次の日の朝、シンは目を覚ましてからすぐに、水筒の位置を確かめた。
昨夜のうちに満たしておいたものが二本。布は三枚。タオルが一枚。携帯食は小分けにして袋へ入れてある。やることはここ数日ほとんど同じだったが、今日は少しだけ違う気持ちで荷物を見ていた。
第72話の最後、ケルディオは点検スペースの奥ではなく、通路の入口近くまで出てきていた。
追ってくるわけでもない。
でも、引いてもいない。
あれがその場限りなのか、少しずつ変わってきた結果なのかは、今日見ればわかるはずだった。
ベッドの端で、ミジュマルが小さく身じろぎした。
「ミジュ……」
「起きろ。行くぞ」
声をかけると、ミジュマルはすぐに目を開けた。フシデも壁際で体を動かし、「フシ」と短く鳴く。二匹とも、行き先がどこかはもうわかっている顔だった。
ポケモンセンターの食堂で簡単に朝を済ませる。ミジュマルは相変わらずもう少し食べたそうな顔をしたが、シンが黙って水を飲ませると、文句は言わずについてきた。フシデには湿らせた布を少しだけ口元へ当ててから、三匹は外へ出る。
朝のライモンシティは、まだ人の流れが太くない。
通勤らしい足音。
掃除の道具を引く音。
遠くで動き始めた車のエンジン。
町は起きているが、昼の速さまではまだ届いていない。そのあいだの時間なら、裏手の区画も比較的静かだ。
西側へ向かう道で、ミジュマルはいつもより落ち着いていた。半歩前へ出ても、すぐに振り返ってシンの歩幅を見る。フシデは相変わらず壁際をなぞるように進み、床の継ぎ目や段差のたびに前脚で軽くこする。二匹とも、ただついてくるだけではなく、それぞれのやり方で周囲を見ているのがわかった。
「先に入るなよ」
「ミジュ」
「フシ」
返事は短い。
点検スペースのある区画へ入るころには、表の音がだいぶ遠くなっていた。高い壁のせいで、車の音も少し鈍く聞こえる。代わりに、近くの配管や換気扇の低い音が地面に残る。人の町の裏側らしい空気だった。
シンは、いつものように角の手前で足を止めた。
音を聞く。
気配を探る。
自分たちの足音が途切れるのを待つ。
それから、静かに覗く。
ケルディオは、そこにいた。
昨日の最後と同じ場所だ。
点検スペースの奥ではない。手前に置いた水のふたと、入口の影の中間くらい。奥へ戻ろうと思えば戻れる。通路へ飛び出そうと思えば飛び出せる。そういう位置なのに、わざわざそこで止まっている。
ミジュマルが驚いたように「ミジュ」と鳴く。
フシデも「フシ」と小さく続いた。
「……まだ、そこか」
シンがそう言うと、ケルディオの耳がこちらへ向いた。前脚に少しだけ力が入る。だが、それだけだ。跳ねない。鼻も鳴らさない。こちらを見て、次にミジュマルとフシデを見て、それから床に置かれた空のふたへ目を戻す。
水はなくなっていた。
携帯食も残っていない。
タオルは昨日のまま、手前寄りの位置で少し折れている。
夜のあいだに、奥へは戻らなかったのだろう。
シンはそこで、いつもより少しだけ手前へしゃがんだ。近づくためではない。ただ、今日は最初から距離を一歩ぶんだけ詰めても、たぶんすぐには壊れないと思えたからだ。
水を二か所に分けて置く。
ひとつは今ケルディオがいる位置に近いところ。
もうひとつは、奥へ下がりたくなったときのために壁際寄り。
「今日はこっちに置く」
言って、下がる。
ケルディオは少し間を置いてから立ち上がった。右後ろ脚をかばう動きはまだあるが、前よりは滑らかだ。水へ寄るまでのためらいも短い。ふたに鼻先を寄せ、匂いを見て、そのまま飲み始める。
今日は最初から手前のほうだった。
ミジュマルが声を抑えて「ミジュ……」と鳴く。
フシデも「フシ」と続いた。
シンは何も言わない。ただ、その飲み方と立ち位置をよく見た。
手前に寄るのが偶然ではなくなっている。
少なくとも、その位置でも大丈夫だと、もう体が覚え始めているように見えた。
午前の早いうちは静かだった。
シンは入口側の壁に背を預けて座り、ミジュマルはその横で腹ばいになる。フシデは少し奥寄りへ位置を取り、シンとケルディオの中間くらいで外の気配を拾うようにしていた。ケルディオは手前と奥のあいだを一度だけ行き来したが、結局また手前寄りへ戻ってきた。
そこまでは昨日と同じ流れだった。
違ったのは、そのあとだった。
ケルディオは水を飲み終えたあと、すぐに奥へ戻らなかった。手前のふたから二歩ほど離れた位置、シンたちから数歩のところで止まり、耳を動かしている。影の帯としては、ほぼ同じ中にいる。
ミジュマルが思わず顔を上げる。
シンが目だけで制すると、ミジュマルはそのまま伏せ直した。
フシデも「フシ」とひとつだけ鳴いて、動かない。
ケルディオはそれを見ていた。
前なら、このあたりでどちらかが不用意に動けば、すぐ奥へ引いていたかもしれない。今日は違う。見る。耳を動かす。けれど、その位置を捨てない。
シンは呼吸を少しだけ浅くしたまま、何もしなかった。
向こうが自分で決めた場所だ。
ここで余計に意味づけしようとすると、かえって変になる気がした。
午前の終わりに近づくころ、区画の外で少し大きな音がした。何かが落ちた音ではなく、台車の車輪が段差に乗り上げて跳ねたような音だ。ミジュマルがすぐ立ち上がる。フシデも体を低くする。ケルディオの耳がぴんと立った。
だが、そこから先が違った。
ケルディオはまずシンたちを見た。
次に入口の外を見た。
それから、その場で止まった。
奥へ飛び退かない。
通路へも出ない。
ただ、音が遠ざかるまで待ち、それから少しだけ力を抜く。
シンはその一連の動きを見ながら、自分の中で何かがはっきりしていくのを感じていた。
もう「人の気配があるから逃げる」ではなくなっている。
「この場が危ないかどうか」を、一度その場で見ようとしている。
それは、思っていたよりずっと大きな変化だった。
昼に近づき、熱が点検スペースの床へ降りてくると、シンは一度だけ外の整備路へ水を足しに行くことにした。ここ数日と同じなら、戻ってきたときの位置を見るだけでも、変化がわかる。
「すぐ戻る」
そう言って立つと、ミジュマルも反射で起きる。だが、シンは今日はそれを手で止めた。
「ミジュマルはここ」
「ミジュ?」
「一緒に行かない」
ミジュマルは不服そうに目を丸くしたが、シンはそのままフシデを見る。
「フシデも。動くなよ」
「フシ」
二匹とも完全に納得した顔ではなかった。だが、シンが本気で言っているのはわかったらしい。
シンが区画を出るとき、ケルディオは顔だけを上げてそれを見ていた。追うそぶりはない。耳が少しだけ向く。それだけだ。
整備路で水を足すのに、時間はかからなかった。戻るあいだ、シンは少しだけ早足になりそうになるのを自分で抑えた。急いだところで、相手が近づくわけでも、遠ざかるわけでもない。いま必要なのは、いつも通り戻ることだった。
点検スペースを覗く。
ミジュマルとフシデは、ほぼ同じ位置にいた。
そしてケルディオも、そこにいた。
ただし、さっきとは位置が違う。
シンが出ていく前より、一歩だけミジュマルたちに近い場所だった。
ミジュマルは腹ばいのまま、でも顔だけケルディオへ向けている。フシデはその少し後ろで、二匹の中間を埋めるみたいな位置だ。三匹とも、動いてはいない。ただ、そのまま同じ空間の中にいる。
戻ってきたシンに気づくと、ミジュマルが「ミジュ」と小さく鳴いた。
ケルディオの耳もシンへ向く。
だが、また一歩引くことはしなかった。
「……そうか」
シンはそれだけ言って、いつもの位置より少しだけ奥寄りに座った。ミジュマルのすぐ隣ではなく、ケルディオへ寄りすぎない程度に、でも今までより近い位置だ。
ケルディオは、それを見ても動かなかった。
ここまでくると、ただの偶然ではない。
シンが戻る前も、
戻ったあとも、
近い位置に残っている。
理由を無理に言葉にする必要はない。けれど、少なくとも「近いほうがまだましだ」と、向こうが思い始めているのは確かだった。
昼の暑さがいちばん強くなる時間帯は、四匹ともほとんど動かなかった。
シンは壁に背を預けたまま、水だけをときどき足す。ミジュマルは途中で一度だけ起き上がり、水を飲んでまた伏せた。フシデは外の気配を見る役目をやめず、時々だけ体を揺らす。
ケルディオはそのあいだ、手前寄りの影の中でじっとしていた。耳は動く。外の音が変われば顔も上がる。それでも、場所を変えない。何度か右後ろ脚の置き方を直したあと、少しだけ前脚を折る角度を深くした。
最初は中腰に近かった。
次は前脚を折った。
そして今は、体重をもう少し床へ預けている。
完全に寝るわけではない。
だが、「休もうとしている」ことははっきり見えた。
午後に入って少しだけ熱が緩んだころ、小さな出来事があった。
通路の向こうから、カタカタと軽い音が近づいてきた。人の足音ではない。ミジュマルが顔を上げる。フシデも壁際へ視線を向ける。ケルディオの耳もぴくりと動いた。
角の向こうから現れたのは、コイルだった。
野生ではない。首輪もなければ管理タグも見えないが、誰かの手持ちが少し離れて動いているのか、あるいは仕事場から離れた個体かもしれない。低く浮いたまま、磁力で細かな金属片を引き寄せているらしく、床の小さなナットや針金がかすかに鳴っている。
点検スペースの前まで来て、一度止まる。
中に人とポケモンがいるのを見て、すぐ入ってくる感じではない。
ただ、ふわりと少し高度を変えた拍子に、近くの古い工具箱のふたがずれて落ちかけた。
大きな音ではない。
けれど、金属が重なる乾いた響きは、狭い区画では思ったより鋭い。
ミジュマルが反射で立ち上がる。
フシデも体を低くする。
ケルディオも顔を上げ、前脚に力を入れる。
それでも今回は、誰も飛び出さなかった。
シンが「そのまま」と小さく言う。
ミジュマルがそこで止まる。
フシデも動かない。
コイルは数秒、こちらを見てから、興味を失ったようにまた通路の向こうへ浮いていった。工具箱のふたも、ずれただけで落ちきらない。危機と呼ぶほどではない。
だが、音のあとに残った静けさの中で、ケルディオがそれでも位置を変えなかったのは大きかった。
耳だけを動かし、
音が離れるのを待ち、
そしてまた、その場に残る。
シンはそれを見て、何も起きなかったことそのものより、「何も起きなくても逃げなかった」ことのほうがずっと重要だと思った。
午後の後半、影が長くなり始めるころには、点検スペースの中の空気もだいぶ楽になった。シンはそこで、自分たちの分の携帯食を少しだけ出した。ミジュマルにひとかけ。フシデにも少し。自分も短く口へ入れる。
ケルディオは顔を上げてそれを見る。
昨日と同じように、シンはひとかけだけ、ちょうど中間くらいの位置へ置いた。
置いて、下がる。
ケルディオは前脚を伸ばし、中間まで一歩出る。ミジュマルが少しだけ体を起こすが、シンの手が軽く肩に触れると、また伏せた。フシデも動かない。
ケルディオは携帯食を口にしたあと、今度は元の位置へすぐ戻らなかった。
中間より、ほんの少しだけミジュマルたちに近い位置で止まる。
耳を動かす。
それから、その場で前脚を折る。
ミジュマルが「ミジュ……」と本当に小さく鳴いた。
うれしいのを押さえている声だった。
そこから先は、もうほとんど動きがなかった。
シンも、ミジュマルも、フシデも、ケルディオも、それぞれ少しずつ位置は違う。けれど、四つとも同じ影の中にいる。別々の場所を一時的に共有している、というより、同じ場所の中で落ち着ける位置をそれぞれ選んでいる感じだった。
夕方が近づいたとき、シンはようやく立ち上がった。
「今日は戻る」
ミジュマルが顔を上げる。
フシデも体を少し起こす。
ケルディオの耳も向く。
シンは水を足し、布を一枚新しいものに替えた。今日は奥ではなく、今ケルディオが休んでいた位置から少しだけ手前へ置く。あえてだった。
「こっちでいいなら、そのまま使え」
言ってから、シンは一歩下がる。
ケルディオはその布を見る。
シンを見る。
ミジュマルとフシデを見る。
そして、奥へは戻らなかった。
代わりに、手前へ半歩出る。布の近くまで来て、鼻先で押し、それをまた右後ろ脚の近くへ寄せる。つまり、今日の最後も、手前の位置で休むつもりらしかった。
それを見て、シンはもう何も足さなかった。
「じゃあ、また明日」
ミジュマルとフシデを連れて通路へ出る。
そこで、昨日みたいにケルディオが入口まで出てくるかと思った。だが今日は少し違った。入口までは来ない。代わりに、手前の影の中――シンたちがさっきまでいたのに近い位置で、そのまま残る。
追ってこない。
でも、奥へも戻らない。
それで十分だった。
数歩進んでから、ミジュマルが振り返る。
シンも横目で後ろを見る。
ケルディオは、まだそこにいた。
壁際の最深部ではなく、
人が来ればすぐ跳ねられるような入口ぎりぎりでもなく、
シンたちが一緒にいた影の延長に残っている。
自分から、その位置を選んで。
ポケモンセンターへ戻る道のりで、ライモンシティの灯りがいつものようにつき始めた。観覧車の輪郭が色を持ち、店先の音楽が夕方の空気へ流れ出す。町は変わらず、人の速さで夜へ向かっていく。
けれどシンの中には、今日の最後の位置のほうがずっと強く残っていた。
入口まで追ってきた昨日。
同じ影の中で休んだ今日。
次はどうなるのか、まだ決まっていない。
でも、もう「近くに残ったのはたまたま」では片づけられないところまで来ている。
部屋へ戻ると、ミジュマルはベッドの上へ飛び乗り、今日は一度も抑えていなかった分みたいに「ミジュゥ」と長く鳴いた。フシデも壁際へ寄り、体をゆっくりほどくように揺らす。
「今日は、かなり進んだな」
シンがそう言うと、ミジュマルがすぐ「ミジュ!」と返し、フシデも「フシ」と続いた。
シンは新しい布を一枚取り出し、水筒のそばへ置く。
明日も持っていくためだ。
それから灯りを落とす前、少しだけ窓の外を見た。にぎやかな町の明かりの向こうに、あの狭い点検スペースは見えない。けれど、その影の中に、青い体が今日は昨日より少し近い位置で休んでいるのだと思うと、不思議なくらいそれがはっきり浮かんだ。
明日、もっと近くなるかはわからない。
逆に遠のくかもしれない。
それでも、今日のぶんはちゃんと残る。
シンはそう思いながら、水筒の栓をきつく締めた。