朝、最初に目を覚ましたのはミジュマルだった。
足もとの寝床から、ころりと転がるような気配がして、次いで小さな鳴き声がする。
シンはまだ半分眠ったまま、毛布の中で眉をひそめた。
知らない天井にも、昨夜よりはもう少し慣れている。
ポケモンセンターの部屋は静かで、窓の向こうから入ってくる光だけが、朝になったことを先に知らせていた。
「……早いんだよ」
掠れた声で言うと、ミジュマルは当然という顔で胸を張った。
こいつの中では、朝が来たら起きるのは当たり前らしい。
眠そうにしている人間側の事情など、たぶん考えていない。
シンはひとつ息を吐き、上体を起こした。
向かいのベッドではチェレンがすでに起きていて、荷物を整えていた。
きっちり畳まれた毛布の角まで妙に揃っている。
「おはよう」
「……おはよ」
「君の相棒、ずいぶん元気だね」
「見りゃ分かる」
ミジュマルは返事の代わりみたいに短く鳴いた。
その声で、隣のベッドのトウヤが寝返りを打つ。
さらに少し遅れて、別のベッドからくぐもった声が聞こえた。
「あと五分……」
ベルだった。
毛布を頭までかぶって、起きる気配がまるでない。
チェレンが一度だけそちらを見て、淡々と言う。
「五分で済むなら安いけどね」
「済むもん……」
「昨日も似たようなことを言ってたよ」
「昨日は昨日、今日は今日なの」
毛布の中から返ってきた理屈は、起きる人間のものではなかった。
トウヤがようやく身体を起こして笑う。
「じゃあ、今日は今日のベルを起こさないとな」
「やめて、優しくして」
「起きてから言えよ」
シンが言うと、ベルはしばらくうなり声のようなものを漏らしていたが、やがて観念したらしく、のろのろと顔を出した。
寝起きのぼんやりした目で周囲を見回し、自分だけ最後だと気づく。
「……みんな早くない?」
「君が遅いだけだよ」
「朝から厳しい」
「朝だからこそだろ」
そんな調子で始まった二日目は、昨日より少しだけ自然だった。
研究所を出た朝のぎこちなさはない。
同じ部屋で目を覚まして、同じ支度をして、同じ道へ出ていく。
それだけのことなのに、四人旅という形がようやく薄く馴染みはじめている気がした。
ポケモンセンターで簡単な朝食を済ませ、荷物を背負い直して外へ出る。
カラクサタウンの朝は、昨日のざわつきが嘘みたいに静かだった。
広場の石畳はまだ冷たそうで、家々の影も短い。
開き始めた店の前を通りながら、ベルが大きく伸びをした。
「今日こそ、ちゃんと旅って感じになりそう」
「昨日も十分そうだったと思うけど」
トウヤが言う。
「昨日は情報量が多すぎたの」
「それは否定しない」
チェレンが頷いた。
「町に着いた直後に演説とバトルと迷子探しだからね。落ち着いて道を進む余裕はあまりなかった」
「今日は落ち着いて進めるといいな」
トウヤのその言葉に、シンも同意しかけた。
だが、旅に出てからまだ一日しか経っていないのに、すでに“落ち着いて進む”という期待が外れやすいものだと知ってしまっている。
ミジュマルが足もとで先を急かすように鳴いた。
シンはその背中を見下ろす。
「お前は最初からそのつもりなさそうだけどな」
二番道路へ続く道に入ると、町の匂いが薄れた。
朝の草の匂いと、まだ冷たい土の気配が前に広がる。
一番道路より道幅は少し狭く、代わりに草むらや木立が近い。
人の手は入っているが、町の外側へひとつ踏み出した感触が昨日よりはっきりあった。
空気が違う。
シンは歩きながら、そんな当たり前のことを思う。
同じ地方の同じような道でも、足を置く場所が変わるだけで、見えるものも変わる。
旅というのは、そういう細かい差の積み重ねなのかもしれなかった。
「次のサンヨウシティまでは、そこまで遠くないはずだ」
チェレンが地図を見ながら言う。
「ただ、トレーナーも増える。野生だけ相手にしていればいいわけじゃない」
「むしろそっちが本道だろ」
シンが言うと、チェレンは視線を上げた。
「もちろん。だからこそ、消耗の仕方も考えたほうがいい」
「チェレンって、ほんとにずっとそういうこと考えてるよね」
ベルが感心半分、呆れ半分で言う。
「考えずに勝てるなら苦労しないよ」
「勝つ前提なんだ」
「負ける前提で旅に出る人はいないだろ」
それはその通りだった。
ベルは納得したような、していないような顔で頬を膨らませる。
トウヤがその横で笑いながら、道の先を指さした。
「ほら、さっそく来た」
道の脇に立っていたのは、自分たちと同じくらいの年の少年だった。
帽子を深くかぶり、手にはモンスターボール。
視線が合った瞬間、相手の表情がぱっと明るくなる。
旅に出たばかりのトレーナーを見つけた顔だと、今の自分たちには分かった。
「勝負しよう!」
まっすぐな誘いに、ベルが「やっぱり!」と声を上げる。
少年は順番に四人を見て、それからシンの前で足を止めた。
「最初は君だ!」
「……俺?」
「なんとなく強そうだから!」
雑な理由だった。
けれど、言われたほうは悪い気がしない。
シンは肩をすくめ、前へ――と、そこで自分の中に浮かびかけた言い回しに気づく。
踏みこむ、というほうが今はしっくりきた。
一歩、道の中央へ出る。
「いいけど、負けても知らねえぞ」
「言うね!」
少年が投げたボールから飛び出したのはヨーテリーだった。
短い脚で地面を叩き、最初からこちらへ勢いを向けている。
シンもミジュマルを繰り出した。
相棒は地面へ降り立つなり、相手を見据えて耳をぴんと立てる。
「ヨーテリー、たいあたり!」
開始の声と同時に、ヨーテリーが低く身体を沈めた。
次の瞬間には、もう一直線に間合いを詰めてくる。
速い。
昨日のチョロネコとは違う種類の速さだ。
躊躇いなく真っ直ぐ突っ込んでくる分、迷いがない。
シンの頭のどこかで、Nの声がよみがえる。
速さを合わせるのではなく、噛み合う場所を探す。
気に食わない言い方だったはずなのに、こういうときだけ妙に残っている。
「ミジュマル、受け流せ!」
まともにぶつけない。
ミジュマルは正面から迎え撃つ代わりに、半歩だけ身体をずらした。
ヨーテリーの突進がかすめる瞬間、貝の刃で肩口を払う。
勢いを完全には止められない。
だが、軸がぶれた。
ヨーテリーの足がもつれ、わずかに体勢を崩す。
「みずでっぽう!」
すかさず放たれた水が横合いからぶつかり、ヨーテリーを押し戻した。
砂ぼこりが細く舞う。
少年が目を見開いた。
「すご……でも、まだまだ!」
勢いを取り戻すように、ヨーテリーが吠える。
今度はさっきほど一直線ではない。
踏み切る寸前で小さく角度を変え、フェイント気味に距離を詰めてくる。
「頭使ってくるな」
シンが小さく呟くと、ミジュマルも同じように集中を深めた顔になる。
読まれて終わるほど、昨日までのままではない。
「そのまま来るなよ。ミジュマル、足もと!」
みずでっぽうは相手ではなく地面へ撃たれた。
湿った土が滑りを作る。
踏みこんできたヨーテリーの前脚がわずかに流れた。
そこへミジュマルが低い姿勢から体当たりを返す。
今度は真正面からぶつけた。
小柄な身体同士がぶつかり合い、鈍い音が鳴る。
押し切ったのはミジュマルのほうだった。
ヨーテリーが転がり、起き上がろうとして、そこで足を止める。
戦意はある。
だが、もう身体が追いついていない。
少年は悔しそうに唇を噛んだあと、すぐに表情をゆるめた。
「負けた! でも、すごくかっこよかった!」
さっきの雑な理由より、だいぶまっすぐな称賛だった。
シンは鼻を鳴らす。
「ミジュマルがな」
相棒は胸を張る。
その態度に、見ていた三人が笑った。
「いまの、よかったね!」
ベルが駆け寄ってくる。
「最初、ぶつからないでずらしたの、びっくりした」
「昨日なら、もっと真正面から行ってたかもね」
トウヤが言う。
「……かもな」
シンは短く返した。
自分でも分かっていた。
昨日なら、勢いで応じていた可能性が高い。
それが悪いわけではない。
けれど、ミジュマルと噛み合う場所を探す、という感覚は、確かに少しだけ手に残っていた。
チェレンが腕を組む。
「無理に速さ勝負へ乗らなかったのは正解だ。ミジュマルの反応と判断もよかった」
「褒めるときは普通なんだな」
「分析してるだけだよ」
「それ、昨日も聞いた」
ベルが横から言って、また小さな笑いが起きた。
その後も、二番道路は思ったより賑やかだった。
少し進めば、また別のトレーナーと目が合う。
ベルは同年代の女の子と勝負して、最初こそ焦って指示がばらついたが、途中からは自分のミジュマルの動きに合わせて立て直した。
勝ったあと、本人はへたりこんでいたが、負けて泣きそうだった相手に自分から声をかけているあたりがベルらしい。
チェレンは無駄のない試合運びで危なげなく勝ち、逆に相手を少し悔しがらせていた。
「きっちりしてる戦い方って、やられる側は結構へこむんだな」
トウヤがぼそりと言うと、チェレンは不本意そうに眉を寄せた。
「勝つためにやってるんだけど」
「分かってるって」
トウヤ自身も一戦交えた。
軽く見えて、案外引くところと踏みきるところの見極めが早い。
シンは横から見ていて、こいつは適当にやっているようで、実はかなり周りを見ているのだと改めて思った。
休憩を取ったのは、道の途中に小さな水辺を見つけたときだった。
木陰がちょうどよく落ちていて、草の上に座ると地面のひんやりした感じが旅の熱を少し逃がしてくれる。
四人は順番に水を飲み、ポケモンたちにもひと息つかせた。
ミジュマルは水辺を見るなり機嫌を良くして、浅いところへ足を入れたがった。
「落ちるなよ」
シンが言うと、ミジュマルは不満そうな顔をした。
「落ちないもん」とでも言いたげで腹が立つ。
「いまの顔、完全に大丈夫じゃないやつだったよ」
ベルが笑う。
「実際、危なっかしいところあるよね」
「ベルにだけは言われたくない」
「なんで!?」
「朝起きられないやつが言うな」
「関係ないでしょ!」
ベルが抗議し、トウヤがまた笑う。
その軽さの中で、チェレンが地図を見ながら口を開いた。
「この先を抜ければ、サンヨウシティは近い。あそこにはジムがある」
言われなくても知ってはいた。
けれど、改めて口にされると、ただの町の名前とは違う重みが出る。
最初のジム。
旅に出る前から、それが最初の大きな区切りになることくらいは分かっていた。
ベルが水筒を持ったまま、目を丸くする。
「もう、そこまで来てるんだ」
「距離としてはそう遠くないからね」
「でもなんか、急に本番って感じする……」
「今までが本番じゃなかったみたいな言い方だな」
シンが言うと、ベルは少し考えてから首を振った。
「違うの。今までは旅の始まりって感じで、これからは“越えなきゃいけないもの”がちゃんと見えてくる感じ」
その言い方は、ベルにしては妙に的を射ていた。
シンも、胸のどこかで似た感覚を覚えていたからだ。
道を進むだけでは終わらない。
勝ち負けがはっきり形になる場所が待っている。
自分とミジュマルがどこまで通用するのか、嫌でも試される。
「楽しみ?」
トウヤがふいに聞いた。
誰に、というより、四人全員へ投げるような言い方だった。
最初に答えたのはチェレンだった。
「もちろん。勝つための準備をしてきたつもりだからね」
「つもり、って言うんだ」
「絶対なんてないだろ」
その返事は、妙に正直だった。
次にベルが口を開く。
「私は……楽しみ、だけじゃないかな。ちょっと怖い。でも、怖いままで行きたくはない」
それもベルらしい答えだった。
曖昧なようで、誤魔化してはいない。
トウヤは肩をすくめる。
「俺は単純に見てみたい。ジムリーダーって、どんな感じなのか」
そして三人の視線が、最後にシンへ向いた。
別に聞かれなくてもいいのに、と思う。
だが、聞かれた以上は黙っているのも収まりが悪い。
シンは水辺で遊びたそうにしているミジュマルを見てから言った。
「勝てるかどうかは、まだ分かんねえ」
自分でも、逃げない言い方を選んだと思った。
「でも、試してみたいとは思ってる」
言い切ったあとで、胸の内側が少しだけ整う。
たぶん、それがいまの本音だった。
不安がないわけじゃない。
Nに言われたことが、完全に消えたわけでもない。
それでも、自分とミジュマルがどこまで噛み合えるのかを、ちゃんと確かめてみたい。
道の続きにあるのがジムなら、なおさらだ。
休憩を終えて立ち上がると、日差しは朝より高くなっていた。
二番道路の終わりが近づくにつれ、人の気配も増えていく。
草の匂いに混じって、町の匂いがまた少しずつ戻ってきた。
やがて木立が開け、視界の先に建物の並びが見えはじめる。
「見えた!」
ベルが真っ先に声を上げた。
サンヨウシティは、カラクサタウンよりもずっと町らしい町だった。
通りは広く、建物も背が高い。
遠くには学校らしい建物も見え、その近くには人の集まる大きな施設があった。
シンは最初、その建物が何なのか一瞬分からなかった。
外から見える形が、どうにもジムらしくない。
むしろ洒落た店みたいだった。
「……あれ、ほんとにジムか?」
「たぶん」
チェレンも少しだけ眉を上げている。
「資料で見たときも思ったけど、サンヨウジムはレストランと併設されてるらしい」
「レストラン?」
ベルが素っ頓狂な声を出した。
「ジムってもっと、こう……いかにも勝負って感じの場所じゃないの?」
「地方や町によって違うんじゃない?」
トウヤが面白そうに言う。
「むしろ最初から癖が強いな」
町の入口に立ったところで、四人は自然と足を止めた。
ここまで来れば、次に考えることはもうひとつしかない。
ポケモンセンターへ向かうか。
町を少し見て回るか。
あるいは、もっと別の準備を探すか。
旅に出て二日目。
まだ短いはずの時間なのに、カラクサタウンを出た朝より、自分たちは少しだけ先へ来ている気がした。
強くなった、とはまだ言えない。
けれど、昨日のままでもない。
ミジュマルが町の空気に鼻を鳴らし、シンの横へ並ぶ。
その仕草が、まるで「次はどうする」と聞いているみたいだった。
シンは建物の向こうに見えるサンヨウジムを見た。
レストランみたいな外見のくせに、あそこが最初の壁になる。
妙な話だと思う。
でも、嫌いじゃない。
「……とりあえず、腹ごしらえと情報集めだろ」
「賛成!」
ベルがすぐに手を上げる。
「お腹すいた!」
「君はさっきも食べたでしょ」
「歩いたから減ったの!」
「それは分かる」
トウヤが笑う。
チェレンは呆れたように息をつきつつも、反対はしなかった。
四人はまた歩き出す。
次の町へ入る足取りは、昨日よりも少しだけ迷いが少ない。
旅はまだ始まったばかりだ。
けれど、始まったばかりのままではいられない。
そのことを、サンヨウシティの入口に立ったとき、シンははっきり感じていた。
最初のジム戦は、もうすぐそこまで来ている。