朝、ポケモンセンターの扉を押して外へ出たとき、空気はもう少しぬるかった。
昨日と同じように晴れている。雲は薄い。風も弱い。朝のうちはまだ歩けるが、日が上がれば熱がこもる。四番道路の砂とは違う、町の熱だ。石と鉄とコンクリートがじわじわ温まって、昼には逃げ場のない暑さになる。
シンは肩のバッグの位置を直し、水筒の重みを確かめた。今日は多めに入れてある。布は三枚。昨日使ったタオルも洗って畳み直した。携帯食は少し。どれも同じような準備に見えるが、昨日までの積み重ねで、何をどれだけ持てば足りるかがようやく見えてきていた。
ミジュマルは足元から半歩前へ出て、「ミジュ」と小さく鳴いた。急かす声ではない。行く先が決まっているとわかっている歩き方だった。フシデは壁際をなぞるように進み、継ぎ目や段差のたびに前脚で床をこする。
「先に行くなよ」
「ミジュ」
「フシ」
二匹とも返事は短い。それでも、昨日までより落ち着いていた。無闇に飛び出さない。止まるべき場所を覚え始めている。
西側の裏手へ入ると、町の音は少し遠くなった。大通りの車の音は聞こえる。どこかでシャッターの上がる音もする。だが、表に比べれば空気はだいぶ薄い。人の町の裏側は、にぎやかさとは別の速さで動いている。
資材置き場と外階段のある区画に近づくころ、シンは自然と歩幅を落とした。
角の手前で止まる。
音を聞く。
自分たちの足音を切る。
相手がいるなら、まず気配だけが届くくらいに。
それから、静かに覗く。
ケルディオは、昨日と同じ外階段の下にいた。
壁際の影がまだ濃く残る位置に、前脚を折り、半分伏せる姿勢で体を寄せている。完全には寝ていない。耳はすぐ立てられるし、顔もこちらへ向いた。けれど、夜のあいだにここを離れなかったことは、それだけではっきりしていた。
ミジュマルが声を抑えて「ミジュ」と鳴く。
フシデも「フシ」と続いた。
「……いたな」
シンが小さく言うと、ケルディオの耳がこちらへ向いた。だが、それだけだ。昨日までのようにすぐ立ち上がって、逃げ道とこちらを交互に見る動きではない。起きて、確認して、またわずかに力を抜く。そのくらいの反応だった。
水のふたは空になっている。
携帯食も残っていない。
タオルは右後ろ脚の近くに寄せられていた。
シンはその位置を見て、少しだけ目を細めた。たまたま足元へ来たのではなく、自分で寄せたのだろう。そういう細かい変化が、昨日までより増えてきている。
ケルディオの右後ろ脚は、まだかばっている。だが、立ち上がる前の力の入り方は少しましだった。無理はできない。でも、休めてはいる。
シンはいつもの位置でしゃがみ、水を二か所に分けて置いた。壁際に近いほうと、少し手前。今日の熱を考えれば、影の残り方で位置を選んだほうがいい。
「暑くなる前に飲んどけ」
独り言みたいに言って下がる。
ケルディオは少しだけ顔を上げたあと、すぐに立つことはしなかった。耳だけが二度動き、それからようやく前脚を伸ばす。立ち上がっても、もう以前みたいに体全体を固くはしていない。こちらを見て、水を見て、またこちらを見る。その動きのどこかに、昨日までより一段浅い警戒があった。
ミジュマルがじっと見守る。
フシデも壁際の少し手前で止まったまま動かない。
ケルディオは壁際に近いほうの水を選んで飲み始めた。
飲み方は落ち着いている。何度か顔を上げて周囲を確かめるが、すぐには離れない。喉の渇きに押されて飲むというより、自分で必要なぶんを取っている動きだった。
シンはそこで、少しだけ肩の力を抜いた。
人の町の裏手で、野生に近い相手が同じ場所に二晩いる。
しかも、自分たちが来てもすぐには場所を捨てない。
それだけでも十分変化だった。
そのまま午前の早いうちは、大きな動きはなかった。
シンたちは少し離れた位置で待ち、ケルディオは影の深い場所で休む。ミジュマルは最初こそ外階段の下を気にして落ち着かなかったが、シンが動かないとわかると足元へ座り直した。フシデはいつものように入口に近い位置を選び、通路の外の振動を拾う役目を引き受けているようだった。
日が少し上がると、影の縁がゆっくり動き始めた。外階段の下は昨日より保ちそうだったが、長く同じ位置にいれば熱はこもる。シンはそれを見ながら、水の位置を少しだけ調整した。ケルディオはその動きに耳を向けたが、立ち上がりはしない。
そのとき、通路の向こうから、かさ、と軽い音がした。
ビニール袋でも擦ったような、小さな音。
ミジュマルがすぐ顔を上げる。
フシデも体を低くした。
角の向こうから現れたのは、チラーミィだった。
まだ若い個体らしく、体つきが細い。しっぽの毛並みも少し乱れている。人を見てすぐ逃げるほど臆病ではないが、慣れているわけでもないらしく、角のところで止まって周囲をうかがっている。視線はすぐに水の置かれたほうへ向いた。
シンは息を詰めたが、まだ何もしない。
チラーミィは一歩ずつ入ってくる。昨日みたいに、ただ水に寄ってくるだけなら、それで済んだかもしれない。だが、外階段の下の奥、壁際のあたりに、小さなきらめきが落ちていた。
古いナットか、金属片か。朝の光を少しだけ拾って光っている。
チラーミィは、それを見つけたらしかった。
水より先に、そちらへ走った。
「ミジュ」
ミジュマルが低く鳴く。
チラーミィはするりと影の奥へ入り込み、きらめくものに前脚を伸ばす。その瞬間だった。
外階段の脇に立てかけてあった、細長い金属フレームがわずかにずれた。
もともと安定していなかったのだろう。チラーミィが奥へ入り込み、その脇をこすったことで重心が変わった。一本が滑り、次の一本に当たり、立てかけられた数本がまとめて傾き始める。
大きな崩落ではない。だが、細い金属フレームが何本も倒れれば、小さなポケモンなら十分危ない。
チラーミィが甲高く鳴いた。
奥へ入りすぎていた。すぐには引き返せない。しかも、足元にはタオルと水のふたがあって、踏み場が悪い。
「まずい」
シンが駆け出すのと、ミジュマルが「ミジュッ!」と鳴いたのは同時だった。
「ミジュマル、左! フシデ、手前!」
言いながらシンは倒れかけたフレームの外側へ回る。全部が重いわけではないが、まとめて倒れれば勢いがつく。チラーミィを押しつぶすほどではなくても、脚や尻尾を挟みかねない。
ミジュマルは左手側へ飛び込み、倒れかけた一番外のフレームへ体当たりした。正面から受け止めるのではなく、角度を少しずらす。勢いの向きを変えるためだ。フレームが金属音を鳴らし、倒れ込み方がわずかに緩む。
フシデは手前に回り込み、床をこするみたいに身を低くして、チラーミィが飛び出す側の隙間を作ろうとする。狭いところへ入るのは得意だ。角度をひとつ変えるだけでも、抜けられる幅が違う。
だが、奥でいちばん危ない位置にいるチラーミィは、怖がって動けなかった。耳を伏せ、しっぽを背に巻き込み、細く鳴くだけだ。
そこで、ケルディオが動いた。
誰かに指示されたわけではない。
外階段の下の影から、前脚で床を蹴る。
右後ろ脚をかばいながらも迷わず踏み込み、チラーミィと金属フレームのあいだへ体を差し込む。
そして、倒れ込んでくる一本を肩で受けた。
鈍い音が鳴った。
ケルディオの体が揺れる。傷んだ脚に負担がかかったのが見てわかった。それでも、すぐには引かない。肩と前脚で押し返し、ほんの少しだけ隙間を作る。
シンはその瞬間、すぐに動いた。
「そのまま!」
言葉が通じたわけではないだろう。それでも、タイミングを合わせるには声を出すしかなかった。
シンは倒れかけたフレームの下端を掴み、持ち上げるというより、これ以上滑らない位置へ押し戻す。ミジュマルは左からもう一度ぶつかり、フシデは手前側の一本の向きをわずかに変える。
狭い隙間が開いた。
チラーミィはそこでようやく我に返ったらしく、細い体をすべらせるようにフシデの作った側の隙間から飛び出した。シンの足元をかすめ、通路の外へ一気に走る。振り返りもしない。
次の瞬間、支えを失った奥のフレームがさらにずれた。
「下がれ!」
シンが叫ぶ。
ミジュマルがすぐ飛び退き、フシデも壁際へ滑るように逃げた。ケルディオも肩を抜いて一歩引く。細長い金属フレームが二本、がしゃん、と大きな音を立てて床へ落ちた。外階段の下に甲高い反響が広がる。
一拍遅れて、全員が止まる。
大きな崩れにはならなかった。
だが、あと少し遅ければ、チラーミィは挟まれていたはずだった。
ミジュマルが荒く息をして、「ミジュ……」と小さく鳴く。フシデも「フシッ」と短く声を出したあと、すぐ外の気配を見に壁際へ寄った。
ケルディオはその場で肩を上下させていた。
右後ろ脚に再び体重を逃がす癖が強くなっている。さっき、無理をしたのは間違いない。けれど、先に飛び出したのはケルディオだった。
逃げるほうじゃなく、間に入るほうへ。
シンはすぐには近づかなかった。近づけばまた跳ねるかもしれない。まずケルディオ自身が、どれだけ余裕を残しているか見る。
ケルディオは数秒、呼吸を整えるみたいに立っていた。それから、通路の外へ消えたチラーミィが行ったほうを一度だけ見て、ゆっくり顔を戻す。
その顔に、さっきまでの切迫した警戒だけではないものが混じっていた。
守った。
そう見えた。
誰かを助けるために脚が出た、ということを、理屈ではなく動きが示していた。
そのとき、金属音を聞きつけたらしい作業員の声が遠くで上がった。
「何の音だ?」
「こっちじゃないか?」
ミジュマルが耳を立てる。
フシデはすでに戻る側の通路を見ている。
長居はまずい。
シンは外階段の下の様子を一瞬で見た。フレームの一本が床へ落ちたせいで、さっきまでより奥の動線が悪い。休めないわけではないが、人が見に来れば隠れづらくなる。
別の場所へ動いたほうがいい。
だが、今のケルディオに、また無理な移動をさせるのは避けたい。
シンの頭に浮かんだのは、昨日まで通っていた資材置き場よりさらに手前、外階段区画と整備路のあいだにあった小さな点検スペースだった。完全な隠れ場所ではないが、昼前なら影が残る。何より、ここから近い。
「ミジュマル、先見るぞ。フシデ、後ろ」
短く言う。
ミジュマルが「ミジュ」と返し、通路の先を見に一歩出る。フシデは逆に後ろの気配を拾う位置へ回った。
シンはそれから、ケルディオのいるほうへ半歩だけ位置をずらした。呼ばない。追い立てるでもない。ただ、自分が動く方向を見せる。
「こっち。遠くない」
作業員の足音が少し近づく。
ケルディオの耳が立つ。
シンを見る。
通路を見る。
ミジュマルとフシデを見る。
前みたいに、一頭だけで反対へ抜けることもできるはずだ。なのに、ケルディオはそうしなかった。
シンが向いたほうへ、同じように体を向ける。
鼻を短く鳴らし、右後ろ脚をかばいながら、一歩目を出す。
「……行けるか」
シンはそれ以上言わず、自分も通路へ出た。
四匹は同じ方向へ動く。
先頭はミジュマルだが、勝手に走らない。すぐ後ろにシン。その少し横にケルディオ。フシデが最後尾に近い位置で壁際を確認する。誰かが誰かを完全に信じているわけではない。けれど、この短い移動のあいだだけは、目指す方向がひとつになっていた。
点検スペースは、思った通りまだ影が残っていた。
壁が二面あり、間に古い工具箱と空のケースが寄せてある。人ひとりがしゃがめるほどの奥行きで、横に細い抜け道もある。長く使うには心許ないが、今のケルディオをいったん休ませるには悪くない。
シンはそこへ入ると、すぐ水を置いた。濡れた布も新しく一枚出す。
ケルディオは迷わずそこまで来たわけではない。入口で一度止まり、耳を動かし、奥行きと逃げ道を見る。けれど、もう元の外階段へ戻ろうとはしなかった。水の置かれた位置と影の濃さを見て、そのまま中へ入る。
ミジュマルが、そこでようやく少し大きく息を吐いた。
「ミジュ……」
フシデも「フシ」と短く鳴く。
ケルディオは水を飲み、布へ鼻先を寄せた。さっき金属フレームを肩で受けたせいか、前より慎重に動いている。右後ろ脚だけでなく、左肩も少し気にしているようだった。
シンはそこで初めて、いつもより少しだけ近い位置にしゃがんだ。
手を伸ばせば届く距離ではない。
だが、今までよりは近い。
ケルディオはそのことに気づいているはずだ。耳が一度こちらを向く。目も上がる。けれど、それで飛び退くことはない。ただ、数秒見て、また水へ顔を戻した。
それだけで、今日は十分すぎるくらいだった。
作業員たちの足音は、その後しばらく近くまで来たが、外階段のあたりを確認しただけで引いていったらしい。大ごとにはならなかったのだろう。金属の落ちた音も、人から見れば古いフレームがずれた程度だったのかもしれない。
点検スペースの中は狭かった。
狭いからこそ、距離がごまかせない。
ミジュマルはシンのすぐ隣に座り、何度かケルディオのほうを見た。フシデは入口近くで体を低くし、外の様子を見ながら時々こちらを振り返る。ケルディオは壁際の影で水を飲み終えたあと、タオルの近くへ身を寄せた。
そして、一度だけ、シンのほうへ顔を向けた。
視線が合う。
前みたいな威嚇はない。
怯えた跳ね方もない。
ただ、見ている。
さっき、チラーミィを助けるために飛び出したその動きと、今この狭い場所に残る選び方は、どこか同じものに見えた。
逃げるより先に、守るほうへ脚が出た。
そして今は、逃げるより先に、残るほうを選んでいる。
シンは何も言わなかった。
ここでうまいことを言う必要はないし、そういう場面でもない。見えたことだけで十分だ。
昼前まで、四匹はそのままそこで過ごした。
長い会話はない。
人間同士の説明もない。
あるのは、水を足す音と、遠くの町の機械音と、ミジュマルやフシデの短い鳴き声だけだ。
それでも、場の空気は昨日までと確実に違っていた。
ケルディオは、ただシンたちの置いたものを使っているだけではない。
同じ危機に向いて、
同じ方向へ動いて、
そのあと同じ影に残った。
それが、今日いちばん大きかった。
日が少し傾き始めたころ、シンは立ち上がった。
「今日は、ここまでにする」
ミジュマルが顔を上げる。
フシデも体を少し起こす。
ケルディオは耳だけをこちらへ向けた。
シンは少し迷ってから、水のふたをもう一つだけ手前に置いた。壁際ではなく、シンたちがさっきまでいた寄りの位置だ。
ケルディオがそれを見る。
「使うなら、そっちも」
言ってから、一歩下がる。
ケルディオはすぐには動かなかった。ミジュマルとフシデが通路へ出る。シンも続く。そこで、後ろから小さく蹄の音がした。
振り返ると、ケルディオが壁際から半歩だけ前へ出ていた。
深い影の中ではなく、手前に置かれたふたのそばまで来ている。
近づいてきた、というほどではない。
でも、わざわざ手前を選んだのは初めてだった。
ミジュマルが息を呑んだみたいに「ミジュ」と鳴く。
フシデも「フシ」と続く。
シンはそこで足を止めかけて、やめた。
今は見届けるだけでいい。
「じゃあ、また明日」
それだけ言って、今度こそ通路へ出る。
ケルディオは追ってこなかった。けれど、手前に置いた水の位置に残り、すぐには奥へ引かない。影の中に戻ることもできるのに、戻らない。
その小さな差が、今日の答えみたいだった。
ポケモンセンターへ戻る途中、ライモンシティの灯りが順番につき始める。観覧車の輪郭が明るくなり、店先の音楽が大通りに流れ出す。町はいつも通りの夜へ向かっていた。
その中でシンは、今日の場面を何度も思い返していた。
チラーミィが入り込んだ。
フレームが倒れかけた。
ミジュマルが角度を変え、
フシデが隙間を作り、
ケルディオが間に入った。
自分はそれを押し戻した。
きれいな連携と呼ぶには、まだ遠い。
だが、同じ方向を向いていたのは確かだった。
部屋へ戻ると、ミジュマルはベッドへ飛び乗り、いつもより大きく息を吐いた。フシデも壁際へ寄って体を休める。二匹とも、疲れているのにどこか満足そうだった。
「今日は、ちゃんと進んだな」
シンが言うと、ミジュマルが「ミジュ!」と少しだけ元気よく鳴き、フシデも「フシ」と返した。
シンは新しい布を一枚、水筒のそばへ置く。
明日のぶんだ。
窓の外では、ライモンの夜がまた明るくなっていく。
その裏手の影の中で、青い体が手前に置いた水のそばへ残っているかもしれない。
そう思うと、明日の朝に向けて持っていくものが、昨日までより少しだけはっきりしていた。