朝のポケモンセンターは、夜とは違う静けさをしていた。
人の気配がないわけではない。早く出る旅人の荷物を引く音や、受付の奥で鳴る機械音、まだ眠たそうな声で交わされる挨拶が、薄く重なっている。ただ、夜みたいなやわらかい滞りではなく、今日がこれから動き出す前の、少し張った静けさだった。
シンは目を開けてから、しばらく天井を見ていた。
よく眠れた気はしない。何度か目が覚めた。そのたびに、今日の朝が来ることを思い出した。分かっていたことのはずなのに、実際にその時間へ近づくたび、胸の奥に小さな重みが落ちていく。
ベッドの横では、ミジュマルが丸くなって眠っていた。胸の貝を抱えるようにして、寝息だけはやけに堂々としている。フシデは荷物のそばで体を丸めていたが、シンが起きた気配に気づいたのか、触角が小さく動いた。
「……起きるか」
そう呟くと、ミジュマルの耳がぴくりと揺れた。
「ミジュ……」
まだ寝ていたい、とでも言うような低い声だった。けれど次の瞬間には片目を開け、シンの顔を見上げる。今日はいつもと同じ朝じゃない。そのくらいは、寝ぼけた頭でも分かっているらしかった。
シンはベッドから起き上がり、手早く着替えを済ませた。荷物は昨夜のうちにほとんどまとめてある。だからやること自体は多くない。むしろ、すぐ終わってしまうのが嫌だった。支度が整うということは、そのまま出発に近づくということだからだ。
ミジュマルは体を起こしたあと、いつもより静かにシンの動きを見ていた。フシデもシンの足元へ寄ってきて、靴にそっと体を触れさせる。確認するみたいな仕草だった。シンはしゃがみ込み、順番に頭を撫でる。
「行くの、分かってるよな」
「ミジュ」
返事は短い。
反対も、同意も、まだはっきりしない声だった。
部屋を出ると、もう何人かは起きていた。
共有スペースの窓際では、トウヤが外を見ていた。荷物はすでに背負ってある。ツタージャは窓枠に身を預けるようにして、朝の光を細い目で受けていた。二人とも、待っているというより、もう出られる状態でただその時刻が来るのを見ている感じだった。
「おはよう」
シンが声をかける。
トウヤは振り向いた。
「おはよ。起きたか」
「うん」
それ以上の言葉は続かなかった。気まずいわけではない。ただ、今の朝に似合うほど軽い話題がすぐには見つからなかった。
トウヤは手すりに軽く肘をつき、下の通りを見た。
「ヒウンって、朝でも人いるんだな」
「大きい街だし」
「そうだけど、夜の続きみたいなやつもいるし、もう始まってるやつもいる」
トウヤらしい拾い方だ、とシンは思った。大きいとか多いとかじゃなく、その場で動いているものをそのまま目に入れている感じがある。名前をきれいにつけるより先に、ちゃんと見ている。
ツタージャが「ジャ」と小さく鳴いた。
同意しているのか、先に気づいていたぞと言っているのかは分からない。ただ、その声もどこか落ち着いていた。
少しして、チェレンが来た。
眼鏡の位置を直しながら歩いてくる姿はいつも通りに見える。けれど、いつも通りに見せているだけだとすぐ分かった。抱えている本の冊数こそ少ないものの、指先が一度だけ表紙を強く押さえていた。考えがまとまっているときのチェレンはもっと力が抜けている。今はきっと、まとまっているのに、納得しきれてはいない。
チャオブーはその隣を歩いていた。足取りは落ち着いているが、時々チェレンの顔を見上げる。主人の考えごとが深いときの空気を、もうかなり読めるようになっているのだろう。
「おはよう」
チェレンが言う。
「みんな早いね」
「おまえもじゃん」
トウヤが返す。
「今日は寝過ごすわけにもいかないだろ」
その声音は平坦に聞こえたが、冗談を言う余裕がないわけではなかった。むしろ、そういう言葉をいつも通りの調子で置けるくらいには、自分の中を整えてきたのだと思う。
最後にベルが姿を見せた。
少しだけ髪が跳ねていて、急いで整えたのが分かる。けれど寝坊したわけではないらしい。むしろ、ちゃんと起きたことに自分で少し驚いているような顔をしていた。ムンナはその肩口の高さをふわふわ漂い、ベルのミジュマルは眠そうな顔のまま、あくびをこらえきれていなかった。
「起きたよ……ちゃんと起きた……」
ベルがまずそう言ったので、トウヤが吹き出す。
「誰も疑ってないって」
「絶対ちょっと疑ってたよね!?」
「少しは」
「ほらぁ!」
そんなやり取りで、ようやく空気が少しゆるんだ。
ベルのミジュマルが「ミジュゥ」と抗議するように鳴く。自分も起きてきたのに、という不満まで混ざっていそうで、シンのミジュマルが「ミジュ」と呆れたように返す。ムンナはそんな二匹の間をふわりと横切り、ベルの頬のあたりへ寄った。なだめるような、落ち着かせるような動きだった。
四人で朝食を取ることにしたが、昨夜の食堂より会話は少なかった。言うことがないわけではない。むしろ、言おうと思えばいくらでも言えたのかもしれない。ただ、そのどれもが今の朝にちょうどいい量を見つけにくかった。
それでも、黙っているばかりではなかった。
「次、どのくらいで町に着くと思う?」
ベルが訊く。
「寄り道しなきゃ、そう遅くはないだろ」
トウヤが答える。
「でも、寄り道するんでしょ」
「たぶん」
「やっぱりね……」
ベルが苦笑する。
「シンくんは?」
「オレも、たぶんまっすぐは行かないと思う。見たい場所あるし」
「うん。シンくん、そういうのちゃんと見るもんね」
その言い方に、シンは少しだけ目を瞬いた。前なら、ベルはこういうふうに誰かのやり方を言葉にする前に、自分の方を気にしていた気がする。けれど今は違う。相手を見た上で、ちゃんとその人の輪郭を拾ってくる。
チェレンも静かに食事を続けていたが、不意に口を開いた。
「昨日も言ったけど、約束はしない」
ベルが顔を上げる。
チェレンは水を一口飲んでから続けた。
「次に会う場所も、時期も決めない。その方がいいと思う。約束があると、そこへ向かうことが先に頭へ残るから」
「うん」
ベルはすぐに頷いた。
「分かってる。あたしも、その方がいいと思う」
「オレも」
シンが答える。
トウヤはわざわざ言葉を足さなかったが、否定しないこと自体が返事みたいなものだった。
朝食を終え、荷物を背負い直す。
受付を通るとき、ジョーイがやわらかく微笑んでくれた。
「お気をつけて。またご利用くださいね」
その言葉は旅先で何度も聞いてきたはずなのに、今日は少し違って響いた。また、がいつになるのか分からないからかもしれない。
外へ出ると、朝の光はもうしっかり街を照らしていた。
ヒウンシティの高い建物は、昼に向かう前のまだ少し透明な色をしている。通りには人が増え始めていた。荷物を抱えた旅人、店を開ける人、配達に走るポケモン。昨日の夕方に見た流れの続きを、今度は朝の顔で見ている気分だった。
四人はしばらく並んで歩いた。
話さなくても、足音が四つ並んでいるだけで、まだ一緒にいるのだと分かる。その感覚を、シンは妙にはっきり意識してしまう。たぶん今朝だけだ。普段なら何も思わない並びが、終わりに近づくと急に意味を持ち始める。
街の出口に近い、大きな通りの分かれ目で、四人は自然と足を止めた。
このまま進めば、みんな同じ大きな流れへ乗っていくことはできる。けれど、そこで同じ歩幅を取り続ける必要はもうない。そういう場所だった。
トウヤが先に辺りを見回した。
「ここでいいか」
誰も異論を挟まない。
ベルは少しだけ鞄の肩紐を握り直した。ムンナがそのそばでゆっくり揺れる。ベルのミジュマルは、いつもなら落ち着きなくきょろきょろするところなのに、今日は妙に静かだった。空気が違うことを、ちゃんと感じている顔をしている。
チェレンは一度だけ息を整えた。
チャオブーがその横で「ブオ」と低く鳴く。行くなら行く、というような、腹の据わった響きだった。
シンは自分の隣を見る。
ミジュマルは胸の貝を抱えたまま、珍しく真面目な顔をしていた。フシデも地面にぴたりと腹をつけて、四人を見上げている。小さな体で何をどこまで理解しているのか分からない。それでも、今が普段の立ち止まりじゃないことは知っているはずだった。
最初に言葉を出したのは、ベルだった。
「なんか……ほんとにここなんだね」
笑おうとしたのかもしれないが、声は少しだけ揺れた。
ベルはそれをごまかさなかった。
「昨日、決めたのに。朝になったらもうちょっと違う感じになるかなって思ってたけど、ちゃんと実感ある」
「そうだね」
チェレンが答える。
「決めたのは昨日だけど、ここまで一緒に来た時間の方が長いから」
「うん……」
ベルは頷いたあと、三人を順に見た。
「最初、あたし、自分がこんなに遠くまで来るなんて思ってなかった。途中で絶対もっと泣くと思ってたし、迷惑もかけるって分かってた」
「それはまあ、あった」
トウヤが言う。
「ちょっと! 最後にそういうこと言う!?」
「最後だからじゃない?」
真顔で返されて、ベルが目を丸くする。それから、ふっと笑った。泣きそうな顔で笑うから、余計にこっちの胸が詰まる。
「でも……ありがとう。ほんとに。トウヤも、チェレンも、シンくんも。あたし、一人だったらここまで来られなかったと思う」
「ベル」
シンが名前を呼ぶと、ベルは小さく首を振った。
「ううん、言わせて。今じゃないとたぶん、ちゃんと言えないから」
ムンナがベルの肩へそっと額を寄せる。ベルはその背を撫でながら、少しだけ息を吸った。
「みんなと一緒だったから、怖いままでも進んでいいって分かったの。ちゃんと失敗して、ちゃんと恥ずかしくて、それでも次に行っていいって思えた。だから……今度は、自分でそういうふうに進んでみたい」
ベルのミジュマルが「ミジュ」と短く鳴く。
それは返事というより、背中を押す声に近かった。普段の少し抜けた明るさとは違う、妙にまっすぐな響きだった。
チェレンはベルの言葉を最後まで聞いてから、眼鏡の位置を直した。
「君は、前よりずっと、自分で決めて進めるようになったと思う」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
「分かりづらいなあ……」
ベルは苦笑したが、その目元は少しやわらいだ。
チェレンはそのまま言葉を続ける。
「僕も、二人やシンと一緒にいた時間は無駄じゃなかった。むしろ、その逆だ。自分ひとりで考えているだけでは気づけなかったことが多かった。トウヤみたいに、見たものへすぐ手を伸ばすやり方も、ベルみたいに迷いながら相手を見失わないやり方も、シンみたいに見たものをきちんと自分の中へ残していくやり方も、近くにいたから分かった」
チャオブーが、その足元で静かに鼻を鳴らした。
チェレンは少しだけ視線を落とし、その頭を一度撫でる。
「だから、ここから先を一人でやる意味がある」
その言い方は、いつものチェレンらしかった。感傷に流されるのではなく、自分で納得できる形まで言葉を整えて出してくる。けれど今日は、その整え方の奥にちゃんと寂しさがあるのが分かった。
シンは自然とトウヤの方を見た。
トウヤはしばらく黙っていた。別れ際に気の利いたことを言うタイプではないのだろう、と前から思っていた。けれど、言葉が少ないから何も考えていないわけではないことも、もう知っている。
ツタージャが肩の上で身じろぎした。
トウヤはその気配を感じたみたいに、一度だけ肩へ触れる。それから三人を見た。
「オレ、最初は誰かと組んで旅するとか、そんなに長く続くと思ってなかった」
正直すぎる言い方に、ベルがちょっと眉を寄せる。
「え、最初から?」
「だってそうだろ。ずっと同じ考えでいるわけじゃないし」
トウヤは肩をすくめた。
「でも、思ってたよりよかった」
その一言が、妙に強く残った。
飾っていないからだろう。気の利いた言葉でも、きれいなまとめでもない。ただトウヤが本当にそう思ったのだと分かる言い方だった。
「チェレンが考え込んで止まるのも、ベルが悩みながらついてくるのも、シンが横でずっと見てるのも、全部あったから面白かった」
「最後に『止まる』って言ったな?」
チェレンがすぐに返す。
「言った」
「訂正は?」
「しない」
トウヤは平然としていた。けれど、その口元は少しだけ上がっている。
「でもまあ、次に会ったとき、今よりつまらなくなってたら嫌だな」
ベルが目を瞬く。
「なにそれ」
「だから、それぞれちゃんと進んどけってこと」
それがトウヤなりの言葉なのだと、三人とも分かった。
気休めも、約束も、湿っぽい慰めもいらない。ただ次に顔を合わせたとき、前よりちゃんと変わっていろ。そういう言い方だった。乱暴に見えて、たぶん一番まっすぐかもしれない。
シンは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
泣きそうになるような別れの空気を、トウヤはたぶん嫌う。でも、軽くしたいから雑にしているわけでもない。言うべきことはきちんと置いて、その上で先へ進める形に変える。ああいうところが、ずるいと思う。
三人の視線が、今度は自然とシンへ向いた。
言う番だ、と分かる。
分かっているのに、喉の奥が少しだけ引っかかった。昨日の夜、自分の中ではある程度まとまっていたはずだ。それでも、この場で三人の顔を見てしまうと、言葉は急に重くなる。
ミジュマルがシンの靴を軽く叩いた。
「ミジュ」
昨日と同じだった。
いるぞ、という鳴き方。
シンは息をひとつ吐いてから口を開いた。
「オレは……みんなと一緒にいたから、自分に足りないものがいっぱい見えた」
言いながら、頭の中にいくつもの場面が浮かぶ。トウヤの迷いのない手の出し方。チェレンの、盤面を崩さずに積み上げる考え方。ベルの、怖がっていても相手から目をそらさない姿。どれも自分とは違っていて、だからこそ近くで見ているのが苦しいときもあった。
「たぶん、一人だったら、オレはもっと狭い見方しかできなかったと思う。自分のやり方だけ見て、それで終わってたかもしれない」
フシデがじっとこちらを見上げている。
ミジュマルも、珍しく口を挟まずに聞いていた。
「でも、今は違う。見たものを、自分の中にちゃんと残せたと思う。だから、ここから先はそれを使えるようになりたい。隣で見てるだけじゃなくて、自分で選んで、自分で負けて、自分で勝てるようになりたい」
言葉にしていくうちに、少しずつ胸の詰まりがほどけていく。
「一緒にいた時間があったから、離れて進む意味も分かるようになったんだと思う」
それが今の自分の、いちばん正直な答えだった。
ベルは目を細めて頷いた。
チェレンも静かに受け止めていた。
トウヤは「そっか」とだけ言ったが、その短さが妙にしっくりきた。
しばらく、四人とも言葉を出さなかった。
朝の通りには人が増えていく。荷馬車の車輪の音、呼び込みの声、遠くで鳴くポケモンの気配。ヒウンシティは、自分たちの別れに構わずいつもの朝を進めている。けれど、その大きな流れの中で、今ここだけが少しだけ足を止めているのが分かった。
ベルのミジュマルが、ふいにシンのミジュマルの前まで歩いてきた。
「ミジュ」
声は低かった。
強がっているような、照れているような、よく分からない鳴き方だった。
シンのミジュマルも一歩前へ出る。
「ミジュ」
返事は短い。
二匹はしばらく見合っていたが、やがてベルのミジュマルが胸を張り、シンのミジュマルが少しだけ鼻を鳴らした。言葉の意味は分からない。けれど、あれはたぶん別れの挨拶というより、次に会ったとき負けるな、みたいなやり取りなのだろうとシンは思った。
ムンナはその周りを一度だけゆっくり回る。場をやわらかく包むような動きだった。
フシデはそっと前へ出ると、チャオブーの足元へ近づいた。チャオブーは少しだけ顔を下げ、低く「ブオ」と鳴く。フシデは一瞬触角を揺らし、それからすぐシンの足元へ戻ってきた。緊張していたのだろう。けれど逃げるだけではなく、自分から近づいた。それが今のフシデらしかった。
ツタージャは相変わらず高い場所から見ていたが、ふいにトウヤの肩から降りると、シンのミジュマルの前へ静かに進み出た。
ミジュマルが少しだけ身構える。
ツタージャはそれを気にする様子もなく、一度だけ細い目を上げた。それから短く「ジャ」と鳴く。
「ミジュ……」
シンのミジュマルはすぐには返せなかった。けれど、遅れて胸の貝をぎゅっと抱え直し、少しだけ顎を上げる。負けていられない、とでも言いたげな顔だった。ツタージャはそれを見ると満足したのか、そのまま踵を返してトウヤの肩へ戻っていく。
「いま、完全に煽られてたな」
トウヤが言う。
「ミジュッ!」
シンのミジュマルが即座に抗議する。図星を刺されたときの声だった。
その反応に、四人が少しだけ笑った。
笑えるうちに、行かなければならないのだと思った。
これ以上ここで引き延ばしたら、たぶん別れはきれいに言えなくなる。迷いは悪いものじゃない。けれど、歩き出すと決めた朝なら、最後の一歩は自分で出した方がいい。
チェレンが最初に鞄の肩紐を持ち直した。
「じゃあ、僕は行く」
言葉は簡潔だった。
でも、足はすぐには動かなかった。三人を見て、それから小さく頷く。その頷きに、ありがとうも、じゃあねも、次は負けないも、全部少しずつ入っている気がした。
「また、じゃないけど」
ベルが言う。
「うん」
チェレンが答える。
「次に会ったとき、ちゃんと分かるようにしておくよ」
それは、今の自分がどう進んだかを見せる、という意味だろう。
チャオブーが「ブオ」と一声鳴く。チェレンの隣へぴたりとつき、二人はそのまま通りの向こうへ歩き出した。背筋の伸びた歩き方は、昨日までと同じなのに、もう少しだけ一人分の輪郭が濃く見えた。
ベルはその背中を見送ってから、ぐっと唇を結んだ。
「じゃ、あたしも……行くね」
ムンナがやさしく肩口へ寄る。
ベルのミジュマルは一度だけシンたちを振り返り、それからベルの足元へ戻った。普段のそわそわした様子が少し薄く、今はちゃんとベルの横にいるべきだと分かっているみたいだった。
ベルはまずトウヤを見た。
「ありがとね。いろいろ」
「うん」
「その、雑なとこも含めて」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは褒めてるよ」
次にチェレンのいない方を見て、それからシンへ向き直る。
「シンくんも、ありがと。あたし、たぶん、シンくんが近くにいてくれて助かったこと、いっぱいあった」
「オレもだよ」
それは本心だった。ベルの迷い方や、迷っても人を見ようとする姿に、自分が救われた場面は確かにあった。
ベルは少しだけ目を潤ませたが、泣かなかった。
「じゃあ、次、会うときはもうちょっとちゃんとするから」
「今でもだいぶちゃんとしてるよ」
そう言うと、ベルは目を丸くして、それから照れたように笑った。
「……うん」
ベルはそのまま歩き出す。ムンナが寄り添い、ミジュマルが一度だけ振り返ってから、小さく「ミジュ!」と鳴いた。あれはたぶん、さよならではなく宣言に近い。負けないからな、みたいな、不器用な声だった。
残ったのは、トウヤとシンだけになった。
さっきまで四人いた場所が、急に広く感じる。
トウヤは片手をポケットに入れたまま、去っていく二組の背中を見ていた。別れを惜しんでいるようには見えない。けれど、何も感じていない顔でもなかった。
「行かなくていいのか」
シンが訊く。
「行くよ」
トウヤはすぐに答えた。
「ただ、最後がシンなの、なんか分かるなって思っただけ」
「なにそれ」
「見送る側っぽい」
否定しようとして、シンはできなかった。少しだけ納得してしまったからだ。
トウヤは笑いもしないまま続ける。
「でも、それだけで終わんなよ」
「分かってる」
「ならいい」
短い。
短いけれど、それで十分だった。
トウヤはシンの返事を待つみたいに一瞬だけ立ち止まり、それから手を上げた。大げさな別れの合図じゃない。ただいつも通りの、軽い動作だった。
「じゃあな」
「うん。じゃあ」
ツタージャが肩の上で「ジャ」と鳴く。
トウヤはそのまま振り返らずに歩き出した。背中は昨日までと変わらないのに、並んでいたときより少し遠く見えた。自分の足で進む人間の背中だった。
シンはしばらく、その場に立っていた。
もう誰も隣にいない。
通りを歩く人たちが前を横切り、街の音がその隙間を埋めていく。さっきまであった空白が、すぐに世界へ吸い込まれていくみたいだった。
「ミジュ」
足元で、ミジュマルが鳴く。
見上げてくる目は、思ったより落ち着いていた。寂しくないわけじゃない。でも、ここからは自分たちの番だと、もう受け取っている顔だった。フシデも靴へ体を寄せて、それから一歩だけ前へ出る。
シンはゆっくり息を吸った。
胸の中に寂しさはちゃんと残っている。ぽっかり空いたみたいな感覚もある。けれど、それだけじゃない。自分も歩ける、という気持ちが、その隣に確かにあった。
「行こうか」
「ミジュ!」
今度の返事ははっきりしていた。
シンは最後に一度だけ、三人が去っていった方角を見た。もう姿は小さくなっている。追いかけようと思えば、まだ追いつける距離かもしれない。でも、そうはしなかった。
追いつくためじゃなく、自分で進むために別れたのだ。
それを、最初の一歩で裏切りたくなかった。
朝のヒウンシティは、もうすっかり動き始めている。
高い建物のあいだから落ちる光の下で、シンはミジュマルとフシデを連れて歩き出した。背中は軽くない。けれど、重いだけでもなかった。昨日まで隣にいた三人の気配が、もうなくなったわけではないからだ。見てきたものも、言われたことも、勝手に消えるわけじゃない。それらを持ったまま、ここから先は自分の歩き方で進めばいい。
石畳を踏む音が、今度は自分のものとしてはっきり聞こえる。
ヒウンシティの朝はにぎやかで、広くて、それでもどこか背中を押すような明るさを持っていた。
四人でいた旅は、ここでほどけた。
けれど、ほどけたから終わりではない。
一本ずつに分かれた線が、それぞれ別の場所へ伸びていくための朝だった。
シンは前を向く。
ミジュマルがその横で胸を張り、フシデが静かについてくる。
その歩幅はまだ完全には揃っていない。けれど、揃っていないままでも進めることを、もう知っていた。
新しい旅の最初の一歩は、思っていたより静かで、思っていたより確かだった。