朝、ポケモンセンターを出て西側の裏手へ向かうあいだ、シンはほとんど喋らなかった。
もともと、歩いている最中に無駄なことをたくさん言うほうではない。けれど今日は、自分でもわかるくらい口数が少なかった。頭の中にあることが、ひとつしかなかったからだ。
昨夜、ケルディオは奥へ戻らなかった。
点検スペースの最深部でも、入口ぎりぎりでもなく、シンたちが一緒にいた影の帯の延長に残っていた。手は届かない。近づけば、まだたぶん引く。だが、それでも近い位置に残った。
それが夜のあいだだけの気まぐれなのか、朝をまたぐくらいの選択になっているのか。今日確かめるべきなのは、たぶんそこだった。
ミジュマルはシンの半歩前に出て、いつもより静かに歩いていた。気持ちが落ち着いているわけではない。むしろ気にしているからこそ、裏手に入る前から騒がないようになったのだろう。ときどき振り返って、シンの歩幅を見ている。
「ミジュ」
ごく小さく鳴く。
「まだだ」
シンが短く返すと、ミジュマルはそれ以上声を重ねなかった。フシデも壁際を沿うように進みながら、排水溝の継ぎ目や段差の前で前脚を止め、「フシ」と短く鳴く。二匹とも、いまは静かにしているほうがいいと、もう体で覚えているらしかった。
朝のライモンシティは、完全な静けさからは遠い。
大通りにはもう車が通り、人の足音もある。遠くで店のシャッターが上がり、駅のほうからは人の流れのざわめきが薄く届く。けれど、西側の裏手へ入るほど、その音は少しずつ丸くなる。高い壁と建物の裏面が、勢いのある音をそのまま通さない。代わりに聞こえてくるのは、換気扇の低い唸りや、配管のどこかで水が落ちる音、誰かが荷台を引く小さな軋みだ。
人の町の裏側には、表とは別の呼吸がある。
点検スペースのある区画に近づくと、シンは自然に歩幅を落とした。ミジュマルもそれに合わせて速度を落とし、フシデは壁際へさらに寄る。
角の手前で止まる。
音を聞く。 自分たちの足音が消えるのを待つ。 相手がいるなら、まずこちらの空気だけが先に触れるくらいの距離で、止まる。
それから、シンはゆっくりと角を覗いた。
最初に見えたのは、手前に置いたふたの白い縁だった。
空になっている。 その少し奥、昨日最後に置いた布が見える。 さらにその先――青い体があった。
ケルディオは、いた。
しかも、昨夜とほとんど同じ場所に。
点検スペースの奥ではない。入口から数歩入った位置、シンたちが前日いちばん長くいた影の帯の中に、前脚を折って体を休めている。完全に眠ってはいない。耳はすぐ動くし、顔もこちらへ向いた。だが、それでもその位置を夜のあいだ維持していたことは、それだけではっきりわかった。
シンは覗いた姿勢のまま、ほんの一瞬だけ動けなかった。
「……そこか」
自然に出た声は小さかった。
ミジュマルが、それを聞いてから少し遅れて「ミジュ」と鳴く。驚きと嬉しさを抑えたような声だった。フシデも「フシ」と低く続く。
ケルディオの耳がこちらを向く。 前脚に少しだけ力が入る。 だが、そこで止まる。
前なら、この時点で奥へ引いていたかもしれない。 少なくとも、逃げる向きを先に作っていたはずだ。 今日は違う。
起きて、確認して、その位置に残る。
シンはそれを見たとき、自分の中にあった緊張の向きが少し変わるのを感じた。今までの緊張は、「まだ離れるかもしれない」「詰めすぎれば壊れるかもしれない」というものだった。今日は違う。近い位置が朝まで保たれたなら、こちらの動きのほうがむしろ重要になる。余計な一歩や、余計な声で崩さないようにしなければいけない、という緊張だった。
「入るぞ」
小さくそう言って、シンはいつもより慎重に区画へ入った。
ミジュマルは先に出ない。シンの足元についたままだ。フシデも壁際を沿うが、追い越しはしない。三匹とも、今日の最初の一歩がどれだけ大事か、言葉ではなく空気でわかっているようだった。
シンはいつもの位置でしゃがみ、水筒を出した。今日は二つではなく、三つに分ける。ひとつは手前、ケルディオが今いる位置に近いところ。ひとつは中ほど。もうひとつは、もし奥へ下がりたくなったときのために壁際寄り。
全部を手前に寄せないのは、まだ逃げ道や選ぶ余地を残しておきたかったからだ。
「今日は少し多めに置く」
独り言みたいに言って、薄く折った布も手前寄りへ置いた。昨日までのタオルは厚みがあって、脚の近くへ寄せるには少し扱いづらそうだった。薄い布なら、鼻先や前脚で押しやすいはずだ。
ケルディオはじっと見ていた。 耳が動く。 視線がシンの手元から外れない。 だが、立ち上がって奥へ引くことはない。
シンが少し下がると、ケルディオはゆっくり前脚を伸ばして立ち上がった。右後ろ脚をかばう癖はまだ残っている。けれど、朝いちばんの立ち上がりとしてはかなり軽い。夜のあいだにちゃんと休めていたのだろう。
そして、手前のほうの水へ寄る。
ミジュマルが息を呑むみたいに「ミジュ……」と鳴く。 それに対してケルディオは耳だけを向け、飲むのをやめない。
シンはそこで、自分が思っていたより強くほっとしていることに気づいた。
夜を越えた。 位置を変えずに夜を越えた。 しかも、朝いちばんにこちらを見ても、その場所を捨てなかった。
それだけのことを、ここまで積み上げるのに何日もかかっている。だからこそ、重い。
午前の早いうちは、静かな時間が流れた。
シンは入口側の壁に背を預けて座る。ミジュマルはその横、膝の前で腹ばいになる。フシデは入口とケルディオのあいだ、やや壁際を選んで低く構える。
ケルディオは、水を飲み終えたあとも奥へは戻らなかった。一度だけ中ほどまで動き、布を鼻先で押して、それからまた手前寄りに戻る。今日は最初から、そのあたりが落ち着く位置になっているらしかった。
シンはその動きを見ながら、今日は昼前に一度だけ整備路へ水を足しに出る以外、極端な動きをしないほうがいいと考えていた。ここまで近い位置が保たれているなら、今日はそれを崩さないことのほうが大事だ。
影の帯はゆっくり動いている。午前のうちはまだ十分保つ。風は弱いが、完全に止まっているわけでもない。ここなら、昼前までは動かずにいける。
そのとき、外の通路で足音が止まった。
人だ。 ミジュマルがすぐ顔を上げる。 フシデも体を低くする。 ケルディオの耳がぴんと立つ。
シンは息をひそめ、入口の外へ視線を向けた。
足音はひとつではない。二人か三人。作業員にしては止まり方が妙だった。荷物を置く前の確認ではなく、何かを探すように一度止まり、周囲を見ている足音だ。
低い声がした。
「この辺、朝は人が少ないな」 「だから使うんだろ」 「箱は昼前に運ぶ。余計な目に触れさせるなよ」
シンは壁に背をつけたまま、呼吸を浅くした。
ミジュマルも動かない。フシデは床をひと掻きだけして、壁際の振動を拾うように頭を下げる。ケルディオは顔を上げたまま、入口のほうを見ている。
足音はそのまま、この区画を通り過ぎていった。覗き込まれることはない。だが、通路をひとつ曲がったあたりで、金属箱のようなものを床へ下ろす鈍い音がひとつ響いた。
シンの背筋に、ひやりとしたものが走る。
やがて足音はまた動き、遠ざかる。話し声も薄くなった。
それでも、誰もすぐには動かなかった。
数秒たってから、ミジュマルがごく小さく「ミジュ」と鳴く。フシデも「フシ」と続いた。ケルディオも耳の角度を少しだけ緩める。けれど、その位置は捨てない。
シンはゆっくり立ち上がった。
「……見る」
ミジュマルがすぐ顔を上げる。 フシデも壁際から少し前へ出る。
「二匹とも先に出るな」
「ミジュ」 「フシ」
ケルディオは、その場でじっとシンの動く方向を見ていた。
シンは入口の外へ出て、足音の消えた通路を見た。曲がり角の先、古い資材搬入口の影に、小型の荷箱が二つ置かれているのが見えた。見た目はただの運搬用コンテナだ。だが、こんな裏手に置くには新しすぎる。しかも、片方の留め具の脇に黒い布切れが引っかかっている。
ただの作業員ではない。
シンはさらに近づこうとして、足を止めた。
中から、かすかな鳴き声が聞こえた。
小さい。 押し殺したような、細い声だ。 ポケモンの声だった。
「……いるのか」
背後でミジュマルが「ミジュ」と低く鳴く。フシデも壁際から少しだけ前へ出る。いつの間にかついてきていたらしい。だが、追い越してはいない。
シンは荷箱の側面を見た。鍵はかかっていないように見える。だが、すぐに開ければ中の音が大きくなるかもしれない。近くにまだ誰かいるなら、戻ってくる可能性もある。
そのとき、背後で小さな蹄の音がした。
振り返ると、ケルディオが点検スペースの入口から出てきていた。
シンのすぐ横まで来るわけではない。距離はまだある。けれど、点検スペースの内側に残るのではなく、通路の空気を確かめに自分から外へ出たのは初めてだった。
耳は立ち、鼻先は荷箱のほうを向いている。
「聞こえるか」
シンが小さく言うと、ケルディオの耳がひとつ動いた。
中からもう一度鳴き声がした。今度は少しだけはっきりしている。小型のポケモンだ。しかも一匹ではないかもしれない。
ミジュマルが我慢しきれないみたいに「ミジュッ」と鳴く。 フシデも「フシ」と続く。
「静かに」
シンが言うと、二匹ともすぐ声を抑えた。
通路の向こうで、また別の足音がした。
さっきの連中ではない。別方向からだ。だが、長居はできない。
シンは短く考えた。
ここで箱を開けるか。 もっと人目の少ない位置まで動かすか。 見なかったふりをして、あとで追うか。
だが、あの声を聞いて見過ごすのは違うと思った。 しかも、「昼前には運ぶ」という言葉が本当なら、時間もない。
「ミジュマル、通路のほう見ろ。人が来たらすぐ知らせろ」 「ミジュ」 「フシデ、後ろ」 「フシ」
ミジュマルは少し広い通路側へ出る。フシデは壁際を取って反対側を見る。大きく離れはしないが、見える角度を広げるには十分だった。
シンは荷箱の留め具へ手をかけた。
そのとき、ケルディオが一歩前へ出た。
シンのすぐ横に並ぶわけではない。だが、箱へ向かうシンと同じ方向へ体を向け、逃げるより先に残る姿勢を取る。耳は鋭いまま、鼻先が少し低い。警戒しているが、引く気配ではない。
シンはそれを視界の端で見て、少しだけ呼吸を整えた。
「開けるぞ」
留め具を外し、蓋をわずかに持ち上げる。
中から見えたのは、丸い耳と白い腹だった。
「……エモンガ?」
箱の中にいたのは、エモンガだった。 しかも一匹ではない。二匹。小さな体を寄せ合うように狭い箱の中で震えている。口を塞がれてはいない。だが、内側に簡易の拘束具のような紐が通してあり、飛び出せないようにされている。
怯えた目で、シンを見上げる。 その目つきだけで、ただ運ばれているのではないとわかった。
「なんだよ、これ……」
シンが眉をひそめたとき、ミジュマルが通路の先から「ミジュ!」と鳴いた。
人が来る合図だ。
シンはすぐに蓋を少し戻した。完全には閉めない。エモンガたちは怯えて身を縮めている。見捨てるわけにはいかない。だが、いま大きく動けば、連中に気づかれる。
いや、もう遅かった。
通路の角から、さっきの低い声がした。
「誰かいるぞ」 「箱を見られたか」 「ちっ、戻れ」
足音が速くなる。
シンは荷箱の前で立ち上がった。ミジュマルがすぐ戻ってきて、低く構える。フシデも壁際から回り込み、箱の脇の位置を取る。ケルディオは――逃げなかった。
むしろ、シンの少し前へ半歩だけ出た。
完全に前へ立つわけではない。だが、箱と通路のあいだ、自分の脚で取れるぎりぎりの位置へ出る。その動きに、もう迷いは少なかった。
角を曲がってきたのは、黒い外套を着た男が二人だった。顔立ちは普通だ。だが、胸元の紋章を見れば十分だった。プラズマ団だ。
相手も、シンたちを見てすぐに顔つきを変えた。
「ガキか」 「見たなら放っておけねえな」 「ポケモンまで連れてるぞ」
片方がボールへ手をかける。 もう片方は荷箱を見る。
「エモンガを逃がす気か」 「ふざけんなよ」
シンは相手から目を離さなかった。
「おまえらが閉じ込めたのか」 「だったらなんだ」 「プラズマ団のやることに、いちいち口出すなよ」
ミジュマルが「ミジュッ!」と鋭く鳴く。 フシデも低く構える。 ケルディオは、箱の前から動かない。
シンはその位置を見て、一気に腹を決めた。
逃げるだけならまだできる。 だが、箱の中にエモンガがいる。 ここで引けば、また連れていかれる。
しかも、ケルディオはもう逃げるほうを向いていない。 シンたちと同じ方向へ体を向けたまま、残っている。
「……やるしかないか」
シンが低く言うと、ミジュマルの体がぴんと張る。フシデも床をひと掻きして、位置を固定した。
ケルディオの耳が一度だけ動いた。 それは、声に反応しただけかもしれない。 けれど、前へ出た脚は引かなかった。
プラズマ団の男がボールを抜く。
「後悔するなよ」 「ガキ一人と野良一匹程度で止められると思うな」
シンは男たちから目を離さず、短く言った。
「ミジュマル。フシデ。……ケルディオ」
三つの気配が、同じ方向へ揃う。
通路の空気が、一段張りつめた。
朝まで近い位置に残ったこと。 箱の鳴き声を聞いて外へ出たこと。 そして今、逃げずに箱の前へ立っていること。
それら全部が、ここへつながっていた。
プラズマ団の男がボールを投げる、その寸前まで、シンは荷箱の前から一歩も引かなかった。