朝、目が覚めた時には、もう風の音がしていた。
ライモンシティ手前のゲートは、夜のあいだも完全には静かにならなかった。遅い時間に通っていく荷車の軋む音が一度、外で係員同士が短く言葉を交わす声が二度。眠れないほどではないが、家の中とも宿とも違う。そういう場所の音だった。
シンは体を起こし、まず荷物の位置を確かめた。壁際に寄せた鞄、水筒、靴。隣ではミジュマルがまだ丸くなっていて、フシデは荷物の影にぴたりとついている。
窓の外は明るくなり始めていた。
昨日の砂は、まだ残っている。靴の中にも、服の裾にも、鞄の縫い目にも細かく入り込んでいた。シンは座ったまま靴を逆さにし、踵を軽く叩く。ぱらぱらと砂が落ちる。
ミジュマルがその音で目を覚ました。耳を動かし、少し遅れてあくびをする。
「起きろ。もう出る」
そう言うと、ミジュマルはまだ眠そうな顔のまま起き上がった。フシデはもともと起きていたらしく、すでに体をわずかに揺らしている。
外の洗い場で顔を洗うと、水が思った以上に気持ちよかった。砂の残った頬と首筋が少し楽になる。ミジュマルにも水をかけると、気持ちよさそうに目を細めたが、次の瞬間には自分から頭を突っ込んで、水を周囲に散らした。
「やりすぎ」
シンが言うと、ミジュマルは何でもない顔をする。
ゲートの係員は、朝も昨日と同じ位置に立っていた。交代したのかもしれないが、シンにはわからない。
「もう出るのか」
「はい」
「なら今のうちだな。午前中はまだ歩きやすい」
係員はそれだけ言って、水筒を指さした。
「町に入れば補給は楽になるが、着く前に空にするなよ」
「わかってます」
短いやり取りを終えて、シンはゲートを出た。
朝の4番道路は、昨日の昼と別の場所みたいに見えた。空気はまだ冷えていて、砂の表面にも熱が乗りきっていない。日差しはあるが刺すほどではなく、遠くの輪郭も比較的はっきりしている。こういう時間に進めるだけ進むのが正しいのだろうと、歩いていてわかった。
ミジュマルも昨日より足取りが軽い。フシデは最初から変わらず一定だ。
ライモンシティまでは近い。
そう聞いていても、実際に歩くと「もうすぐ」と「着いた」は別だった。ゲートを出てしばらくは、相変わらず砂と工事跡と乾いた風が続く。昨日、分岐の立て札を見た時には、ここから先はすぐ町に変わるような気がした。そんなことはなかった。
シンは歩きながら、昨日の反省を頭の中で並べる。
砂の濃い場所を避ける。
日陰が見えたら位置だけでも覚えておく。
水は足りなくなってから気にしても遅い。
野生は見えている個体だけで終わらないことがある。
こういうことは、一度歩けば身に残る。
遠くの道の上に、先に出た旅人らしい影が二つ見えた。こちらと同じ方向へ進んでいる。追いつくほどではないが、同じ道を歩いているというだけで、なぜか少しだけ進みやすくなる。完全にひとりではないとわかるからだろうか、とシンは考えかけて、やめた。
そういう言い方をすると、何か足りないみたいだった。
足りていないわけではない。今はただ、前より静かなだけだ。
道の脇に、埋まりかけた古い木箱が見えた。人が使ったものか、運んでいる途中で置き去りにされたものかはわからない。こういう場所では、使われなくなったものもすぐ砂に飲まれる。昨日見た工事資材だって、手入れを止めれば同じだろう。
人の道と、砂の場所は、隣り合っているようでいて、油断するとすぐ入れ替わる。
そう思った時、フシデがぴたりと止まった。
シンも足を止める。
道の左脇、少しだけ低くなった場所で、砂が動いた。昨日のメグロコほどはっきりした動きではない。もっと浅い、表面だけがずれる感じだった。
ミジュマルが前に出ようとする。
「待て」
シンは短く言った。
近づかない。確認もしにいかない。ここはまだ主道の上で、脇へ寄る理由もない。わざわざ相手の場所に寄っていく必要はなかった。
三歩ぶんだけ進路を右にずらし、そのまま通り過ぎる。視線は外しすぎず、足も止めない。
結局、それ以上のことは起きなかった。
何かがいたのは確かだ。だが、こちらが踏み込まなければ、向こうも出てこないことはある。
シンは通り過ぎてから、小さく息を吐いた。
「昨日よりましだな」
ミジュマルが少し不満そうに鳴く。
「戦えばいいってもんじゃないだろ」
返すと、ミジュマルは前を向き直った。理解はしているらしい。ただ、納得しているかは別だ。
しばらくすると、砂の色が少しずつ薄くなっていった。地面が固くなる。工事の途中らしい板や杭も増え、道の輪郭がはっきりしてくる。風の運ぶものも、砂のざらつきより、土と乾いた草の匂いに近づいていった。
そして、ようやく町の気配が見えた。
最初に見えたのは建物ではない。高い柱だった。遠くに何本か立っていて、そこから線のようなものが伸びている。何に使うのかまではわからないが、少なくとも自然の中にはない形だった。
「……あれか」
ライモンシティ。
ヒウンみたいに建物が密集しているわけではなく、もっとひらけた印象がある。だが、広い空の下に人工物が並んでいるせいで、逆に目立つ。砂地帯の向こうに別の世界が置かれているように見えた。
ミジュマルも気づいたらしく、足が少し速くなる。
「焦るな。まだある」
シンが言うと、ミジュマルは歩調を戻した。
町の外れに近づくにつれ、人影も増えた。荷物を持って行き来する者、整備のような仕事をしている者、道の端で何かの確認をしている者。4番道路は、旅人だけの道ではなく、町と町をつなぐ仕事の道でもあるのだとわかる。
道の脇には小さな詰め所のような建物があり、そこにいた若い男が通る者を軽く見ていた。止められることはないが、全く自由に出入りしている感じでもない。
シンが通りすぎる時、その男はミジュマルとフシデを見て言った。
「砂、きつかったろ」
「それなりに」
「今朝はまだよかった方だよ。昨日の昼はもっとひどかった」
シンは少しだけ足をゆるめる。
「毎日こんな感じですか」
「毎日じゃない。けど、ましな日でも楽ではないな」
男はそう言って、町の方をあごで示した。
「ポケモンセンター行くなら、入ってすぐの通りを左。迷うほどじゃない」
「ありがとうございます」
礼を言うと、男はもう別の旅人を見た。
町の入口を越えた時、空気が変わったのがわかった。
砂が完全になくなるわけではない。靴の中にも服にもまだ残っている。けれど、足元は整えられていて、人の動線ができている。音も違う。風だけでなく、人の話し声、車輪、どこかの機械音、呼び込みの声が重なる。
ヒウンシティは、人の多さで圧される町だった。
ライモンシティは、広さの中にいろいろな音が散っている町だった。
目に入るものが多い。大きな看板、整備された通り、遠くで回る観覧車のような影、見上げるほどの建物ではないが、それぞれがきちんと存在を主張している。
ミジュマルが辺りを見回し、少しきょろついた。フシデは逆に、周囲を気にしないぶんだけ落ち着いている。
「まずセンターだな」
シンはさっき教わった通りに道を曲がった。
ポケモンセンターの入口はすぐ見つかった。ライモンシティの規模に比べると、そこだけはどこの町とも似ている。赤い屋根、出入りするトレーナー、入口近くのベンチ。そういうものが見えるだけで、少し気が抜ける。
中に入ると、冷えた空気が肌に当たった。外の乾いた熱とは別物で、思った以上に楽になる。
シンはまずミジュマルとフシデをボールへ戻すか迷い、そのままにした。砂で少し疲れているのは自分だけではない。ミジュマルは床の感触が変わっただけでほっとした顔をしているし、フシデも落ち着いていた。
受付の近くには、同じように道路を越えてきたらしいトレーナーが何人かいた。靴に砂が残っている。袖のあたりに薄い土色がついている。昨日まで町の中にいた者と、今歩いてきた者の違いは、そのへんに出る。
順番を待つあいだ、シンは鞄を開けて中身を確かめた。水、手ぬぐい、残った食べ物、細かい道具。砂が入っていない場所の方が少ない。すぐ使えなくなるほどではないが、今日はどこかで一度、全部見直した方がよさそうだった。
「次の方」
呼ばれて、シンは受付へ行く。
ジョーイはシンの手持ちを見ると、慣れた調子で微笑んだ。
「4番道路を越えてこられたんですね」
「わかりますか」
「砂の道を通ってきたトレーナーさんは、けっこう見てわかるんです」
言い方は柔らかいが、事務的でもある。変に踏み込んでこないのがありがたかった。
「お預かりしますね」
ミジュマルはボールに戻される前に一度だけシンを見た。フシデは最初から静かだ。二匹を預けたあと、シンは壁際の席に座った。
人の出入りは多いのに、ヒウンよりせわしなくはない。町の広さのせいか、音が少し分散している。隣の席では、年上のトレーナーらしい男が地図を広げていた。その向かいでは、小柄な少女がコアルヒーに文句を言っている。町に着いた途端に元気を取り戻したらしい。
そういうのを眺めているうちに、自分の肩が思ったより固まっていたことに気づいた。緊張していた、というほどではない。ただ、道にいるあいだはずっと何かしら見ていたのだろう。周囲、足場、水、野生、時間。止める理由がない限り、止まらない種類の注意だった。
二匹を受け取ったあと、シンはセンターの隅にある洗い場で、靴と鞄をざっと払った。完全には落ちない。それでも、今やるのと後回しにするのでは違う。ミジュマルはその横で、ようやく体を大きく伸ばしている。フシデはタオルの上に置いてやると、そのまましばらく動かなかった。
「……疲れてたのはそっちか」
小さく言うと、ミジュマルが鳴いた。そっちもだろ、と言いたげだった。
センターを出る頃には、昼を少し過ぎていた。先に宿を取るか、食べるかで少し迷う。結局、先に食べることにした。空腹のまま考えてもろくなことにならないのは、昨日でわかっている。
通り沿いの小さな店に入り、座れる席を選ぶ。町に入ったばかりの旅人を珍しがるほどの視線はない。ライモンシティは、出入りの多い場所なのだろう。店員も最低限の確認をするだけで、こちらの事情には興味を示さない。
そこがよかった。
食事を待つあいだ、シンは窓の外を見た。人が通る。ポケモンも通る。ライモンシティの中では、町の音と一緒にポケモンがいる。4番道路のように、どこから出てくるかわからない緊張ではない。管理され、人と折り合っている気配がある。
同じポケモンでも、場所が変われば距離の取り方が変わる。
そのことを、シンは昨日から何度も考えていた。
野生は危険だ。縄張りもあるし、こちらを追い払うために出てくることもある。こっちが気づく前に、向こうが気づいていることだってある。だから町の外では、ポケモンをかわいいだけで見てはいられない。
でも、人と一緒にいるポケモンは、その危険さを失うわけじゃなく、扱い方が変わっているだけなのかもしれない。
ミジュマルを見ていると、そう思う。
もともと気性が荒いわけではない。けれど、戦うなら前へ出るし、押せる時は押したがる。フシデだって静かなだけで、油断すれば鋭くくる。町の中では、それが表に出ないだけだ。
「……環境か」
つぶやくと、ミジュマルがテーブルの下から足をつついた。
「いや、別におまえのこと悪く言ってない」
ミジュマルは疑わしそうな顔をしたが、出てきた料理に気を取られたらしく、それ以上は追及しなかった。
食べ終わって店を出ると、身体がようやく落ち着いてきた。休む場所を確保してしまえば、今日はそれでいい。町の探索は明日でも遅くない。ジムがどうとか、次の道がどうとか、そういうのを考えるのもまだ先でいい。
宿を探して二軒目で空きを見つけ、部屋を取る。ヒウンのような大きな建物ではないが、清潔で、荷物を広げるには十分だった。
部屋に入って最初にしたのは、ベッドに座ることでも窓を見ることでもなく、鞄の中身を全部出すことだった。砂が布の縫い目からまた落ちる。靴紐をほどき、道具を拭き、水の残量を見て、食べ物を数える。使ったもの、減ったもの、次に補うべきもの。
旅は歩いている時だけじゃなく、止まっている時にも進むのだと、そういう作業をしているとわかる。
ミジュマルは部屋の隅を一通り見てから、ようやくベッドの端に飛び乗った。フシデはシンが敷いた布の上に落ち着く。
「今日はもう、外出なくていいか」
ミジュマルがこちらを見る。出たければ出るか、とも言わず、シンはそのまま窓の外に目をやった。
ライモンシティの空は、ヒウンより広く見える。建物が低いわけではないが、配置のせいか、遠くまで視線が抜ける。その中に、観覧車らしい大きな円がゆっくり見えていた。町の中に、ああいうものがある。
四人で旅していたら、誰かが先に声を上げていたかもしれない。
ベルなら真っ先に反応しただろう。トウヤは短く感想を言って、チェレンはそれが何なのか先に確認する。そういう流れが自然に想像できた。
シンはそこまで考えて、そこで止めた。
懐かしい、とは少し違う。ただ、いないことに慣れきってはいないだけだ。
ベッドに背を預けると、砂の道を歩いた分だけ、脚の重さが戻ってきた。町に入った時はもう平気だと思ったのに、休める場所に着くと遅れて出る疲れがある。
ミジュマルがベッドの端から近づいてくる。フシデも位置を変えた。
「……大丈夫だよ」
そう言っても、何に対してかは自分でもよくわからなかった。
それでも、二匹はそれで足りたらしい。
少しだけ目を閉じる。眠るつもりはなかったが、気づけば時間が過ぎていた。窓の外の光が変わり、町の音も昼間より柔らかくなっている。
起き上がって水を飲み、シンは机の上に簡単なメモだけ残した。
4番道路、砂が深い場所あり。
濃い砂にメグロコ。
休憩所の位置、水の減り。
風向きが変わる時間。
誰に見せるものでもない。けれど、書いておけば次に似た道を歩く時に役立つ。こういう積み重ねが、自分の旅になるのだろうと思った。
夜、もう一度だけ窓を開けると、町の明かりが見えた。ヒウンの夜ほど強くはない。だが、消えずに残る種類の光だった。
シンはそのまま窓を閉める。
「明日は町の中、だな」
ミジュマルが小さく鳴く。フシデもわずかに体を揺らした。
4番道路は抜けた。
でも、旅が一区切りついた感じはしない。
町に着けば、今度は町の中で考えることがある。休める場所が増えるぶん、人も増え、情報も増え、選ぶものも増える。
それでも、昨日までよりは少しだけやりやすい。
砂を落として、水を足して、ようやく次の場所に入れた気がした。
シンは明かりを落とし、目を閉じる。
道はまだ続く。
けれど今日は、ちゃんとひとつ越えた。