第51話 こわいままの一歩
チェレンがインセクトバッジを受け取って戻ってきたあとも、ベルはしばらくその場で息を整えられなかった。
嬉しい、と思う。
すごい、と思う。
トウヤもチェレンも、それぞれのやり方でちゃんと勝った。見ているだけで胸が熱くなるくらい、まっすぐな勝ち方だった。
でも、熱くなった胸の奥には、それとは別の重さも残っていた。
次は自分だ。
その事実が、ジムの高い天井から静かに降りてくるみたいに、じわじわと体の中へ落ちてくる。
ムンナを抱く腕に、少しだけ力が入った。
ムンナは嫌がらない。
ただ、ベルの胸元に額を寄せたまま、いつもより静かに呼吸している。
落ち着いているわけじゃない。たぶん、ムンナだって分かっている。これから、自分たちの番が来るのだと。
「ベル」
チェレンに呼ばれて、ベルは顔を上げた。
さっきまで戦っていたばかりなのに、チェレンの声はもうだいぶ整っていた。熱はまだ残っているのに、言葉の置き方は崩れていない。
「次は君だ」
「……うん」
喉が少し詰まった。
けれど、返事は出た。
トウヤが横で肩をすくめる。
「気負いすぎんなよ」
「それが一番むずかしいの」
「知ってる」
軽い言い方だった。
でも、その軽さに救われる。
ベルが深呼吸をひとつすると、今度はシンが静かに口を開いた。
「昨日も、ちゃんと前に出てた」
短い言葉だった。
飾らないぶん、まっすぐ入ってくる。
「今日も、たぶん大丈夫」
ベルはその言葉を、すぐに「そうだよね」とは思えなかった。
大丈夫じゃないかもしれない。
こわいものはこわいし、強い相手を前にした時、自分の足がまた止まるかもしれない。
でも、その不安と一緒にもうひとつ、たしかに残っているものがある。
昨日、止まらなかった記憶だ。
ムンナと一緒に、こわいままでも前へ出られた感触だ。
「……うん」
今度の返事は、少しだけまっすぐだった。
ベルはムンナをそっと下ろした。
ムンナは一度だけベルを見上げてから、ふわりと浮かぶ。
足はまだ少し重い。
でも、行けないとは思わなかった。
アーティはそんなベルを見て、少しだけ表情を変えた。
トウヤやチェレンの時とは違う目だった。
強さを測るというより、揺れている色を見るような目だ。
「次はキミか」
「……はい」
「うん。緊張してるね」
ベルの肩がわずかに跳ねた。
見抜かれた、と思った。
「顔にも出てるし、抱きかかえてたその子の声にも出てる」
アーティはムンナを見る。
「でも、逃げたいって声じゃない」
ベルは小さく息を呑んだ。
ムンナが浮いたまま、耳をぴくりと動かす。
「怖いけど、前に出るって決めてる声だ」
アーティはにっと笑った。
「そういうの、ボクは好きだよ」
ベルは何も言えなかった。
ただ、ムンナを見た。
ムンナはまだ不安そうだ。けれど、目は逸らしていない。ベルのそばにいたい、ベルと一緒に行く、と、そう言ってくれている顔だった。
ベルはようやく頷く。
「……いこう、ムンナ」
ムンナが静かに鳴いた。
その声は小さいのに、思ったよりもずっと心強かった。
アーティはボールを軽く見せながら言う。
「キミが今、手元に置いてるのは二匹だね」
「はい」
「じゃあ、こっちも二匹でいこう。今のキミたちに合う形で、ちゃんとぶつかりたいから」
ベルはほっとしたような、逆に逃げ道がなくなったような、妙な気持ちになった。
二匹。
ムンナとミジュマル。
ちゃんと、今の自分の手の中にある戦いだ。
「それじゃ、始めようか」
アーティの一匹目はホイーガだった。
紫色の体を低く沈め、床にぴたりと体重を預けている。動く前から分かる。速い相手だ。まっすぐ来るだけじゃなく、勢いの乗せ方を知っている構えだった。
ベルの背中に、昨日の夜の空気が少しだけ戻ってくる。
見えにくい通路。
突然詰まる距離。
自分の足が一瞬止まりそうになった感覚。
でも、今は違う。
逃げ場のない夜道じゃない。
ムンナと向き合って、一対一で立てる場所だ。
「ホイーガ、いくよ!」
アーティの声と同時に、ホイーガが飛び出した。
速い。
転がる、というより、弾けるような踏み込みだった。
「ムンナ、正面にいないで!」
ベルの声に、ムンナが半歩だけ横へずれる。
真正面からは外れた。けれど、ホイーガは止まらない。そのままムンナの横を抜ける。
「今、ねんりき!」
すれ違った背中へ、透明な力がかかる。
止め切るほどではない。
それでも、勢いが少しだけ鈍る。
ベルはその鈍り方を見る。
昨日の自分なら、たぶん「効いたかどうか」だけを見ていた。
今は違う。
少し止まったなら、次はもっと止められる。
「もう一回! 足を止めて!」
ムンナの目が光る。
重ねたねんりきが、ホイーガの体を一瞬だけその場に縫い止めた。
止まった。
ほんの一瞬だけ。
でも、それで十分だった。
「離れて!」
ベルが言うと、ムンナはすぐに距離を取る。
ホイーガは体勢を立て直す。すぐ来る。そういう相手だ。
ベルは息を止めないようにする。
こわい。
でも、見えていないわけじゃない。
「次も正面はだめ! 抜けるほうを見て!」
ホイーガが再び突っ込んでくる。
ムンナがまた半歩ずれる。
今度は、ベルにも分かった。
ホイーガはぶつかって止まる相手じゃない。勢いのまま相手の横を抜けて、すぐ次の位置を取り直すタイプだ。
「今!」
抜けた先に、ねんりき。
今度は背中ではなく、向きを変える途中にかける。
ホイーガの体が流れる。
「そのまま押して!」
ムンナの力が重なる。
ホイーガは踏ん張る。けれど、踏ん張る向きがずれた。体がわずかに傾く。
「もう一回!」
ベルの声が、さっきより強く出た。
ムンナのねんりきが、そのまま傾いた体を押し切る。
ホイーガが床に転がったまま動きを止める。
「ホイーガ戦闘不能!」
ベルは深く息を吐いた。
勝てた。
最初の一匹目に。
しかも、ただ運よくじゃない。ちゃんと見て、怖がって、それでも動いて、取った勝ちだった。
「いいねえ!」
アーティが嬉しそうに笑う。
「逃げるんじゃなくて、ちゃんと見て外してる!」
ベルはまだすぐには答えられない。
胸が速い。
けれど、ムンナを見ると、小さく頷けた。
「……うん」
ムンナは少しだけ高い位置まで浮いた。
怖かったのは、ムンナも同じだったはずだ。なのに、ちゃんとベルの声についてきてくれた。
そのことがたまらなく嬉しかった。
アーティの二匹目が出る前に、ジムの空気がほんの少しだけ変わった。
さっきより静かになる。
たぶん、それだけ次が大事なのだと、場が知っている。
「最後はこの子でいこうか」
アーティが出したのは、ハハコモリだった。
現れた瞬間に分かる。
さっきのホイーガとは種類の違う速さだ。
丸い勢いじゃない。細く、鋭く、切るための速さ。
葉の衣は美しいのに、その奥にある動きは少しもやさしくない。
ベルの喉が小さく鳴った。
ムンナも低く浮く。
嫌な相手だと、すぐに分かる。
「いける?」
自分でも気づかないうちに、ベルはそう呟いていた。
ムンナが振り返る。
言葉はない。
でも、嫌だとは言っていない。
なら、まずは出るしかない。
「ムンナ、お願い」
ハハコモリが動く。
速い。
見えた、と思った時にはもう間合いを詰めていた。
「正面から受けないで!」
ムンナが下がる。
けれど、ハハコモリの一撃は掠めた。
ムンナの体がぶれる。
ベルの心臓が跳ねる。
「ムンナ!」
呼ぶ。
ムンナは落ちない。けれど、余裕もない。
ベルはそこで初めて、自分の手のひらが冷たくなっていることに気づいた。
この相手は、ホイーガよりずっと難しい。
ムンナが捕まえきる前に切ってくる。止める前に抜けられる。
「ムンナ、ねんりき!」
ムンナの力が伸びる。
ハハコモリは止まりきらない。ほんの少し遅れるだけだ。
「もう一回!」
重ねる。
けれど、さっきのホイーガみたいにはいかない。
ハハコモリはその重さを嫌がって、すぐ別の角度へ抜ける。
ベルは歯を噛んだ。
このままムンナで押し切るのは、違う。
そう分かるのに、すぐ戻す決断が喉に引っかかる。
ここで下げたら、自分が逃げたみたいな気がしたからだ。
でも、その考えが出た瞬間に、ベルは自分で気づいた。
違う。
それはムンナのためじゃない。
自分が怖いだけだ。
間違えたくなくて、今のままにしがみつこうとしているだけだ。
ムンナは今もこっちを見ている。
「どうするの」と待っている。
なら、決めるのは自分だ。
「ムンナ、戻って!」
ムンナが一瞬だけ目を見開く。
でも、すぐにボールへ戻った。
「よくやった。ありがとう」
その言葉をちゃんと口にできたのは、ベルにとって大きかった。
ただ慌てて変えるんじゃない。
ちゃんと託されて、ちゃんと託し返す交代にしたかった。
「ミジュマル、お願い!」
ボールから飛び出したミジュマルは、着地した瞬間から前を向いていた。
待っていたのだ。
自分の番を。
ベルが迷っている間も、ずっと胸を張ったまま。
その姿が、少しだけ頼もしくて、少しだけ心強すぎて、ベルは笑いそうになった。
「ごめん、待たせた」
ミジュマルが短く鳴く。
それは「遅い」と言っているようでもあり、「分かってる」と言っているようでもあった。
ハハコモリは、ミジュマルが出てきても少しも構えを緩めなかった。
速い相手ほど、相手を見てから変えるのも速い。
ジム全体が静かに張りつめる。
ベルには、さっきより足元の感覚がある。
ムンナで見たからだ。
あの速さは、まっすぐぶつかって止まる速さじゃない。一撃入れて、その勢いのまま抜けていく。切って、離れて、また入る。
だから、受け止めようとすると遅れる。
「ミジュマル、真正面に立たないで!」
ハハコモリが来る。
ミジュマルが半歩ずれる。
それでも掠める。
痛そうだ。ベルの指先がこわばる。
でも、ミジュマルは止まらない。
ハハコモリが抜けた先で振り向く、その一拍がある。
「今、みずでっぽう! 着地した足元!」
水流が床を叩く。
狙うのは体じゃない。
抜けたあとに踏み直す足元だ。
ハハコモリの脚がわずかに滑る。
ベルの目が開く。
通る。
「そのまま近づかないで! もう一回、足元!」
ミジュマルが距離を取りながら二発目の水を打つ。
ハハコモリは今度は横へ抜ける。学んでいるのは相手も同じだ。
「速い……」
ベルは思わず呟く。
でも、その速さの中にも癖はある。
切って、そのまま抜ける。
止まらない。
だったら、抜ける先を先に叩けばいい。
「ミジュマル、受けないで。打たせてから振り向いて!」
ハハコモリが再び入る。
今度はミジュマルの肩を掠めた。
ミジュマルが小さく顔をしかめる。
ベルの心臓がまた跳ねる。
こわい。
まだちゃんとこわい。
でも、その怖さの中で、見えてきたものもある。
「今!」
ハハコモリが抜ける。
「みずでっぽう、進む先!」
水が先回りして、ハハコモリの進路へ走る。
ハハコモリは避けるために一瞬だけ跳ぶ。
その跳び方が少し高い。
ベルはそこを見逃さない。
「着地に合わせて、シェルブレード!」
ミジュマルの貝が光る。
振り下ろすんじゃない。着地した瞬間に横から叩く。
ハハコモリの体が大きく流れる。
アーティの目が細くなった。
「なるほど……!」
ベルは息を整える。
通じる。
まだ倒せてはいない。
でも、ただ押されているわけでもない。
自分たちはちゃんと、見たものを返せている。
「ミジュマル、離れて!」
すぐ引く。
追われる前に距離を取る。
ミジュマルは言われた通りに下がり、ハハコモリもすぐには詰めず、鋭い目で様子を見ていた。
相手も考えている。
ただの力押しじゃない。
だからこそ、ベルも思考を止めたくなかった。
ジムの中は静かだった。
トウヤもチェレンも、もう何も言わない。
シンも、ただ見ている。
その視線がベルには分かる。
助けてくれないのではなく、今は自分で決める番だと分かっているから、何も言わないのだ。
ベルは大きく息を吸った。
自分の鼓動がまだ速い。
でも、最初よりはちゃんと前を見られている。
怖がることと、分からないことは、同じじゃない。
怖いままでも、見えたものは使える。
「ミジュマル」
名前を呼ぶ。
ミジュマルが振り返る。
短い呼吸。少し上がった肩。痛みはあるはずだ。
それでも、まだ前に出る気でいる。
「もう一回、お願い」
ミジュマルが胸を張り直す。
それを見て、ベルの中でも何かが揃う。
「次は、無理に打ち返さない。抜けた先を取る」
ハハコモリが来る。
速い。
でも、もう最初ほど見失わない。
「正面は空けて!」
ミジュマルが半歩ずれる。
ハハコモリが抜ける。
「今、みずでっぽう!」
水が進路を打つ。
ハハコモリは一瞬だけ迷う。
その迷いで、着地がいつもより近くなる。
「そのまま前!」
ミジュマルが詰める。
ハハコモリも振り向く。
速い。間に合われるかもしれない。
ベルの喉が熱くなる。
でも、止めない。
「シェルブレード!」
ぶつかる。
火花の代わりに、水と葉の気配が散る。
ハハコモリが押し返す。
ミジュマルも負けずに踏ん張る。
ベルは思わず一歩前へ出ていた。
「ミジュマル!」
名前だけだった。
でも、それで良かった。
ミジュマルがもう一度踏み込む。
押しきるためじゃない。角度を変えるために。
ハハコモリの体がほんの少しだけ斜めになる。
その一瞬。
「いけ!」
最後のシェルブレードが深く入る。
ハハコモリの体勢が崩れる。
ミジュマルも限界に近い。肩で息をしている。
けれど、まだ終わっていない。
ベルは叫ぶように声を出した。
「みずでっぽう!」
至近距離からの水流が、崩れたハハコモリをそのまま押し切る。
葉の衣が大きく揺れて、ハハコモリが膝を折った。
「ハハコモリ戦闘不能! よって勝者、チャレンジャー・ベル!」
一瞬、何も聞こえなかった。
本当に、ほんの一瞬だけ。
ベルはその場で立ち尽くす。
勝った。
今、そう言われた。
ミジュマルが振り返る。
胸を張っている。けれど、ぎりぎりで立っているのも分かる。
ベルの目の奥が、急に熱くなった。
「やった……」
声にした瞬間、実感が一気に押し寄せる。
「やった……! ミジュマル!」
ベルが駆け寄ると、ミジュマルは得意そうに鳴いたあと、少しだけよろめいた。
ベルは慌てて抱きとめる。
「ごめん、ごめん、無理させた……でも、ありがとう……!」
ミジュマルは顔を背けるようにして、それでもベルの腕からは離れなかった。
誇らしいのだ。
最後まで一緒に立てたことが。
その少しあと、ボールの中のムンナも小さく揺れた気がした。
ベルは空いた手でボールをそっと押さえる。
「ムンナも、ありがとう」
最初に見せてくれたから、最後まで行けた。
そのことを、ちゃんと忘れたくなかった。
アーティは悔しそうに、でも本当に楽しそうに笑っていた。
「いいもの見たよ」
ベルが顔を上げる。
「キミ、最初から強い子じゃないんだろうね」
その言葉に、ベルは少しだけ目を瞬く。
否定された気はしなかった。
むしろ、よく見られていると思った。
「でも、一歩引いて終わる子でもない」
アーティはインセクトバッジを差し出した。
「こわいまま見て、こわいまま前に出る。そういう色、好きだよ」
ベルは両手でそれを受け取った。
冷たい感触が、ようやく現実を手のひらへ落としてくる。
「……ありがとうございます」
「うん。それと」
アーティは少しだけムンナのボールを見て、それからベルの腕の中のミジュマルを見た。
「その二匹、ちゃんとキミの声を信じてた」
ベルは息を止める。
信じてもらえていた。
最後まで、自分の声に付いてきてくれた。
だから、自分も最後まであきらめなかった。
それが、何より嬉しかった。
トウヤとチェレンが、それぞれのバッジを持って立っている。
その横で、今はベルの手の中にも同じ形の証がある。
残るのは、あと一人。
シンはその光景を少し離れた場所から見ていた。
足元ではフシデが静かに前脚を鳴らし、ミジュマル――自分の相棒のほうは、ベルの戦いを見終えたあともずっとジムの中央を見つめている。
積み上がっている、と思った。
トウヤの速さ。
チェレンの理屈と熱。
ベルの、こわいまま止まらない強さ。
みんな違う。
でも、違うままちゃんと次へ渡ってくる。
シンは小さく息を吐いた。
次は、自分の番だ。