ヒウンジムを出た時、外の空気は思ったよりぬるかった。夕方の光が建物の壁を長く染めていて、行き交う人の影も少しずつ伸びている。ほんの少し前までジムの中にいたせいか、街の音が妙に遠く感じられた。荷車の軋む音も、屋台の呼び声も、子どもがはしゃぐ声も、全部が薄い膜を一枚隔てた向こうから聞こえてくるみたいだった。
四人とも、すぐには口を開かなかった。疲れているのもある。勝った直後の熱がまだ体の中に残っていて、下手に喋るとそこから何かがこぼれそうだった。
ミジュマルはシンの足元を歩きながら、いつもより少しだけ胸を張っていた。疲れていないわけじゃない。肩はまだ少し上下しているし、歩幅にもわずかな重さがある。それでも、顎だけは高い。
「ミジュ」
短い声だった。
誇らしい、と顔に書いてある声だった。
その少し後ろで、フシデが前脚を小さく鳴らす。機嫌が悪いわけではない。ただ、すんなり満足している音でもなかった。最後まで場に立ったのはミジュマルだ。自分は途中で戻された。その事実を、まだうまく飲み込み切れていない音だった。
シンは歩きながら、その二匹の気配を左右で感じていた。何も言わない方がいい時と、言葉を置いた方がいい時がある。今はたぶん、その境目だった。
「……二匹とも、よくやった」
ミジュマルがすぐに振り向く。
「ミジュ!」
分かってる、と言いたげに声を張る。
対照的に、フシデは触角をぴくりと揺らしただけだった。だが目は逸らさない。聞いている。聞いたうえで、まだ完全には納得していない顔だ。
その横で、ベルが自分のインセクトバッジを光に透かしていた。ムンナは腕の中で少しうとうとしている。緊張が抜けたのだろう。けれど完全に眠ってはいない。ベルの指が少し動くたびに、耳だけがぴくりと反応する。
「なんか、まだ変な感じ」
ベルが言う。
「持ってるのに、ほんとに勝ったんだって実感するまで時間かかる」
トウヤが笑う。
「ベル、勝ったあと毎回そう言いそうだな」
「そうかも」
ベルも笑った。
「でも今日は、いつもより変」
その言い方が少しだけ柔らかくて、シンは横目でベルを見る。たしかに分かる気がした。今日は四人全員が勝った。それぞれ全然違う戦い方で、同じ場所を抜けた。その事実がまだ上手く形になっていないのだ。
チェレンは少し前を歩いていた。片手の中でバッジを軽く転がし、もう片方の手でチャオブーの頭を一度だけ撫でる。進化したばかりのチャオブーは、まだ体の大きさに少し慣れていないようだった。歩幅は広がったのに、たまに前足の置き方がぎこちない。けれど、そのたびに表情が曇ることはなかった。むしろ自分の体を確かめるみたいに、鼻を鳴らしてもう一歩踏み出す。
「ブウ」
短く低い声。
まだ戦いたい、と言っているようにも聞こえる。
チェレンはその声に少しだけ口元をゆるめた。
「今日はもう終わりだよ」
言い方は落ち着いているのに、そこに含まれた柔らかさは前よりずっと分かりやすかった。
トウヤの肩ではツタージャがいつも通り澄ました顔をしていた。ただ、尻尾の先だけが落ち着かない。勝ったあとの余熱を隠しきれていないのだろう。トウヤが指先でその尻尾に軽く触れると、ツタージャは嫌そうに顔を逸らした。
「なんだよ」
トウヤが笑う。
「褒めてんのに」
ツタージャは返事をしない。その代わり、ほんの少しだけ尾の位置が上がる。分かりやすくはないが、機嫌は悪くなかった。
ポケモンセンターへ向かう途中、誰かが「おめでとう」と言うたびに、四人はそのたび少しだけ現実に引き戻された。バッジはもう手の中にある。アーティとの試合も終わった。だから今は、戦いの余韻ではなく、その先の時間に入っているのだ。
そのことが一番はっきり表れたのは、ポケモンセンターでボールを預けた後だった。
回復装置の前に立つと、それまで強がっていたような顔つきが少しずつ崩れる。ボールの光が機械の上を走るあいだ、ベルは両手をぎゅっと握っていたし、チェレンは落ち着かないのを隠すみたいに眼鏡の位置を触り直していた。トウヤだけは一見いつも通りだったが、足先だけが小さく床を叩いている。シンも、自分では平静のつもりでいたが、気づけばボールを預けた右手にまだ力が入っていた。
回復が終わり、ボールを返された時、四人ともほとんど同時に息をついた。
「なんか、今のでやっと終わった感じする」
ベルが言う。
「さっきまでは、まだ途中って感じだった」
「分かる」
シンも小さく頷いた。
「戦ってる時より、戻ってきた時の方が実感あるかも」
ボールから出たミジュマルは、回復した途端に
「ミジュ!」
と元気よく鳴いた。さっきまでの疲れが嘘みたいに、胸を張って一歩前へ出る。だが、その足がすぐ止まる。視線の先にはフシデがいた。
フシデは出てきてもすぐには動かなかった。体の向きだけで言えば、ミジュマルの方を見ている。けれど、真正面から目を合わせる気はないようで、触角だけを忙しなく揺らしていた。
「……フシデ」
シンが呼ぶと、フシデは一度だけ前脚を鳴らした。音は小さい。それでも、拗ねているのがはっきり分かる鳴らし方だった。
最後まで戦えなかったのが悔しいのだ。自分の役目があったと頭では分かっていても、感情の方が追いついていない。
ミジュマルはその空気を察したらしい。最初は得意げな顔のままだったのに、しばらくすると胸の張り方が少しだけゆるむ。フシデの前まで歩いていき、貝を軽く持ち上げた。
「ミジュ」
さっきより低い声だった。
自慢ではない。説明でもない。自分だけじゃなかった、と伝えようとしているような声だ。
フシデはすぐには反応しなかった。触角を一度だけ止め、それからゆっくりとミジュマルの方へ向ける。しばらくそのまま見て、やがて小さく前脚を鳴らした。
「……フシ」
納得したとは言い切れない。だが、完全に一人で悔しがるのはやめた、という声だった。
シンはそこで初めて、肩の力を抜けた気がした。勝ったことよりも、そのやり取りの方が、なぜか胸に残る。フシデは拾った。ミジュマルは通した。どちらかだけではなかったことを、二匹自身がちゃんと分かり始めている。そこに、自分は少し遅れて追いついたのかもしれない。
ベルの方では、ムンナがようやく深く息を抜いていた。ベルの膝の上に乗ったまま、目を半分閉じている。さっきまでの緊張が抜けて、体がじんわり重くなっているのだろう。ベルがその頭を撫でると、ムンナは小さく喉を鳴らした。
「ムンナ、今日はありがとね」
「ムウ……」
細い声だった。眠たさと安心が混ざった声だ。けれど、ベルがそのまま腕を離そうとすると、ムンナはすぐに目を開けて裾を引くように寄ってきた。まだ完全には離れたくないらしい。
ベルが困ったように笑う。
「うん、分かった。一緒にいる」
その言葉に、ムンナはもう一度だけ小さく鳴いて、今度こそ体を預けた。
チャオブーは回復した体が嬉しいのか、センターのロビーでさっきから何度も足を踏み換えていた。新しい体の重さを、自分で確かめているのだろう。前より大きく、前より強い。だがその変化を、まだ完全には掴み切っていない。チャオブーは少し大股で歩いては立ち止まり、また歩いては短く鼻を鳴らす。
「ブウ」
悔しさのない声だった。
むしろ、次を試したくて仕方がない声に近い。
「落ち着きなよ」
チェレンが言う。
「今日はもう戦わない」
それでもチャオブーはもう一度だけ床を踏みしめた。言われて止まるが、止まることに納得しているわけではない。前に出る力がそのまま体に残っている。チェレンはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……そういうところは、進化しても変わらないんだね」
言葉は静かだったが、その中には嫌味も呆れもなかった。むしろ、そこを少し頼もしく思っている響きがあった。
ツタージャは一番静かだった。ソファの背に軽く身を預け、いかにも平然としていますという顔をしている。だが、トウヤがバッジをちらつかせると、視線だけは露骨にそちらへ向いた。
「やっぱ気になるんだろ」
トウヤがにやにやしながら言う。
ツタージャはそっぽを向く。
「ジャ」
短く切るような声。素っ気ない。けれど、トウヤがバッジをしまうと、それを追うみたいに目だけが動いた。
「ほんと分かりやすいな」
トウヤが笑うと、ツタージャはむっとしたように尻尾を揺らした。だが、肩に戻る時の動きはどこか軽い。勝ち方に満足していることを、隠し切れていなかった。
ポケモンセンターの食堂で遅めの食事を取る頃には、ようやく四人とも言葉が増えてきた。食事の匂いがすると、張っていたものが少しずつほどけていく。皿が運ばれてくる音や、他のトレーナーたちの話し声が、戦いの余熱を日常の方へ引き戻してくれる。
「……でも、ほんとに全員勝つとは思わなかった」
ベルがパンをちぎりながら言う。
「思ってなかったの?」
トウヤがすぐに返す。
「全員勝つつもりで来たんだけど」
「そういう話じゃないの」
ベルは頬を少しふくらませる。
「だって、ほら、ジム戦って毎回誰かしら苦戦するし……」
「今回は全員苦戦してたでしょ」
チェレンが言う。
「ただ、負けなかっただけだ」
シンはその言い方を聞いて、少しだけ頷く。たしかにそうだった。トウヤは速さだけで押し切ったわけじゃない。チェレンも理屈どおりに全部が進んだわけじゃない。ベルだって怖さが消えたわけではない。苦しい場面はちゃんとあった。その上で勝ったのだ。
「ベルの最後、よかったよ」
シンが言うと、ベルは目を丸くした。
「え」
「ミジュマルに変えるところ」
「……あそこ?」
「うん。逃げたんじゃなくて、ちゃんと託した感じがした」
ベルは少しだけ黙り、それから視線をムンナに落とした。ムンナは食後の木の実を両手で抱え、静かに齧っている。耳だけがこちらの話を聞いているみたいに動いた。
「最初、ちょっと迷ったんだよね」
ベルが言う。
「ここで戻したら、ムンナから逃げたみたいになるかなって」
「でも、そうはならなかった」
チェレンの声は落ち着いていた。
「君はあの場で、ムンナの戦いを切り捨てなかった。だから交代が逃げにならなかった」
ベルはその言葉を、少し信じられないような顔で聞いていた。
「……それ、褒めてる?」
「もちろんだよ」
チェレンは何でもないことのように言う。
「僕は必要ならそう言う」
ベルが一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑った。嬉しいのに、真正面から受け取るのがまだ少し恥ずかしい、そんな笑い方だった。
その横で、チャオブーが短く鼻を鳴らす。
「ブウ」
お前もよくやった、とでも言いたげに、ムンナの方を見ていた。ムンナは木の実を抱えたまま、半分眠そうな顔でそちらを見る。そして、小さく
「ムウ」
と鳴いた。ありがとう、というより、分かってる、に近い返事だった。
トウヤはそのやり取りを見て楽しそうに笑う。
「なんか、ポケモン同士でも勝手に話まとまってそうだな」
「話してるんじゃないの?」
ベルが真顔で言う。
「え、怖」
「なんで?」
「いや、ベルが普通にそう言うと、ちょっとだけ説得力あるから」
食堂の空気が少しだけやわらいだ。さっきまでの張りが、ようやくちゃんと解け始めているのが分かる。
けれど、完全に緩み切るわけでもなかった。勝ったことで終わったものもあるが、その勝ち方がそれぞれの中に新しい課題を残しているのも分かっていたからだ。
シンは食後にセンターの外へ出た。夜のヒウンシティは昼よりも光が多いのに、不思議とどこか落ち着いて見える。店の看板、建物の窓、通りを流れる人の影。騒がしさはまだある。けれどそれは昼間のざらついた熱とは少し違い、街全体が深く息をしているような音だった。
足元にはミジュマルとフシデがいる。二匹とも静かだった。センターの中では感情が外に出ていたのに、今はどちらも少し落ち着いている。勝ったあとでようやく、体より先に気持ちの方が疲れを思い出したのかもしれない。
ミジュマルはしばらく黙って歩いたあと、ふいに立ち止まって夜空を見上げた。高い建物の隙間に見える空は細い。けれど、その狭い切れ目の向こうにも星はちゃんとある。
「ミジュ……」
今度の声は小さかった。得意げな響きより、余韻に近い。やり切ったあとの静かな声だった。
フシデはその横で、前脚を一度だけ鳴らす。さっきまでの悔しさの音とは少し違う。自分も次はもっとやれる、という、静かな負けん気の方が強い。
シンはその二匹を見下ろす。
「今日のこと、忘れるなよ」
ミジュマルがすぐに顔を上げる。
「ミジュ!」
フシデは触角を揺らし、少し間を置いてから
「フシ」
と短く返した。勢いはミジュマルほどない。けれど、その分だけ芯のある返事だった。
「俺も忘れない」
シンはそう言って、ポケットの中のバッジに触れた。手のひらの中で硬い感触が返る。勝った。その事実はもう疑いようがない。だが、自分が本当に持ち帰ったのはバッジだけではない気がしていた。フシデが悔しがったこと。ミジュマルが待てるようになっていたこと。二匹がそれぞれのやり方で、自分の声を聞いてくれたこと。そういう細かいものの方が、むしろ強く残っている。
後ろから、ベルたちの声がした。振り返ると、三人も外へ出てきていた。
「ここにいたんだ」
ベルが言う。
「明日のこと、少しだけ話そうって」
「明日?」
「うん」
トウヤが肩をすくめる。
「ジムは終わったけど、ヒウンでの用事が全部片付いたわけじゃないだろ」
チェレンも頷く。
「街を出るなら、その前に整理しておきたいことがある」
その言い方に、シンは少しだけ胸の奥が引き締まるのを感じた。バッジを取ったことで、旅はひと区切りついた。だが、それは同時に、次を選ぶ時間が近づいたということでもある。
ベルの腕の中で、ムンナが小さく身じろぎする。チャオブーはまだ歩幅の確認をやめていない。ツタージャは街灯の光を背に、いつものように澄ました顔で立っている。ミジュマルは相変わらず胸を張り、フシデはその少し後ろで足音を刻む。
同じ場所に立っているのに、見ているものは少しずつ違う。そんなことを、ヒウンシティへ来てから何度も感じてきた。
それでも今日は、四人とも同じだけの重さをポケットに入れている。バッジの形は同じだ。そこに詰まっている勝ち方だけが、少しずつ違う。
シンは仲間たちの顔を順に見て、それから前を向いた。夜のヒウンシティはまだ終わらない。自分たちの時間も、もう少しだけ続く。
そのことを、不思議と少しだけ惜しいと思った。