四人でいた時には気にならなかった街の音が、ひとりになるとやけに耳についた。
ヒウンシティの朝は遅いくせに、完全には眠らない。荷車の車輪が石畳を鳴らす音。店先で木箱を動かす音。遠くで船の汽笛が低く響いて、潮の匂いが風に乗って路地まで入り込んでくる。
シンは人通りの少ない道を選んで歩いていた。後ろにはミジュマル、足元にはフシデがついてくる。どちらも騒ぐ性質ではない。静かな並びだった。
静かなはずなのに、今日はその静けさが少し広く感じた。
四人でいた時は、誰かが何かを見つければ、誰かが返していた。ベルなら先に声を上げる。チェレンは意味を整える。トウヤは必要な時だけ短く言う。
今は、それがない。
ミジュマルがこちらを見上げた。シンはその頭を軽く撫でて、前を向く。
「……平気」
口に出してみても、誰に言ったのかは自分でもわからなかった。
しばらく歩いた先、倉庫街へ抜ける坂の途中で、シンは足を止めた。
低い音が聞こえた。腹に響くような太い音。そのあとを追うように、細い弦の音が重なる。荒いが、雑ではない。まだ整いきってはいないのに、芯だけは外れていなかった。
ミジュマルが耳を立て、フシデが小さく身を揺らす。
坂を下りた先の開けた場所に、ひとりの少女がいた。使われていない木箱の上に腰かけ、黒いベースを抱えている。派手な色の髪が風に揺れていた。その前にはドガースが一匹、白い煙を細く吐きながら落ち着きなく浮かんでいる。
少女が弦を弾くたび、ドガースの動きが少しずつゆるんでいった。
シンは黙って見ていた。
ドガースの近くには破れた袋と散らばった紙くずがある。何かに驚いて暴れたのだろう。少女は無理に押さえつけようとはせず、一定の調子で音を鳴らしていた。なだめるというより、呼吸を合わせるような弾き方だった。
やがてドガースは短く鳴き、ようやくその場に落ち着いた。
そこで初めて、少女が顔を上げる。
「あ、見てた?」
「見えたから」
「そっか」
気を悪くした様子もなく、少女はベースの先を軽く持ち上げた。視線がシンからミジュマル、フシデへと移り、また戻る。
「旅の子だよね」
「……そう見えるか」
「見える。ちゃんと寝てるのに、寝不足っぽい顔してる」
シンは少しだけ眉を寄せた。少女はそれを見て笑う。からかっているのに、嫌な感じはしなかった。
「外れた?」
「半分」
「じゃあ当たりじゃん」
ドガースがふわりと浮かび上がり、少女の肩の高さまで戻る。さっきまで荒れていた煙も、今はだいぶおとなしい。少女はその丸い体を指先で軽くつついた。
「ありがと。待てたじゃん」
今度はドガースに向けた声だった。
シンは少しだけ目を細める。
命令ではない。甘やかしているわけでもない。ただ、落ち着くまで待ってやる言い方だった。
少女は木箱から飛び下り、ベースを背に回した。
「アタシ、ホミカ」
名前だけをまっすぐに言う。
シンも少し間を置いて返した。
「シン」
「へえ。短くていい名前」
「名前に長い短いあるのか」
「あるでしょ。呼んだ時の感じが違うし」
当然みたいに言ってから、ホミカは倉庫の向こうの空を見た。海側から吹く風に、髪の先が揺れる。
「シン、どっち行くの」
「まだ決めきってない」
「ほんとに?」
「だいたいは決めてる」
「ふうん」
それ以上は聞いてこなかった。無理に踏み込まれないのが少し楽だった。
ミジュマルがホミカの足元に近づき、ドガースを見上げる。ドガースは少し身を引いたが、ホミカが何も言わないので、そのまま様子を見ていた。
「その子、あんまり怖がらないんだね」
ホミカが言う。
「ミジュマルが?」
「そっちもだけど、そっちじゃなくて」
視線はシンに向いていた。
「ひとりになったばっかりって顔してるのに、ちゃんと前見てる」
シンは返事をしなかった。
見抜かれた、と思うほどではない。けれど、適当に言ったわけではないのはわかった。ホミカは音だけじゃなく、人の様子もよく見ている。
それ以上追及せず、ホミカはくるりと踵を返した。
「ま、いいや。そういう顔なら、またどっかで会うかもね」
「根拠ないな」
「あるよ。なんとなく」
言い切って、ホミカはドガースと一緒に倉庫街の奥へ歩いていく。去り際、ベースの弦を一度だけ鳴らした。短い音だったが、よく通った。
その音が聞こえなくなってからも、シンは少しだけその場に立っていた。
ミジュマルが足をつつき、フシデが先を急かすように体を揺らす。
「……行くか」
そう言って歩き出す。
ひとりになったはずだった。
けれど、さっきまでよりは少しだけ、足取りが重くなかった。