツタージャが着地する位置へ、水流が飛ぶ。
直撃はしない。
けれど、完全に動きは読めていた。
トウヤの目が少しだけ細くなる。
「いいじゃん」
その声と同時に、ツタージャが低く滑るように前へ出た。
速い。
でも昨日より、シンにはちゃんと見える。
「フシデ、右!」
フシデが体をずらし、ツタージャの角度を変えさせる。
「ミジュマル!」
名前を呼んだだけで、ミジュマルが前へ出た。
貝を打ち込み、ツタージャの勢いを逸らす。
完璧ではない。
でも十分だった。
数歩ぶん下がったところで、トウヤが手を上げる。
「はい、ここまで」
ツタージャもすぐ動きを止めた。
息は乱れていない。
でも、目だけは少し楽しそうだった。
「前より嫌だな」
トウヤが笑う。
「置き方が分かってきてる」
シンは少しだけ息を吐く。
褒められたのだと分かる。
ミジュマルは得意そうに胸を張り、フシデは前脚を小さく鳴らした。
その音が、少し誇らしげに聞こえた。
最後に、チェレンとトウヤが向き合った。
ベルが息をのむ。
シンも少しだけ姿勢を正す。
この二人は、似ていない。
似ていないからこそ、並ぶとよく分かる。
「いくぞ、ツタージャ」
「ポカブ、見失うな」
始まった瞬間、トウヤが速かった。
迷いなく前へ出る。
ツタージャも同じだ。
考えるより先に正解へ触れにいくような動き。
対してチェレンは、一歩引いた位置で全体を見る。
ポカブを無理に前へ出させない。
迎え撃つ形を整えながら、崩されたくない場所を先に守る。
「右から来る!」
ベルが思わず声を上げた、その通りにツタージャが回り込む。
けれどチェレンはもう動いていた。
「ポカブ、ひのこ」
火が円を描くように散る。
攻撃というより、進路制限。
トウヤが一番嫌がる置き方だと、シンは思った。
「へえ」
トウヤが笑う。
「それやるんだ」
「君には、正面から付き合わない方がいいと分かったからね」
チェレンの声は冷静だった。
でも、その内側に熱がある。
ベルの成長を見て、昨日の夜を見て、たぶんチェレンもまた変わってきている。
理屈だけじゃなく、前へ出るための理屈になってきている。
数手のやり取りのあと、チェレンが止めた。
「ここまででいい」
「もうちょいやれたろ」
「今日は確認だと言ったはずだ」
そう言ってから、チェレンはポカブを見下ろした。
「……よく見えていたよ」
ポカブはその言葉に、短く鳴く。
嬉しいのを隠しきれていない声だった。
トウヤは肩のツタージャを指先でつつく。
「お前も。さすがに速いな」
ツタージャは当然だと言いたげに顔を背けたが、尻尾だけは少し上がっていた。
ベルが笑う。
「みんな、ちゃんと通じ合ってるね」
「簡単に言うなよ」
トウヤが言う。
「こうなるまでが大変なんだから」
「でも、そうなんだろ」
シンが言うと、トウヤは一瞬だけ黙って、それから笑った。
「まあな」
ジムへ向かう道は、昨日までより少しだけ短く感じた。
ヒウンシティの通りは相変わらず人が多い。店先の声も、行き交う荷車も、全部が忙しなく動いている。
その中で四人は並んで歩く。
昨日と同じ街。
でも、見え方はやっぱり少し違う。
「順番、どうする?」
ベルが訊く。
チェレンが少し考える。
「厳密に決めなくてもいいが……」
「トウヤからでいいんじゃない?」
シンが言う。
三人がこっちを見る。
「たぶん、一番空気を掴むのが速い」
トウヤが目を瞬かせ、それから吹き出す。
「それ、褒めてる?」
「事実」
「シン、それ褒める時の言い方じゃないよ」
ベルが笑う。
けれどチェレンは頷いた。
「理にかなっている。最初に流れを作れる人間が入るべきだ」
「じゃあ二番手は?」
「僕だろうね」
チェレンは迷わず言う。
「先に見えた情報を、次で使える」
「三番手、わたし?」
ベルの声に、少しだけ緊張が混じる。
シンは頷いた。
「うん。でも、今のベルなら大丈夫だと思う」
ベルが少しだけ息を止める。
それから、嬉しそうに笑った。
「……ありがと」
「じゃ、最後はシンか」
トウヤが言う。
「全部積み上がったあと、一番伸びるやつ」
その言葉に、シンは少しだけ考えてから頷いた。
たしかに、それが自分の形かもしれない。
一回目で終わらない。
見たものを、次へつなげる。
積み上げたぶんだけ、強くなる。
それはたぶん、ミジュマルやフシデとも同じだった。
ヒウンジムが見えた時、四人とも少しだけ口数が減った。
建物そのものは街の中に溶け込んでいるのに、近づくほど存在感が増していく。
ここから先は、街歩きでも、夜の倉庫街でもない。
ちゃんとした勝負の場所だ。
トウヤが足を止める。
「じゃ、行くか」
軽い声だった。
でも、その軽さは逃げじゃない。
前へ出るための軽さだ。
チェレンは静かに息を吐く。
ベルはムンナを抱いたまま、一度だけ目を閉じた。
シンはミジュマルとフシデを見る。
ミジュマルは胸を張っている。
フシデは少し低く身構えている。
どちらも、もう昨日のままじゃない。
自分もそうだと思いたかった。
「みんな」
ベルが小さく言う。
三人が振り向く。
「勝とうね」
まっすぐな声だった。
前なら、その一言にもっと不安が混じっていたはずだ。
今は違う。
怖さごと前へ出た声になっている。
「当然だ」
チェレンが答える。
「勝つよ」
トウヤが続く。
シンも頷いた。
「うん」
四人は顔を見合わせる。
その足元で、ポケモンたちもそれぞれに声を上げた。
ムンナは静かに。
ポカブは短く力強く。
ツタージャは誇るように。
ミジュマルは張り合うように。
フシデは小さく、でも確かに。
その声を連れて、四人はヒウンジムの入口へ向かった。
街の中で見てきたものも、昨日の夜に積み上がったものも、全部ここへつながっている。
扉の前で、シンは一度だけ振り返る。
ヒウンシティは今日も大きくて、速くて、簡単には全部見えない。
でも、見えないまま進むんじゃない。
見ようとして、覚えて、次に活かしていく。
それが自分の歩き方だ。
ミジュマルが足元で小さく鳴く。
フシデの触角が、前を向く。
シンは小さく息を吐いて、扉へ手を伸ばした。
次はいよいよ、ジム戦だ。