BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第58話 音は、ひとりの足にもついてくる

 

 

 四人でいた時には気にならなかった街の音が、ひとりになるとやけに耳についた。

 

 ヒウンシティの朝は遅いくせに、完全には眠らない。荷車の車輪が石畳を鳴らす音。店先で木箱を動かす音。遠くで船の汽笛が低く響いて、潮の匂いが風に乗って路地まで入り込んでくる。

 

 シンは人通りの少ない道を選んで歩いていた。後ろにはミジュマル、足元にはフシデがついてくる。どちらも騒ぐ性質ではない。静かな並びだった。

 

 静かなはずなのに、今日はその静けさが少し広く感じた。

 

 四人でいた時は、誰かが何かを見つければ、誰かが返していた。ベルなら先に声を上げる。チェレンは意味を整える。トウヤは必要な時だけ短く言う。

 

 今は、それがない。

 

 ミジュマルがこちらを見上げた。シンはその頭を軽く撫でて、前を向く。

 

「……平気」

 

 口に出してみても、誰に言ったのかは自分でもわからなかった。

 

 しばらく歩いた先、倉庫街へ抜ける坂の途中で、シンは足を止めた。

 

 低い音が聞こえた。腹に響くような太い音。そのあとを追うように、細い弦の音が重なる。荒いが、雑ではない。まだ整いきってはいないのに、芯だけは外れていなかった。

 

 ミジュマルが耳を立て、フシデが小さく身を揺らす。

 

 坂を下りた先の開けた場所に、ひとりの少女がいた。使われていない木箱の上に腰かけ、黒いベースを抱えている。派手な色の髪が風に揺れていた。その前にはドガースが一匹、白い煙を細く吐きながら落ち着きなく浮かんでいる。

 

 少女が弦を弾くたび、ドガースの動きが少しずつゆるんでいった。

 

 シンは黙って見ていた。

 

 ドガースの近くには破れた袋と散らばった紙くずがある。何かに驚いて暴れたのだろう。少女は無理に押さえつけようとはせず、一定の調子で音を鳴らしていた。なだめるというより、呼吸を合わせるような弾き方だった。

 

 やがてドガースは短く鳴き、ようやくその場に落ち着いた。

 

 そこで初めて、少女が顔を上げる。

 

「あ、見てた?」

 

「見えたから」

 

「そっか」

 

 気を悪くした様子もなく、少女はベースの先を軽く持ち上げた。視線がシンからミジュマル、フシデへと移り、また戻る。

 

「旅の子だよね」

 

「……そう見えるか」

 

「見える。ちゃんと寝てるのに、寝不足っぽい顔してる」

 

 シンは少しだけ眉を寄せた。少女はそれを見て笑う。からかっているのに、嫌な感じはしなかった。

 

「外れた?」

 

「半分」

 

「じゃあ当たりじゃん」

 

 ドガースがふわりと浮かび上がり、少女の肩の高さまで戻る。さっきまで荒れていた煙も、今はだいぶおとなしい。少女はその丸い体を指先で軽くつついた。

 

「ありがと。待てたじゃん」

 

 今度はドガースに向けた声だった。

 

 シンは少しだけ目を細める。

 

 命令ではない。甘やかしているわけでもない。ただ、落ち着くまで待ってやる言い方だった。

 

 少女は木箱から飛び下り、ベースを背に回した。

 

「アタシ、ホミカ」

 

 名前だけをまっすぐに言う。

 

 シンも少し間を置いて返した。

 

「シン」

 

「へえ。短くていい名前」

 

「名前に長い短いあるのか」

 

「あるでしょ。呼んだ時の感じが違うし」

 

 当然みたいに言ってから、ホミカは倉庫の向こうの空を見た。海側から吹く風に、髪の先が揺れる。

 

「シン、どっち行くの」

 

「まだ決めきってない」

 

「ほんとに?」

 

「だいたいは決めてる」

 

「ふうん」

 

 それ以上は聞いてこなかった。無理に踏み込まれないのが少し楽だった。

 

 ミジュマルがホミカの足元に近づき、ドガースを見上げる。ドガースは少し身を引いたが、ホミカが何も言わないので、そのまま様子を見ていた。

 

「その子、あんまり怖がらないんだね」

 

 ホミカが言う。

 

「ミジュマルが?」

 

「そっちもだけど、そっちじゃなくて」

 

 視線はシンに向いていた。

 

「ひとりになったばっかりって顔してるのに、ちゃんと前見てる」

 

 シンは返事をしなかった。

 

 見抜かれた、と思うほどではない。けれど、適当に言ったわけではないのはわかった。ホミカは音だけじゃなく、人の様子もよく見ている。

 

 それ以上追及せず、ホミカはくるりと踵を返した。

 

「ま、いいや。そういう顔なら、またどっかで会うかもね」

 

「根拠ないな」

 

「あるよ。なんとなく」

 

 言い切って、ホミカはドガースと一緒に倉庫街の奥へ歩いていく。去り際、ベースの弦を一度だけ鳴らした。短い音だったが、よく通った。

 

 その音が聞こえなくなってからも、シンは少しだけその場に立っていた。

 

 ミジュマルが足をつつき、フシデが先を急かすように体を揺らす。

 

「……行くか」

 

 そう言って歩き出す。

 

 ひとりになったはずだった。

 けれど、さっきまでよりは少しだけ、足取りが重くなかった。

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