次の朝、シンは目が覚めた瞬間に、まず昨日の最後の位置を思い出した。
点検スペースの奥ではなく、手前寄りの影の中。
入口まで追ってくるでもなく、壁際の最深部へ引き返すでもなく、シンたちが一緒にいた帯の延長に、ケルディオは残っていた。
あれが一時的なものだったのか、それとも少しずつ定着してきたものだったのかは、今日見ればわかるはずだった。
部屋の中はまだ薄暗い。窓の外のライモンシティも、完全な朝にはなっていない。夜の灯りがいくつか残り、遠くで車の音が低く続いている。人の町は眠り切らない。静かな時間帯でも、音が途切れることはなかった。
ベッドの端でミジュマルが小さく身じろぎし、壁際の床ではフシデが前脚を少し動かした。
「起きろ」
シンが声をかけると、ミジュマルはすぐ目を開けた。フシデも「フシ」と短く鳴き、体を持ち上げる。
水筒は二本。
濡らす布を三枚。
タオルを一枚。
携帯食を少し。
それに、今日は念のため、細長く裂いた布も一枚だけ加えた。結ぶためではなく、折って置いたときに薄く広がるからだ。脚の近くへ寄せるなら、厚いものより扱いやすいかもしれないと思った。
準備をしながら、シンは口に出して確認する。
「今日は、まず見る。変に急がない」
「ミジュ」
「フシ」
二匹とも短く返した。ミジュマルは前よりずっと静かだ。先に飛び出したい気持ちがなくなったわけではないだろうが、ここ数日の流れで、止まるべきところを覚えてきている。フシデはもともと静かなぶん、さらに余計な動きが減っていた。
朝食を済ませ、ポケモンセンターを出ると、空気はひんやりとはしていなかった。冷えている、というほどではない。雲は少なく、朝のうちから光が強い。今日も暑くなるだろうと、外へ出た瞬間にわかった。
西側の裏手へ向かう道で、ミジュマルはシンの半歩前を歩きながら、何度か振り返った。フシデは壁際をなぞるように進み、段差や排水溝の継ぎ目で短く前脚を止める。どちらも周囲を見ている。もう、ただついてくるだけではなかった。
「先に入るなよ」
「ミジュ」
「フシ」
表通りから外れると、車の音は少し鈍くなる。高い壁と建物の裏手が、音をまるごと消すわけではないが、角を丸くして遠ざける。代わりに聞こえてくるのは、換気扇の低い唸りや、どこかの鉄扉がわずかに揺れる音だ。ライモンの裏側らしい朝だった。
点検スペースの区画へ入る手前で、シンはいつものように足を止めた。
気配を聞く。
自分たちの足音を切る。
相手がいるなら、先にこちらの匂いと空気だけが届くように。
それから、静かに角を覗いた。
ケルディオは、そこにいた。
昨日の夕方に休んでいた、その近い位置のまま。
点検スペースの奥ではない。
手前の壁に寄りすぎてもいない。
入口から数歩、中へ入ったところ。シンたちが前日いちばん長くいた位置と、ほとんど同じ影の帯の中だった。
ミジュマルが息を呑むみたいに「ミジュ」と鳴いた。
フシデも「フシ」と低く続く。
「……朝まで、そこか」
シンの声は、自分でも思ったより小さかった。
ケルディオは伏せ気味の姿勢から顔を上げた。耳がこちらを向き、前脚に少しだけ力が入る。だが、そこで止まる。前みたいに、確認と同時に奥へ引く動きはない。見て、耳を動かして、もう一度体を落ち着かせる。そのくらいの反応だった。
手前に置いた水のふたは空。
奥寄りのふたにも、少しだけ底が濡れている跡がある。
携帯食はきれいになくなっていた。
タオルは、ケルディオの右後ろ脚から少しだけずれた位置にある。夜のあいだに動いたのだろうが、戻った場所は結局そこだったらしい。
夜じゅうまったく動かなかったわけではないだろう。
けれど、最終的に残る場所として選んだのは、やはり近い側だった。
シンはそこで、少しだけ息を吐いた。
思っていた以上に、その事実は重かった。
水を置いて、離れて、待つ。
そのくり返しの先で、向こうが自分から「近い場所のまま朝をまたいだ」。
それはもう、偶然では片づけにくい。
シンはいつもより一歩だけ手前でしゃがみ、水を二か所に分けて置いた。片方はケルディオの今いる位置に近いところ。もう片方は、奥へ下がりたくなったときのために、壁際寄り。
「今日は最初からこっちだな」
独り言みたいに言って下がる。
ケルディオはすぐには動かない。耳が二度ほど動き、視線が水へ落ち、またシンへ戻る。ミジュマルとフシデも見る。それから、ようやく立ち上がった。
右後ろ脚をかばう癖はまだある。
だが、立ち上がりの速さはもう前より明らかにましだった。
そして、手前のほうの水へ寄ってくる。
飲み方も落ち着いていた。急いで流し込むのではなく、口をつけて、少し上げて、また飲む。耳は動いている。けれど、身体全体を固めてはいない。
ミジュマルが小さく「ミジュ……」と鳴く。
その声に、ケルディオは一度だけ耳を向けた。だが、それで水をやめることはなかった。
午前の早いうちは、静かに過ぎた。
シンは入口側の壁に背を預ける。ミジュマルはその横、膝の前あたりで腹ばいになる。フシデは入口とケルディオの中間に近い位置を選び、外の振動を拾う役目を引き受けるように留まる。
ケルディオは、今日は最初から近い位置にいた。そのぶん、奥へ戻る回数も減っていた。暑さや音の変化で少し体勢を変えることはあっても、「一度落ち着いたらまた手前へ戻る」流れができ始めている。
シンはその様子を見ながら、今日は昼をまたぐ前に一度だけ、ここより少し風の抜ける位置を確認しに行こうと考えた。点検スペースは悪くない。ただ、風が止まると熱がこもる。もしケルディオが「近い位置」を維持したまま昼を越えるなら、逃げずに休める別の選択肢も、今のうちに見ておいたほうがいい。
そのタイミングは、午前の半ばに来た。
外の通路で、いつもより軽い足音がした。人の靴音ではない。ミジュマルが顔を上げる。フシデは体を低くする。ケルディオも耳を向けた。
角の向こうから現れたのは、ポカブだった。
手持ちではない。首輪もボールの匂いも感じない。野生化した個体か、どこかで半端に人に慣れた個体かもしれない。小柄だが、野生としては気が強そうで、鼻を鳴らしながら通路の匂いをかいでいる。人がいるのにすぐ引かないあたり、警戒心より好奇心が勝つタイプらしい。
ポカブは点検スペースの手前で足を止め、こちらを見る。
水の匂いに気づいたのか、鼻先が少し上がる。
次に、ミジュマルを見る。
フシデを見る。
最後に、手前にいるケルディオを見る。
シンはすぐに立ち上がらなかった。
ここで人間が前に出すぎると、余計に空気が固くなる。まずは、三匹がどう位置を取るかを見たかった。
ミジュマルは半歩だけ前へ出た。真正面ではなく、少し斜め。入口を塞ぎすぎない位置だ。フシデは逆に低い位置から横へ回り込み、点検スペースの端に沿って動く。直接追い払うのではなく、入ってくる角度を限定する形だ。
ケルディオは、その場で立ち上がった。
前みたいに奥へ下がるのではなく、手前に一歩だけ出る。
シンたちとポカブのあいだに、完全に立ちはだかるわけではない。
でも、「ここにいるのは一匹じゃない」とわかる位置だ。
ポカブは鼻を鳴らし、もう半歩だけ前へ来た。
その瞬間、ミジュマルが「ミジュッ」と短く鳴く。
大きな威嚇ではない。
けれど、ここへ入るならこっちも動く、という意志は十分伝わる。
フシデも「フシ」と低く鳴き、床をひと掻きする。乾いた音が、狭い区画に響いた。
ケルディオは、それ以上前へは出なかった。だが、引きもしない。耳を立て、鼻を短く鳴らし、わずかに角度を変える。逃げ道ではなく、守る位置を取る動きだった。
ポカブは三匹を順に見て、少しだけ迷ったように首を振る。それから、鼻で小さく息を鳴らすと、思い直したように通路の向こうへ曲がっていった。
追い払った、というほどではない。
追い返した、でもない。
ただ、「ここはもう埋まっている」と見せて、それで十分だった。
ポカブが見えなくなると、ミジュマルがようやく息を吐く。
フシデも体の高さを戻した。
ケルディオはその場にまだ立っていた。前脚に力は入っているが、すぐには元の位置へ戻らない。シンたちのすぐ近くとまではいかないが、前へ出たぶんの距離を、そのまま残している。
シンはそこで、はじめて小さく息を抜いた。
昨日は、同じ危機に向いた。
今日は、危機になる前に同じ方向へ構えた。
それは似ているようで、少し違う。今のケルディオは、ただ流れで一緒に動いたのではなく、最初から「ここを一緒に守る」側へ脚を出している。
昼前、シンは近くの整備路で水を足し、ついでに風の抜ける位置も見てきた。そこまで遠くない場所に、古い配線ラックの影があった。日差しの角度によっては午後に風が通りやすそうだ。だが、点検スペースから移すにはまだ決めきれない。今日は無理に動かさず、熱の上がり方を見てから考えるつもりだった。
戻ってくると、ミジュマルとフシデは同じ位置にいた。
そしてケルディオも、ほぼ同じ距離に残っていた。
シンが戻る気配に気づいて、ミジュマルが「ミジュ」と鳴く。
フシデも「フシ」と続く。
ケルディオは耳だけをこちらへ向けたあと、少しだけ顔を上げる。
その視線の向きに、前みたいな「見つかったから測る」感じがない。
戻ってきたことを確認する、に近い。
「戻った」
シンが言うと、ケルディオの耳が一度だけ動いた。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
昼のいちばん熱い時間には、やはり点検スペースの中にも熱がたまってきた。
床がじわじわ温かい。
風は弱い。
壁際はまだましだが、ずっと同じ姿勢ではきついだろう。
シンはそこで、水の位置を少しだけ動かした。手前寄りのまま、でも入口に近すぎず、わずかに風の抜ける角度へ。濡れ布も新しいものに替える。今日はタオルではなく、細長い布を折って広げたものを出した。脚の近くに寄せやすい形だ。
「こっちのほうがましだと思う」
言って下がる。
ケルディオはその動きを見てから、ゆっくり立ち上がった。鼻先で布を押し、位置を少し調整する。前より扱いに迷わない。冷たいかどうか、どこにあれば楽か、それをもう自分で選んでいる。
ミジュマルが「ミジュ……」と小さく鳴いた。
シンはその声に何も返さなかった。
午後の半ば、熱が少しだけ引き始めたころ、シンは自分たちのぶんの携帯食を出した。ミジュマルへひと欠片。フシデへ少し。自分も短く口に入れる。
そして、いつものように中間の位置へ、ケルディオのぶんをひとつ置いた。
今日、変わったのはそのあとだった。
ケルディオは立ち上がり、中間まで一歩出る。
いつもならそこで拾って、自分の位置へ戻る。
だが今日は、拾ったあと、すぐには戻らなかった。
その場で止まる。
ミジュマルを見る。
フシデを見る。
シンを見る。
それから、さらにもう半歩だけ前へ出た。
手の届く距離ではない。
だが、「同じ影の帯の中」から、「同じ場の近い側」へ寄るには十分な差だった。
ミジュマルが思わず体を起こす。
シンは手だけを軽く出して、それ以上動くなと示す。
フシデも「フシ」とひとつだけ鳴いて止まる。
ケルディオはその場で前脚を折った。
完全に伏せるわけではない。
すぐ立てる角度は残す。
耳も立つ。
けれど、シンたちから数歩の位置で、自分から休む姿勢を取った。
それが今日のいちばん大きな変化だった。
シンはその瞬間、自分が息を止めていたことに気づいて、ゆっくり吐いた。
何かをした結果というより、
向こうがここまで来た、という感じだった。
触れられはしない。
触ろうとも思わない。
その距離を保ったまま、同じ場所で休む。
たぶん今は、それがいちばんいい。
夕方が近づくにつれて、点検スペースの影は長くなった。昼の熱が少しずつ抜け、外の通路には別の人の気配が増えていく。けれど、ここへ直接入ってくる気配はなかった。
ミジュマルは途中から完全に腹ばいになり、フシデも壁際で体をゆるめ始めた。シンも背中を壁に預けたまま、水だけをときどき足す。
ケルディオは、そこからほとんど動かなかった。
耳は動く。
外の足音に反応して顔も上がる。
それでも、近い位置を変えない。
右後ろ脚が痛むのか、ときどき置き直すことはある。けれど、そのたびに戻るのはやはり同じあたりだった。手前でも奥でもない、シンたちの近く。それが今日の落ち着く場所になっているらしかった。
日がかなり傾いたところで、シンは立ち上がった。
「そろそろ戻る」
ミジュマルが顔を上げる。
フシデも体を起こす。
ケルディオの耳もこちらへ向く。
シンは水を足し、布をもう一枚だけ新しいものに替えた。今日最後の補充だ。夜のあいだに全部はもたないかもしれない。それでも、ないよりはずっといい。
「夜のぶんは、これで」
独り言のように言って、下がる。
ケルディオはその布を見る。
そして、シンが下がりきるのを待ってから、鼻先で押して自分の近くへ寄せた。
その動きも、もうずいぶん自然になっていた。
ミジュマルとフシデを連れて通路へ出る。
そこで、昨日のように入口まで出てくるかと思った。
だが今日は、さらに少し違った。
ケルディオは入口までは来ない。
けれど、シンたちがさっきまでいた近い位置に、そのまま残る。
奥へ引かない。
手前の水のそばでだけ止まるのでもない。
休んでいた位置を変えない。
つまり、シンたちがいるあいだだけ近かったのではなく、近い位置そのものを、その日の落ち着く場所として選んでいる。
シンはそこで足を止めかけて、やめた。
いま振り返りすぎると、せっかく向こうが自分で決めたものに、こちらの期待を重ねすぎる気がした。
「また明日」
それだけ言って歩き出す。
ミジュマルは何度も振り返りたそうだったが、シンの歩幅に合わせてついてくる。フシデも壁際を沿うように進む。
角をひとつ曲がる前、シンは横目でだけ後ろを見た。
ケルディオは、まだそこにいた。
手の届く距離ではない。
近づけばたぶん、まだ引く。
けれど、それでも自分から朝まで近くに残ろうとする流れは、たしかにでき始めている。
ポケモンセンターへ戻る道で、ライモンシティの灯りが順番につき始めた。観覧車の輪郭が色を持ち、店先の音楽が夕方の空気へ流れ出す。町はいつもの夜へ向かっていく。
その中でシンは、今日の距離のことだけを考えていた。
手は届かない。
届かないままでいい。
でも、近くに残る。
そこまで来たのなら、次に大事なのは、こちらが無理に詰めないことだと、前よりはっきりわかった。
部屋へ戻ると、ミジュマルはベッドへ飛び乗って、いつもより短く「ミジュ」と鳴いた。疲れているが、落ち着いている。フシデも壁際の冷えた床へ寄り、静かに体を揺らす。
「今日は……あれで十分だな」
シンがそう言うと、ミジュマルが「ミジュ」と返し、フシデも「フシ」と続いた。
シンは新しい布を一枚取り出し、水筒のそばへ置く。
明日も持っていくためだ。
窓の外の観覧車は、もう夜の色で回っている。
その光の届かない裏手に、あの点検スペースの影がある。
そしてその中で、ケルディオは今日、奥ではなく近い位置に残った。
朝までそこにいるかは、まだわからない。
けれど、今夜その可能性を考えられること自体が、昨日までとは違っていた。
シンは灯りを消す前に一度だけ、水筒の栓を指で押した。
しっかり締まっている。
明日の朝、まず確かめるのは、水の減り方より先に、あの位置に青い体が残っているかどうかだろうと思いながら、静かに灯りを落とした。