ヒウンシティを抜ける前に、少しだけ食べ物を買っておこうと思った。
市場の通りは朝より人が増えていて、店先の呼び声も途切れない。焼いた木の実の匂い、干した魚の匂い、甘い菓子の匂いが風に混じって流れてくる。ミジュマルは途中で二度ほど足を止め、そのたびにシンに見られて何もなかったような顔をした。フシデはその横を変わらない速さで進んでいく。
「……後でな」
そう言うと、ミジュマルは不満そうにしながらもついてきた。
必要なものだけ買って通りを抜けたところで、少し先がざわついているのが見えた。
倉庫街に近い細い道で、人が何人か立ち止まっている。怒鳴り声ではないが、困ったような声が重なっていた。シンは足を向ける。
近づくと、積まれていた空箱が崩れ、その隙間に一匹のヤブクロンが入り込んでいた。驚いたらしく、袋の口みたいな部分を大きく開けて、近づく人間を威嚇している。足元には散らばった紙くずと、ひっくり返った小さな木箱。どうやら通りの荷を荒らしたというより、何かに驚いて突っ込んだ結果らしかった。
「近づくとまた暴れるなあ」
「でもこのままだと通れないし……」
店の人らしい男たちが困った顔で見合っている。
シンは少し離れたところで様子を見た。ヤブクロンは気が立っているが、追い詰められているだけで、積極的に襲いかかる気配は薄い。隙間の奥へ引っ込もうとして、また箱にぶつかっている。
その時、横から聞き覚えのある声がした。
「朝のやつ」
振り向くと、ホミカがいた。今度はベースは背負っていない。代わりに片手を腰に当て、もう片方の肩のあたりにドガースが浮いている。
「また会った」
「そうだな」
ホミカは人だかりの向こうを見て、すぐに状況をのみ込んだらしい。
「ヤブクロン、びびってるだけっぽいね」
「たぶん」
それだけ言って、二人とも少し黙った。別に相談するほどのことでもない。ただ、手を出すなら雑にやらない方がいい、それだけは同じだった。
ホミカがドガースを見上げる。
「煙、薄めで」
ドガースが短く鳴いた。
すぐには動かない。まずシンが一歩前に出た。ミジュマルも並ぶ。ヤブクロンの視線がこちらに向く。袋の口がまた開きかけたところで、ミジュマルが小さく鳴いた。威嚇ではなく、ただそこにいると知らせるような声だった。
「右、見とけ」
シンが短く言うと、ミジュマルは箱の崩れた側面へ回る。
ホミカのドガースが、薄く煙を吐いた。刺激は強くない。追い立てるためではなく、ヤブクロンの前をふわりと遮る程度の量だった。視界が少し揺れて、ヤブクロンの動きが止まる。
その隙に、フシデが地面すれすれに回り込んだ。箱の外側を軽く押し、これ以上崩れない位置をつくる。ヤブクロンは驚いてそちらを見るが、もう一方にはミジュマルがいる。前には煙。後ろは箱。残るのは、左手の少し広い空きだけだった。
「そっち」
ホミカが指先で道を示す。
ヤブクロンは一瞬ためらい、それから転がるようにその隙間へ飛び出した。通りの端まで行って振り返る。ドガースがもう一度だけ薄く煙を吐くと、ヤブクロンはそれ以上構わず、脇道の奥へ逃げていった。
人だかりの空気がゆるむ。
「助かったよ」
「箱、これで済んでよかったな」
店の男が頭を下げ、崩れた木箱を拾い始めた。シンもひとつ持ち上げて元の場所に戻す。ホミカはしゃがみ込み、散らばった紙を足先で集めていた。ドガースはその上に影を落として浮かんでいる。
「おまえ、慣れてるな」
箱を積みながらシンが言うと、ホミカは顔を上げた。
「毒タイプって、怖がられやすいから。暴れてるの見ること多いし」
「おまえが?」
「ドガースが」
ホミカは当然みたいに返した。
「アタシは慣れてるだけ」
それはたぶん本当だった。言い方に余計な飾りがない。
片づけが終わると、人だかりはすぐ散った。忙しい街では、ひとつの騒ぎが終われば、みんな次に行く。
通りに残ったのはシンとホミカ、それからミジュマル、フシデ、ドガースだけだった。
ホミカは手についたほこりを払ってから、シンの方を見る。
「さっきの、息合ってたね」
「そっちも」
「へえ。褒めたのに返してくるんだ」
「事実だろ」
ホミカは少し笑った。
「朝はもっと無口かと思った」
「今もそんなにしゃべってない」
「それはそう」
ドガースがふわりとミジュマルの近くへ寄る。ミジュマルは少しだけ身構えたが、逃げはしない。ドガースも無理には寄らず、その場でくるりと回った。フシデは興味がないのか、道の端を見ている。
「どこ向かうの」
ホミカが聞いた。
今度の聞き方は軽い。朝みたいに探る感じでもない。ただ会話の流れで出た問いだった。
「ヒウンを出る」
「すぐ?」
「今日のうちには」
「ふうん」
ホミカはそれ以上深く聞かなかった。その代わり、通りの向こうを親指で示す。
「東の門の方、昼過ぎ混むよ。荷が通る時間だから」
「……詳しいな」
「この辺うろついてるし」
短く答えてから、ホミカは少しだけ考えるように視線を上に向けた。
「遠回りでもよければ、裏の道あるけど」
「裏?」
「倉庫の横を抜けるやつ。人は少ない」
シンは少しだけ迷った。知らない道を素直に教わるのは癪、というほど子どもではないが、はいそうですかと受けるのも何となく落ち着かない。
その間に、ミジュマルがホミカの方を見た。ホミカは気にした様子もなく肩をすくめる。
「別に来たきゃ案内するし、来なくてもいいよ」
その言い方が、少しだけ楽だった。押しつけがましさがない。
「……じゃあ、そこまで頼む」
ホミカはにやりとした。
「了解」
そう言って歩き出す。ドガースがその後ろをふわふわついていく。シンも少し遅れて続いた。
裏の道はたしかに人が少なかった。倉庫の壁に挟まれた細い通路を抜け、古い木柵の脇を曲がる。表通りの騒がしさは遠くなり、代わりに海からの風が通る音が聞こえた。
「この先まっすぐ。突き当たりを左で東門」
「助かる」
そこでホミカは立ち止まった。
「じゃ、アタシはこっち」
別れ際まであっさりしている。シンはそれを見て、少しだけ言葉を探した。
「さっきは、ありがとな」
「ヤブクロンのこと?」
「それも」
ホミカは一瞬きょとんとしたが、すぐにわかったような顔になった。
「別に。たまたまいたし」
それだけ言って、くるりと向きを変える。
数歩行ったところで、ホミカは振り返った。
「次会ったら、今度はバトルしようよ」
「急だな」
「こういうのは急なくらいでちょうどいいし」
シンは少しだけ口元を動かした。
「考えとく」
「それ、半分はやるやつじゃん」
返事を待たず、ホミカは手を振って去っていく。ドガースがその頭上でくるりと回った。
見えなくなってから、ミジュマルが小さく鳴いた。
「……わかってる」
シンは東門の方へ向き直る。街を出れば、またしばらくはひとりだ。
それでも今は、さっきまでより少しだけ、道がまっすぐに見えた。