翌朝のヒウンシティは、昨日までと同じように騒がしかった。通りを走る荷車の音、屋台を開ける声、人の流れに混じるポケモンたちの鳴き声。その全部が休みなく動いているのに、ポケモンセンターの食堂だけは少しだけ静かで、四人はその静けさの中で朝食を取っていた。
誰も寝不足だとは言わなかったが、顔を見れば分かる。ジム戦の疲れは取れていても、そのあとに残る熱はまだ体のどこかに引っかかっていた。勝ったから終わり、とは簡単に切れない。ヒウンシティという場所が大きすぎて、バッジひとつで旅の意味がまとまってくれるほど親切でもないからだ。
ベルはスープを混ぜながら、テーブルの真ん中に置かれた四つのバッジをちらりと見た。昨夜は嬉しさの方が勝っていたが、朝になって改めて見ると、少し違う気持ちが湧いてくる。同じ形をしていても、そこに辿り着くまでの道はそれぞれ違った。その違いが、今は妙にはっきり見える。
「ねえ」
ベルが口を開く。
「今日って、どうするの?」
トウヤがパンをちぎりながら顔を上げた。
「どうするって?」
「ジム戦終わったじゃない。だから、その……街を出る前に、やることあるのかなって」
その問いに、すぐには誰も答えなかった。ムンナがベルの膝の上で小さく身じろぎし、ミジュマルがシンの足元で短く鼻を鳴らす。チャオブーは皿の端に残っていたパンくずを見つけて、少しだけ身を乗り出しかけたところをチェレンに軽く止められた。ツタージャだけは窓の外を見たまま、興味があるのかないのか分からない顔をしている。
最初に口を開いたのはチェレンだった。
「整理したいことはある」
「昨日言ってたやつ?」
「うん」
チェレンは頷いた。
「ただ、全員で同じものを見に行く必要があるかは別だと思う」
トウヤが少しだけ目を細める。
「珍しく、最初から別行動寄りだな」
「珍しいかな」
「お前、わりと今までは『一緒に動いたほうが効率がいい』派だったろ」
「今まではね」
チェレンはそこで言葉を切り、チャオブーの頭を一度だけ撫でた。チャオブーは
「ブウ」
と低く鳴いて、その手に頭を軽く押しつける。進化したあとも、そういう甘え方は前のままだった。
「でも、ヒウンに来てからは、同じ場所にいても見ているものが違うって分かった。だったら、一度それをちゃんと確かめてもいい」
ベルは少しだけ目を丸くした。チェレンの言っていることは理屈っぽいのに、内容自体は思ったよりやわらかかったからだ。前なら、別行動はただの手段だった。今のチェレンは、それを必要な距離として言っている。
「僕は図書館と、トレーナー向けの資料が置いてある施設を見たい。ヒウンのバトル傾向も、プラズマ団の動きも、街の仕組みも、一度自分の頭の中で整理したいんだ」
ベルが頷く。
「チェレンっぽい」
「否定はしないよ」
その返事に、トウヤが小さく笑った。
「俺は港の方かな」
「港?」
シンが聞き返すと、トウヤは肩をすくめる。
「昨日歩いてて思ったんだけど、この街って人の流れも物の流れも速いだろ。だったら、いちばん出入りが見える場所に行けば、この街の顔が分かる気がする」
ツタージャがそこで
「ジャ」
と短く鳴いた。賛成とも、当然だとも取れる声だった。トウヤはその頭を指先で軽くつつく。
「お前もそう思うだろ」
ツタージャは嫌そうに顔を背けたが、逃げはしなかった。そのまま窓枠に前足をかけ、外を行き交う人とポケモンをじっと見下ろす。落ち着いているのではない。ただ、自分から動くより先に、街の動く速さを測っている顔だった。
ベルはそれを見て、少しだけ口元をゆるめた。
「シンは?」
シンはスプーンを置き、少しだけ考えた。答えはもう半分出ている。だが、言葉にするとそれがはっきりしすぎる気がして、一度だけミジュマルとフシデを見た。ミジュマルは顔を上げ、フシデは触角を細かく動かしている。どちらも、どこへ行くのかを待っている。
「俺は」
シンはゆっくり言う。
「昨日までに見たものを、もう少し自分の中で整理したい。だから、街の端の方を歩くと思う」
「端?」
「人が多い場所じゃなくて、少し外れたところ。倉庫街までは行かないけど、その手前くらい」
ベルは一瞬だけ不安そうな顔をした。プラズマ団のことを思い出したのだろう。けれど、シンが続ける。
「探しに行くわけじゃないよ。ただ、街って、真ん中だけ見てても分からないことがあるから」
ミジュマルが
「ミジュ」
と一度だけ鳴いた。すぐ行ける、という声だった。フシデも前脚を小さく鳴らす。あの二匹は、こういう時のシンの考え方が少しずつ分かってきている。派手な場所ではなく、境目を見る。その中で拾えるものを拾っていくやり方だ。
「じゃあベルは?」
トウヤに振られて、ベルは少しだけ詰まった。自分が何を見たいのか、すぐに口にできなかったからだ。ムンナが膝の上で小さく体を丸める。眠たいわけではない。ベルが迷っていることを感じて、少しだけ体を寄せてきたのだ。
「わたしは……」
言いながら、ベルはムンナの頭を撫でた。
「人がたくさんいるところ、かな」
「ざっくりしてるな」
トウヤが言うと、ベルはむっとした。
「だってそうなんだもん。強いトレーナーを見るとか、難しい資料を読むとかも大事なんだろうけど、わたしはまだ、この街で普通に笑ってる人とか、ポケモンと暮らしてる人とか、そういうのをちゃんと見たい」
少し言葉を探してから、ベルは続けた。
「昨日までずっと、勝つこととか、追いつくこととか、遅れないことばっかり考えてた気がするの。でも、それだけじゃなくて、この街でみんなが何を見てるのか知りたい」
ムンナがそこで
「ムウ」
と静かに鳴いた。やわらかい声だった。ベルの言葉を、隣でそのまま受け取っているみたいな鳴き方だ。
チェレンはその声を少しだけ聞いてから、ベルを見る。
「悪くないと思う」
ベルが目を瞬く。
「ほんと?」
「うん。たぶん今の君には、それが必要だ」
その言い方に、ベルは少しだけ照れたように笑った。チャオブーがその横で
「ブウ」
と鼻を鳴らす。お前も行ける、という励ましにも聞こえたし、食堂の匂いの方へ気を取られているだけにも見える。そのどちらも、たぶん本当だった。
結局、四人は午前から夕方手前まで、それぞれ別に動くことにした。集合は夕方、中央広場。ヒウンに来たばかりの頃と同じ場所だが、今の四人にとっては少し意味が変わっている。同じ場所へ戻るとしても、何を持ち帰るかはそれぞれ違う。
別れる直前、ツタージャが先に歩き出し、トウヤがそれを追う。チャオブーはチェレンの半歩前で止まり、主導権を握りたそうな顔をした。チェレンが無言で先に進むと、慌ててその後ろに戻る。ムンナはベルの腕に収まりながらも、通りの先々を気にして耳を動かしていた。ミジュマルはシンの足元で胸を張り、フシデはその少し後ろで、今日の街の匂いを確かめるように触角を揺らす。
ヒウンシティの同じ空の下にいながら、それぞれが少しずつ違う方向へ歩き出す。そのことが、ベルにはほんの少しだけ寂しくも見えた。けれど、嫌ではなかった。たぶん今は、それでいいのだ。
シンが向かったのは、街の中心から外れた、倉庫街へ続く手前の通りだった。大通りほど人は多くない。だが、静かすぎるわけでもない。運搬用の台車が行き交い、搬入された木箱が積まれ、小さな店や作業場が点々と並んでいる。昨日の夜とは違う顔だ。明るい時間のこのあたりは、危険な匂いより、働いている場所の匂いが濃い。
ミジュマルは歩きながら、きょろきょろと周りを見ていた。
「ミジュ」
気になるものが多いらしい。大きな木箱の上に止まったマメパト、台車を押す人の横をすり抜けるチョロネコ、作業場の入口で眠そうに丸まるヨーテリー。普段の森とは違うポケモンの動きが、この街にはある。フシデも同じように落ち着かない。だがミジュマルのように表へ出すのではなく、触角の向きだけが忙しく変わる。見ている。覚えようとしている。その姿は少しだけシンに似ていた。
「昨日と同じ場所でも、昼は違うな」
シンが呟くと、ミジュマルが上を向く。
「ミジュ?」
「危ない場所っていうより、働く場所に見える」
そこでフシデが前脚を鳴らした。昨日の記憶を消していいとは思っていないのだろう。危ないものが消えたわけではない。けれど、昼の顔と夜の顔が両方あるのだと分かれば、それだけでも景色は変わる。
シンはその場で少し立ち止まり、行き交う人たちを眺めた。昨日までなら、街の大きさばかりが目についたかもしれない。今は違う。どこで立ち止まる人が多いのか。どの道が抜けやすいのか。どこに視線が流れ、どこで切れるのか。そういうものが先に目に入る。戦いの中で覚えたことが、街の見え方まで変えているのだと気づいて、少しだけ不思議になった。
ミジュマルが足元で急に止まり、
「ミジュ!」
とやや高い声を上げた。視線の先には、小さな空き地で簡単な手合わせをしている子どもたちがいた。使っているのは豆鉄砲みたいな小さな技だけだ。威力はない。けれど、互いに呼吸を合わせている。
ミジュマルは興味津々だった。フシデもそれを見て、少しだけ身を低くする。対戦相手を前にした時の癖だ。
「やらない」
シンが先に釘を刺すと、ミジュマルは露骨に不満そうな顔をした。
「ミジュゥ……」
行きたかったのだろう。だが、フシデの方は少し違った。対戦そのものより、あの距離感が気になるようだった。初めて会う相手にいきなり噛みつくでもなく、かといってただ見ているだけでもない。呼吸を測りながら、少しずつ距離を詰める。そのやり方を、フシデはじっと見ていた。
シンはしゃがみ込み、フシデに目線を合わせる。
「気になるか?」
フシデが小さく前脚を鳴らす。
「フシ」
短い返事だった。
「なら、見て覚えとけ」
そう言うと、フシデはもう一度だけ鳴らした。さっきより少しだけ素直な音だった。
同じ頃、ベルは大通りの露店通りを歩いていた。屋台の匂い、並ぶ服や小物、ポケモン用のおやつ、飾りのついた首輪。ムンナは最初こそ少し落ち着かなかったが、ベルが一つひとつに足を止めるたび、だんだんと目の動きがやわらいでいった。
ベルは気づく。自分が見ているものは、強さそのものではない。強さを持っていない人たちが、それでも笑って街の中で暮らしている景色の方だった。ベンチに座ってポケモンに水を飲ませる老人。迷子の子どもに目線を合わせる店員。抱き上げられて眠そうにしているゴチム。ベルはそういうものを見るたびに、昨日までとは違う形で胸が温かくなるのを感じていた。
「……こういうのも、いいなあ」
ムンナが
「ムウ」
と柔らかく鳴く。賛成しているみたいだった。ベルが笑って頬を寄せると、ムンナは少しだけ身を丸めて、でも逃げなかった。
チェレンは資料館の閲覧室で、必要以上に静かな時間を過ごしていた。机の上には街の地図、施設案内、トレーナー向けの対戦記録、最近の新聞。チャオブーは椅子の横で座っているが、視線は紙ではなくチェレンの顔を見ていた。チャオブーには文字は読めない。けれど、チェレンが何に引っかかっているかは気になるのだろう。時々
「ブウ?」
と低く鳴く。
チェレンはそのたびに紙から目を離し、少しだけ説明する。
「ヒウンは人も多いし、情報も多い。強い人間が多いだけじゃなくて、考え方が多い」
「ブウ」
「だから、正しい進み方もひとつじゃない」
そう言ったところで、チェレンは自分で少しだけ口を閉じた。前なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。正しいものは整理できると思っていた。今は、違う正しさが並んだまま進んでいくこともあると、少しだけ思い始めている。
チャオブーはその言葉を全部理解したわけではないだろう。それでもチェレンの声色がいつもより深いことは分かるらしく、黙ってその足元へ鼻先を寄せた。チェレンは本から片手を離し、その頭を軽く撫でた。
トウヤは港へ向かう大きな坂道の途中で立ち止まっていた。街の流れが一番よく見える場所だった。人も物も、止まっているようでずっと動いている。船から荷を降ろす人、その脇を抜けるトレーナー、荷物の陰をすり抜けるポケモン。全部が速い。だが、その速さはただ慌ただしいだけではなく、それぞれにちゃんと行き先がある速さだった。
ツタージャは手すりの上に軽く前足をかけて、その流れを見ている。じっとしているようで、尻尾の先だけがわずかに動く。面白いのだ。あれだけのものが、ぶつからずに流れていることが。
「お前、こういうの好きそうだよな」
トウヤが言うと、ツタージャは
「ジャ」
と短く返した。肯定とも否定ともつかない。だが、その目は楽しそうだった。
夕方、四人が中央広場へ戻ってきた時には、それぞれの顔が朝より少し変わっていた。大きな事件が起きたわけではない。ただ、自分の見たいものを見てきたぶんだけ、街との距離が少し変わっている。
ムンナはベルの腕の中でだいぶ落ち着いている。チャオブーはまだ歩幅の広さに慣れきっていないが、それをむしろ楽しんでいる。ツタージャは相変わらず澄ましているのに、尻尾だけがごまかしきれていない。ミジュマルはどこか得意げで、フシデはその横で静かに触角を揺らす。
同じ街にいて、見てきたものは違う。けれど、その違いを持ち帰ってもう一度並ぶことが、今は少しだけ自然になっていた。
ヒウンシティでの時間は、もう長くは続かないのかもしれない。
そんな予感を、誰もまだ口にはしなかった。けれど、その気配だけは四人のあいだに静かに流れ始めていた。