ライモンシティで二日目の朝を迎えた時、シンはようやく、この町の空気が少しだけわかってきた気がした。
ヒウンシティは、人の多さそのものが先に来る町だった。
ライモンシティは違う。広い道、遠くまで抜ける視界、派手な看板、遊園地の観覧車、あちこちから聞こえる音。ひとつひとつは離れているのに、全部が同時に目に入る。だから気を抜くと、視線だけ先に持っていかれる。
宿の窓を開けると、朝の光はもう十分に入っていた。
ミジュマルは先に起きていて、椅子の上で尻尾を揺らしていた。フシデは荷物の脇に収まったままだが、シンが動くと小さく身じろぎする。
「今日は、町の中をちゃんと見る」
シンが言うと、ミジュマルが「ミジュ」と短く鳴いた。
昨日よりはっきりした返事だった。
「ジムも、道も、後でいい。先に町の速さを見とく」
ミジュマルは一度首をかしげ、それから納得したようにもう一度鳴いた。フシデは床を軽く擦るように動いただけだったが、それもいつもの反応だった。
宿を出てしばらく歩くと、町の人の流れが朝の形になっていた。昨日は旅人の目で見ていたせいか、全部が「町の景色」に見えていた。けれど少し落ち着いて眺めると、この町にもきちんと時間帯ごとの顔がある。
開店準備をしている店。
荷物を運ぶポケモンと、それを誘導する人。
登校途中らしい子どもたち。
トレーナー同士で短く対戦の約束をしている若者。
広い道の真ん中をのんびり歩いていれば、それだけで流れを邪魔する。だから人は自然と端を使うし、立ち止まる場所も選んでいる。大きな町は、何もしなくても勝手に機能するわけじゃない。人がそれに合わせているから回っているのだと、歩いているだけでわかった。
交差点の近くで、シママを連れた女が足を止めていた。
信号代わりの標識が切り替わるまで待っている。シママも落ち着いた様子で隣に立っていた。
その横を、ミジュマルが少しだけ気にしたように見る。
「勝手に寄るなよ」
「ミジュ」
返事はしたが、視線はまだシママの方に残っていた。
電気タイプが気になるのか、それとも相手の堂々とした立ち方が気になるのか、シンにはわからない。
ポケモンセンターへ寄って、まずは道具の確認をもう一度する。旅に出てからまだ日は浅いのに、物の減り方にはすでに癖があった。水はもちろん、包帯や簡単な薬も、使う場面が想像していたより多い。逆に、町にいるとあまり減らないものもある。
店の棚を見ていると、昨日とは別の店員が声をかけてきた。
「お探しのもの、ありますか?」
「……長く持つ食べ物って、どの辺ですか」
「街道用でしたら、この棚ですね。乾燥させたものと、すぐ食べられるものが分かれてます」
店員は慣れた手つきで場所を示す。
「4番道路の後でしたら、喉が渇きやすいので、塩気のあるものも持っておくと楽ですよ」
「みんな、そう言うんですね」
「この辺の道、歩いた人には大体同じこと言いますから」
店員は軽く笑った。
押しつけがましくないが、経験から来る言い方だった。
シンは言われた棚を眺め、必要そうなものを少しずつ手に取る。旅の途中で使うものは、軽さと保存のしやすさも大事だ。量だけあっても、持ちにくければ意味がない。
その間、ミジュマルは足元で落ち着かなかった。新しい匂いが多いせいか、棚の間を見たそうにしている。フシデは逆に静かで、シンの足の脇を離れない。
「ミジュマル、こっち」
「ミジュゥ……」
少し不服そうな声だった。
シンはその頭を軽く押さえる。
「今は見るだけだ」
会計を済ませて店を出ると、朝の空気はもう少しにぎやかになっていた。町が完全に動き始めたのだろう。どこかで音楽も流れている。近くで聞こえるわけではないが、町全体のどこかで鳴っている音が、風に薄く混じってくる。
シンは地図を頭の中でなぞる。
ジムの位置。遊園地の位置。ポケモンミュージカルのある建物。住宅の並び。通りの抜け方。ライモンシティは見た目の派手さのわりに、構造そのものは意外とわかりやすい。大きな通りを一本覚えれば、そこから枝が伸びている感じだ。
だが、わかりやすいことと、落ち着いて歩けることは別だった。
広場の近くまで来た時、通りの端で子どもが泣きそうな顔をしているのが見えた。足元には小さなモンメンがいて、そわそわと右へ左へ動いている。親らしい女がしゃがんで声をかけているが、なかなか落ち着かない。
シンは通り過ぎようとして、少しだけ足をゆるめた。
モンメンは暴れているわけではない。けれど風が吹くたびに身体が軽く浮き、子どもの手を離れそうになっている。今の町の風は強くないが、広い道では時々、建物の間を抜ける風が急に強まる。
ミジュマルもそれに気づいたらしく、「ミジュ」と小さく鳴いた。
「……見るだけな」
シンが言った、その直後だった。
風がひとつ、通りを抜けた。
モンメンがふわっと持ち上がる。子どもが慌てて手を伸ばすが、半歩遅い。
シンは考える前に動いていた。
「ミジュマル、前!」
ミジュマルが飛び出す。モンメンの真下へではなく、その少し先へ回る。風に流される方向を見て、進路の先を取る形だった。シン自身も一歩だけ走り、子どもが転ばない位置に入る。
モンメンは高くは上がらなかったが、そのぶん不規則に揺れた。
掴みにいけば逆に逃がす。そう思った時、横から細い声が飛んだ。
「そのまま、そっち!」
声の主は、通りの向こうにいた若い男だった。電気工事の道具を持っていたから、たぶん町の整備関係だろう。男は手を広げて、モンメンが流れていく先の道を狭める。
ミジュマルが「ミジュッ!」と鳴きながら、さらに半歩前へ。
風に乗ってきたモンメンが、その手前で少しだけ勢いを失う。
「今だよ!」
今度は子どもの母親が動いた。
一歩踏み込んで、今度こそモンメンの身体をしっかり抱える。
「よかった……!」
子どもがやっと息をつき、モンメンも腕の中で小さく鳴いた。驚いたのだろう、まだ葉のような耳が細かく揺れている。
シンはその場で止まり、それ以上は近づかなかった。
助かったなら、それでいい。
母親がこちらを振り向く。
「ありがとうございます、本当に……!」
「いや、たまたまです」
「ミジュマルくんも、ありがとうね」
「ミジュ」
さっきまでの緊張が抜けたのか、ミジュマルは少しだけ得意そうな声で鳴いた。
シンはそれを見て、わずかに息を吐く。
工事道具を持った男も苦笑しながら近づいてきた。
「町の風、たまに読みにくいんだよな」
「そういうこと、よくあるんですか」
「よくってほどでもないけど、軽いポケモンは気をつけないと。特に朝と夕方」
男はモンメンの方を見てから、子どもに向かって言った。
「次からは、広い道に出る前にちゃんと抱いとけよ」
「う、うん……」
叱るというより、町で暮らす側の当然の注意みたいな言い方だった。
そこから先は、自然に短い会話になった。
母親はこの町では風の通る道を覚えておくのが大事だと言い、工事の男は観覧車の近くは特に流れが変わりやすいと付け足した。シンは必要なことだけ聞いて、必要なぶんだけ返す。
話が終わる頃には、人の流れも元に戻っていた。
ライモンシティでは、小さな騒ぎも、道の流れの中で片づいていく。
ミジュマルが戻ってきて、シンの足に軽く肩を当てた。
「おまえは先走るかと思った」
「ミジュ?」
「いや、今のはよかったけど」
ミジュマルは「当然だろ」と言いたげな顔をした。
さっきの一鳴きは、かなりはっきりした自信の音だった。
フシデは少し遅れて近づいてきた。危ない方に突っ込まず、足元で待っていたらしい。派手さはないが、こういう時に勝手な動きをしないのは助かる。
「おまえも、ありがとな」
フシデは返事の代わりに、小さく体を揺らした。
広場のベンチで少し休みながら、シンは今のことを頭の中で整理する。
町の中は安全だと思い込んでいたわけではない。だが、危険の出方が道路や野生とは違う。縄張りの威嚇や不意打ちじゃない。人とポケモンが近くにいるからこそ起こる小さな事故や、町の構造そのものが生む危なさがある。
風の通り道。
音の多さ。
人の流れ。
広い道で足を止めることの意味。
4番道路の危険とは種類が違う。
けれど、気を抜いていいわけでもない。
ベンチの横では、若いトレーナーが二人、手持ちの相性について言い合っていた。
「だからゼブライカは速いって」
「速いだけじゃ足りねえだろ、ああいう町だと」
その会話が少し気になって、シンは耳を向けた。二人は知り合いらしく、口調は軽いが内容は真面目だった。
「狭いとこなら速さで押せるけど、広いと散るんだよ」
「でも詰める力はある」
「いや、それはわかるけどさ――」
町の中で、こういう話が自然に出る。
ライモンシティは、ジムや遊び場があるだけじゃなく、ポケモンバトルそのものが町の空気に近いのかもしれない。
シンはそれを聞きながら、ミジュマルとフシデの方を見る。
ミジュマルは前に出る。
フシデは崩れにくい。
その強みは、砂の道でも町の中でも変わらない。けれど、出し方は変わる。
考えることが増える。
だが、それは嫌ではなかった。
しばらくして、シンは立ち上がった。
「もう少し見て回る」
「ミジュ!」
今度の鳴き声は明るかった。
観覧車の近くまで行くと、風はたしかに違った。建物の配置のせいか、一定方向から吹くのではなく、時々、横からすっと抜けてくる。道の幅もあるから、風の形が読みづらい。朝の母親と工事の男が言っていたことは本当だった。
遊園地の前には、まだ開園前なのに人が何組か並んでいる。小さな子どもを連れた家族、友達同士らしい若者、ポケモンを連れたトレーナー。ライモンシティは、町そのものが何かを楽しみに来る場所なのだとわかる。
シンはそこには入らず、外周を歩いた。
入れば時間を使う。
今はまだ、その時間をどう使うか決めていない。
観覧車の足元から町を見ると、少しだけ視界が変わった。通りの流れ、人の密度、建物の高さ、抜ける道。ライモンシティは広いが、広いだけではない。どこに目印があるかがはっきりしているから、迷いにくいのだろう。
そこまで見て、ようやくシンはひとつ納得した。
この町は、「派手」だから目立つんじゃない。
人が多く動いても迷いにくいように、目立つものをちゃんと置いているから派手に見えるのだ。
そう考えると、町の見え方が少しだけ変わった。
昼を過ぎた頃、シンは宿へ戻る前にもう一度だけジムの前を通った。
今度は足を止める。
建物そのものは昨日と同じだ。
けれど、昨日は「ある」としか見えていなかったものが、今日は少し違って見えた。4番道路を越えて、町の中の空気も見て、その上で立つと、ここはただ次の目的地としてあるわけじゃないとわかる。
この町でバトルをするなら、この町の速さと広さに足を合わせないといけない。
シンはしばらく無言で見ていた。
ミジュマルも黙っている。
フシデだけが、足元で小さく向きを変えた。
「……今日は、まだ行かない」
シンが言うと、ミジュマルが「ミジュ」と短く鳴く。
異論ではなかった。確認みたいな声だった。
「でも、もう遠くはない」
その言葉は、自分に向けたものだった。
宿へ戻る道すがら、朝のモンメンのことを少し思い返す。
町の中でも、気を抜けば小さな危険は起きる。
道路の上でも、町の中でも、ポケモンはポケモンだ。
人と一緒にいても、完全に管理された道具になるわけじゃない。
だからこそ、付き合い方がいる。
旅の途中のリアリティというのは、たぶんそういうことなのだろうと、シンはぼんやり考えた。道が長いとか、水が減るとか、そういうことだけではない。ポケモンがいる世界で歩くなら、その場ごとの距離感を覚えないといけない。
宿の部屋に戻ると、ミジュマルはすぐベッドの端へ飛び乗った。
今日はよく鳴いたし、よく動いた。
フシデは荷物の脇に戻り、やっと落ち着いたように小さく丸くなる。
「……今日は、いい見方できたかもな」
「ミジュ」
今度の鳴き声は、さっきまでより少し柔らかかった。
同意なのか、ただ返しただけなのかはわからない。
けれど、そのくらいでよかった。
ライモンシティでの二日目は、ジムに挑まなくても進んだ感じがあった。
見たものが増えただけじゃない。
見方が少し変わった。
シンは窓の外を見た。
夕方の町は、また朝とは違う速さで動き始めている。
明日、何をするかはまだ決めきっていない。
けれど少なくとも、今朝よりは迷っていなかった。