BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第68話 逃げない場所を、先に作る

 

 朝、ポケモンセンターを出たとき、空はよく晴れていた。

 

 雲が薄く、日が高くなる前から光が強い。風はあるが涼しくはない。四番道路を越えてきたときと同じで、乾いた日の暑さは、朝のうちからだいたいわかる。コンクリートの照り返しが強くなる日は、日陰の価値がはっきりする。人間でもそうだし、怪我をしているポケモンならなおさらだった。

 

 シンは西側の通りへ向かいながら、水筒の重さを確かめた。今日はいつもより多めに入れてある。布も二枚。携帯食も少しだけ増やした。どれも特別なものではないが、昨日までのぶんを踏まえた準備だった。

 

 ミジュマルは最初から落ち着かない様子で、足元から少し前へ出ては「ミジュ」と鳴く。フシデはその逆で、壁際をなぞるように低く進み、時々立ち止まって床の振動を確かめていた。

 

「急ぐな」

 

 シンが言うと、ミジュマルは不満そうに首を振ったが、いちおう歩幅は落とした。フシデは短く「フシ」と鳴くだけで、そのまま進む。

 

 昨日、ケルディオがいた整備広場の近くまで来ると、朝の静けさはまだ残っていた。表通りでは車の音がしているが、建物の裏まで入ると、聞こえるのは遠いシャッター音と、どこかの換気扇の低い唸りだけになる。人の町でも、時間と場所を選べば、野生が息をつけるくらいの隙間はある。

 

 シンは角の手前で一度止まった。

 

 音を聞く。

 足元を見る。

 自分の気配で相手を先に跳ねさせないよう、呼吸をひとつ整える。

 

 それから、ゆっくり広場のほうを覗いた。

 

 ケルディオは、すぐ見える場所にはいなかった。

 

 ミジュマルが「ミジュ?」と小さく鳴く。

 フシデは反応しない。代わりに、さらに腹を低くして前へ出た。

 

 広場の中ほど、昨日置いたふたは空になっている。濡れ布もなくなっていた。置いた場所のそばには、乾きかけた半月形の跡がある。そこから先は、広場の奥ではなく、配管の並ぶ通路のほうへ続いていた。

 

「移ったか」

 

 シンはしゃがんで、その跡の深さを見た。昨日よりは少しだけ踏めている。まだ万全ではないが、少なくとも動けないほどではない。

 

 そこで、フシデが低く「フシッ」と鳴いた。

 

 配管の陰を向いている。

 

 シンが視線を上げると、青い耳がほんの少し見えた。

 

 ケルディオはいた。

 ただ、昨日までより奥にいる。

 

 配管と古い作業箱の間、影が濃い場所に体を入れ、顔だけをこちらへ向けている。真正面からは見えにくいが、逃げ道はきちんと確保している位置だ。今日も相手の数を見ている。ミジュマル、フシデ、シン。順に視線が動いたあと、水の置いてあった場所に戻る。

 

「見えてるぞ」

 

 シンはそれ以上近づかずに言った。

 

 ケルディオの耳がわずかに動く。けれど出てはこない。鼻を鳴らすこともしない。ただ、配管の影に体を寄せたまま、こちらの様子を見ている。

 

 ミジュマルが一歩出ようとしたので、シンは手で止めた。

 

「まだだ」

 

「ミジュ……」

 

「いるのはわかった。今日はまず、場所を見る」

 

 ケルディオに水を置くこと自体はできる。だが、今日の朝の光を見たときから、シンの中では別の引っかかりがあった。

 

 この広場は、昨日までならよかった。

 朝のうちは静かで、水気も少しあって、人目も薄い。

 けれど、昼からの熱を考えると長居には向かない。

 

 配管の陰は狭い。

 地面は硬い。

 日が回れば壁の影も動く。

 人の出入りが少ないとはいえ、作業が入れば一気に落ち着かなくなる。

 

 水を置くだけでは、今日は足りないかもしれない。

 

 シンは配管の並ぶ通路をざっと見回した。広場の外へ抜ける細い道は二本。そのうち一本は人の気配が強い。もう一本はさらに西側へ抜けている。駅とも大通りとも逆の方向だ。昨日まであまり行かなかった側だった。

 

「ミジュマル、フシデ。少し回る」

 

「ミジュ?」

「フシ」

 

「ここを離れるんじゃない。近くの別の場所を見るだけだ」

 

 ケルディオはその会話に耳を向けていたが、動かなかった。シンはすぐに背を向けず、少しずつ角度を変えるようにして広場の外へ出る。

 

 西側のさらに奥は、ライモンの表側からは見えない作業区画が続いていた。

 

 古い車止め。

 使っていない荷台。

 錆の浮いた手すり。

 排水の流れる浅い溝。

 

 どれも人が住むための景色ではない。けれど、逆に言えば、人が長く留まるための場所でもない。昼間でも足が向かない区画は、それだけで野生にとっての余白になる。

 

 シンはひとつひとつ足を止めて見た。

 日陰の長さ。

 逃げ道の向き。

 水を置ける平らな場所。

 人が急に入り込んできたときに、囲まれない幅。

 

 いくつかはすぐ却下できた。行き止まり。狭すぎる。昼に熱がこもる。人通りは少なくても、車の出入りが多い。

 

 配管沿いの通路を曲がり、さらに奥へ進んだところで、古い搬送路の下にできた半屋根の空間があった。高架ほどではないが、鉄骨と板で上が覆われていて、昼でも影が残りそうだ。片側は開いているが、奥は壁。完全な袋小路ではなく、側面に狭い抜け道もある。足場も広場よりましで、排水溝の先に古い蛇口までついていた。

 

 人の気配は薄い。

 使われていないわけではないが、頻繁に出入りする場所でもない。

 

「……ここか」

 

 シンが小さく言うと、ミジュマルが「ミジュ」と鳴いた。フシデも蛇口の近くまで行き、前脚で床をこする。音の響きや振動を見ているようだった。

 

 シンは蛇口をひねってみた。最初に濁った水が少し出たあと、すぐ透明になった。飲ませるなら一度流してからのほうがいい。排水もちゃんと流れる。古い設備だが使えないわけではない。

 

 ここなら昼のあいだも少しは休める。

 脚をかばっているポケモンでも、ひとまず身を伏せられる。

 人に見つかっても、すぐに横の抜け道へ逃げられる。

 

 問題は、ケルディオがここへ来るかどうかだけだった。

 

「まず水置く」

 

 ミジュマルがシンの手元を覗き込む。

 フシデも近くで体を揺らした。

 

 シンは水を蛇口で一度流し、きれいになってからふたに取った。持ってきた濡れ布のうち一枚も、冷たい水に浸して絞る。携帯食はごく少しだけ。匂いが強すぎると、別の野生が寄りやすい。

 

 置き終えてから、シンは少しだけ距離を取った。

 

「ここまで来るなら、来る。来なければ、また考える」

 

 ミジュマルは納得しきっていない顔だったが、「ミジュ」とだけ返した。

 

 そのあと三匹は、元の整備広場へ戻った。ケルディオがまだいるかを見るためだ。

 

 配管の陰には、もう姿がなかった。

 

 だが、逃げたという感じはしなかった。半月形の跡が、さっきまでいた位置からゆっくり広場の出口へ向かっている。跳ねた跡ではなく、歩いて出た跡だ。片脚をかばったぶん、少し流れてはいるが、進路はまっすぐだ。

 

 ミジュマルがすぐそちらを見た。

 

「ミジュ」

 

 シンも同じ跡を追う。

 整備広場を出て、西側の通路へ。

 さっき自分たちが見に行った方向と、同じほうだ。

 

 そこで、シンは少しだけ息を止めた。

 

 まだ何も決まっていない。

 たまたま同じ方向へ移っただけかもしれない。

 それでも、完全に見当違いではなかったらしい。

 

「……行こう」

 

 今度は急がなかった。追い立てる形になれば意味がない。ミジュマルにも前へ出すぎないように言い、フシデには壁際を任せる。

 

 半屋根のある搬送路の下へ戻ると、ケルディオはすでにそこにいた。

 

 水の置いてある場所の少し手前で止まり、こちらへ顔を向けている。さっきの広場よりも日陰が深いぶん、青い体が少し落ち着いて見えた。右後ろ脚の負担を減らせる位置を選んで立っている。自分で場所を見て決めたのだろう。

 

 ミジュマルが思わず「ミジュッ」と少し大きく鳴いた。

 

 ケルディオの耳が立つ。だが、逃げなかった。

 

「静かに」

 

 シンが言うと、ミジュマルはすぐ口を閉じた。フシデも低くなる。

 

 ケルディオは水のほうへ視線を落とす。次にシンを見る。水へ戻す。さっきより迷いが短い。そろそろと前へ出て、ふたの水を飲み始めた。

 

 飲み方は昨日より落ち着いている。

 飲みながら、何度か顔を上げる。

 それでも途中でやめない。

 

 シンはそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

 水を飲み終えたあと、ケルディオは濡れ布へ鼻先を寄せた。冷たさを確かめるように一度押し、すぐには脚へ当てない。けれど離れもしない。

 

 ミジュマルが小さく「ミジュ……」と鳴く。

 フシデも「フシ」と短く続いた。

 

 搬送路の下は、思ったより風が抜けた。完全な無風ではないが、熱がたまり続ける感じではない。上を通る鉄骨が少し日差しを切り、壁に近い場所ほど温度が低い。シンはその中で、ケルディオが自然と壁側へ寄っていくのを見ていた。

 

 脚を休ませるなら、もう少し奥がいい。

 だが奥へ入るには、こちらの近くを横切る必要がある。

 

 しばらく様子を見ていたが、ケルディオはその一歩で止まってしまう。行きたいのに、こちらがいるせいで決めきれないのがわかった。

 

 シンは少し考えて、ミジュマルとフシデへ目を向けた。

 

「一回下がる」

 

「ミジュ?」

「フシ?」

 

「ここはもう見つけた。あとは、こっちが邪魔だ」

 

 ミジュマルは不満そうに耳を動かしたが、シンが立ち上がると仕方なくついてきた。フシデもそれに続く。

 

 三匹で搬送路の角をひとつ曲がり、完全には見えないが、すぐ戻れる位置まで下がる。そこなら相手の気配も消えない。

 

 待っているあいだ、ミジュマルは何度も戻りたそうにした。シンはそのたびに頭を軽く押さえる。

 

「待て」

「ミジュ……」

「待つのもやることだ」

 

 フシデは意外と落ち着いていた。壁際に沿ってじっとしている。こういう静かな張り方は、フシデのほうが得意なのかもしれない。

 

 しばらくして、床を擦る音がした。

 蹄がゆっくり動く音だ。

 

 シンは角からそっと覗いた。

 

 ケルディオは、さっきより奥へ移っていた。壁際の日陰へ体を寄せ、濡れ布を脚の近くへ引き寄せている。前脚を折って伏せるところまではいかないが、体の重心は明らかに休める向きになっていた。

 

 逃げる準備ではなく、休むための立ち方だった。

 

「……そうか」

 

 シンが小さく呟くと、ミジュマルが背伸びして覗こうとした。

 

「見るだけだぞ」

「ミジュ」

 

 そこへ、不意に上の鉄骨がきしむ音がした。何か大きなものが通ったわけではない。風で鳴っただけだろう。けれど、ケルディオは反射で顔を上げた。耳が立ち、脚に力が入る。

 

 まだ完全には落ち着いていない。

 

 その緊張が解けきる前に、別の気配が来た。

 

 今度は人ではない。細い足音がいくつか、通路の向こうから近づく。軽く、せわしない。ミジュマルより少し高い位置で、止まったり走ったりをくり返すような音だ。

 

 チラーミィだった。

 

 一匹だけではない。三匹。建物の隙間を移動しながら、乾いた床の匂いをかいでいる。整ったものを好む性質らしく、こういう裏手の区画でも比較的きれいな場所を渡っていくことがある。人を極端に恐れない個体も多い。

 

 ただ、好奇心も強い。

 

 三匹のうち、一匹が搬送路の下の水へ気づいた。尾をふわりと振って、そのまま入ってくる。

 

「……やめとけって」

 

 シンが小さく言ったところで、当然止まらない。

 

 ケルディオは顔を上げた。

 耳が前を向く。

 鼻先が少し低くなる。

 

 昨日のヤブクロンほど荒っぽくはない。だが、いまのケルディオにとっては同じことだ。落ち着いて休もうとしていた場所へ、別の野生が遠慮なく入ってくる。

 

 ミジュマルが「ミジュ」と短く鳴く。

 すぐ動けるように体勢を変えていた。

 

 ケルディオは一歩だけ前へ出た。

 右後ろ脚をかばいながら、それでも水の前に立つ。

 チラーミィは止まったが、すぐには引かない。横へずれて別の角度から入り込もうとする。

 

 そのときだった。

 

 ケルディオが前脚を強く踏み込んだ。

 

 床に薄い水が走る。

 鋭くはない。大きな攻撃でもない。ただ、一直線に足元へ水を弾かせて、進路を切るような動きだった。牽制としては十分だったらしく、先頭のチラーミィがぴたりと止まる。

 

 残りの二匹も尾を高くしたまま、少し遅れて足を止めた。

 

 ケルディオはそれ以上追わない。

 前へ出すぎない。

 水の手前に立ったまま、鼻を鳴らす。

 

 ミジュマルが目を丸くしたように「ミジュ」と鳴いた。

 フシデも「フシ」と短く続く。

 

 チラーミィたちは、少し考えるようにその場をうろついたあと、割に合わないと見たのか、三匹そろって別の通路へ走っていった。争うほどではない。けれど、水だけ奪われるのも嫌だ。そういう小さな押し引きだった。

 

 ケルディオはしばらくそのまま立っていたが、追い払えたのを確かめると、ゆっくり壁際へ戻る。さっきより脚を引きずってはいない。無理な動きではなかったのだろう。

 

 シンはその様子を見て、変に声をかけるのをやめた。

 

 励ますのも違う。

 褒めるのも違う。

 見えたものを、そのまま受け取るだけでいい。

 

 それでも、胸の中で一つだけはっきりしたことがあった。

 

 逃げるだけじゃなくなっている。

 

 昨日までは、人や野生が来れば、まず距離を取るほうへ動いていた。今日は違った。休める場所と水のある場所を、自分で守る動きをした。それは、ここを「残ってもいい場所」と見始めているということだった。

 

 日が少し高くなり、搬送路の下にも光の縁が寄ってくる。ずっと同じ位置にいれば、影は少しずつ狭くなる。シンはその移り方を見ながら、昼をまたぐ前にもう一度だけ水を足すことにした。

 

 ただし、近づきすぎない。

 

 ふたをもうひとつ出し、今ある位置から少しだけ奥へ、新しい水を置く。壁際に近いほうが、相手は休みやすい。ケルディオはシンの動きに耳を立てたが、離れなかった。

 

「こっちは日陰が長い」

 

 意味が伝わるとは思っていない。けれど、何をしているかを自分の中で曖昧にしないために、口には出した。

 

 水を置いて下がると、ケルディオはすぐには寄らなかった。だが、前より警戒が浅い。少し間を置いてから自分で位置を変え、新しく置いたほうの水を飲んだ。

 

 ミジュマルが今度は声を出さず、しっぽだけ振った。

 フシデも床をひと掻きして止まる。

 

 昼前には一度離れた。

 

 日が高くなる時間帯に人の出入りが増える可能性があるし、こちらも一度水を補充しておきたかった。搬送路の角を離れるとき、シンはもう振り返らなかった。見送るように残る気配があったからだ。

 

 ポケモンセンターへ戻る途中、ミジュマルは珍しく機嫌がよかった。大きく騒ぐわけではないが、足取りが軽い。何度か「ミジュ」と鳴いて、シンの顔を見る。フシデも壁際を進みながら、いつもより体の揺れが大きかった。

 

「うまくいった、って顔するな」

 

 シンが言うと、ミジュマルは少しだけ胸を張った。

 フシデも「フシ」と鳴く。

 

「まだだ。あいつがそこに残るかは、これからだろ」

 

 そう返しながらも、シンの声は昨日までより少し軽かった。

 

 午後は暑さが強く、ポケモンセンターの中で長く休ませた。ミジュマルには水を多めに飲ませ、フシデには涼しい床のある場所を選ぶ。自分も少し横になったが、頭の中では搬送路の下の影の長さばかり考えていた。

 

 夕方近く、もう一度だけ水を持って出る。

 

 西側の区画に入るころには、日差しはかなり傾いていた。昼の熱は残っているが、壁の影は朝より長い。人通りも少し落ちている。駅の近くにはまだ人が多いが、裏手へ回れば空気はずいぶん違った。

 

 搬送路の下へ近づくと、シンは足を止めた。

 

 ケルディオは、まだそこにいた。

 

 壁際の同じあたり。今度は前脚を折って、半分伏せるような姿勢になっている。完全に横にはなっていないが、立ちっぱなしよりはずっと休める形だ。濡れ布は脚の近くに残っている。水はほとんど空。人や他の野生に荒らされた様子もない。

 

 シンはほっとしたが、それを声には出さなかった。

 言ったところで意味がないし、静かな場面を壊したくなかった。

 

 ミジュマルも、今日はすぐには鳴かない。フシデは壁際の少し手前で止まった。

 

 シンは新しい水を置き、携帯食を少しだけ足す。ケルディオは目を開けてこちらを見るが、立ち上がらない。耳は動く。けれど、逃げるための力は入れていない。

 

 そこが今日いちばん大きな変化だった。

 

 シンは無理に近づかないまま、その場で少しだけしゃがんだ。

 

「今日はここにいろ」

 

 命令ではない。願いでもない。ただ、自分がそう思ったことを、そのまま言っただけだ。

 

 ケルディオは返事をしない。もちろん言葉もない。ただ、耳が一度だけ動き、それきりまた伏せ気味の姿勢に戻った。

 

 ミジュマルが、今度は本当に小さな声で「ミジュ」と鳴く。

 フシデも「フシ」と一つだけ。

 

 長くは留まらず、シンは立ち上がった。

 

「戻るぞ」

 

 二匹はすぐには動かなかった。けれど、シンが先に歩き出すとついてくる。

 

 搬送路を離れ、曲がり角をひとつ越えたところで、ミジュマルが振り返った。

 シンもつられて少しだけ後ろを見る。

 

 ケルディオは、追ってはこなかった。

 

 けれど、逃げてもいなかった。

 

 薄い夕方の光の中で、半屋根の影に青い体がとどまっているのが見えた。昨日までなら、こちらが動けば様子を見て移動するか、距離を取り直していたかもしれない。今日は違う。あの場所に残ることを選んでいた。

 

 ポケモンセンターへ戻る道で、シンはずっとそのことを考えていた。

 

 追わないまま同じ方向へ歩いた日があった。

 水を置いて待った日があった。

 そして今日は、逃げないで残る場所を、相手が自分で決めた。

 

 こちらが与えたのは水と影と距離だけだ。

 それでも、意味はあったらしい。

 

 部屋に戻ると、ミジュマルはベッドへ飛び乗って大きく息を吐いた。フシデも壁際へ寄って体を休める。二匹とも、戦ったわけではないのに疲れている顔だった。

 

「今日はもういい」

 

 シンがそう言うと、ミジュマルは「ミジュ」と短く鳴き、フシデも「フシ」と返した。

 

 夜になって、窓の外の観覧車が光り始める。ライモンの夜は明るい。どこかで音楽が流れ、遠くの通りで人の声がする。けれどシンの頭の中に残っていたのは、搬送路の下の静かな影だった。

 

 明日もいるとは限らない。

 朝にはいなくなっているかもしれない。

 それでも今日は、あそこが「ただ通る場所」ではなくなった。

 

 シンは新しい布を一枚出し、水筒の横へ置いた。

 明日も持っていくためだ。

 

 それから灯りを消す前に、一度だけ小さく息を吐く。

 

「……少しだけ、進んだか」

 

 誰に聞かせるでもない独り言だった。

 

 ミジュマルがうとうとしながら「ミジュ」と鳴き、フシデも目を閉じたまま「フシ」と返す。

 

 返事になっているようで、なっていない。

 けれど、そういうので十分な夜だった。

 

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