BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第67話 置いた水の、次まで

 

 

 次の日の朝、シンは起きてすぐ窓の外を見た。

 

 まだ空の色は薄く、ライモンシティの看板も半分くらいしか消えていない。夜の明るさが完全には引いておらず、町の輪郭だけが少しずつ朝に切り替わっていく時間だった。遠くで車が曲がる音がする。観覧車の灯りは落ちているが、骨組みだけでも目につく。

 

 シンはすぐには立ち上がらなかった。

 

 昨日の夜、水を置いた。

 ケルディオが飲んだかどうかは見ていない。

 見に戻ることもできたが、あえてしなかった。

 

 行けば確認はできたかもしれない。けれど、確認したいから行くのと、相手が落ち着く前に近づくのは、たぶん別の話だ。そう思って一晩置いた。間違っているかもしれないが、昨日の時点ではそれが一番ましだった。

 

 足元でミジュマルが寝返りを打った。

 

「ミジュ……」

 

 まだ眠そうな声だったが、シンがベッドから降りるとすぐに起きる。フシデも壁際から体を持ち上げ、「フシ」と小さく鳴いた。

 

「見に行く」

 

 その一言で、二匹とも完全に目が覚めたらしい。

 

 朝食は手早く済ませた。ミジュマルはいつも通りもう少し欲しそうな顔をしたが、出る前に食べすぎると動きが鈍る。フシデにも水を飲ませ、口元を少し湿らせてからポケモンセンターを出た。

 

 朝の空気は昨日より少し乾いていた。

 

 駅前へ向かう人の流れはまだ細い。夜勤明けらしい作業員があくびをしながら歩き、掃除をする人が通りの端に砂を寄せている。ライモンの朝は、人が少ないぶんだけ町の裏側が見える。客引きの声や音楽がないぶん、荷台の軋みやシャッターの音がよく聞こえた。

 

 ミジュマルは今日は妙に静かだった。興奮していないわけではない。むしろその逆で、無駄に鳴かずに前を見ている。フシデも腹を地面へ近づける癖がいつもより強い。

 

「いたとしても、すぐ近づくなよ」

 

「ミジュ」

「フシ」

 

 返事は短い。

 

 昨日の夕方、水を置いた裏通りへ入る。壁際はまだ日が当たりきっていない。湿り気も少し残っている。シンは角を曲がる前に一度足を止め、音を聞いた。

 

 人の気配はない。

 車の音も遠い。

 この時間なら、まだ静かだ。

 

 ゆっくりと角を曲がる。

 

 置いておいたふたは、空になっていた。

 

 水の跡は床に薄く残っている。携帯食もきれいになくなっていた。誰かが掃除した感じではない。ふたは少しだけ向きが変わり、置いたときより奥へ寄っている。鼻先か蹄で押したずれ方だった。

 

 ミジュマルが「ミジュ」と低く鳴く。

 フシデも「フシ」と続く。

 

「飲んだな」

 

 シンはしゃがみ込んで、床を見た。半月形の跡がいくつかある。昨日より踏み込みは少し深い。完全に力が戻ったとは言えないが、少なくとも水を飲み、少しは休めたらしい。

 

 その先に続く跡は、表通りのほうへではなかった。

 建物の裏を回る、さらに細い通路へ向かっている。

 

「またそっちか」

 

 シンは立ち上がった。

 

 追いかけるつもりではなくても、行き先を知るくらいはしたかった。水場を探して動いているなら、次にどこへ寄りそうか見当がつく。人の多い場所へ迷い込んでいないなら、それだけでも少し違う。

 

 通路は細く、途中で二度折れていた。壁は高く、音が跳ね返る。こういう場所は、前から誰かが来れば逃げ場が少ない。シンは自然と歩幅を落とした。ミジュマルもそれを見て、先走るのをやめる。フシデは地面の継ぎ目に沿うように進んだ。

 

 抜けた先は、整備用の小さな広場だった。

 

 広場といっても、人が休むための場所ではない。金網で囲われた機材置き場と、古い配電盤、壁際に積まれた交換用のパイプ。隅には細い排水溝が走り、その脇だけ土が見えている。雨が降れば泥がたまるのだろう。今は乾いてひびが入っていた。

 

 ケルディオは、そこにいた。

 

 日陰の端に立ち、顔だけこちらへ向けている。昨日みたいに飛び出してはこない。だが、寄ればすぐ逃げられるように、体は少し斜めを向いていた。

 

「……いたな」

 

 シンはその場で止まる。

 

 ミジュマルが「ミジュ」と鳴き、半歩前へ出る。ケルディオはそれに反応して鼻を鳴らしたが、前脚で床を打つまではしなかった。昨日までより、明らかに警戒の形が浅い。

 

 フシデは少し離れた壁際に寄り、じっと見ている。

 

 シンは改めてケルディオの体を見た。

 右後ろ脚のかばい方はまだある。

 肩の擦り傷は乾いているが、汚れは落ちていない。

 角の根元にも細かな砂がついたままだ。

 

 走れる。

 でも万全ではない。

 その状態で、ここまで自分で移動してきた。

 

 シンはバッグから水を出した。だが昨日みたいに、すぐ近くに置きに行くのはやめた。今ここで必要なのは、飲ませることより、相手がこの距離を保ったままいてもいいと思えることかもしれないと思ったからだ。

 

 少し考えて、排水溝の脇、広場の中ほどにふたを置く。自分からもケルディオからも同じくらいの距離だ。

 

「置いとく」

 

 それだけ言って、すぐ下がる。

 

 ケルディオは耳を動かした。視線がふたへ落ちる。すぐには来ないが、前よりも「近づくか、逃げるか」の間で固まりきってはいない。

 

 ミジュマルが小さく鳴いた。

 

「ミジュ……」

 

「待て」

 

 シンが言うと、ミジュマルは黙った。だが視線はケルディオから外さない。

 

 しばらくそのまま、誰も動かなかった。

 

 やがてケルディオが一歩前へ出る。

 次の一歩で右後ろ脚に少し痛みが走ったのか、肩が揺れた。

 それでも止まらず、ふたのところまで来る。

 

 鼻先で匂いを確かめ、ちらとシンを見る。

 それから水を飲んだ。

 

 昨日と同じようでいて、少しだけ違う。昨日は渇きに押されて飲んでいた。今日は、飲む前にこちらを見た。警戒が消えたわけではないが、「ここに置かれたものだ」と認識している動きだった。

 

「ミジュ」

 

 ミジュマルの声が、今度は少し明るい。

 フシデも「フシ」と小さく続ける。

 

 ケルディオは飲み終えたあと、すぐには下がらなかった。排水溝の脇に立ち、しばらく耳を動かしている。

 

 そのとき、広場の外からごそごそと擦れる音がした。

 

 ビニール袋を引きずるような音だ。

 

 ミジュマルがすぐ振り向く。

 フシデも体を低くした。

 

 通路の向こうから現れたのは、ヤブクロンが二匹だった。朝の収集前に、どこかのごみ置き場から流れてきたのだろう。片方は古い布切れをくわえ、もう片方は空き缶を蹴るように転がしている。野生としては珍しくない光景だが、ここでぶつかると面倒だった。

 

 ヤブクロンたちはすぐにこちらへ気づいた。

 人間を避ける様子はあまりない。代わりに、広場の隅の湿った場所と、置いてあるふたの水へ視線が向く。

 

 ケルディオの耳が立つ。

 姿勢が変わる。

 水から少し前へ出た。

 

「……やめとけよ」

 

 シンは小さく呟いたが、当然伝わらない。

 

 ヤブクロンのうち一匹が、ずるりと前へ出た。なわばりと言うほどではないが、見つけた場所へ無遠慮に入る習性はある。朝の静かな広場で、今のケルディオにそれをやられるのはまずい。

 

 ケルディオが鼻を鳴らした。

 低く、短く。

 あきらかに牽制だ。

 

 ヤブクロンは止まらない。逆に、前へ出たケルディオの脚の様子を見ているようにも見えた。弱っている相手なら押せると判断したのかもしれない。

 

「ミジュ!」

 

 ミジュマルが半歩前へ出る。シンはすぐに判断した。

 

「ミジュマル、みずでっぽう。足元だけ」

 

「ミジュッ!」

 

 細い水流が、ヤブクロンの手前のコンクリートを打つ。直撃はさせない。水しぶきと音だけで、進路を切る。ヤブクロンたちは驚いて一度止まり、片方が不満そうに鳴いた。

 

「フシデ、右回れ。近づきすぎるな」

 

「フシ!」

 

 フシデが壁際をすばやく回り込み、二匹の横手へ出る。挟むというほどではない。だが、「ここには三方向から動く相手がいる」とわかる位置だ。

 

 シンは前に出すぎないまま、声だけを飛ばした。

 

「それ以上来るな」

 

 ヤブクロンには言葉の意味は通らなくても、間合いの詰め方で意図は伝わる。ミジュマルとフシデが揃って前へ出たことで、二匹はようやく様子見の姿勢になった。

 

 その間に、ケルディオは一歩だけ下がった。

 逃げるのではなく、水の置かれた位置を守るような下がり方だった。

 

 シンはそこを見て、少しだけ目を細めた。

 

 昨日までなら、たぶん先に逃げていた。

 今は違う。

 逃げたいのに、引き切らない。

 

 ヤブクロンのうち一匹が、フシデの回り込みを嫌って向きを変えた。もう一匹もそれにつられる。ミジュマルが「ミジュッ」ともう一度短く鳴き、威嚇するように前へ出ると、二匹はようやく広場の外へずるずると下がっていった。完全に諦めたというより、割に合わないと判断した動きだった。

 

 通路の角へ消えるのを見届けてから、ミジュマルが胸を張る。

 

「ミジュ!」

 

「まだだ。騒ぐな」

 

 シンが言うと、ミジュマルはすぐ声を抑えた。フシデも壁際から戻る。

 

 振り返ると、ケルディオはその場に立ったままだった。

 

 逃げていない。

 だが、こちらへの警戒も消えていない。

 

 さっきの短いやり取りで、広場の空気が少し変わっていた。敵味方がはっきりしたわけではない。ただ、同じ場所を守る形になった。それだけでも、昨日までとは違う。

 

 シンはもう一度水を足そうか迷い、やめた。今は増やすより、こちらが余計な動きをしないほうがいい。

 

 代わりに、バッグから濡らした布を一枚出し、昨日より少しだけ近い位置へ置く。

 

「脚、冷やすなら使え」

 

 言ってすぐ下がる。

 

 ケルディオはその布を見たあと、シンを見る。耳が少し動く。言葉がわかったわけではなくても、こちらが脚のことを見ているのは伝わったらしい。

 

 しばらくしてから、そろそろと前脚を出し、鼻先で布を押した。

 冷たさを確かめるように一度止まり、それから脚の近くへ引き寄せる。

 

 ミジュマルが「ミジュ……」と小さく鳴いた。

 今度は得意げな音ではなく、本当にほっとしたような声だった。

 

 シンも少しだけ息を吐いた。

 

 そこへ、通路の向こうからまた人の話し声が聞こえた。今度は作業員ではなく、清掃用のカートを押す音だ。広場へ入ってくるかはまだわからないが、長居するにはよくない。

 

「行くぞ」

 

 ミジュマルが顔を上げる。

 フシデも動きを止める。

 

「今日は、ここで離れる」

 

 二匹とも不満そうではあったが、逆らわなかった。ケルディオはその言葉に反応したのか、耳をこちらへ向ける。

 

 シンはゆっくり後ろへ下がった。走らない。慌てない。広場から出るまで、背中を完全には向けない。

 

 角を曲がる直前、もう一度だけ見た。

 

 ケルディオは布を脚の近くへ置いたまま、まだそこにいた。逃げてはいない。水も残っている。なら、今はそれでいい。

 

 整備広場を離れてから、シンはまっすぐポケモンセンターへは戻らなかった。少し大回りをして、人通りの少ない通りをいくつか歩く。ケルディオがもし後から動くなら、どの道が安全か見ておきたかったからだ。

 

 ライモンの町は、表から見るよりずっと細かく分かれている。

 大通り、店の並ぶ区画、搬入口の裏、整備路、駅へ抜ける道。

 どこもつながってはいるが、流れる人の種類が違う。

 

 ミジュマルはその途中で二度、後ろを振り返った。

 フシデも一度、壁際へ寄って立ち止まる。

 

「ついてきてるか?」

 

 シンが小さく聞くと、ミジュマルは「ミジュ」とだけ鳴いた。はっきり見えたわけではないらしい。

 

 ポケモンセンターへ戻る前に、小さな売店の前で水を買い足した。そのとき、横から声がした。

 

「また水買ってる」

 

 ホミカだった。

 

 今日は紙袋ではなく、細長いケースを肩にかけている。ライモンでの用事も今日で終わりらしく、今度こそ帰る前の顔をしていた。

 

「ホミカ」

「その感じだと、まだ終わってないんだ」

 

「少しだけ進んだ」

「へえ」

 

 ホミカはそれ以上先を言わせようとはしない。ただ、ミジュマルとフシデを順番に見て、それからシンの手元の水を見る。

 

「使ったんだ」

「うん」

「飲んだ?」

「飲んだ」

「じゃあ無駄じゃなかった」

 

 短い。けれど、聞く順番がちゃんとしている。シンはそれで少し話しやすかった。

 

「タチワキ戻るのか」

 

「今日は戻る。明日までライモンうろつく理由ないし」

 

「そっか」

 

「何、その安心したみたいな返し」

 

「いや……別に」

 

 ホミカが少し笑う。からかいすぎない笑い方だった。

 

「でも、あんた、昨日より顔ましだよ」

「そうか?」

「昨日はずっと、どう動くのが正解か考えてる顔だった」

 

 シンは言い返しかけて、やめた。たしかにそうだった気がする。

 

「今日は?」

 

「まだ考えてる顔。でも、昨日よりは決めてる」

 

 ホミカはそこまで言って肩をすくめた。

 

「見える範囲だとね」

 

 その言い方に、シンは少しだけ救われる。深く見抜いたふうに断言されるより、ずっといい。

 

「……たぶん、そうだ」

「ならいいじゃん」

 

 ホミカは売店の端に寄り、ミジュマルの頭を見下ろした。

 

「そっちは元気そう」

 

「ミジュ!」

 

「こっちも」

 

「フシ」

 

「ちゃんと鳴いてるし」

 

 ホミカがそう言うと、ミジュマルは少し得意そうに胸を張った。フシデも体を揺らす。

 

「じゃ、あたしほんとに帰るから」

 

「うん」

「今度会うとき、ライモンじゃなくても別に驚かないでよ」

「それは無理かも」

「なんで」

「ホミカがどこにいても、だいたい急だろ」

「失礼」

 

 そう言いながらも、ホミカは笑った。軽く手を上げ、そのまま駅のほうへ歩いていく。振り返りはしない。けれど、いなくなったあとも場面の温度だけ少し残る去り方だった。

 

 シンはしばらくその背中を見送ってから、ポケモンセンターへ戻った。

 

 昼を回って、少し休み、夕方前にもう一度だけ整備広場の近くまで行った。広場そのものへ入るのはやめて、手前の通路から音だけを探る。

 

 静かだった。

 人の出入りも少ない。

 遠くで金属の鳴る音はするが、広場の中に何かが暴れた気配はない。

 

 水筒のふたに水を少しだけ入れ、通路の端へ置く。

 広場までは踏み込まない。

 

「今日の分はこれで終わりだ」

 

 ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。

 フシデも「フシ」と続く。

 

 シンはそれ以上待たずに戻った。

 

 夜、ポケモンセンターの部屋で荷物を整えながら、シンは今日の動きを頭の中でなぞった。

 

 水を置いた。

 ヤブクロンを追い払った。

 布を置いた。

 ケルディオは逃げずに残った。

 

 進んだと言えば進んだ。

 だが、まだ手を伸ばせる距離ではない。

 

 ミジュマルはベッドの端で腹ばいになり、フシデは壁際で丸くなっている。二匹とも、今日はいつもより早く静かになった。待つのも、見張るのも、戦うのとは別の疲れ方をするのだろう。

 

「明日、いるかはわからない」

 

 シンが言うと、ミジュマルが顔を上げる。

 フシデも少しだけ動いた。

 

「でも、いないならそれまでだし、いるならまた考える」

 

 自分で言ってみて、それはずいぶん受け身な言葉だと思った。けれど、無理に決めつけるよりはましだった。

 

 窓の外では、ライモンの夜がまた明るくなっている。観覧車の輪が光り、看板の色が街路に落ちる。そのどこかの影に、青い体がまだいるのかもしれない。

 

 追わない。

 でも放っておきもしない。

 

 その中途半端さを、今日はもう悪いとは思わなかった。

 

 シンは新しい布を一枚だけ出して、水筒の横へ置く。

 明日の朝、また持っていくためだ。

 

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必要ならこの続きで、そのまま**第68話**も書けます。

次は、**ケルディオがさらに「逃げるだけではない動き」を見せる回**としてつなげられます。

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