トウヤがバッジを受け取って戻ってきた時、ジムの空気はまだ少し熱を持っていた。
ツタージャは平然とした顔をしている。けれど、その足取りには勝ったあとの軽さがあった。トウヤもいつも通りに見えるのに、目だけは少しだけ明るい。
「ほい」
トウヤが見せるようにバッジを持ち上げる。
ベルが小さく声を上げた。
「ほんとに取っちゃった……」
「取るって言っただろ」
「そうだけど!」
ベルは嬉しそうに笑う。
その横で、チェレンは一歩だけ前へ出た。
何も急いでいるようには見えない。
でも、シンには分かる。
待っていたのだ。
トウヤの勝ち方を見て、自分の番が来るのを。
アーティはそんなチェレンを見て、楽しそうに目を細めた。
「次はキミだね」
「ああ」
チェレンは短く頷く。
「挑戦させてもらう」
「いい返事」
アーティはくるりと指を回した。
「さっきの子は、線を掴んで色を変える感じだった。でもキミは違うね。もっと、組み立てる目をしてる」
「そう見えるなら、たぶん間違っていない」
トウヤが後ろで吹き出す。
「そういう返し方するよなあ」
チェレンは無視した。
ただ、足元のポカブを一度だけ見下ろす。
ポカブも、いつもより静かだった。
落ち着いているというより、集中している顔だ。短い手足に力が入っていて、今すぐ前に出られる位置を保っている。
「ポカブ」
チェレンが呼ぶ。
ポカブが短く鳴いた。
それだけで十分だった。
チェレンは顔を上げる。
「いくよ」
その声は低い。
でも、迷いはなかった。
アーティの一匹目はホイーガだった。
丸く硬い体。転がるような速さ。さっきトウヤが相手取ったクルマユとも、イシズマイとも違う、勢いで押してくるタイプだ。
「ホイーガ、ころがるようにいくよ!」
開始と同時に、ホイーガが低く沈む。
シンの足元でフシデの触角がぴくりと揺れた。
似ているからだ。
同じ虫で、近い系統の動きがある。
「ポカブ、正面に立つな。左を切れ」
チェレンの声で、ポカブが真正面から半歩ずれる。
転がってくる勢いを、まっすぐ受けない位置だ。
「ひのこ!」
散る火が、ホイーガの進路の少し先へ落ちる。
当てるためじゃない。
通り道を狭めるための火だった。
ホイーガがほんの少し角度を変える。
その瞬間を、チェレンは見ていた。
「今だ、たいあたり!」
ポカブが横からぶつかる。
威力で止めるには足りない。
それでも十分だった。
まっすぐだった回転がわずかに流れる。
そこへもう一度、ひのこ。
今度は当たる。
ホイーガが身体を揺らし、勢いを切らす。
「へえ!」
アーティが笑う。
「正面から焼かないんだ!」
「相手の得意な形に付き合う理由はない」
チェレンは即答した。
「ポカブ、下がって距離を保て」
ポカブは追わない。
火の届くぎりぎりの位置で止まり、次の指示を待つ。
ホイーガが体勢を立て直す。
その目はまだ折れていない。
むしろ、押し返されたことで少し熱くなっていた。
「くるよ」
ベルが小さく言う。
その通りだった。
ホイーガが今度はさっきより低く、速く来る。
「ポカブ、動くな」
チェレンの声に、ベルが目を見開いた。
「えっ」
シンも、少しだけ息を止める。
止まるのか。
だがチェレンの目は動いていなかった。
「そのまま…… 今!」
ぎりぎりまで引きつけて、横へ一歩。
ポカブがかわした直後、チェレンの声が重なる。
「ひのこ、真横!」
至近距離。
避けきれない火が、ホイーガの側面を打つ。
直後に、たいあたり。
流れの止まった相手へ、短く、鋭く。
ホイーガは二度たたらを踏んで、そのまま崩れた。
「ホイーガ戦闘不能!」
ベルが息を吐く。
「すご……」
「止まったんじゃない」
シンが言う。
「止まって見せて、引きつけた」
「うん」
トウヤも笑う。
「チェレン、ああいう嫌なことするよな」
「褒めてるのか?」
「もちろん」
チェレンは振り返らなかった。
でも、その口元がほんの少しだけ動いたのを、シンは見た。
「いいねえ」
アーティが次のボールを構える。
「頭で作った線の上に、ちゃんとポカブが乗ってる」
出てきたのはイシズマイだった。
さっきトウヤも戦った相手だ。
ただし今度は、チェレンにとって明確にやりづらい相手でもある。
炎が通るとは限らない。
正面から押しきるにも、ポカブの体格では分が悪い。
チェレンの目が細くなる。
でも、迷いは見えない。
「ポカブ、距離は近すぎるな」
低い声。
独り言みたいなのに、ポカブはちゃんと聞いている。
「なら、足を動かさせる」
「イシズマイ、からにこもる!」
硬い音が鳴る。
守りを固める構え。
チェレンはすぐには打たない。
ポカブを動かし、円を描くように位置を変えさせる。
「待つんだ」
ベルが小さく呟く。
「待ってるね」
「必要だからだろう」
シンが返す。
チェレンは感情で急がない。
急ぎたい時ほど、順番を崩さない。
イシズマイが前へ出る。
踏み込みは遅くない。
でも重い。
曲がりにくい。
「右へ」
ポカブが動く。
「もう一歩」
イシズマイが追う。
「そこで、ひのこ」
火が、正面ではなく脚元へ散る。
直接倒すための火じゃない。
熱で、踏み込みを鈍らせる火だ。
イシズマイの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「たいあたり!」
横からぶつける。
効いているとは言い難い。
けれど、チェレンはそこで終わらせなかった。
「もう一回、同じ側じゃない。逆だ」
ポカブが回る。
さっき押した側とは反対へ。
イシズマイが向き直る。
その向き直りに、もう一拍ぶん遅れがある。
「ひのこ!」
今度は顔の前。
避けるために首が上がる。
「そこだ、たいあたり!」
低い位置が空いた一瞬を、ポカブが突く。
イシズマイの身体がわずかに浮く。
「……なるほど!」
アーティの目が光る。
「硬さを壊してるんじゃない。置き場所を崩してるんだ!」
チェレンは答えない。
ただ、もう次を見ていた。
「ポカブ、引け」
引く。
追わせる。
また火で止める。
正面の防御そのものを抜くのではなく、立ち方と踏ん張りを少しずつずらしていく。
シンはそれを見ながら思う。
チェレンの戦い方は、盤面を削る戦いだ。
大きくひっくり返すのではなく、相手が正しく立てる場所を奪っていく。
「今!」
最後のたいあたりが、イシズマイの肩口へ入る。
押し勝ったわけじゃない。
でも、もう踏ん張れない場所だった。
イシズマイが横倒しになる。
「イシズマイ戦闘不能!」
ベルが両手をぎゅっと握る。
「チェレン……!」
チェレンはまだ振り返らない。
ただ一度だけ、ポカブに向かって言った。
「いいよ」
短い言葉だった。
ポカブが、いつもより少し高い声で鳴く。
嬉しいのを隠せていない声だった。
そして最後に出てきたのは、ハハコモリだった。
葉の衣をまとった、完成された速さ。
トウヤのツタージャを追い詰めた相手だ。
ベルが息を止める。
シンも、自然と姿勢を正した。
ここが山場だ。
「ハハコモリ、いくよ!」
最初の踏み込みが速い。
ポカブが半歩遅れる。
掠めた一撃だけで、体勢が揺れる。
ポカブは踏みとどまるが、明らかに重い。
「っ……」
ベルの喉が鳴る。
チェレンは黙ったまま、ハハコモリの着地を見る。
もう一度来る。
そう判断したのだろう。
「ポカブ、下がるな。左だけ切れ」
逃がさない。
でも正面には立たない。
その半端にも見える位置で、ポカブが構える。
「危なくない?」
ベルが思わず言う。
「危ない」
シンは小さく答えた。
「でも、見ないといけないんだと思う」
ハハコモリが来る。
速い。
ポカブはぎりぎりでずらす。
避けきれない。
掠める。
痛い。
でも、その一回で終わらなかった。
チェレンの目が変わる。
「そうか」
ぽつりと落ちる声。
「外じゃなくて、通り過ぎるのか」
トウヤが笑う。
「掴んだな」
チェレンは返事をしない。
もう頭の中で組み上がっている。
「ポカブ、ひのこは置くな。点でいい」
細い火。
線ではなく、短く切る。
ハハコモリの進路を塞ぐほどじゃない。
でも、踏み込みの途中で目に入る場所へ置く火だ。
ハハコモリが、ほんの少しだけ角度を変える。
「今、たいあたり!」
ポカブがぶつかる。
浅い。
けれど、狙い通りに外側へ流した。
「もう一回、ひのこ!」
今度は追い火。
戻る先へ火を置く。
ハハコモリは避ける。
だが、その避け方までチェレンは見ていた。
「そこだ」
声は低い。
でも、熱がある。
「ポカブ!」
名前だけだった。
それだけで、ポカブが前へ出る。
命令じゃない。
信じて預ける呼び方だと、シンには分かった。
ポカブが低く潜り込み、もう一度たいあたりを入れる。
ハハコモリが後ろへ下がる。
それでも倒れない。
強い。
ちゃんと強い。
アーティが笑う。
「いいよ! でも、まだ足りない!」
次の一撃が来る。
今度は深い。
ポカブが真正面から受けて、膝をつく。
ベルが小さく息を呑んだ。
シンの隣でミジュマルも身を乗り出す。
ポカブは苦しそうだ。
けれど、目が消えていない。
まだ立つ気でいる。
チェレンは一歩だけ前へ出た。
「……ポカブ」
その声は、今までより少しだけ柔らかかった。
「ここで終わりたくないのは、僕だけじゃないだろう」
ポカブが顔を上げる。
短く、低く鳴いた。
怒っているみたいな声だった。
違う。
悔しいのだ。
まだ足りないことが。
ここで終わるのが。
「なら」
チェレンは息を吸う。
理屈だけじゃない。
でも、理屈を捨てるわけでもない。
見てきたものを全部、最後の一手に通す。
「一回でいい。正面をこじ開ける」
ベルが目を見開く。
トウヤも笑みを消す。
シンはポカブを見る。
正面から?
この相手に?
だがチェレンはもう決めていた。
「ひのこ!」
火が先に走る。
相手を止めるためじゃない。
視線を上げさせるため。
「そのまま!」
ポカブが前へ出る。
守りではなく、意地で進むみたいな踏み込みだった。
ハハコモリも迎え撃つ。
速さと、重さがぶつかる。
「いけ!」
チェレンの声が、初めてはっきりと熱を持った。
ポカブが叫ぶように鳴く。
その身体が光った。
ベルが息を呑む。
「え……」
シンの目の前で、ポカブの輪郭が伸びる。
身体つきが変わる。
火の色が、一瞬だけ太くなる。
進化だ。
眩しさが引いた時、そこに立っていたのは、チャオブーだった。
アーティが目を見開く。
「ここで来るか!」
チャオブーは止まらない。
進化の勢いをそのまま前へ変える。
「そのまま、たいあたり!」
いや、もうそれは、ただのたいあたりじゃなかった。
重さが違う。
押し込む力が違う。
真正面からぶつかり合って、今度は止まらなかったのはチャオブーの方だった。
ハハコモリが弾かれる。
体勢が崩れる。
そこへ、チェレンの次の声。
「ひのこ、正面!」
近い。
避けにくい。
進化したばかりの火が、真っ直ぐ通る。
ハハコモリが揺れ、そのまま膝を折った。
「ハハコモリ戦闘不能! よって勝者、チャレンジャー・チェレン!」
ベルが両手で口を押さえた。
「勝った……!」
トウヤが大きく息を吐く。
「マジか」
シンも、ようやく肩から力が抜けるのを感じる。
チェレンはその場で立ち尽くしたまま、進化したチャオブーを見ていた。
驚いているのは、たぶん本人も同じだった。
チャオブーが振り返る。
その目は少し誇らしげで、少しだけ不服そうでもある。
もっと早くこうなれた、という顔だ。
「……そうか」
チェレンがようやく呟く。
「君も、ここだと思ったんだね」
チャオブーが短く鳴く。
肯定だった。
シンはそのやり取りを見て思う。
チェレンの理屈は、ポケモンを縛るためのものじゃない。
隣に並んだ相手が、一番前へ出られる瞬間を選ぶための理屈に変わってきている。
だから最後に、ああやって熱を通せたのだ。
アーティは、悔しそうに笑っていた。
「まいったなあ……。キミ、きれいに組み立てるタイプかと思ったら、最後に一番熱い色を持ってくるんだ」
「……予定通りではなかったよ」
チェレンは正直に言った。
「でも、必要な一手だった」
「うん」
アーティは頷く。
「その子も、そう思ったんだろうね」
チャオブーが胸を張る。
進化したばかりなのに、もうそこにいることが当然みたいな顔だった。
ただ、その耳の先だけが少し赤い。
興奮と誇りが、まだ残っているのだ。
アーティがバッジを差し出す。
「ほら、インセクトバッジ。キミの色、確かに見せてもらったよ」
チェレンはそれを受け取り、一瞬だけ目を伏せた。
それから振り返る。
最初に視線が向いたのは、トウヤでもシンでもなく、ベルだった。
ベルは目を丸くしたまま、でもすぐに笑った。
「おめでとう、チェレン!」
その声に、チェレンの表情がほんの少しだけ和らぐ。
「ああ。ありがとう」
短い返事だった。
でも、その言い方は少しだけやわらかかった。
シンは、それをちゃんと見ておく。
ベルの言葉は、チェレンの中で前より確かに重くなっている。
それはたぶん、戦いの時だけじゃない。
次に前へ出る理由の一部にも、もうなっている。
トウヤが肩をすくめる。
「二人続けて取るとか、流れ良すぎだろ」
「君が先に作った流れだ」
チェレンが言う。
「利用させてもらった」
「素直じゃねえなあ」
「事実だよ」
シンはそのやり取りを聞きながら、ベルを見る。
ベルはムンナを抱き直していた。
緊張している。
でも、逃げたい顔ではない。
次は自分の番だと、ちゃんと受け止めている顔だった。
ムンナも静かに前を見ている。
怖がっていないわけじゃない。
けれど、その怖さから目を逸らしてもいない。
「ベル」
チェレンが呼ぶ。
ベルが顔を上げる。
「次は君だ」
それだけだった。
余計な励ましも、理屈もない。
けれど、ベルはしっかり頷いた。
「うん」
その返事は、前よりずっとまっすぐだった。
ジムの空気はまだ熱を残している。
トウヤの速さ。
チェレンの理屈と熱。
それを受けて、次はベルが前へ出る。
シンはミジュマルとフシデの気配を足元に感じながら、小さく息を吐いた。
積み上がっている。
一人ずつ勝ち抜いて、それぞれの戦い方が次へ渡されている。
だから、ベルもたぶん一人じゃない。
この流れの中で、自分の怖さごと前へ出られる。
そう思えた。