ヒウンジムの中は、外から見た印象よりずっと静かだった。
街の喧騒をそのまま切り離したみたいに、空気の質が違う。
高い天井。甘いような、少し青いような匂い。壁や床には、どこか整いすぎていない色の置き方がされていて、ただの建物というより、大きな作品の中へ入ってきたみたいだった。
「……なんか、ジムっていうより美術館っぽいね」
ベルが小さく言う。
「虫ポケモン使いのアーティらしい空間だな」
チェレンは周囲を見回しながら答えた。
「見せ方まで含めて、自分のスタイルなんだろう」
トウヤは返事をしなかった。
その代わり、肩の近くにいるツタージャが、じっと奥を見ている。
いつも通り涼しい顔だ。
でも、シンには分かる。
あれは落ち着いているんじゃない。待っているのだ。早く前へ出たいのを、表に出しすぎないようにしている顔だった。
「最初、俺でいいんだよな」
トウヤが振り返る。
「うん」
ベルが頷く。
「昨日決めた通り」
「変に気負うなよ」
チェレンが言う。
「君は、気負わないほうが強い」
「それ、褒めてる?」
「事実だ」
トウヤが笑う。
「じゃ、行ってくる」
ツタージャが床へ軽く降りる。
着地の音が小さい。
なのに、前へ出る気配だけははっきりしていた。
シンはその背中を見る。
トウヤは速い。
考える前に動ける、という意味じゃない。
考えることと動くことの間が、妙に短いのだ。
だから、見た瞬間の答えに触れられる。
たぶん、それがトウヤの強さだった。
最初のジムトレーナーは、絵の具のついたエプロンをつけた若い男だった。
「ここはアーティさんのジム! 勝つだけじゃ進めないよ!」
そう言って繰り出されたのはクルミル。
ツタージャは一歩前へ出たまま、すぐには動かない。
相手の出方を見る。
いや、待っているようでいて、もう半分は踏み込んでいる。
「ツタージャ、つるのムチ」
細くしなやかな鞭が、一気に伸びた。
クルミルが横へ跳ぶ。
その避け方を見た瞬間、トウヤの声が重なる。
「そのまま前、たいあたり!」
考えてから出した指示には聞こえなかった。
避けた先が見えていたみたいに、自然につながる。
ツタージャが低く滑り込み、体当たりを入れる。
クルミルは踏ん張るが、勢いを殺しきれない。
そこでもう一度、つるのムチ。
今度は叩くというより、押し切るための打ち方だった。
「クルミル戦闘不能!」
短い勝負だった。
トウヤはあまり喜ばない。
ツタージャも同じだ。
当然、という顔で次を待っている。
「やっぱ速いな……」
ベルがぽつりと漏らす。
「速いだけじゃない」
チェレンが言う。
「繋ぎ方がうまいんだ。一手目で終わらせようとしていない」
シンもそう思った。
トウヤはその場で正解を引くタイプに見える。
でも実際は、見えた一手から次の一手までを短く繋ぐのが速い。
だから、相手は考え直す暇をもらえない。
次のジムトレーナーはハーデリアを連れた女性ではなく、虫取り用の網を背負った少年だった。
繰り出されたのはイシズマイ。
さっきとは違う。
受けの硬さが見て分かるポケモンだ。
トウヤは一瞬だけ目を細めた。
ツタージャも、さっきより半歩ぶん距離を取る。
「いきなり押し切るのは無理だな」
トウヤが小さく言う。
そのひとりごとに、ツタージャの尻尾がわずかに揺れた。
焦っているわけではない。
むしろ、試されている時の顔だった。
「イシズマイ、からにこもる!」
守りを固める音が、乾いて響く。
「ツタージャ、離れて見るぞ」
ツタージャがすぐ下がる。
無理に叩かない。
トウヤはそのまま足を止め、相手の動きをじっと見る。
珍しかった。
いつものトウヤなら、もっと先に触りに行く。
でも今は違う。
昨日からの流れがある。
見て、掴んで、そこから崩す。
「トウヤ、ちゃんと待ってるね」
ベルが言う。
「たぶん、昨日の夜の影響だろう」
チェレンが答える。
「速い人間が待てるようになると厄介だ」
「それ、自分で言ってて嫌な褒め方だと思わない?」
「思わない」
その間に、イシズマイが前へ出る。
真正面から押してくる動きだ。
トウヤの目が変わる。
「今だ、横からつるのムチ!」
ツタージャが真横へ走る。
正面からは硬い。なら横。横がだめなら、動いた瞬間。
打撃そのものより、体勢をずらすための一撃。
イシズマイの脚がわずかに流れる。
「もう一回!」
同じ場所ではなく、今度は逆側。
連続で重ねることで、硬さそのものじゃなく、踏ん張りを壊す。
そして、三手目。
「たいあたり!」
崩れた重心へ、真正面からぶつかる。
イシズマイは持ちこたえたが、その場で止まれない。
半歩、後ろへ下がる。
たったそれだけのずれだった。
でもトウヤは、それで十分だと分かっていた。
「そこ」
短い声。
ツタージャのつるのムチが、さっきまでより深く入る。
イシズマイの身体が傾き、そのまま倒れ込んだ。
「イシズマイ戦闘不能!」
今度は少しだけ、場の空気が揺れた。
ただ速いだけじゃない勝ち方だったからだ。
ベルが目を丸くする。
「すご……」
「力で破ったわけじゃない」
シンが呟く。
「動いたところを、何回もずらした」
「見てるね、シン」
トウヤが振り返らずに言う。
シンは小さく肩をすくめた。
「昨日から、そうするって決めてるから」
「そっか」
トウヤは少しだけ笑う。
その足元で、ツタージャもほんのわずかに顎を上げた。
誇らしいのだ。
けれど、それを見せびらかす趣味はない。
そういうところが、トウヤに似ていた。
ジムの最奥には、大きな絵が置かれていた。
いや、絵というより、色と糸と木の枝で組まれた、虫の巣のような作品だ。
その前に立っていた男が、こちらを振り返る。
鮮やかな髪色。軽やかな身振り。けれどその目だけは、作品を見ている時と同じ集中を保っていた。
「来たね、チャレンジャー」
アーティはにっと笑う。
「君、入口から見てたよ。速いね。でも、速いだけじゃない」
トウヤが口の端を上げる。
「見られてたんだ」
「もちろん。アートってのは観察だからね」
アーティの視線がツタージャへ移る。
「その子もいい。細い線みたいなのに、ちゃんと芯がある」
ツタージャが少しだけ目を細めた。
嫌がってはいない。
見られていることを分かって、見返している。
「面白いな」
トウヤが言う。
「ポケモンを見る目、嫌いじゃないかも」
「うれしいねえ」
アーティは両手を広げた。
「じゃあ見せてよ。君とその子の色を」
ベルが小さく息をのむ。
チェレンは腕を組み直す。
シンは、隣のミジュマルとフシデが少し前のめりになるのを感じた。
ここからが本番だ。
「ジムリーダーのアーティ! いくよ!」
最初に出てきたのはクルマユだった。
葉に包まれた身体は動きが少ない。
でも、少ないからこそ読みづらい感じがした。
「クルマユ、がまん!」
アーティの声に、トウヤの眉が少し動く。
「へえ」
そこで焦らない。
ツタージャもすぐには手を出さなかった。
「受ける前提か」
トウヤは小さく呟く。
「じゃあ、無理に触らない。ツタージャ、周りを使って動け」
ツタージャが大きく回る。
距離を変え、角度を変え、相手の目線をずらしていく。
クルマユは動かない。
でも、その“動かなさ”の中にわずかな揺れが出る。
どこへ来るかを測っている証拠だ。
「今!」
つるのムチが伸びる。
深く打ち込まない。触れるだけで引く。
「まだ!」
もう一度、今度は反対側。
クルマユは受ける。
受けるけれど、完全には見失わせてもらえない。
トウヤはそこを見ていた。
「たいあたり!」
真正面からではない。
揺れた直後、重心が戻る前の一瞬を突いた体当たり。
クルマユの身体が少しだけ浮く。
その時点で、アーティが笑った。
「いいね! 線じゃなくて流れを取ってる!」
次の瞬間、クルマユが溜めていた力を返す。
がまんの反撃だ。
「ツタージャ!」
吹き飛ばされる。
床を滑る音に、ベルが小さく肩を震わせた。
けれどツタージャはすぐ起きた。
痛くないわけじゃない。
でも、目が折れていない。
むしろ、少しだけ熱くなっていた。
「ごめん、今のはちょっと深く入れすぎた」
トウヤが言う。
謝る声が軽くない。
ちゃんと、自分の読みのずれを認める声だった。
ツタージャが振り返る。
責める顔ではない。
次は外すな、と言っている顔だ。
「分かった」
トウヤが笑う。
「次で取る」
その短い言葉に、ツタージャの身体がすっと低くなった。
信じている。
相手の強さも、自分のトレーナーも。
「つるのムチ!」
今度は浅く打つ。
すぐ引く。
「もう一回!」
重ねる。
「最後、たいあたり!」
返される前に下がる。
受け切る前にずらす。
守りの輪郭だけを削っていくみたいな戦い方だった。
三度目のぶつかり合いのあと、クルマユがとうとう膝を折る。
「クルマユ戦闘不能!」
ベルがほっと息をつく。
チェレンの目は細いままだった。
「……本当に、自分の感覚で正解へ行くな」
「でも、修正もしてる」
シンが言う。
「最初の一回で終わってない」
トウヤはたぶん、天才だ。
でも“なんとなく勝つ”わけじゃない。
見えたものを、その場でちゃんと次に変えている。
「よし、次だよ! イシズマイ!」
アーティの二匹目が出る。
さっきのジムトレーナーの個体より、明らかに目が鋭かった。
ツタージャも分かっている。
さっきより慎重だった。
「ツタージャ、先に――」
言いかけたトウヤより早く、イシズマイが動く。
速い。
一直線の踏み込み。
ツタージャがぎりぎりで避ける。
「なるほど」
アーティが楽しそうに言う。
「待つだけじゃない。こっちも見てる」
トウヤの目が一瞬だけ笑う。
嬉しいのだ。
強い相手ほど、そういう顔になる。
「いいね」
今度はトウヤのほうから言った。
「それなら、こっちも遠慮いらない」
ツタージャが前へ出る。
イシズマイも応じる。
ぶつかる前に、トウヤの声。
「一回見せて、引け!」
ツタージャが踏み込むふりだけして、半歩で止まる。
イシズマイがそれに食いついて前へ出る。
空振り。
そこへ横から、つるのムチ。
真正面の硬さを避けた一撃が入る。
「もう一回、下!」
脚を払うような角度。
イシズマイの体勢がわずかに崩れる。
それでも倒れない。
強い。
でも、強いからこそ、一度崩れた重心は戻しきれない。
「たいあたり!」
ツタージャが低く潜り込む。
真正面じゃない。肩口へ斜めに入る体当たり。
イシズマイが横へ滑る。
そのまま、二歩。
三歩。
止まりきれない。
「つるのムチ!」
最後の一撃で、イシズマイが倒れた。
「イシズマイ戦闘不能!」
アーティが大きく息を吐く。
悔しそうなのに、どこか嬉しそうでもある顔だった。
「やるねえ……!」
ツタージャも息をしている。
さっきより疲れは見える。
でも、まだ立っている。
まだ前を見ている。
「最後……ダンゴロじゃなくて、こいつでいこうか」
アーティが最後のボールを掲げる。
現れたのはハハコモリではなく、レベル感を壊さない範囲で、ヒウンジムらしくハハコモリ手前の強さを感じさせるモンメン系ではなく――とシンは一瞬混乱しそうになったが、実際に出てきたのはハハコモリではなく、看板のエースらしいハハコモリ級の威圧感を持つクルマユ進化後……ではない。
けれど、アーティは笑ってボールを戻した。
「いや、違うな」
ぽん、と軽い音。
「最後はやっぱり、ボクの最高傑作で!」
現れたのはハハコモリだった。
葉の衣をまとった姿が、さっきのクルマユとはまるで違う。
美しい。
でもそれ以上に、鋭い。
ベルが思わず息を呑む。
「進化してる……」
「気配が違うな」
チェレンが低く言う。
シンも頷いた。
あれは受けるだけじゃない。
切ってくる。
ハハコモリは速かった。
ツタージャと同じか、少し上。
線の細さではなく、完成された軽さだ。
「ツタージャ、下がって――」
遅くはなかった。
けれど、ハハコモリの方が半歩先だった。
切り裂くような一撃。
ツタージャが後ろへ下がる。
着地はした。まだいける。
けれど、今までより明らかに重い一撃だ。
「っ……」
ベルが声を飲み込む。
トウヤは焦っていなかった。
ただ、目だけがさっきまでより鋭い。
「速いな」
「でしょ?」
アーティは笑う。
「でも、君のツタージャも悪くない。迷わず前を向ける子だ」
ツタージャが小さく鳴く。
悔しいのだ。
押されていることが。
トウヤはそれを聞いたみたいに、ほんの少し笑った。
「分かってる」
短い返事。
それだけで、ツタージャの目が戻る。
シンは思う。
トウヤとツタージャは、言葉の長さじゃない。
噛み合うまでの速さが似ている。
「一回だけ、正面で見るぞ」
トウヤが言う。
チェレンが目を見開く。
「正面から?」
「避け続けても、たぶん追いつけない」
トウヤはハハコモリを見たまま答える。
「だったら、一回ぶつかって、どのくらい速いか身体で覚える」
シンは息を止めた。
それは、自分のやり方とは少し違う。
でも、トウヤらしい。
直感で触れて、そこから掴む。
「ツタージャ、来い!」
正面から踏み込む。
ハハコモリも迎え撃つ。
ぶつかる。
ツタージャが弾かれる。
痛い。
でも、その一回で終わらなかった。
着地したツタージャの目が変わっている。
相手の速さを、今ので掴んだのだ。
「……なるほど」
トウヤが笑う。
「そういう速さか」
アーティの目も光る。
「いいね!」
「ツタージャ、次は横!」
今度は間に合う。
さっきまで半歩遅れていたところへ、ちゃんと踏み込める。
ハハコモリが追う。
けれど、その追い方をもう待っていた。
「つるのムチ!」
葉の衣に弾かれる。
それでもいい。
「もう一回、逆!」
追ってきた流れを反転させる。
ハハコモリの脚がわずかに止まる。
「そこ!」
たいあたりが入る。
浅い。
でも、崩れた。
アーティが笑みを消した。
「……すごいね、君」
トウヤは答えない。
ツタージャも、もう前しか見ていない。
次の一撃。
その前に、ハハコモリの反撃が来る。
ツタージャが耐える。
膝をつきそうになって、こらえる。
トウヤが一歩前へ出る。
「ツタージャ!」
名前だけ。
それだけで、ツタージャがもう一度顔を上げる。
誇りがあった。
ここで倒れたくない、という意地がある。
トウヤの隣で立つ自分でいたい、という顔だった。
「最後、いけるか」
問いかけだった。
命令じゃない。
ツタージャが短く鳴く。
答えは、もう出ている。
「よし」
トウヤが笑う。
「じゃあ、決めよう」
次の瞬間、ツタージャが駆けた。
ハハコモリも動く。
速さと速さがぶつかる。
ほんのわずか、外へ流した。
真正面じゃない。
トウヤが最後に選んだのは、勝ち筋の残る角度だった。
「つるのムチ!」
打つ。
「たいあたり!」
重ねる。
ハハコモリがふらつく。
ツタージャも限界に近い。
それでも、最後に立っていたのは――
「ハハコモリ戦闘不能! よって勝者、チャレンジャー・トウヤ!」
ベルが勢いよく息を吐く。
シンも、遅れて肩の力を抜いた。
チェレンは何も言わなかったが、その目だけははっきり熱を持っていた。
トウヤはその場でしゃがみ込み、ツタージャの頭に手を置く。
「よくやった」
ツタージャは平然とした顔をしようとして、でもしきれずに目を細めた。
嬉しいのだ。
限界までやって、ちゃんと届いたことが。
そして、その勝ち方がトウヤの隣で掴んだものだったことが。
アーティはバッジを差し出しながら、心底楽しそうに笑っていた。
「いやあ、いいもの見せてもらったよ。君の戦い、速さだけじゃないね。触って、掴んで、そこから色を変えていく」
トウヤが立ち上がる。
「そっちこそ。思ったよりずっと面白かった」
「はは、嬉しいな」
アーティはツタージャを見る。
「その子、君のこと信じてるよ。だから無茶な角度でも踏み込める」
トウヤは少しだけ目を瞬いて、それからツタージャを見る。
ツタージャは視線を逸らした。
でも、否定はしない。
「……そうかもな」
珍しく、少しだけ静かな返事だった。
シンはその横顔を覚えておく。
トウヤは速い。
でも、速さだけで勝っているんじゃない。
隣にいるポケモンが、自分の判断に踏み込めるだけの信頼があるから、あの速さが形になる。
「次は僕だ」
チェレンが一歩前へ出る。
その声には、もう迷いがなかった。
トウヤがバッジを指で弄びながら笑う。
「おう。熱くなりすぎんなよ」
「君にだけは言われたくない」
ベルがくすっと笑う。
ミジュマルは悔しそうに胸を張り、フシデは前脚を鳴らしている。
ムンナはベルの腕の中で、静かにジムの奥を見ていた。
次はチェレン。
その次は、ベル。
そして最後に、自分。
順番に積み上がっていく。
シンはそう思いながら、チェレンの背中を見る。
ジム戦は、まだ終わっていない。