ライモンシティに来てから三日目の朝だった。
ポケモンセンターの食堂は、もうそこそこ人が入っていた。出発前に朝食を済ませるトレーナー、配送員らしい作業着の男、寝癖のまま飲み物だけ買っていく学生。町は朝から動いている。ヒウンのような押し流されるほどの勢いではないが、止まってはいない速さだった。
シンはトレーを返し、水筒の栓をきつく締め直した。ミジュマルが椅子の脚に前足をかけて「ミジュ」と鳴く。まだ足りないと言いたげな顔だが、さっきまで皿を舐めていたのをシンは見ている。
「もうない」
「ミジュゥ……」
少し不満そうに鼻を鳴らす。足元ではフシデが床をこすりながら、「フシ」と短く鳴いた。こっちは食後で落ち着いている。二匹とも反応が戻ってきた。ここしばらく、話の都合みたいに静かになる時間が多かったとシン自身うすく感じていたから、今日は意識して視線を向けていた。
「午前は西側歩く。人の少ない通り。日が上がる前に一回回って、昼前には戻るぞ」
言うと、ミジュマルが「ミジュ」と返し、フシデも体を揺らした。
ジムへ行くつもりは、まだなかった。
勝つために必要なのは、技を増やすことだけじゃない。知らない町で、ポケモンを連れて、無理なく動けること。人通りの強い場所でどう位置を取るか。水をどこで足せるか。危ない場所を踏む前に気づけるか。そういうことが、町ではそのまま勝敗に出る気がしていた。
ライモンシティの朝は、建物の隙間から風が通る。大通りへ出ると、遠くに観覧車の骨組みが見えた。まだ昼のきらつきはなく、鉄の輪だけが空に立っている。通りには掃除をする人が出ていて、昨夜の紙くずや砂を脇へ寄せている。四番道路を越えてきた車両のタイヤに砂がついているのを、シンは何となく目で追った。
町の中にいても、砂は少し残る。
それが妙に現実だった。
西側の通りへ入ると、人の量が目に見えて減った。大きな建物の裏手は、搬入口や荷捌き場が続いている。扉は分厚く、壁際には木箱や空のパレット、使い終えた梱包材が積まれている。観光客が歩く場所ではない。けれど働く人間にとっては、こっちのほうが町の本体なのだろう。
シンは通路の角で一度立ち止まり、水筒を出した。ミジュマルがすぐ寄ってきて、ふたに注いだ水をぺちゃぺちゃと飲む。フシデには別に湿らせた布を当てる。虫ポケモンは暑さに極端に弱いわけではないが、乾いた風の中をアスファルト沿いに歩き続けると、動きが鈍ることがある。四番道路で少しずつ学んだことだった。
「フシ……」
フシデが布へ口元を寄せたあと、小さく身を揺らす。嫌がってはいない。ミジュマルは飲み終えて、得意そうに胸を張った。
「先行くなよ」
「ミジュ」
返事だけは素直だ。
そこからさらに二本裏へ入ったところで、ミジュマルの足が止まった。
急に、ではない。歩幅が半歩分だけ縮み、耳が立ち、首が少し前へ出る。甘えた声ではなく、「ミジュ」と低く鳴く。フシデも腹を地面へ近づけて、壁際に沿うように寄った。
シンも立ち止まる。
「何かいるか」
すぐにはわからなかった。だが、通路の先の床に、乾ききっていない水跡があるのが見えた。誰かがこぼしただけなら不自然じゃない。けれど、その水が細く続いた先で、木箱の角が内側から破れたみたいに開いている。さらにその横に、靴底ではない細い跡が半月形に残っていた。
蹄だ。
だが、馬車を引くポケモンのものより、ずっと小さい。
シンがしゃがんだ瞬間、コンテナの影から何かが飛び出した。
青い体が低く走る。細い脚。額から伸びる一本の角。急停止した拍子に前脚が少し滑った。右後ろ脚に体重をかけきれていない。
ミジュマルが「ミジュッ!」と鋭く鳴いて前へ出る。フシデも身を沈める。シンは反射で片手を出し、二匹を制した。
飛び出してきたポケモンは、三人――いや、一人と二匹――を見て、その場で角を低くした。鼻を短く鳴らす。近づくな、と言っている。
その目を見て、シンの頭の奥に、前の景色が少しだけ戻ってきた。
川べりだった。
まだ旅の前の、もっとひとりで動いていた頃だ。
水辺に下りてきた小さなポケモンが、シンの置いていた木の実をさらっていった。近づけば逃げるのに、逃げ切る前に一度だけ振り返る。強がっているのが、動きだけでわかった。
目の色も、角の向け方も、そのときと同じだった。
「……おまえか」
ポケモンの耳がぴくりと動く。意味を理解したふうではない。ただ、声に反応しただけだ。それでも、シンの中では確信になった。
ケルディオだ。
ずっと前に一度だけ会って、そのままどこかへ行ったやつ。
そして今は、明らかに何かから逃げている。
肩に浅い擦り傷がある。右後ろ脚には乾いた泥がつき、踏み込みのたびに少しぶれる。息も整ってはいない。だが、ただ弱っている野生とは違う。視線が忙しい。相手の数を見る。出入口を見る。逃げ道の角度を見る。鍛えられた動きだとわかる。
その矢先、通路の向こうから人の声が近づいてきた。
「そっちの荷、先に持ってけ」
「午前のうちに整理しろってさ」
作業員の声だ。足音も複数ある。
囲まれる。
シンがそう思ったのと、別の声が飛んできたのは、ほとんど同時だった。
「あれ、シンじゃん」
振り返ると、ホミカが立っていた。
タチワキで見るときより軽装だったが、肩にかけたバッグの横からピックケースみたいな小物が覗いている。地元の顔ではない。よそから来た人間のまま、でも物怖じもしない立ち方だった。
「ホミカ」
「何。こんなとこで何か拾った?」
言いながら、ホミカも通路の先を見た。ケルディオの姿を認めると、それ以上前へは出ない。余計なことはしない、という止まり方だった。
「怪我してる」
「見りゃわかる。……人、来るね」
「うん」
短いやり取りのあいだも、ケルディオは鼻を鳴らし続けている。ミジュマルも気を張っていて、しっぽが固くなっていた。フシデはシンの足もとを離れず、壁際の振動を拾うように前脚を動かしている。
ホミカが一度だけ通路の入口を見た。
「あたし、少しだけ向こう止める」
「土地勘あるみたいにやるなよ」
「あるわけないでしょ。話しかけるだけ」
「……頼む」
「はいよ」
軽く手を上げると、ホミカは作業員の来る側へ歩いていった。
大声を張り上げるわけではない。自然に通路の入口へ出て、少し困った顔を作る。
「すみません、この奥って今通れます?」
「ん? これから荷を動かすけど」
「やっぱそうか。じゃあ今やめとこ。ケースぶつけたくないし」
言っている内容はそれだけだった。妙に細かい嘘は混ぜない。だから作業員も足を止めたまま、少し説明を返す。ホミカは「ですよね」と相槌を打ちながら、ちょうど通路を半分ふさぐ位置に立つ。見物人を増やさない、時間を稼ぐ、その二つだけをやっている。
シンはその間にバッグを開けた。水筒。乾いた布。携帯食。野生相手に格好のいいことをしている余裕はない。今必要なのは、水を置き、これ以上興奮させないことだけだ。
水筒のふたに水を注ぎ、布を濡らし、食べ物を少し割る。
ケルディオが前脚を踏み鳴らした。床に弾けた水滴が細く散る。
「わかってる。触らない」
シンはそう言って、それ以上寄らずに下がった。真正面にも立たない。逃げ道を詰める形にもならないように、少し斜めへ位置をずらす。
ミジュマルが不満そうに「ミジュ……」と鳴く。
「見るだけだ」
「ミジュ」
しぶしぶ引いた。フシデもそれに合わせて半歩分だけ後ろへ下がる。
しばらく、誰も動かなかった。
遠くで荷台が鳴る音がする。表通りのほうから、車輪が石を踏む音も聞こえる。ライモンシティの朝は、止まらない。だが、この細い通路だけが妙に張りつめていた。
ケルディオの耳が水のほうへ向く。
戻る。
また向く。
鼻先がわずかに震えた。喉が渇いているのは見てわかる。けれど、意地が勝っている。
シンは黙ったまま待った。言葉を増やしても仕方がない。伝わるかどうか以前に、いま必要なのは相手が自分で決める余地だった。
やがてケルディオが一歩出た。
右後ろ脚に痛みが走ったのか、少しだけ体が揺れる。
それでも倒れず、もう半歩。
鼻先を水へ寄せ、匂いを確かめ、それから舌先でほんの少しだけ舐めた。
ミジュマルが「ミジュ……」と小さく鳴いた。いつもの騒がしさはなく、見守るみたいな声だ。フシデも「フシ」とひとつだけ鳴く。
ケルディオはその音に耳を振ったが、逃げなかった。次はもっとしっかり水を飲む。二口、三口、そこで止まらず、一気にふたの中身を空にした。
シンは少し時間を置いてから、もう一度だけ注ぐ。
今度は、ケルディオも前ほどためらわなかった。
ちょうどそのころ、ホミカが戻ってきた。
「ちょっと引かせた。長くは無理」
「助かった」
「ぎりぎり。あと少し遅かったら向こうも入ってきてた」
ホミカはシンの隣ではなく、壁際の少し離れたところへ立った。ケルディオを正面から見ない位置だ。相手を刺激しないためでもあるし、たぶん、自分がここで主役になるつもりがないからでもある。
「知ってるやつ?」
「前に一回だけ会った」
「へえ」
「それだけ」
「ならそれだけでいい」
ホミカはそれ以上掘らない。見える範囲しか言わないのは、前に会ったときから変わらなかった。
ケルディオは食べ物にも口をつけた。腹も減っていたのだろう。だが、食べている最中も視線は忙しい。耳も絶えず動く。誰かに追われているとまでは言い切れないが、追われる側の癖は抜けていない。
「連れてくのは無理そうだね」
ホミカがぽつりと言う。
「うん。今は暴れる」
「だろうね」
「水と食べ物だけ置いて、こっちが離れたほうがいい」
「うん」
肯定だけが返る。きれいにまとめる言葉も、余計な励ましもない。
少ししてから、ホミカはバッグの中を探り、小さな未開封の飲み物を一本出した。
「これも使えば。買ったばっかだから」
「いいのか」
「駅前でまた買えるし」
「……悪い」
「別に」
そう言って、足元へ軽く転がす。シンはそれを拾い、すぐには開けずバッグへ入れた。今ある分で足りるなら、あとで使うほうがいい。
ケルディオが水を飲み切り、濡らした布へ鼻先を寄せる。冷たさがわかったのか、脚の近くに少し体をずらした。
「その脚、かなり痛そう」
「走れなくはない。でも無理してる」
「そういう顔してる」
ホミカはそこでも、見えたことだけを言った。
シンはうなずいた。
前に会ったときのケルディオも、強がるやつだった。近づけば逃げるのに、逃げながら土だけは蹴る。今も本質はあまり変わっていないのかもしれない。ただ、前より傷がある。前より、逃げ方が切羽詰まっている。
通路の向こうで、また人の声が近くなる。さっきより多い。次は本当に持たないかもしれない。
ホミカがそっちを振り返った。
「じゃ、あたしはここまで。さっきみたいにまた止めてもいいけど、何回もやると変に覚えられる」
「それでいい」
「シン」
「ん?」
「見張るなら、見えるとこで見張んないほうがいいよ。相手、ずっと気にするから」
「……うん」
「じゃ」
軽く手を上げて、ホミカは今度こそ通路の外へ出ていった。来たときと同じで、帰り方もあっさりしていた。ヒロインだからといって場面を奪うような入り方ではない。けれど、ちゃんと残る。
シンはもう一度だけ水を足したあと、ミジュマルとフシデを呼んだ。
「離れるぞ」
「ミジュ?」
「フシ」
「近くにいると休めない」
二匹を連れて、通路の角をひとつ曲がる。姿は見えなくなるが、すぐ覗ける距離だ。完全に放っておくのとも違う。
壁にもたれて待っていると、町の音が少しずつ戻ってくる。遠くで電光掲示板の作動音みたいなものが鳴り、人の話し声が伸びては切れる。ライモンは人の町だ。音が絶えない。だが、その隙間に、ふたを倒す小さな音、蹄が床を擦る音が混じる。
シンはそっと角から覗いた。
ケルディオは、水を飲み終え、食べ物もかなり減らしていた。濡れ布は足元へ寄せられている。偶然じゃない。自分で引いたのだ。
目が合う。
今度は、すぐに威嚇してこなかった。耳は立っている。けれど、前脚を打たない。
シンも何もしない。
呼ばない。
近づかない。
先に視線を切ったのは、ケルディオのほうだった。
昼が近づくにつれ、通路の影が少しずつ動く。熱がこもり始める前に、ケルディオは立ち上がった。まだ脚はかばっているが、さっきより体に芯が戻っている。食べて、水を飲んで、少しはましになったのだろう。
通路の奥ではなく、表通りと反対側の細い抜け道へ向き直る。
一度だけ、耳をこちらへ向ける。
それから、歩き出した。
走る、とは言えない。だが逃げ腰でもない。自分で選んだ方向へ、自分の足で出ていく歩き方だった。
ミジュマルが我慢できずに「ミジュッ」と鳴きそうになり、シンがすぐ口元へ指を立てる。フシデも腹を浮かせたが、前へは出なかった。
ケルディオの蹄の音が、細い通路の先でだんだん小さくなる。
完全に聞こえなくなってから、シンはようやく壁から離れた。
「……行ったな」
ミジュマルが「ミジュ」と鳴いて足に前足を置く。フシデも「フシィ」と細く鳴いた。
「追わない」
二匹が見上げる。
「今追ったら、また無理する」
自分に言い聞かせるみたいでもあった。
追えば、たぶん見失わない。脚を痛めているならなおさらだ。けれど、見つけることと近づけることは別だ。連れていけるわけでもない。今日ここで無理に詰めれば、次に水すら飲まなくなるかもしれない。
シンは空になったふたを拾い、バッグへしまった。濡れ布はなくなっている。持っていったのか、蹴り飛ばしたのかはわからない。だが、そこに何も残っていないことが、少しだけ悪くなかった。
「帰るか」
通路を出ると、町の明るさが急に戻ってきた。昼前のライモンシティはもう人が増えている。観覧車の周囲にも音楽が流れ始め、売店の前では客引きの声がする。けれどシンの歩幅は変わらなかった。ミジュマルが先に立ち、フシデが壁際を沿うようについてくる。その並びも、少しだけ落ち着いてきている。
ポケモンセンターへ戻る途中、駅に近い売店の前で聞き覚えのある声がした。
「お、帰るとこ?」
ホミカだった。紙袋を一つ提げている。今度は本当に帰るらしい。
「ああ」
「どうだった」
「水は飲んだ」
「そっか」
ホミカはそこでそれ以上は聞かなかった。結果を聞いて満足したというより、そこから先はシンのほうが考えることだとわかっている感じだった。
「タチワキ戻るのか」
シンが聞くと、ホミカは肩をすくめた。
「今日は一回ね。用事終わったし。ずっとライモンにいるわけじゃないし」
「だよな」
「なにその確認」
少し笑う。シンもわずかに口元を緩めた。
「いや。そうだよなってだけ」
「変なの」
ホミカは紙袋の口を押さえ直し、それからミジュマルを見る。
「ちゃんと鳴いてんじゃん」
「ミジュ!」
急に話を振られたのが嬉しかったのか、ミジュマルは胸を張って鳴いた。フシデも「フシ」と続く。
「そっちもいるし。前より、ちゃんと一緒って感じする」
「……そうかも」
シンが答えると、ホミカは頷いた。
「じゃ、また。そのうちジム来るなら、その時はちゃんと相手する」
「まだ行かないかもしれない」
「別に今日来いなんて言ってないし」
それだけ言って、ホミカは手を振った。去り際まで、ライモンに馴染んだ顔はしない。タチワキの人間が、たまたま来て、たまたま手を貸して、それでもちゃんと印象を残していく。そういう距離だった。
シンはその背中を少しだけ見送ってから、ポケモンセンターへ戻る。
今日はケルディオを連れて帰れなかった。
けれど、何も進まなかったわけでもない。
水を置いた。
離れて待った。
向こうが自分で決めるぶんの余地を残した。
それだけのことだ。
でも、たぶん今はそれでいい。
夕方に向けて、町の光が少しずつ変わっていく。昼の白さが落ちて、看板の色が立ち始める。ライモンシティは夜に向けてまた別の顔になるのだろう。人の町には、人の時間の移り方がある。
その中で、シンは水筒を洗いながら、明日はもう少し多めに水を持とうと思った。
もしまた、どこかであの蹄の音がしたときのために。