BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第55話 ほどける前の結び目

 

 

 夕方のヒウンシティは、昼間より少しだけやわらかい顔をしていた。

 

 高い建物の壁に当たった西日が、通りの奥まで薄く伸びている。石畳の照り返しも、昼ほどきつくない。人の数はまだ多いのに、朝から街を歩き続けたあとだと、その騒がしさにもひとつひとつ違う理由があるのが分かる気がした。急いでいる人、店じまいの支度をする人、船に積む荷物を抱える人。ヒウンの流れは大きいのに、雑ではない。

 

 集合場所に決めていた中央広場の噴水のそばで、シンは立ち止まった。

 

 ミジュマルは噴水の縁に飛び乗り、胸の貝を抱えたまま足を揺らしている。通りを行き交う人々を見ているつもりなのか、ただ座っていたいだけなのかは分からない。けれど目はちゃんと動いていた。フシデはその足元で体を丸め、広場の石畳に腹をつけている。休んでいるように見えて、誰かが近づくたびに触角が小さく震えた。

 

 シンは噴水の向こうを見た。

 

 朝、この場所を出たときは、同じ広場でももっと広く、もっと遠く感じた。人の多さに気圧されていたのかもしれない。けれど今は違う。ただ大きいだけの街じゃないと分かったからだ。人もポケモンも、それぞれの役目のまま動いている。だから速いのに、散らかって見えない。

 

 自分は今日、あちこちを歩きながら、そんな当たり前のことを何度も考えていた。

 

 見ていたつもりで、たぶん今までちゃんとは見ていなかったのだろう。

 

「ミジュ?」

 

 ミジュマルが首を傾げる。

 

 考え込みすぎだ、と言いたげな声音だった。

 

 シンは少しだけ笑って、その頭を撫でた。

 

「大丈夫。ちょっと整理してただけ」

 

「ミジュ」

 

 ミジュマルは納得したような、していないような顔で鳴いた。フシデも体を起こし、のそりとシンの足に寄ってくる。二匹とも疲れているはずなのに、広場の空気に引っ張られているみたいに目が冴えていた。

 

 そのとき、通りの向こうからベルがやってきた。

 

 両手に紙袋を下げ、ムンナがその少し後ろをふわふわ漂っている。さらにその横では、ベルのミジュマルが鼻をひくつかせながらきょろきょろと辺りを見回していた。屋台から流れてくる匂いに気を取られているのが丸分かりで、ベルが何度も呼び戻している。

 

「もう、そっちじゃないってば」

 

「ミジュッ」

 

 返事だけはいい。けれど足はしっかり屋台の方へ向いていた。ベルが慌てて袖を引くと、ベルのミジュマルは名残惜しそうに首をひねりながら、それでもちゃんと戻ってくる。その仕草がおかしくて、シンは少し口元をゆるめた。

 

「シンくん。待った?」

 

「いや。オレも今来たとこ」

 

「ほんと?」

 

 ベルはそう言いながら、シンの顔を見て小さく笑った。

 

「なんか、ちょっと考えごとしてた顔だけど」

 

「してた」

 

「あ、やっぱり」

 

 素直に認めると、ベルは少しだけ嬉しそうに目を細めた。朝の別れ際よりも、ずっと表情が落ち着いている。明るさはそのままなのに、そこに薄い芯みたいなものが入っていた。

 

 ムンナがシンの足元まで降りてきて、小さく「ムゥ」と鳴く。フシデが一瞬だけ触角を上げたが、相手がムンナだと分かるとすぐに力を抜いた。ムンナはそんな反応も受け流すように、ふわりとベルの膝のあたりへ戻っていく。

 

「今日は、どうだった?」

 

 シンが訊くと、ベルは紙袋を抱え直してから、少しだけ空を見た。

 

「うまく言えないんだけど……ちゃんと見てきた、って感じかな」

 

「何を?」

 

「街も、人も、ポケモンも。あたし、今まで怖いとか、迷うとか、そういうので頭がいっぱいになること多かったでしょ?」

 

「うん」

 

「でも今日は、そういうのだけじゃなくて、ちゃんと周りを見られた気がしたの」

 

 ベルのミジュマルが「ミジュ!」と胸を張る。自分も含まれていると言いたいらしい。

 

 ベルは笑って、その頭を軽く撫でた。

 

「そうだね。あんたもね。お店のお姉さんに愛想ふりまいて、おまけもらいかけてたし」

 

「ミジュッ!?」

 

 露骨に動きが止まる。ベルのミジュマルは慌ててベルを見上げたが、もう遅い。シンのミジュマルが「ミジュ」と呆れたように鳴くと、ベルのミジュマルはむっと頬を膨らませた。種族が同じでも、表に出る感情の向きがずいぶん違う。見ていて飽きない。

 

「でも、楽しそうだった」

 

 シンが言うと、ベルは少し驚いたように瞬きをしたあと、やわらかく頷いた。

 

「うん。楽しかった」

 

 その一言が、思ったより深く残った。

 

 ベルがそう言うとき、もう以前みたいな無理をした明るさではない。ちゃんと一日を歩いて、自分で拾ってきた実感がそこにあった。

 

 少し遅れて、通りの向こうからトウヤが姿を見せた。

 

 人混みの中にいても、なぜかすぐ分かる。歩く速さそのものは人並みなのに、足取りに迷いがないからかもしれなかった。ツタージャが肩の上で身を起こし、先に広場を見つけたらしく「ジャ」と短く鳴く。トウヤは顔を上げ、こちらを見つけるとそのまま真っ直ぐ歩いてきた。

 

「お、早いな」

 

「ベルがちょっと前に来たとこ」

 

「そっか」

 

 トウヤは噴水の縁に軽く腰をかけた。ツタージャはその肩から滑るように降り、縁の上に細長い体を落ち着ける。周囲を見回す視線は細く鋭いのに、必要以上に威張ったりはしない。ベルのミジュマルが近づくと、半歩だけ位置をずらして距離を取る。嫌っているわけではなく、自分の間合いを守っているだけだとすぐ分かる動きだった。

 

「港は?」

 

 シンが訊くと、トウヤは少しだけ笑った。

 

「速かった」

 

「それは見れば分かるだろ」

 

「いや、そうじゃなくて。ちゃんと行き先のある速さだった」

 

 トウヤは短く言ったあと、少し言い足すように続けた。

 

「ただ慌ただしいだけじゃないんだよな。誰もかれも急いでるのに、勝手にぶつかってる感じがしない。人もポケモンも、そこに混ざって動いてる」

 

 シンは頷いた。

 

 言葉の選び方は雑に見えるのに、トウヤは時々、妙なくらいまっすぐ核心を拾う。

 

 ツタージャが「ジャ」と低く鳴く。自分も見ていた、とでも言いたげだった。

 

「チェレンはまだか」

 

 トウヤがそう言った直後、広場の入口のあたりで人の流れが少しだけ割れた。

 

 チェレンだった。

 

 片腕に本を抱え、もう片方の手で眼鏡の位置を軽く直している。その隣をチャオブーが落ち着いた足取りで歩いていた。無駄に前へ出るでもなく、遅れるでもない。けれどチェレンの歩幅がわずかに変わるたび、しっかり合わせているのが分かる。主張しすぎないのに、離れない。そういう寄り添い方だった。

 

 チェレンが近づくと、チャオブーは「ブオ」とひとつ鳴いた。待たせたな、とでも言うような短い声だった。

 

「待たせた」

 

「ううん。今そろったとこだよ」

 

 ベルが答えると、チェレンは小さく頷いた。肩には少し疲れが見える。けれど表情は沈んでいない。何かを持ち帰ってきた顔をしていた。

 

 噴水の前に四人がそろう。

 

 ポケモンたちも、それぞれ自然な位置に落ち着いていく。ツタージャは高い場所から。チャオブーはチェレンの隣で静かに。ムンナはベルの近くを漂い、ベルのミジュマルは相変わらず屋台の匂いを気にしている。シンのミジュマルはそんな様子を見て鼻を鳴らし、フシデは広場の地面の気配を読んでいる。

 

 誰も急いで口を開かなかった。

 

 別行動をしていたのは一日だけなのに、戻ってきた空気が朝とは少し違う。たぶんみんな、自分の中に持ち帰ったものを、どこから言葉にするか測っていた。

 

 最初に話し始めたのはチェレンだった。

 

「今日、別々に回ったのは正解だったと思う」

 

 いつも通り整理された口調だったが、声音は朝より少し深い。

 

「同じ街を見ても、拾うものがまるで違うって分かった。それだけでも意味がある」

 

「チェレンは何見てきたの?」

 

 ベルが訊く。

 

 チェレンは抱えていた本を少し持ち直した。

 

「街の成り立ち、物流の流れ、人とポケモンの役割分担。そういう資料を中心に見てきた」

 

「やっぱりそういうのか」

 

 トウヤが笑う。

 

 チェレンは少しだけ眉を寄せたが、否定はしなかった。

 

「実際、面白かったんだ。ヒウンは大きい街だ。でも、大きいだけならすぐに歪む。人もポケモンも多ければ、そのぶん速さも考え方もばらつくからね。それでも崩れないのは、見えないところで整えているものがあるからだ」

 

 チャオブーがその言葉に合わせるみたいに、小さく鼻を鳴らした。

 

 チェレンは一度だけその頭に視線を落とし、それから続けた。

 

「旅も少し似ているのかもしれない」

 

 その言葉で、広場の空気が静かに変わった。

 

 噴水の水音はさっきと同じはずなのに、急に遠くなったように感じる。

 

 シンは視線を落とした。

 

 旅は、最初からずっと同じ形のまま続くものじゃない。そんなことは分かっているつもりだった。けれど、こうして言葉の輪郭を持って近づいてくると、胸の奥が少しだけざわつく。

 

 ベルがムンナの方へ手を伸ばした。ムンナは何も言わず、その手に額を寄せる。ベルはその感触を確かめるように撫でた。

 

「……ねえ」

 

 ベルの声は慎重だった。

 

「もし、この先ずっと一緒じゃなくても、それって変じゃないのかな」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 ここで無理に明るく笑って流すことはできたかもしれない。でも今の四人は、そこまで曖昧には戻れなかった。旅をして、勝って、負けて、悩んで、それぞれ違うやり方で前に進んできた。その違いを知ったあとで、何も変わらないふりはしにくい。

 

 最初に口を開いたのはトウヤだった。

 

「変じゃないだろ」

 

 あっさりした言い方だった。けれど軽くはなかった。

 

「同じ方向見てるときもあるけど、ずっと全部同じってわけじゃないし」

 

 ツタージャが「ジャ」と短く鳴く。足元ではなく肩の上から鳴くその声は、妙に落ち着いて聞こえた。

 

「むしろ自然だよ」

 

 チェレンも言う。

 

「最初から、僕たちは同じ考えで動いていたわけじゃない。でも、同じじゃなかったから見えたものもある」

 

 チャオブーは黙ってその隣にいた。全部を言葉で理解しているわけではないのだろう。それでもチェレンの声音がいつもより深いことは分かるらしく、そっとその腕に鼻先を寄せる。チェレンは本を抱え直したあと、空いた手でその頭を一度だけ撫でた。

 

 ベルはその様子を見て、少し目を細めた。

 

「そっか……」

 

 ベルのミジュマルが「ミジュ」と低く鳴く。いつもの軽さのない声だった。ベルはしゃがみ込み、その頬に手を添える。

 

「うん。まだ決まったわけじゃないよ。でも、考えるのは大事だもんね」

 

 ムンナがやわらかく「ムゥ」と鳴く。ベルの肩のあたりを一度だけ回ってから、またそばに戻った。

 

 シンは三人を見た。

 

 トウヤは前を見るのがうまい。チェレンは考えを形にするのがうまい。ベルは迷いながらでも、止まらずに進もうとする。自分はその全部を近くで見てきた。追いつきたくて焦ったこともある。比べて苦しくなったこともある。でも今は、それだけじゃない。

 

 違うからこそ、隣にいる意味があった。

 

 そのことを、やっと少しだけ素直に思える。

 

「まだ、すぐって話じゃないけど」

 

 シンはそう言った。

 

「でも……ずっと四人で同じ道を行くわけじゃないんだろうな、とは思う」

 

「ミジュ……」

 

 シンのミジュマルが低く鳴く。納得していないわけじゃない。ただ、簡単には受け入れたくない。そんな顔だった。

 

 シンはしゃがみ込んで、その頭を撫でる。

 

「分かってる。オレも同じだよ」

 

 ミジュマルは少しだけむくれたあと、仕方ないとでも言うように鼻を鳴らした。フシデも無言のまま、そっとシンの靴に体を寄せてくる。その静かな重みが、妙に胸に残る。

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

 噴水の音がする。広場のざわめきが遠くに続く。ヒウンシティは、自分たちの話とは関係なく、いつもの速さで動いている。けれどその流れの中に、今のこの時間もちゃんとあるのだと思うと、不思議と悪くなかった。

 

「……腹減った」

 

 ぽつりとトウヤが言った。

 

 一拍置いて、ベルが吹き出す。

 

「この空気で最初にそれ言う?」

 

「減ったもんは減ったし」

 

 その瞬間、ベルのミジュマルが「ミジュッ」と勢いよく反応した。さっきまでしんみりしていたくせに、こういうときだけ立ち直りが早い。シンのミジュマルは呆れたように片目を細めるが、こちらも完全には否定しきれない顔をしている。チャオブーは鼻を鳴らし、ツタージャは目を細めるだけで何も言わない。ムンナは少し高く浮かび、フシデは小さく体を揺らした。

 

 空気が、そこでようやくほどけた。

 

「……うん。ごはんにしよっか」

 

 ベルが笑う。

 

「話の続きは、そのあとでもいいし」

 

「賛成」

 

 チェレンも頷いた。

 

「全部を今日決める必要はないからね」

 

 その言葉に、シンは小さく息を吐いた。

 

 それでよかった。まだ決めきれなくていい。考えるための時間が必要なら、それごと抱えたまま進めばいい。

 

 四人は噴水を離れ、夜の街へ歩き出した。

 

 ツタージャはトウヤの肩に戻り、チャオブーはチェレンの隣を落ち着いた足取りで進む。ムンナはベルのそばをふわりと漂い、ベルのミジュマルはまた屋台の匂いに気を取られて慌てて呼び戻されていた。シンのミジュマルはそれを見て「ミジュ」と呆れたように鳴き、フシデは小さく体を揺らしながらシンの足元についてくる。

 

 歩幅は少しずつ違う。

 

 速さも違う。

 

 見ている先も、きっと同じではない。

 

 それでも今はまだ、同じ道の上にいる。

 

 そのことが、街の灯りの中で前より少しだけ大事に思えた。

 

 夜風が通りを抜ける。

 

 ヒウンシティの明かりは高く、遠く、にぎやかだった。

 

 その下を四人と六匹は歩いていく。

 

 もうすぐ来る変化を、まだ言い切らないまま抱えながら。

 

 それでも足は、止まらなかった。

 

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