ベルがインセクトバッジを受け取ったあと、ヒウンジムの空気は少しだけ落ち着いた。さっきまでの熱が消えたわけではない。ただ、散らばっていたものがひとつの場所へ静かに集まったような感じがした。トウヤの鋭い踏み込みも、チェレンの崩さない組み立ても、ベルのためらいごと押し切った勝ち方も、まだこの場のどこかに残っている。シンはそれを肌で感じながら、次にその真ん中へ立つのが自分なのだと、ようやくはっきり実感した。
最初に入った時より、ジムは広く見えた。高い天井、色の強い壁、糸を張るように並んだ作品の数々。外のヒウンシティの喧騒はここまで届かず、その代わりに靴底が床を擦る音や、ポケモンの呼吸、服の袖が揺れる気配までやけにはっきり耳に入る。静かな場所だった。だからこそ、ここから先でごまかしが利かないこともよく分かった。
最後に戦えるのは、有利だと思う。ここまでの試合を全部見てから入れるからだ。トウヤがどこで勝負を早め、どこで一度止まったか。チェレンが何を危険だと判断し、どこを先に削ったか。ベルが何に怯え、どの瞬間にそれでも指示を通したか。その全部が、もう頭の中に残っている。
けれど、それは逃げ道がない順番でもあった。もう知らなかったとは言えない。見たものを活かせなければ、それは自分の責任だ。
足元でミジュマルが胸を張る。いつもの得意げな格好だが、今日は勢いだけで前へ飛び出しそうな顔ではなかった。ベルの試合を見たあとから、少しだけ表情が締まっている。戦う気は十分にあるのに、ちゃんと呼ばれるまで踏みとどまっていられる顔だ。少し後ろではフシデが低く構え、触角を細かく揺らしていた。警戒している。それでも引く気配はない。初めて見る相手に怯むより、噛みつく場所を探している顔だった。
シンは二匹を見下ろし、静かに息を吐いた。どちらから出すかはもう決めてある。後に残す方が強い、という単純な話ではない。最初に何を拾わせて、次に何を通すか。その順番が、この試合ではいちばん大事だった。
中央で待っていたアーティが、シンの顔を見て口元を上げる。
「最後はキミだね」
「はい」
「ここまで、ずっと見てた」
アーティは楽しそうに目を細めた。
「自分の番を待ってるっていうより、前の試合をそのまま持って上がってくる顔だ」
シンは少し考え、それから頷く。
「無駄にしたくないので」
「いいね」
アーティが軽く手を叩く。
「じゃあ見せてよ。キミのやり方を」
シンは最初のボールを握った。
「フシデ。最初はお前だ」
フシデが、ぴくりと触角を持ち上げる。予想していたらしい。横でミジュマルが
「ミジュ……」
と低く鳴いた。自分が後なのは面白くない。それでも意味があることまでは分かっている声だった。
アーティの一匹目はホイーガだった。丸い体を低く沈め、床のぎりぎりを這うような重心で構えている。フシデと似ている。似ているからこそ、最初にぶつける意味がある相手だった。
シンはフシデの背中を見た。体は少しだけ強張っている。けれど、目は逸れていない。同じ虫ポケモンだから分かるものがあるのだろう。自分より一段先に進んだ形を前にした時の、落ち着かなさと対抗心。その両方が、前脚の力の入り方に出ていた。
「最初から倒しにいかなくていい」
フシデの触角が、わずかにこちらを向く。
「一回、相手の動きを体に入れろ」
開始の合図と同時に、ホイーガが沈む。来る。そう思った瞬間にはもう間合いが詰まっていた。
「真正面は捨てろ!」
フシデが半歩だけ外へずれる。ホイーガの体当たりが横を抜ける。掠る。フシデが
「フシィッ!」
と短く鳴いた。痛みより、苛立ちの方が強い声だった。
「どくばり、脚元!」
針が低く走る。ホイーガは体をよじって避ける。そのせいで、低く保っていた姿勢が一瞬だけ浮く。
シンの目がそこに止まる。床を離れる。ほんのわずかでも重さが抜ける。その瞬間が使える。
「今だ、ころがる!」
フシデが丸まって弾けるように前へ出る。正面からぶつかるのではない。ホイーガが着地する手前、横腹へ削るように当てた。鈍い音。ホイーガの向きが少し乱れる。
「もう一回!」
フシデは止まらない。転がった勢いのまま二度目のころがるを重ねる。ホイーガも丸くなって受ける。重さでは向こうが上だ。一度目の衝突では押し返された。それでもフシデはまともに競らない。ぶつかった瞬間に体をずらし、相手の勢いをまっすぐ受け切らない。
「いい。そのまま流せ!」
ホイーガの回転が少しだけぶれる。
「どくばり!」
今度の針は入った。ホイーガが
「ホイッ!」
と荒い声を漏らし、踏み込みが遅れる。
「そこだ、ころがる!」
三度目の衝突でホイーガの体が大きく流れた。床を擦る音が響き、そのまま倒れる。
「ホイーガ戦闘不能!」
ベルが小さく息を飲み、トウヤが口元だけで笑った。チェレンは何も言わないが、視線だけがわずかに上がる。
フシデはその場で体を起こし、
「フシィ……!」
と低く鳴いた。勝ったことへの誇らしさと、まだやれるという気の張りが混ざった声だった。息は少し上がっている。けれど目は死んでいない。
「よく取った」
シンが言うと、フシデは前脚を一度だけ鳴らした。
アーティが肩を揺らして笑う。
「いいねえ。似てる相手に、力比べじゃなくて角度で勝った」
「正面だと分が悪いので」
「うん。ちゃんと分かった上でやってる」
アーティの二匹目はイシズマイだった。出てきた瞬間、シンの中で今までの試合の断片がいくつも繋がる。硬さ。踏ん張り。足元を崩された時の遅れ。トウヤが何度も横からずらしていたこと。チェレンが位置を変え続けたこと。
問題は、フシデをどこまで使うかだった。
フシデはまだ立てる。けれど、イシズマイとまともに噛み合えば長くは持たない。ここで削られすぎるのが一番よくない。勝たせるかどうかではなく、何を持ち帰らせるか。その線引きの方が大事だった。
「フシデ。長くはやらない」
触角がぴんと立つ。
「一回だけ、形を見ろ」
「イシズマイ、からにこもる!」
殻が硬い音を立てる。守りを固めて、前へ出る準備だ。
「どくばり。殻は無視だ、脚を見ろ」
針が低く飛ぶ。イシズマイは避けずに受ける。硬い。効かないわけではないが、止まらない。そのまま前へ来る。
「下がれ。正面は受けるな」
フシデが距離を取る。イシズマイの踏み込みはホイーガほど鋭くない。だが、重い。止まった時にも押し返す力を残している。
シンは足を見る。踏み出す直前、体重がわずかに片側へ寄る。殻が大きいぶん、次の一歩の前には必ず偏りが出る。
「今、どくばり!」
フシデの針が、その寄った側の脚へ飛ぶ。イシズマイが
「イシッ!」
と声を上げ、ほんの一瞬だけ止まった。
「戻れ!」
フシデがすぐ引く。次の瞬間、イシズマイの体当たりがさっきまでいた場所を通り抜けた。
シンの中で線が引かれる。踏み出す前の偏り。止まる時の重さ。戻る時の鈍さ。これで十分だった。
「戻れ、フシデ」
フシデが振り返る。
「フシ……!」
まだやれる、と悔しそうな声で訴える。
「十分だ」
その一言で、フシデは止まった。前脚が一度だけ床を叩く。悔しさはある。それでも戻る。自分が見たものを次へ渡すための交代だと、ちゃんと分かっている音だった。
「ミジュマル、お願い」
ミジュマルが勢いよく飛び出す。待っていたぶん、踏み出しに迷いがない。
「殻にはぶつかるな」
ミジュマルの耳がぴんと立つ。
「来る前の脚を見ろ。水でっぽうは足元だ」
イシズマイが前へ出る。さっきと同じ。踏み出す前に、体重が寄る。
「今、水でっぽう!」
水流が脚元を打つ。イシズマイの踏み込みが滑る。崩れ切らない。だが、止まる。
「もう一回、足元!」
二発目の水が重なる。イシズマイが顔を上げた。水を嫌って、重心がわずかに浮く。
「そこだ、たいあたり!」
ミジュマルが低く飛び込む。殻の真正面ではなく、浮いた下腹へ斜めに入る。浅い。それでも体勢は崩れた。
「離れろ!」
ミジュマルがすぐ引く。イシズマイの反撃が空を切る。
「もう一回、水でっぽう!」
戻る先へ水を重ねる。イシズマイは踏ん張ろうとするが、整わない。ミジュマルの二度目のたいあたりが入った瞬間、イシズマイが横倒しになった。
「イシズマイ戦闘不能!」
ミジュマルが
「ミジュッ!」
と胸を張って鳴く。誇らしさの強い声だった。
シンはそこでようやく一息ついた。思った通りだった。フシデが拾ったものを、ミジュマルがそのまま使えた。急にひらめいたわけではない。前の一手がちゃんと次へ繋がっただけだ。
アーティの目がいっそう楽しそうに光る。
「なるほどね。キミ、交代しても勝負が切れないんだ」
シンは少しだけ首を振った。
「切ってないのは、たぶんあいつらの方です」
ボールの中のフシデ。目の前のミジュマル。場には一匹しかいない。それでも、さっきまでの情報は残っている。そういう意味だった。
アーティの最後のボールが高く上がる。
「最後はこの子だよ」
出てきたのはハハコモリだった。
ジムの空気がまた静かになる。葉の衣をまとった姿は整っていて綺麗だ。けれどその綺麗さは柔らかいだけではない。切るべき線を迷わず選ぶ鋭さがあった。
シンはミジュマルを見た。やる気は十分だ。だが、正面から付き合えば相手の方が速い。このまま強引に押しつければ、見える前に切られる可能性が高い。
「戻れ、ミジュマル」
ミジュマルが目を見開く。
「ミジュ!?」
まだ行けるのに、という不満が声に出ている。
「お前で終わらせたい」
シンは静かに続けた。
「でも、その前に一個だけ拾う」
ミジュマルは鼻を鳴らし、
「ミジュ……」
と低く唸ってから戻った。完全には納得していない。それでも意味があることは伝わったらしい。
「フシデ。もう一回頼む」
出てきたフシデは、さっきより呼吸が速い。それでも、ハハコモリを見た途端に触角の向きが変わる。同じ虫だからこそ分かる違和感があるのだろう。
勝ち切らせるつもりはない。見て、渡す。そのための一匹目だった。
「ハハコモリ、いくよ!」
速い。ホイーガより高く、イシズマイより軽い。入り方に迷いがない。フシデの横を切るように抜け、一撃だけ置いてすぐ離れる。
「正面は追うな! 抜ける先を見ろ!」
フシデが身をひねる。刃が掠めた。
「フシィッ……!」
苦悶の混じる声。痛い。だが倒れない。
「どくばり、今!」
抜ける先へ針が飛ぶ。ハハコモリはそれを嫌って少し高く跳んだ。
シンの目が細くなる。床すれすれを抜ける相手だと思っていたが、低い障害があると上へ逃げる。なら、着地に癖が出る。
「丸くなれ。次を受けるな」
フシデが体を固める。ハハコモリが二度目に入る。今度はさっきより深い。抜ける瞬間、ほんのわずかに左肩が下がった。
跳ぶ時の高さ。左肩の落ち方。着地の軽さ。そこまで見えれば十分だった。
「戻れ、フシデ!」
フシデが悔しそうに前脚を叩く。
「フシィッ!」
それでも迷わず戻った。自分の役目が終わったと分かっている声だった。
「ミジュマル」
シンは最後のボールを握る。
「お前の番だ」
ミジュマルが飛び出した瞬間、ジムの中央の空気がまた引き締まった。待たされていたぶん、前へ出る気持ちは強い。けれど今はそれが空回りしていない。さっき一度下げられたことで、逆に腹が据わったように見えた。
「一回目は受けるな。抜ける先を打つ」
ハハコモリが来る。やはり速い。ミジュマルの横を切り、一撃を置いてそのまま離れようとする。
「今だ! 水でっぽう、抜ける先!」
水が床を叩く。ハハコモリはそのまま走り抜けず、鋭く跳んだ。
高い。
フシデの時と同じだ。
「着地を見ろ!」
落ちてくる。左肩がわずかに沈む。次の一歩を踏み直す、短い隙。
「そこだ、たいあたり!」
ミジュマルが低く飛び込む。真正面じゃない。着地した横腹へ滑り込むように当てた。鈍い音。ハハコモリの体が流れる。倒れない。だが、向き直りが一瞬遅れた。
「離れろ!」
ミジュマルがすぐ距離を切る。次の葉の刃が、さっきまでいた場所を切った。
速い。まだ速い。けれど、追えない相手ではなくなった。ちゃんと崩れる速さだと分かる。
シンは自分の鼓動が上がるのを感じていた。それでも焦りは薄い。使える形が見えているからだ。
「もう一回、抜ける先に水でっぽう!」
ハハコモリが角度を変える。今度は跳ばない。滑るように横へ抜ける。
「いい、そっちでもいい!」
シンはそこで声を重ねた。
「振り向く前に詰めろ!」
ミジュマルが前へ出る。ハハコモリが振り向く。その途中で、ミジュマルのたいあたりが肩口へ入る。
浅い。
だが十分だった。ミジュマルが止まらず、さらに半歩だけ押し込む。ハハコモリの姿勢がぶれる。
「そのまま下がれ!」
距離を切る。ハハコモリの追撃が空を切る。
今ので分かった。ハハコモリは速い。だが、抜けたあとに向き直る時だけは、どうしても次の一歩を作らなければならない。そこを取れれば、正面の不利を少しだけ消せる。
ミジュマルも、それが分かってきたのだろう。耳の向きが変わっていた。来る方向だけではなく、そのあとを追う顔になっている。
「次で行く」
シンが言う。
ミジュマルが
「ミジュ!」
と短く鳴いた。返事だった。
ハハコモリが三度目に来る。今度は迷いなく深く入ってくる。一撃の強さで押し切るつもりなのだと分かった。
「正面は空けろ!」
ミジュマルが半歩外す。刃が肩を掠めた。
「ミジュッ……!」
顔が歪む。痛みより悔しさの方が濃い声だった。
「水でっぽう!」
抜ける先に水が走る。ハハコモリは跳ぶ。左肩が下がる。着地が見える。
「今だ、たいあたり!」
ミジュマルが潜り込む。さっきより深い。ハハコモリの体が大きくぶれる。
「まだ!」
シンの声が少しだけ強くなる。
「追うな! その場で水でっぽう!」
至近距離からの水流が、体勢を崩したハハコモリにまともに入る。葉の衣が大きく揺れる。それでも倒れない。さすがにエースだった。
ミジュマルが肩で息をする。苦しい。それでも目は切れていない。ここで終わらせたい、という意地がまっすぐ顔に出ていた。
シンはそれを見て、最後の一手を決める。
「ミジュマル」
名前を呼ぶ。
ミジュマルが前を向いたまま応える。
「ミジュ!」
「次の一歩で、終わらせろ」
ハハコモリが無理やり立て直そうとする。シンはその足の置き方まで見ていた。もう、さっきまでと同じ場所には戻れていない。
「いけ!」
ミジュマルが真正面から踏み込む。避けるためではない。掴んだあとに出る、迷いのない一歩だった。
ぶつかる。
押す。
水と葉が散る。
ハハコモリが後ろへ弾かれ、そのまま膝を折った。
「ハハコモリ戦闘不能! よって勝者、チャレンジャー・シン!」
その声を聞いても、シンはすぐには動けなかった。勝った、という事実より先に、頭の中で今の戦いが逆流する。ホイーガの低さ。イシズマイの偏り。ハハコモリの跳び方。フシデが拾った一手。ミジュマルが通した一手。全部が一本の線になって、ようやくここへ届いた気がした。
ミジュマルが振り返る。肩で息をしている。けれど胸はまだ張ったままだ。
「……ありがとう」
シンがそう言うと、ミジュマルは
「ミジュッ」
と短く鳴いた。得意そうで、それでも疲れの混じった声だった。
ボールの中のフシデも、見えないのにどこかで前脚を鳴らしている気がした。お前だけじゃない、と言いたげに。
トウヤが一番先に笑う。
「やるじゃん」
チェレンもゆっくり息を吐く。
「拾ったものを、最後まで無駄にしなかったね」
ベルは嬉しそうに、少し感心したような顔でシンを見ていた。
「シンって、ほんとにそういう勝ち方するんだね」
シンは少しだけ考えてから頷く。
「たぶん」
うまく説明するより、その言葉の方が今は近かった。
アーティはバッジを差し出しながら、満足そうに笑っていた。
「いいもの見せてもらったよ。キミ、最初から全部できる子じゃないんだろうね」
シンはその言葉を否定しなかった。
「でも、一度触れたものをそのままにしない。自分の中に残して、次に使える形へ変える。そういう戦い方だ」
インセクトバッジが手のひらに乗る。冷たい。軽い。なのに、ここまで見てきたものが少しずつそこへ乗っているような重さがあった。
「ありがとうございます」
「うん」
アーティはミジュマルを見て、それからシンの手の中のボールを見た。
「その二匹、ちゃんとキミに預けてたね。見てこい、って」
シンは返事の代わりに、小さくバッジを握った。預けられていたのだと思う。勝たせてもらったとまでは思わない。けれど、自分一人で掴んだとも思わない。フシデが拾った。ミジュマルが通した。自分はその間にあったものを取り落とさないよう、順番を選んだだけだ。
ジムを出る頃には、ヒウンシティの光が少し傾き始めていた。四人ともバッジを持っている。森を抜け、街へ入り、見てきたものがそれぞれ違う形で結果になったのだと思うと、少しだけ不思議だった。
トウヤの鋭さ。チェレンの崩れない組み立て。ベルの、ためらいを抱えたままでも進む強さ。そして自分の、一度触れたものを次へ回していくやり方。どれも同じではない。違うままで、ここまでは並んで来られた。
シンはポケットの中のバッジに一度だけ触れ、それから前を向く。ヒウンシティでの時間はまだ終わっていない。けれど、ここでひとつ確かに手に入れたものがある。それだけは、疑わずにいられた。