BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第74話 近いまま、夜をまたぐ

 

 次の朝、シンは目が覚めた瞬間に、まず昨日の最後の位置を思い出した。

 

 点検スペースの奥ではなく、手前寄りの影の中。

 入口まで追ってくるでもなく、壁際の最深部へ引き返すでもなく、シンたちが一緒にいた帯の延長に、ケルディオは残っていた。

 

 あれが一時的なものだったのか、それとも少しずつ定着してきたものだったのかは、今日見ればわかるはずだった。

 

 部屋の中はまだ薄暗い。窓の外のライモンシティも、完全な朝にはなっていない。夜の灯りがいくつか残り、遠くで車の音が低く続いている。人の町は眠り切らない。静かな時間帯でも、音が途切れることはなかった。

 

 ベッドの端でミジュマルが小さく身じろぎし、壁際の床ではフシデが前脚を少し動かした。

 

「起きろ」

 

 シンが声をかけると、ミジュマルはすぐ目を開けた。フシデも「フシ」と短く鳴き、体を持ち上げる。

 

 水筒は二本。

 濡らす布を三枚。

 タオルを一枚。

 携帯食を少し。

 それに、今日は念のため、細長く裂いた布も一枚だけ加えた。結ぶためではなく、折って置いたときに薄く広がるからだ。脚の近くへ寄せるなら、厚いものより扱いやすいかもしれないと思った。

 

 準備をしながら、シンは口に出して確認する。

 

「今日は、まず見る。変に急がない」

 

「ミジュ」

「フシ」

 

 二匹とも短く返した。ミジュマルは前よりずっと静かだ。先に飛び出したい気持ちがなくなったわけではないだろうが、ここ数日の流れで、止まるべきところを覚えてきている。フシデはもともと静かなぶん、さらに余計な動きが減っていた。

 

 朝食を済ませ、ポケモンセンターを出ると、空気はひんやりとはしていなかった。冷えている、というほどではない。雲は少なく、朝のうちから光が強い。今日も暑くなるだろうと、外へ出た瞬間にわかった。

 

 西側の裏手へ向かう道で、ミジュマルはシンの半歩前を歩きながら、何度か振り返った。フシデは壁際をなぞるように進み、段差や排水溝の継ぎ目で短く前脚を止める。どちらも周囲を見ている。もう、ただついてくるだけではなかった。

 

「先に入るなよ」

 

「ミジュ」

「フシ」

 

 表通りから外れると、車の音は少し鈍くなる。高い壁と建物の裏手が、音をまるごと消すわけではないが、角を丸くして遠ざける。代わりに聞こえてくるのは、換気扇の低い唸りや、どこかの鉄扉がわずかに揺れる音だ。ライモンの裏側らしい朝だった。

 

 点検スペースの区画へ入る手前で、シンはいつものように足を止めた。

 

 気配を聞く。

 自分たちの足音を切る。

 相手がいるなら、先にこちらの匂いと空気だけが届くように。

 

 それから、静かに角を覗いた。

 

 ケルディオは、そこにいた。

 

 昨日の夕方に休んでいた、その近い位置のまま。

 

 点検スペースの奥ではない。

 手前の壁に寄りすぎてもいない。

 入口から数歩、中へ入ったところ。シンたちが前日いちばん長くいた位置と、ほとんど同じ影の帯の中だった。

 

 ミジュマルが息を呑むみたいに「ミジュ」と鳴いた。

 フシデも「フシ」と低く続く。

 

「……朝まで、そこか」

 

 シンの声は、自分でも思ったより小さかった。

 

 ケルディオは伏せ気味の姿勢から顔を上げた。耳がこちらを向き、前脚に少しだけ力が入る。だが、そこで止まる。前みたいに、確認と同時に奥へ引く動きはない。見て、耳を動かして、もう一度体を落ち着かせる。そのくらいの反応だった。

 

 手前に置いた水のふたは空。

 奥寄りのふたにも、少しだけ底が濡れている跡がある。

 携帯食はきれいになくなっていた。

 タオルは、ケルディオの右後ろ脚から少しだけずれた位置にある。夜のあいだに動いたのだろうが、戻った場所は結局そこだったらしい。

 

 夜じゅうまったく動かなかったわけではないだろう。

 けれど、最終的に残る場所として選んだのは、やはり近い側だった。

 

 シンはそこで、少しだけ息を吐いた。

 

 思っていた以上に、その事実は重かった。

 

 水を置いて、離れて、待つ。

 そのくり返しの先で、向こうが自分から「近い場所のまま朝をまたいだ」。

 それはもう、偶然では片づけにくい。

 

 シンはいつもより一歩だけ手前でしゃがみ、水を二か所に分けて置いた。片方はケルディオの今いる位置に近いところ。もう片方は、奥へ下がりたくなったときのために、壁際寄り。

 

「今日は最初からこっちだな」

 

 独り言みたいに言って下がる。

 

 ケルディオはすぐには動かない。耳が二度ほど動き、視線が水へ落ち、またシンへ戻る。ミジュマルとフシデも見る。それから、ようやく立ち上がった。

 

 右後ろ脚をかばう癖はまだある。

 だが、立ち上がりの速さはもう前より明らかにましだった。

 

 そして、手前のほうの水へ寄ってくる。

 

 飲み方も落ち着いていた。急いで流し込むのではなく、口をつけて、少し上げて、また飲む。耳は動いている。けれど、身体全体を固めてはいない。

 

 ミジュマルが小さく「ミジュ……」と鳴く。

 その声に、ケルディオは一度だけ耳を向けた。だが、それで水をやめることはなかった。

 

 午前の早いうちは、静かに過ぎた。

 

 シンは入口側の壁に背を預ける。ミジュマルはその横、膝の前あたりで腹ばいになる。フシデは入口とケルディオの中間に近い位置を選び、外の振動を拾う役目を引き受けるように留まる。

 

 ケルディオは、今日は最初から近い位置にいた。そのぶん、奥へ戻る回数も減っていた。暑さや音の変化で少し体勢を変えることはあっても、「一度落ち着いたらまた手前へ戻る」流れができ始めている。

 

 シンはその様子を見ながら、今日は昼をまたぐ前に一度だけ、ここより少し風の抜ける位置を確認しに行こうと考えた。点検スペースは悪くない。ただ、風が止まると熱がこもる。もしケルディオが「近い位置」を維持したまま昼を越えるなら、逃げずに休める別の選択肢も、今のうちに見ておいたほうがいい。

 

 そのタイミングは、午前の半ばに来た。

 

 外の通路で、いつもより軽い足音がした。人の靴音ではない。ミジュマルが顔を上げる。フシデは体を低くする。ケルディオも耳を向けた。

 

 角の向こうから現れたのは、ポカブだった。

 

 手持ちではない。首輪もボールの匂いも感じない。野生化した個体か、どこかで半端に人に慣れた個体かもしれない。小柄だが、野生としては気が強そうで、鼻を鳴らしながら通路の匂いをかいでいる。人がいるのにすぐ引かないあたり、警戒心より好奇心が勝つタイプらしい。

 

 ポカブは点検スペースの手前で足を止め、こちらを見る。

 

 水の匂いに気づいたのか、鼻先が少し上がる。

 次に、ミジュマルを見る。

 フシデを見る。

 最後に、手前にいるケルディオを見る。

 

 シンはすぐに立ち上がらなかった。

 

 ここで人間が前に出すぎると、余計に空気が固くなる。まずは、三匹がどう位置を取るかを見たかった。

 

 ミジュマルは半歩だけ前へ出た。真正面ではなく、少し斜め。入口を塞ぎすぎない位置だ。フシデは逆に低い位置から横へ回り込み、点検スペースの端に沿って動く。直接追い払うのではなく、入ってくる角度を限定する形だ。

 

 ケルディオは、その場で立ち上がった。

 

 前みたいに奥へ下がるのではなく、手前に一歩だけ出る。

 シンたちとポカブのあいだに、完全に立ちはだかるわけではない。

 でも、「ここにいるのは一匹じゃない」とわかる位置だ。

 

 ポカブは鼻を鳴らし、もう半歩だけ前へ来た。

 その瞬間、ミジュマルが「ミジュッ」と短く鳴く。

 

 大きな威嚇ではない。

 けれど、ここへ入るならこっちも動く、という意志は十分伝わる。

 

 フシデも「フシ」と低く鳴き、床をひと掻きする。乾いた音が、狭い区画に響いた。

 

 ケルディオは、それ以上前へは出なかった。だが、引きもしない。耳を立て、鼻を短く鳴らし、わずかに角度を変える。逃げ道ではなく、守る位置を取る動きだった。

 

 ポカブは三匹を順に見て、少しだけ迷ったように首を振る。それから、鼻で小さく息を鳴らすと、思い直したように通路の向こうへ曲がっていった。

 

 追い払った、というほどではない。

 追い返した、でもない。

 ただ、「ここはもう埋まっている」と見せて、それで十分だった。

 

 ポカブが見えなくなると、ミジュマルがようやく息を吐く。

 フシデも体の高さを戻した。

 

 ケルディオはその場にまだ立っていた。前脚に力は入っているが、すぐには元の位置へ戻らない。シンたちのすぐ近くとまではいかないが、前へ出たぶんの距離を、そのまま残している。

 

 シンはそこで、はじめて小さく息を抜いた。

 

 昨日は、同じ危機に向いた。

 今日は、危機になる前に同じ方向へ構えた。

 

 それは似ているようで、少し違う。今のケルディオは、ただ流れで一緒に動いたのではなく、最初から「ここを一緒に守る」側へ脚を出している。

 

 昼前、シンは近くの整備路で水を足し、ついでに風の抜ける位置も見てきた。そこまで遠くない場所に、古い配線ラックの影があった。日差しの角度によっては午後に風が通りやすそうだ。だが、点検スペースから移すにはまだ決めきれない。今日は無理に動かさず、熱の上がり方を見てから考えるつもりだった。

 

 戻ってくると、ミジュマルとフシデは同じ位置にいた。

 そしてケルディオも、ほぼ同じ距離に残っていた。

 

 シンが戻る気配に気づいて、ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。

 フシデも「フシ」と続く。

 ケルディオは耳だけをこちらへ向けたあと、少しだけ顔を上げる。

 

 その視線の向きに、前みたいな「見つかったから測る」感じがない。

 戻ってきたことを確認する、に近い。

 

「戻った」

 

 シンが言うと、ケルディオの耳が一度だけ動いた。

 

 それだけだった。

 だが、それで十分だった。

 

 昼のいちばん熱い時間には、やはり点検スペースの中にも熱がたまってきた。

 

 床がじわじわ温かい。

 風は弱い。

 壁際はまだましだが、ずっと同じ姿勢ではきついだろう。

 

 シンはそこで、水の位置を少しだけ動かした。手前寄りのまま、でも入口に近すぎず、わずかに風の抜ける角度へ。濡れ布も新しいものに替える。今日はタオルではなく、細長い布を折って広げたものを出した。脚の近くに寄せやすい形だ。

 

「こっちのほうがましだと思う」

 

 言って下がる。

 

 ケルディオはその動きを見てから、ゆっくり立ち上がった。鼻先で布を押し、位置を少し調整する。前より扱いに迷わない。冷たいかどうか、どこにあれば楽か、それをもう自分で選んでいる。

 

 ミジュマルが「ミジュ……」と小さく鳴いた。

 シンはその声に何も返さなかった。

 

 午後の半ば、熱が少しだけ引き始めたころ、シンは自分たちのぶんの携帯食を出した。ミジュマルへひと欠片。フシデへ少し。自分も短く口に入れる。

 

 そして、いつものように中間の位置へ、ケルディオのぶんをひとつ置いた。

 

 今日、変わったのはそのあとだった。

 

 ケルディオは立ち上がり、中間まで一歩出る。

 いつもならそこで拾って、自分の位置へ戻る。

 

 だが今日は、拾ったあと、すぐには戻らなかった。

 

 その場で止まる。

 ミジュマルを見る。

 フシデを見る。

 シンを見る。

 

 それから、さらにもう半歩だけ前へ出た。

 

 手の届く距離ではない。

 だが、「同じ影の帯の中」から、「同じ場の近い側」へ寄るには十分な差だった。

 

 ミジュマルが思わず体を起こす。

 シンは手だけを軽く出して、それ以上動くなと示す。

 フシデも「フシ」とひとつだけ鳴いて止まる。

 

 ケルディオはその場で前脚を折った。

 

 完全に伏せるわけではない。

 すぐ立てる角度は残す。

 耳も立つ。

 けれど、シンたちから数歩の位置で、自分から休む姿勢を取った。

 

 それが今日のいちばん大きな変化だった。

 

 シンはその瞬間、自分が息を止めていたことに気づいて、ゆっくり吐いた。

 

 何かをした結果というより、

 向こうがここまで来た、という感じだった。

 

 触れられはしない。

 触ろうとも思わない。

 その距離を保ったまま、同じ場所で休む。

 

 たぶん今は、それがいちばんいい。

 

 夕方が近づくにつれて、点検スペースの影は長くなった。昼の熱が少しずつ抜け、外の通路には別の人の気配が増えていく。けれど、ここへ直接入ってくる気配はなかった。

 

 ミジュマルは途中から完全に腹ばいになり、フシデも壁際で体をゆるめ始めた。シンも背中を壁に預けたまま、水だけをときどき足す。

 

 ケルディオは、そこからほとんど動かなかった。

 

 耳は動く。

 外の足音に反応して顔も上がる。

 それでも、近い位置を変えない。

 

 右後ろ脚が痛むのか、ときどき置き直すことはある。けれど、そのたびに戻るのはやはり同じあたりだった。手前でも奥でもない、シンたちの近く。それが今日の落ち着く場所になっているらしかった。

 

 日がかなり傾いたところで、シンは立ち上がった。

 

「そろそろ戻る」

 

 ミジュマルが顔を上げる。

 フシデも体を起こす。

 ケルディオの耳もこちらへ向く。

 

 シンは水を足し、布をもう一枚だけ新しいものに替えた。今日最後の補充だ。夜のあいだに全部はもたないかもしれない。それでも、ないよりはずっといい。

 

「夜のぶんは、これで」

 

 独り言のように言って、下がる。

 

 ケルディオはその布を見る。

 そして、シンが下がりきるのを待ってから、鼻先で押して自分の近くへ寄せた。

 

 その動きも、もうずいぶん自然になっていた。

 

 ミジュマルとフシデを連れて通路へ出る。

 そこで、昨日のように入口まで出てくるかと思った。

 

 だが今日は、さらに少し違った。

 

 ケルディオは入口までは来ない。

 けれど、シンたちがさっきまでいた近い位置に、そのまま残る。

 

 奥へ引かない。

 手前の水のそばでだけ止まるのでもない。

 休んでいた位置を変えない。

 

 つまり、シンたちがいるあいだだけ近かったのではなく、近い位置そのものを、その日の落ち着く場所として選んでいる。

 

 シンはそこで足を止めかけて、やめた。

 

 いま振り返りすぎると、せっかく向こうが自分で決めたものに、こちらの期待を重ねすぎる気がした。

 

「また明日」

 

 それだけ言って歩き出す。

 

 ミジュマルは何度も振り返りたそうだったが、シンの歩幅に合わせてついてくる。フシデも壁際を沿うように進む。

 

 角をひとつ曲がる前、シンは横目でだけ後ろを見た。

 

 ケルディオは、まだそこにいた。

 

 手の届く距離ではない。

 近づけばたぶん、まだ引く。

 けれど、それでも自分から朝まで近くに残ろうとする流れは、たしかにでき始めている。

 

 ポケモンセンターへ戻る道で、ライモンシティの灯りが順番につき始めた。観覧車の輪郭が色を持ち、店先の音楽が夕方の空気へ流れ出す。町はいつもの夜へ向かっていく。

 

 その中でシンは、今日の距離のことだけを考えていた。

 

 手は届かない。

 届かないままでいい。

 でも、近くに残る。

 

 そこまで来たのなら、次に大事なのは、こちらが無理に詰めないことだと、前よりはっきりわかった。

 

 部屋へ戻ると、ミジュマルはベッドへ飛び乗って、いつもより短く「ミジュ」と鳴いた。疲れているが、落ち着いている。フシデも壁際の冷えた床へ寄り、静かに体を揺らす。

 

「今日は……あれで十分だな」

 

 シンがそう言うと、ミジュマルが「ミジュ」と返し、フシデも「フシ」と続いた。

 

 シンは新しい布を一枚取り出し、水筒のそばへ置く。

 明日も持っていくためだ。

 

 窓の外の観覧車は、もう夜の色で回っている。

 その光の届かない裏手に、あの点検スペースの影がある。

 そしてその中で、ケルディオは今日、奥ではなく近い位置に残った。

 

 朝までそこにいるかは、まだわからない。

 けれど、今夜その可能性を考えられること自体が、昨日までとは違っていた。

 

 シンは灯りを消す前に一度だけ、水筒の栓を指で押した。

 しっかり締まっている。

 

 明日の朝、まず確かめるのは、水の減り方より先に、あの位置に青い体が残っているかどうかだろうと思いながら、静かに灯りを落とした。

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