夜のヒウンシティは、昼よりもずっと近くに感じた。
明かりの数は増えているのに、見えるものはむしろ絞られていく。店先の灯り、窓の向こうの笑い声、屋台の湯気、石畳に伸びる影。高い建物に囲まれた大きな街のはずなのに、夜になると一つ一つの場所が急に輪郭を持ち始める。昼は流れの中に呑まれていたものが、夜にはちゃんとそこにあるものとして見えてくる。
四人は広場を離れたあと、通りを一本曲がった先にある食堂へ入った。
ヒウンの中心から少し外れたその店は、旅人と地元の人間が半々くらいで混ざっていて、騒がしすぎず、静かすぎもしなかった。壁際の席に座ると、ポケモンたちもそれぞれの場所に落ち着いていく。ツタージャはトウヤの隣の椅子の背にもたれ、細い目で店内を見ていた。チャオブーはチェレンの足元でどっしり座り、時々鼻を鳴らして漂ってくる匂いを確かめている。ムンナはベルの膝の横あたりにふわりと浮かび、ベルのミジュマルは運ばれてくる料理が気になって仕方ないらしく、何度も身を乗り出しかけていた。シンのミジュマルはそんな様子に「ミジュ」と呆れたように鳴きながらも、自分も匂いのする方を見ている。フシデはテーブルの脚のそばで丸くなり、落ち着いているように見せながら、通る店員の足音に合わせて触角を小さく動かしていた。
「ちゃんと座っててね。まだだからね」
ベルが自分のミジュマルに言う。
「ミジュ……」
返事は不満そうだったが、無理に前へ出ようとはしなかった。昨日までなら、こういう場面でベルの方が焦っていたかもしれない。けれど今は違う。困ってはいても、慌てすぎない。相手を見て、声を置いて、待つことができる。
料理が運ばれてくると、トウヤが最初に箸を取った。
「うまそう」
「早いね」
ベルが笑う。
「だって腹減ってたし」
それはさっき広場でも聞いた台詞だった。けれど店に入って、湯気の立つ皿を前にして聞くと、少しだけ空気が軽くなる。実際、みんな腹は減っていた。食べ始めると、しばらくは会話が細くなる。歩き回った疲れと、温かい食事の安心感が、言葉より先に体へ入ってくる。
シンは箸を動かしながら、向かいの三人を見た。
トウヤは食べる速さがぶれない。目の前の料理に集中しているようで、会話に入るタイミングも逃さない。チェレンは一度箸を置いてから水を飲む癖がある。考えごとをすると、食べる速度が少しだけ落ちる。ベルは最初のひと口のあと、必ずどこかでほっとした顔をする。そういう小さな癖を、前よりずっとよく知っている。
知っている、と思った瞬間に、胸の奥が少しだけ重くなった。
こういうのは、たぶん離れる前に強く意識してしまうものなのだろう。
「……さっきの話だけど」
チェレンが言った。
箸を置く音が小さく鳴る。誰も驚かなかった。いずれ続きになると分かっていた話だったからだ。
「広場で言いかけたままにするより、今のうちに少し形にしておいた方がいいと思う」
ベルが緩く背筋を伸ばした。
トウヤは手を止め、ツタージャがその横で目を細める。シンのミジュマルも食堂の匂いへの関心を一度脇へ置き、チェレンの方を見た。
「形って?」
ベルが訊く。
「僕たちが、いつまで一緒に進むかってことだよ」
真っ直ぐな言い方だった。遠回しにするつもりはないらしい。
ベルは少し息を呑んだが、目を逸らさなかった。
チェレンは続ける。
「ずっと四人で旅を続けるのが悪いとは思わない。でも、今の僕たちは、もう最初と同じ理由で一緒にいるわけじゃない」
チャオブーが低く「ブオ」と鳴いた。
落ち着いた声だった。遮るでもなく、急かすでもない。ただ話の重さを感じ取っているような鳴き方だった。
「トウヤは、自分の勘で見つけていく速さがある。ベルは迷っても止まらない強さが出てきた。シンは、人の戦いも自分のものにしていける。僕は……僕で、自分の考えをもっと一人で試したいと思うようになった」
「一人で?」
シンが訊く。
「ああ」
チェレンは短く頷いた。
「誰かと比べるためじゃなくて、自分の判断だけでどこまでやれるかを見たい。今までは、みんながいたから拾えたものがたくさんあった。でも、ここから先は、それを持ったまま一人で進んだときにどうなるかを確かめたい」
その言葉は、冷たく聞こえる言い方ではなかった。むしろ逆だった。ここまで一緒にいた時間をきちんと認めた上で、その先の話をしていると分かる声音だった。
ベルは自分の指先を見た。
「……あたしも、少し分かるかも」
ムンナがそっとベルの腕に寄る。
ベルはそのまま撫でながら、言葉を探した。
「前のあたしだったら、一人になるの、やだって先に思ってたと思う。たぶん今も、こわいのはこわい。でもね、今日ひとりで街を歩いてみて、ちゃんと見られたものがあったの。迷っても、聞いて、考えて、自分で決めて進めた」
ベルのミジュマルが「ミジュ」と小さく鳴く。
応援するみたいな声だった。ベルはその頭を撫でてから、少しだけ笑う。
「だから、ずっと誰かの後ろにいるままじゃだめなんだろうなって思った。たぶん、一人で進む時間も必要なんだよね」
店の奥で皿の触れ合う音がした。
近くの席では別の客が笑っている。食堂の中はいつも通りなのに、自分たちのテーブルの上だけ、少し違う時間で動いている気がした。
トウヤはしばらく黙っていたが、やがて箸を置いた。
「オレも、別に反対じゃない」
言葉は短い。けれど投げやりではなかった。
「正直、ずっと誰かに合わせて進むの、向いてないし」
ベルが思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
「それ、自分で言う?」
「本当のことだし」
トウヤは肩をすくめた。
「でも、一緒にいたのが無駄だったとも思ってない。むしろ逆だな。チェレンが考えることも、ベルが迷いながら進むのも、シンが見て覚えるのも、近くで見てなかったら、たぶん今のオレの考え方も違ってた」
ツタージャが「ジャ」と低く鳴く。
トウヤの腕に細い尾が軽く触れた。短い会話みたいな仕草だった。
「だから、ここで別れるのは変じゃないと思う」
その一言は、軽く言ったようでいて、きちんと重さがあった。
三人の視線が、自然とシンへ集まる。
シンはすぐには口を開けなかった。
食堂の灯りはやわらかいのに、考えようとすると頭の中だけ妙に鮮明になる。自分はどうしたいのか。誰かの言葉に納得したふりではなく、自分の言葉として言える形にしなければならない。
ミジュマルがシンの膝を軽く叩いた。
「ミジュ」
急かすような声ではなかった。
いるぞ、という確認みたいな鳴き方だった。
シンはその頭に一度だけ触れて、息を吐く。
「オレも……たぶん、一人で進んだ方がいいんだと思う」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
それでも続ける。
「今まで、みんなのこと見て、自分に足りないものを知れたのは大きかった。でも、これから先もずっと隣にいたら、たぶんオレ、どこかで比べ続ける気がする」
それは嫌だ、とは言わなかった。
比べること自体は悪くない。けれど、そこに引っ張られたままでは、自分の進み方が曖昧になる。
「トウヤはトウヤの速さがあるし、チェレンはチェレンの考え方がある。ベルにもベルのやり方がある。オレはそれを見てきた。でもこの先は、見たものを借りるだけじゃなくて、自分で使える形にしないとだめなんだと思う」
フシデが静かにシンの靴へ体を寄せた。
目立つ動きじゃない。けれど、その重みが妙にはっきり伝わってくる。ミジュマルも「ミジュ」と低く鳴いて、それ以上は何も言わなかった。反対しているわけではない。たぶん、シンの言葉が本気だと分かっている。
ベルが小さく息を吐いた。
「じゃあ……やっぱり、そうなるのかな」
「たぶんね」
チェレンが答える。
「問題は、いつかだ」
そこまで話して、全員が少しだけ現実に引き戻された。
別れるかどうかだけなら、もう答えはかなり出ている。けれど旅は気持ちだけで進むものではない。次にどこへ向かうのか、何を準備するのか、どのタイミングで区切るのが自然なのか。決めるべきことはちゃんと残っている。
「ヒウンを出る前、かな」
ベルが言う。
「ここで一回ちゃんと区切る方が、分かりやすい気がする」
チェレンが頷く。
「僕もそう思う。次の道に出てから曖昧に離れるより、この街で一度線を引いた方がいい」
「オレもそれでいい」
トウヤは即答した。
あまりに迷いがないので、ベルが少しだけ苦笑する。
「トウヤは決めるの早いなあ」
「決めるなら早い方が楽だし」
「そういうところだよ……」
それでも、その速さに救われる瞬間もある。ぐずぐず悩み続けるより、先に足場を作ってくれるやつがいるのはありがたい。シンはそう思った。
「じゃあ」
チェレンが言う。
「ヒウンを発つのは、明日の朝にしよう」
その場の空気が、そこでひとつ固まった。
明日の朝。
言葉にすると、急に近い。
ベルの指先が少しだけ動いた。ムンナがその変化に気づいたように、腕へ額を寄せる。ベルは小さく笑ってから、その背を撫でた。
「明日、かあ」
「嫌なら延ばしてもいいよ」
チェレンが言う。
「無理に急ぐ必要はない」
ベルは首を横に振った。
「ううん。たぶん、決めるならそのくらいがいい。長くなると、たぶんもっと言いにくくなるから」
その言い方に、シンは少しだけ胸が詰まった。
正しいと思う。正しいと思うからこそ、さみしい。
「行き先は、それぞれ自由でいいよね」
トウヤが言う。
「同じ街を目指してもいいし、途中で何するかも別で」
「そうだね」
シンが答える。
「次に会う約束、する?」
ベルの問いに、今度は少しだけ長い間があった。
会う約束をした方が安心できる。けれどそれは、たぶん今決めるべきこととは少し違う。約束が悪いわけじゃない。ただ、それを先に置くと、明日からの一人旅がどこか半端になる気がした。
チェレンが静かに言う。
「……しない方がいいと思う」
ベルが顔を上げる。
チェレンは続けた。
「会うかもしれないし、会わないかもしれない。そのくらいでいい。次に会ったとき、それぞれがどう進んでいたかを見る方が、たぶん今の僕たちらしい」
トウヤが「それでいい」と短く言う。
シンも頷いた。
ベルは少しだけ寂しそうに笑ってから、それでも「うん」と答えた。
ベルのミジュマルが「ミジュ……」と細い声を出す。さっきまで料理の匂いで落ち着かなかったのに、今はちゃんと空気を読んでいた。ムンナも静かに揺れている。ポケモンたちは言葉の全部を理解するわけではないのだろう。それでも、別れに近い話をしていることくらいは、たぶん分かってしまう。
チャオブーは黙ったままチェレンの足に鼻先を寄せた。
ツタージャはじっと前を見ている。
ミジュマルはシンの膝に手を置いた。
フシデは足元から離れない。
その様子を見ていると、明日の朝がまだ来ていないことが、少しだけありがたかった。
「……じゃあ、今日はもう食べよう」
ベルが言った。
「せっかくのごはん、冷めちゃうし」
その言葉に、みんな少しだけ笑った。
重かった空気が消えたわけではない。けれど、抱えたままでも食事はできるし、話もできる。そういう夜だった。
四人は再び箸を取った。
ベルのミジュマルは、今度こそ真面目に座っていたが、料理が口に入った瞬間「ミジュッ!」と目を輝かせた。シンのミジュマルが呆れたように「ミジュ」と返す。ベルは吹き出し、トウヤは肩を揺らし、チェレンも口元だけ少しゆるめた。
たぶん今のこの笑い方も、明日になったら少し違って聞こえるのだろう。
それでも、今はまだ同じテーブルにいる。
その事実が、思ったより深く胸に残った。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢
食堂を出たあと、夜の風は少し冷たかった。
ポケモンセンターへ戻る道で、誰もさっきの話を蒸し返さなかった。決まったからこそ、あえて触れない。そんな静けさだった。石畳を踏む足音、遠くの車輪の音、建物の隙間を抜ける風の鳴り方。さっきまでより、街の音が細かく耳に入る。
シンは少しだけ後ろを歩きながら、三人の背中を見た。
トウヤはまっすぐ前を見ている。ベルはムンナに何か小さく話しかけ、頷くように笑っていた。チェレンはチャオブーの歩幅に自然に合わせている。こうして見ると、もうそれぞれの形ができ始めているのが分かる。四人でひとつのまとまりというより、四本の線がしばらく並んでいたのだ。そしてその線が、明日からは別々の方向へ伸びていく。
悲しい、だけではなかった。
怖い、だけでもない。
むしろ少しだけ楽しみだった。
次に会うとき、みんながどんなふうに変わっているのか。自分がどこまで進めるのか。そういう気持ちが、胸の奥のさみしさと並んでいた。
「ミジュ」
シンのミジュマルが見上げる。
「うん。分かってる」
シンは小さく答えた。
「明日だな」
ミジュマルは少しだけ口を尖らせてから、それでも「ミジュ」と返した。納得はしていない。でも、ついていくつもりではいる。その顔だった。フシデも静かに足元を進みながら、時々シンの靴先に体を触れさせる。確かめるみたいに、何度も。
ポケモンセンターの灯りが見えてくる。
今夜が終われば、明日の朝が来る。
分かっていたはずのことなのに、ヒウンシティの明かりの下で見ると、いつもより少しだけはっきりしていた。
四人はセンターの前で立ち止まる。
誰も「また明日」と軽くは言わなかった。
その代わり、ベルが少しだけ笑って言う。
「寝坊しないでね」
「おまえが言うのかよ」
トウヤが返す。
「明日は起きるもん」
「じゃあ競争だな」
「なんでそうなるの……」
そんなやり取りのあとで、ようやく少しだけいつもの空気が戻った。
チェレンが扉に手をかける。
「明日の朝、ここで」
「うん」
シンも答える。
短いやり取りだった。けれど、それで十分だった。
扉が開いて、明るい室内の光が流れてくる。四人と六匹はその中へ入っていった。
明日、ここで別れる。
まだ実感にはなりきらないその事実を抱えたまま、夜は静かに更けていった。
。