ヒウンシティの門を抜けて少し行くと、足の裏に返ってくる感触が変わった。
石畳が途切れ、乾いた土が混じり、やがて砂が増える。道の両脇には、まだ工事の途中らしい資材や木杭が点々と置かれていた。まっすぐ伸びているように見えて、実際には風に削られ、ところどころで形を変えている。踏めば沈む場所と、固く締まった場所がまだらに続いていた。
空は広い。ヒウンの建物に切り取られていた時より、ずっと広い。
そのぶん、陽も遠慮なく落ちてきた。
シンは足を止め、目を細める。
「……思ったより、ちゃんと砂漠だな」
ミジュマルが隣で耳を動かした。フシデは足元の砂を一度だけ掻き、すぐに落ち着いた動きに戻る。
背後を振り返れば、ヒウンの門はまだ見えた。けれど、前を向けば、見えるのは白っぽく乾いた道と、その向こうの揺れる空気だけだった。街の気配はもう薄い。ここから先は、別の場所だった。
シンは歩き出した。
砂の道は、見た目ほど単純ではない。平らに見えて、細かく起伏がある。足を取られないよう歩幅を調整しなければならないし、沈むところでは体力の減り方が変わる。ましてポケモンを連れていれば、自分だけ気をつけていればいいわけでもない。
ミジュマルは最初のうちこそ、足元の砂にいちいち目をやっていた。けれど、十分も歩かないうちに慣れたらしい。前へ出すぎず、半歩ほど先を保って進んでいく。フシデはそれよりさらに安定していた。短い脚で、一定の速さを崩さない。こういう足場は、むしろフシデの方が得意なのかもしれない。
シンは歩きながら、水筒の重さを手の中で確かめた。
なくなるほどではない。だが、ヒウンまでの道と同じ感覚で使っていい量でもなかった。
少し先に、日陰らしい影が見えた。壁と屋根だけの簡単な休憩所で、乾いた風を避けるにはちょうどよさそうだった。中には作業員らしい男が二人と、荷物を足元に置いた旅人がひとりいた。全員、口元に布を巻いている。
シンは中には入らず、その前を通りすぎようとした。
「兄ちゃん、北まで行くのか」
作業員のひとりが声をかけてきた。
シンは立ち止まり、そちらを見る。
「そのつもりです」
男はシンの足元、ミジュマル、フシデの順に目をやった。
「なら、明るいうちに欲張りすぎるなよ。昼すぎると風向きが変わる」
「砂が強くなるんですか」
「日によるがな。強い日は前が白くなる。道の脇の濃い砂には潜ってるやつもいるし、見えにくい時に踏み込むと面倒だ」
横にいたもうひとりが水を飲みながら言った。
「この道は、人が通るぶんまだましだ。西の方に逸れると、砂が深い」
シンは軽くうなずいた。
「ありがとうございます」
礼を言うと、男たちはそれ以上は話しかけてこなかった。忠告だけして、あとは好きにしろ、という距離の取り方だった。シンにはそのくらいがありがたかった。
休憩所を過ぎてから、ミジュマルが短く鳴いた。
「聞いてた」
シンは前を見たまま答える。
「濃い砂のところには近づくな。休むなら風が変わる前。……そのへんだろ」
ミジュマルはそれで十分だと言うみたいに、もう一度だけ鳴いた。フシデは相変わらず無言だが、足取りは乱れていない。
道の左手に、砂の色が少し濃くなっている帯のような場所があった。風が吹くたび、表面だけが細かく流れていく。見ていると、そこだけ生き物の皮膚みたいに薄く動いて見えた。
シンは自然と、そちらに視線を長く置かないようにした。
そういう場所に、何もいない方がおかしい。
同じ道をしばらく進んでいくと、今度は前方に荷車が見えた。布で覆われた荷を積んだ小ぶりの車で、モグリュー二匹がゆっくり引いている。御者台には年配の男、その隣には若い女が座っていた。追いつくほどではないが、歩く速さとしては同じくらいだった。
シンが少し離れて後ろを歩いていると、御者台の男が振り向いた。
「追い越すか?」
声を張るでもなく、普通の調子だった。
「いや、このままで大丈夫です」
「そうか」
そこで会話は終わるかと思ったが、隣の女がシンの手持ちを見て口を開いた。
「砂、平気そう?」
「まだ大丈夫です」
「ならいいけど。水は余分に残しといた方がいいよ。ミジュマルいると、つい頼りたくなるから」
シンは少しだけ、女の方を見た。女は前を向いたまま笑った。
「うちも昔そうだった」
それだけだった。シンは返事に迷って、短くうなずくだけにした。
ミジュマルは気にした様子もなく歩いているが、言いたいことはわかった。水を使えるから、水に困らないわけじゃない。むしろ使えるからこそ、使いどころを考える必要がある。
荷車が少しだけ速度を上げる。モグリューの足は安定していた。砂地に慣れている進み方で、無駄がない。
シンはその後ろ姿を見送りながら、自分たちの歩幅を見直した。進める時に進むのと、急ぐのは違う。ひとりで歩いていると、その区別を誰もしてくれない。
昼が近くなるにつれて、砂の照り返しが強くなった。風はあるのに、涼しくはない。むしろ、熱い空気が流れていく感じがする。口の中が乾くのが早くなり、喉の奥がざらつく。シンは立ち止まって、ミジュマルとフシデにも少しずつ水を分けた。
「一気に飲むなよ」
言ったそばから、ミジュマルはもう少し飲みたそうな顔をする。
「まだ先あるだろ」
そう言って栓を閉めると、不満そうに鼻を鳴らした。
その時だった。
ミジュマルの耳がぴくりと立つ。フシデも足を止めた。
シンは反射的に前を見る。何もいない。だが、右手の濃い砂の辺りで、ほんのわずかに表面がずれた。
「……来るな」
答える代わりに、砂の中から小さな影が跳ね上がった。メグロコだった。勢いよく飛び出したが、真正面から噛みつきに来るわけではない。砂と一緒に身を滑らせながら、こちらの進路の少し前へ回りこむ。
もう一匹、いた。
少し離れた左側でも、砂が盛り上がる。そちらも小さい。どちらもまだ若い個体に見えたが、だから安全とは限らない。若いからこそ距離感を間違える。
シンはすぐに自分の立ち位置を変えた。ミジュマルを左前、フシデを右寄りに置き、自分はその後ろを半歩下がる。
「囲まれるな。前だけ見ろ」
ミジュマルが短く鳴く。フシデは地面すれすれに体を低くした。
最初のメグロコが一歩、砂を滑るように前へ出る。威嚇のつもりか、口を少し開けている。もう一匹は少し遅れて動いた。連携と呼ぶほど整ってはいないが、片方が正面、片方が横を取ろうとしているのはわかる。
ここで追い払えればいい。深く相手をする意味はない。
「ミジュマル、足元」
ミジュマルが前へ出た。狙いは相手本体ではない。地面すれすれに水を打ち、砂をまとめてはね上げる。乾いた表面が崩れ、前へ出ていたメグロコの顔と脚にかかる。
わずかにひるむ。
その瞬間を待って、右から回っていたフシデが動いた。体当たりするほど深くは踏みこまず、進路だけをずらす。メグロコは思ったよりそちらを気にし、横へ逃げようとして砂を取られた。
「そこまで」
シンの声で、ミジュマルは追わずに止まった。フシデもそれ以上行かない。
今度は後ろにいたもう一匹が、低く回り込もうとした。だがこちらも、進みたいというより、どこまで出てくる相手かを見ている感じだった。縄張りから追い払えるならそれでいい、という動きだ。
「フシデ、戻れ。ミジュマル、前だけ押す」
短く言う。
ミジュマルが一歩ずつ詰める。大振りには動かない。相手を倒すためではなく、進めるための圧だけを前へ出す。フシデは逆に下がりながら、右へ抜ける道を消さない位置に残った。
メグロコたちは、数歩ぶんだけ粘った。だが、ここが本当に守りたい場所というより、こちらがどこまで踏み込むかの確認だったのだろう。やがて一匹が身を翻し、元の濃い砂の方へ滑りこんだ。もう一匹もそれに続く。砂の表面が二度だけ盛り上がり、それきり静かになる。
風の音だけが戻った。
ミジュマルが振り返る。まだ追える、と言いたげな顔だった。
「追わない」
シンは先に言った。
「あっちの場所でやり合う意味ない」
ミジュマルは不満そうに鼻を鳴らしたが、戻ってくる。フシデは最初から同じ意見だったのか、もう足元の位置に収まっている。
シンは一度深く息を吐いた。
今のは戦闘と呼ぶほどのものではない。けれど、ああいう小さな押し引きの方が、旅の途中ではずっと多いのだろう。倒した方が早い場面ばかりじゃない。むしろ、倒さなくて済むなら、その方がいい。時間も体力も、水も、全部限りがある。
手のひらに汗が残っているのがわかった。
「……ここ、ちゃんと危ないな」
独り言みたいに言うと、ミジュマルが今度は低く鳴いた。さっきより静かな声だった。たぶん同意だ。
その後は、さっきまでより進み方が変わった。シンは道の中央寄り、踏み固められた場所を選ぶようになり、濃い砂には目を配った。ミジュマルも先へ出すぎない。フシデは小さい分、地面の揺れに早く気づくのか、ときどきシンより先に立ち止まることがあった。
分かれ道が見えたのは、その少し後だった。
北へ伸びる主道と、左へ折れていく道。立て札には、片方にライモンシティ、もう片方にリゾートデザートとある。
シンはそこで足を止めた。
左の道の向こうは、砂の色がさらに濃い。見える範囲からして、もう同じ道ではなかった。風の運び方も違う。奥の方には崩れた石のような影も見えるが、距離のせいで輪郭まではわからない。
ミジュマルもそちらを見た。フシデはシンの足元で止まる。
「……今は、まっすぐだな」
言いながら、自分でもその言葉の重さを確かめた。
寄り道したい気持ちがないわけではない。知らない場所があれば見たくなるし、気になるものがあれば足も向く。けれど、今はまだ手持ちも少なく、移動そのものに慣れきっているわけでもない。そういう状態で、砂の濃い方へ自分から入るのは違う。
無理をしない、というより、まだ早いと認めることに近かった。
「行くぞ」
北の道へ足を向けると、ミジュマルが一度だけ鳴いた。異論はないらしい。
分かれ道を過ぎた先には、また小さな休憩所があった。今度は先客が二人いた。荷物の量からして旅人だろう。ひとりは年若い男で、もうひとりは背の高い女だった。どちらも砂よけの布を外して、水を飲んでいるところだった。
シンは入口に近い壁際へ腰を下ろした。ミジュマルとフシデにも水を分ける。
背の高い女の方が、ミジュマルを見て言った。
「水ポケモン連れてると、この辺は助かるでしょ」
気安い調子だが、踏み込みすぎない言い方だった。
「助かる時もあります」
「時も、か」
女はそれで納得したように笑う。
「まあね。頼りすぎると、今度はそっちが先にばてるし」
さっき荷車の女に言われたのと、似たことを言われた。たぶん、この道を歩くなら当たり前の感覚なのだろう。
若い男の方は、フシデを見ていた。
「その子、足場に強そうだな」
「安定してます」
「いいな。うちのは砂に機嫌悪くするから」
外に繋いであったポカブが、ちょうどそのタイミングで鼻を鳴らした。確かに、脚の運びが少し気に入らなさそうだった。
そこから先は、特に会話は広がらなかった。シンもそれを惜しいとは思わない。必要なことだけ交わして、あとはそれぞれ休む。こういう場所ではその方が自然だった。
風向きが変わったのは、その少し後だった。
最初に気づいたのは音だった。休憩所の外で、砂が壁をこする音が少し強くなる。次に、入口から見える景色が白っぽく揺れた。
背の高い女が外を見て、小さく舌を打つ。
「早いな」
「ひどくなりますか」
「長くはないと思うけど、歩きながら食らうと面倒」
作業員の言っていた通りだった。
シンは外を見た。進めないほどではない。だが、濃い砂の場所であれを受ければ、足元も見えにくくなるだろう。わざわざ損をしに行くことはない。
「少し待つか」
誰に言うでもなく呟くと、ミジュマルが膝の横に座った。フシデは荷物の影に入る。
風は二十分ほどで弱まった。長くはなかったが、その間に水を飲み、靴の中の砂を払い、荷物の紐を結び直せたのは大きかった。進んでいれば、どこかで必ず立ち止まっていただろう。
再び歩き出す頃には、陽が少し傾き始めていた。
午後の4番道路は、午前とは別の道に見えた。光の角度が変わり、砂の起伏がはっきりする。遠くの景色は相変わらず単調なのに、足元だけはむしろ情報が増えた。疲れもある。昼を越えてからは、同じ距離でも進んだ感じが薄い。
ヒウンから出た時には、道がひたすら長く見えた。今は逆に、次に休む場所までが遠く感じる。
その感覚の変化を、シンは嫌だとは思わなかった。
実際に歩けば、そういうものだろうと思った。
夕方が近づいた頃、道の北側に大きめの建物が見えてきた。ライモンシティの手前にあるゲートだった。まだ町の中ではないが、風を避けられる壁と、人が休めるだけの広さがある。
入口の脇に立っていた係員が、通ってきた道の方を見て言った。
「遅かったな。南からか?」
「はい」
「なら今日中に町へ入ることもできるが、砂食ってる顔してるぞ」
シンは返事に少し詰まった。自覚はあったからだ。
係員は笑いもせず、ただ事実として続けた。
「休んでからでも遅くない。ここで水は足せる」
シンは少しだけ考えた。
まだ歩ける。けれど、歩けることと、無理をすることは違う。町が近いからこそ、焦る必要はない。今日のうちに着いても、疲れたまま入れば細かい判断が鈍る。
「……少し休みます」
そう言うと、係員は短くうなずいた。
ゲートの壁際は、今までの休憩所よりずっと楽だった。砂が少ないだけで、足の裏の感覚まで変わる。ミジュマルは床に座りこんだまましばらく動かず、フシデも荷物の横で丸くなった。
シンは壁にもたれて、水を飲む。
喉を通る冷たさが、思ったより深く残った。
窓の向こうに、北の空が見える。ライモンシティはもう近いはずだ。けれど、その手前で止まったことに後悔はなかった。今日はヒウンを出て、砂の道を歩いて、危ない場所を知って、進まない方がいい時もあると確かめた。それだけで十分だった。
ミジュマルが隣で小さく鳴く。
「……わかってる」
シンは目を閉じかけて、やめた。
ひとり旅は、思っていたより静かだった。
でも、静かなぶんだけ、見落とせないものが増える。
どこで水を使うか。
どこまで踏み込むか。
何と戦って、何をやり過ごすか。
四人でいた時には、誰かが先に気づいていたことを、今は自分で拾わないといけない。
面倒ではある。
けれど、それを嫌だとも思わなかった。
ゲートの外で風が鳴る。砂の音は、もう少し遠い。
シンは膝の上に置いた手を見る。薄く砂が残っていた。
「明日には着くか」
ミジュマルが今度は少しだけ強く鳴いた。フシデも、丸まったまま尾をわずかに動かす。
シンは口元だけで小さく笑う。
「なら今日は、ここまででいい」
夕方の光はもう柔らかくなっていた。
ヒウンを出た最初の一日は、思っていたより短くも長くもなかった。ただ、ちゃんと一日分の重さがあった。
それで十分だった。