荷箱の前で立ち止まった空気は、思っていたより重かった。
通路は広くない。壁際には古い資材が寄せてあり、逃げ道は後ろと脇の細い抜けだけだ。荷箱は二つ。中にはエモンガが入っている。しかも怯えている。ここで大きく動けば、箱そのものが倒れるかもしれない。
シンはそういう条件を、一息のあいだに頭へ押し込んだ。
通路の角から現れたプラズマ団の男は二人。黒い外套は目立つはずなのに、この裏手の薄暗さの中では妙に溶け込んで見える。作業員に紛れるには無理がある格好だが、もともと堂々と通るつもりもなかったのだろう。片方は荷箱を見て、もう片方はシンたちの足元を見た。
子どもが一人。 ミジュマル。 フシデ。 そして、青い小柄なポケモン。
その順に視線が走った。
「見られたなら、もう回収して終わりだ」 「ガキ一人だ。箱ごと持ってけば済む」
男の一人が言う。もう一人は口元を歪めて、手にしていたボールを軽く弾いた。
シンは荷箱の前から動かなかった。
ミジュマルは低く「ミジュッ」と鳴き、シンの左前に半歩出る。フシデは右側の壁際へ寄り、箱と通路の角度を見ている。ケルディオは箱と相手のあいだに、自分の脚で取れるぎりぎりの位置へ出た。完全に前を塞ぐほどではない。だが、「ここにはもう三つの気配がいる」とわかる立ち方だった。
シンはその位置取りを見て、短く息を吐いた。
「ミジュマル、箱に当てるな」 「ミジュ」 「フシデ、右から回るぞ」 「フシ」
指示は短くした。説明している暇はないし、二匹とも今はそのほうが早い。
プラズマ団の男がボールを投げる。
先に出てきたのはミルホッグだった。茶色い体を低くし、出た瞬間から周囲を見る。もう一人の男が出したのはヤブクロンだ。裏通りには妙に馴染む見た目だが、その目つきは野生より荒れている。どちらも、ここで子ども相手に使うには十分だと判断したのだろう。
「ミルホッグ、押し込め!」 「ヤブクロン、荷箱から離せ!」
命令が飛ぶ。
ミルホッグが最初に狙ったのはシンではなく、荷箱の前の空間だった。人間とポケモンをまとめて後ろへ押し、箱を奪うつもりらしい。狭い場所では悪くない判断だ。
「ミジュマル、足元!」
「ミジュッ!」
ミジュマルの口から放たれたみずでっぽうが、ミルホッグの前脚のすぐ手前を打つ。直撃ではない。床を濡らし、踏み込む位置だけをずらすための一撃だ。ミルホッグの前足がわずかに流れ、体当たりの角度が外れる。
その瞬間、フシデが右壁際を沿って回り込んだ。
「どくばり!」
細い針がヤブクロンの進路へ走る。ヤブクロンは完全には避けきれず、体をひねって進み方を乱した。その分、荷箱へ真っすぐ来る線が切れる。
ケルディオはその間に、箱の前へもう半歩だけ出た。
前脚で床を強く打つ。 短く鼻を鳴らす。 それだけで、ヤブクロンの足が一瞬止まる。
シンはその止まり方を見て、すぐ動いた。
荷箱の片方を足で固定し、もう片方の蓋へ手をかける。エモンガをこのまま箱の中に置いたまま戦うのは危ない。だが、いきなり全部開ければ、怯えて飛び出し、かえって巻き込まれるかもしれない。
まずは少しだけ開ける。 中の様子を見る。 縄の位置も確認する。
「ミルホッグ、前! 押せ!」
男の声と同時に、ミルホッグがもう一度踏み込んでくる。今度は水で流れる前提で、やや外から斜めに入ってきた。さっきより頭がある。
「ミジュマル、たいあたり!」
「ミジュッ!」
真正面から受けるには重い。だが、斜めからならぶつける位置を選べる。ミジュマルは自分からミルホッグの肩口へ体を当てた。押し返すというより、荷箱から外へ向けて向きを逸らす。ミルホッグの体が半歩だけ横へ流れる。
その隙へ、ヤブクロンが壁際からねじ込んできた。
ゴミの塊みたいな腕を振り、箱へ向けてどろりとしたものを投げる。中身が飛び散ればエモンガも怯えるし、蓋が閉めにくくもなる。
「フシデ、ころがる!」
フシデが小さく丸まり、そのまま短い距離を転がってヤブクロンの体の横へぶつかった。大きく吹き飛ばす威力ではない。だが、狭い通路ではそれで十分だ。ヤブクロンの狙いがぶれ、汚れた塊は箱ではなく床の端を打った。
エモンガたちが中で怯えて、小さく鳴く。
その声を聞いた瞬間、ケルディオの耳がぴんと立った。
次の動きは速かった。
ヤブクロンがもう一歩、箱のほうへ寄ろうとしたところへ、ケルディオが体を滑り込ませる。前脚で床を蹴り、水を弾くようにして進路を切る。技名を呼ばれたわけでもない。ただ、近づかせないための動きとして十分だった。ヤブクロンは足を取られ、嫌そうに身を引く。
シンはその一瞬で蓋をもう少し開けた。
中にいたエモンガは二匹。やはり簡易の拘束具が通してあり、体を完全には自由にできない。きつく締め上げているわけではないが、飛び出せない程度には止めてある。しかも箱の内側に金属の輪が打ってあり、そこへ紐を通していた。
「最低だな……」
吐き捨てるように言う。
だが、紐をほどくには数秒いる。 いまはその数秒が長い。
「ガキ、箱から離れろ!」
男の一人が怒鳴る。
今度は自分から前へ出てこようとした。荷箱そのものを奪う気だ。ポケモンだけで押せないと見て、直接手を出すつもりらしい。
シンは蓋を押さえたまま、低く言った。
「ミジュマル、左切れ! フシデ、そいつの足!」
言葉の意味を全部考えるより早く、二匹が動く。
ミジュマルのみずでっぽうが、男の踏み込む先の床を打つ。水量は多くない。だが乾いたコンクリートの上では十分だ。男は踏み込む直前に足を止めざるを得なくなる。
そこへフシデのどくばりが飛ぶ。直接足に当てるのではなく、ズボンの裾すれすれを掠める角度だ。男は反射で半歩引く。狭い通路で半歩引かされるのは大きい。
「この……!」
苛立った声が響く。
もう一人の男は状況を見て、ボールをもう一つ取り出しかけた。だが、その前にケルディオが箱の前へさらに寄った。逃げるためではない。箱とシンの前に、もう一枚壁が立つみたいな位置だ。
シンはその背を、ほんの一瞬だけ見た。
前なら、きっとできなかった位置取りだ。 今は違う。
「ミジュマル、前はいい。ミルホッグだけ見ろ」 「ミジュ!」 「フシデ、右から箱を回れ。近づかせるな」 「フシッ」
ミジュマルは素直に正面へ戻る。ミルホッグも、それ以上シンへ寄せるにはまずミジュマルをどかす必要がある。狭い場所では一対一の線を作られるほうが面倒だ。フシデは箱の脇を低く回り、ヤブクロンが入り込みたがる角度に先回りする。
この配置なら、シンが数秒を作れる。
そう判断して、シンは箱の中へ手を入れた。
最初の結び目は簡単だった。だが二つ目が固い。慌てて締めたのではなく、運搬前提で通した結び方だ。エモンガの体を傷つけるようなものではないが、逆に言えば素早く外すことも考えられていない。
中のエモンガの片方が、怯えた目でシンの手を見る。
「暴れるな。すぐ外す」
意味が通じるかはわからない。それでも声に出した。
その背後で、ミルホッグが今度はミジュマルの横を抜こうとする。ミジュマルもそれを読んで、正面ではなく半歩ずれた位置へ立ち直した。真正面から受け止めるのではなく、抜かせないための位置だ。
ヤブクロンはフシデを嫌って進み切れず、じりじりと角度を変える。フシデもそれに合わせて、壁際をなぞるように位置を変える。無駄に攻めず、通したくない線だけを切る。狭い場所ではそのほうが利く。
そしてケルディオは、箱の前から動かない。
男が無理に手を伸ばそうとした瞬間、前脚を打ち、短く鼻を鳴らし、その手前の床を蹴る。威嚇というだけでなく、はっきりと「そこは通すな」と言っている動きだった。男の手が思わず止まる。
結び目がひとつほどけた。
片方のエモンガの体が少し自由になる。 だが、すぐ飛び出せるほどではない。もう一匹のほうはまだ輪に通ったままだ。
「ちっ、先にそっちを潰せ!」
男の怒鳴り声に合わせて、ミルホッグが強引に踏み込んできた。今度は水の打たれていない壁側を使い、肩から押し込むような軌道だ。
「ミジュマル!」
シンが名を呼ぶ。
ミジュマルはすでに動いていた。みずでっぽうを床ではなく壁際へ斜めに当てる。はね返ったしぶきでミルホッグの顔を一瞬だけ上げさせ、そのすきに自分から体当たりで胸元へぶつかる。力勝負では勝てない。だが、足を揃えさせない程度なら十分だった。
その揺れに、フシデのどくばりが続く。
今度はミルホッグの脇腹を浅く打った。大きな傷にはならない。けれど、嫌な痛みと痺れの気配にミルホッグが一瞬止まる。狭い通路でその一瞬は長い。
シンはその隙に、二つ目の紐を引いた。
ほどけない。 結び目が硬い。
箱の中のエモンガが怯えて身を縮める。その動きで、金属の輪に通った紐がさらにきつくなった。
「くそ……」
指先に力を込めたそのとき、視界の端でケルディオが動いた。
男の一人が、今度はポケモンではなく荷箱の側面そのものを蹴って倒そうとしたのだ。箱を転がせば中のエモンガも混乱し、こちらの手も止まる。乱暴だが効果はある。
その脚が届く前に、ケルディオが入る。
右後ろ脚をかばいながらも、前脚で床を蹴る。 男の蹴りの線と箱のあいだへ肩を差し込む。 鈍い音がして、ケルディオの体が少し揺れた。
「……っ」
シンの喉が鳴る。
それでもケルディオは引かない。押し返すというより、箱に当たる角度だけを殺した。蹴りは箱の縁をかすめただけで終わる。
その一瞬で、シンは歯を食いしばって紐をひねった。
今度はほどけた。
エモンガ二匹の拘束が、同時に緩む。
「出るな!」
反射で声を上げる。だが、箱の中の二匹も状況をわかっているのか、いきなり飛び出しはしない。怯えながらも箱の奥に身を寄せたまま、震えている。
そのほうが助かる。
いま外へ飛び出されるほうが危ない。
男の一人が舌打ちした。
「面倒くせえな、まとめて片づけろ!」
ヤブクロンが今度は荷箱ではなく、シンのいる足元を狙って汚れた塊を投げる。まともに当たれば、姿勢が崩れる。
「フシデ!」
呼ばれる前に、フシデは動いていた。
低い体を滑らせるように前へ出て、塊が落ちる角度へ体を差し込む。真正面から受けるのではなく、床へ落ちる向きを少し変えた。べしゃりと音を立てて、汚れは箱の手前ではなく壁際へ逸れる。
シンはその間に、蓋をさらに開けた。
「いま出るな。待て」
意味が全部通じるとは思っていない。それでも、エモンガたちが箱の中で少しでも落ち着くならと声をかける。
ミルホッグが息を荒くしてもう一度前へ来る。ミジュマルも引かない。狭い空間の前線がずっと同じ場所で押し合っている。そこへケルディオが箱の前から動かずに残っているから、プラズマ団の側は決定的に踏み込み切れない。
シンはそこで、相手の焦りに気づいた。
最初は「ガキ一人をどかして回収する」つもりだったのだろう。 だが、いまは違う。 箱を取れない。 ポケモンも抜けない。 しかも裏手の通路で長く騒げば、人の目が来る可能性が上がる。
なら、崩すべきは相手の並びだ。
シンは箱から手を離し、低く言った。
「ミジュマル、左の壁」 「ミジュ?」 「みずでっぽう、上だ」
意味を理解したかどうかはわからない。だが、ミジュマルはすぐに左壁へ向き、みずでっぽうを斜め上へ放った。
水は壁と配管に当たり、予想より大きな音を立ててはじけた。裏通りの狭さもあって、その音は通路の奥まで響く。ミルホッグもヤブクロンも一瞬だけそちらを見る。
同時に、遠くで人の声がした。
「今の音、何だ?」 「こっちじゃないか?」
作業員だ。
男たちの顔色が変わる。
「おい、やべえ」 「くそ、さっさと――」
そこで迷いが出た。 続けて押すか。 引くか。
その一拍で十分だった。
「フシデ、右!」 「フシッ!」
フシデがヤブクロンの横手を切る。 ヤブクロンが退けば、男の一人の足元が空く。
「ミジュマル、前!」 「ミジュッ!」
ミジュマルの体当たりがミルホッグの胸元に入る。大きく吹き飛ばすほどではない。だが半歩押し返せれば、それでいい。
そしてケルディオが、その半歩ぶんを逃さなかった。
箱の前から飛び出すのではない。 前脚で床を打ち、水を弾くようにして一気に前へ出る。 男二人と荷箱の線を、完全に切る位置だ。
鋭く短い水の軌跡が、男たちの足元を走った。直撃ではない。けれど、踏み込む先を奪うには十分だった。男たちは反射で下がる。濡れた床を嫌って、もう一歩踏み込む判断ができない。
シンはその瞬間、箱の蓋を完全に開けた。
「今だ、出ろ!」
エモンガ二匹は、そこでようやく飛び出した。
怯えたままではあったが、箱の中より外のほうがまだ自由があるとわかったのだろう。白い腹をひらめかせて、シンの肩口をかすめ、上へ跳ねるように通路の高い位置へ逃げた。まだ完全には飛び切れないのか、配管の上と壁の出っ張りを使って身を寄せ合うように止まる。
「くそっ!」
男の一人が手を伸ばす。 だが、その前にミルホッグが体勢を崩し、ヤブクロンもフシデの位置取りを嫌って横へ流れる。
遠くの人声がさらに近づく。
「誰かいるのか?」 「おい、返事しろ!」
男たちはとうとう顔を見合わせた。
「……引くぞ」 「箱は捨てるのか」 「ここで捕まるほうがまずい!」
プラズマ団の男は、ヤブクロンとミルホッグをボールへ戻すと、荷箱を蹴り飛ばす代わりに黒い布だけを引き剥がした。そのまま通路の反対側へ走る。もう一人も舌打ちしながら続いた。
シンは追わなかった。
追える距離ではあった。 けれど、箱もエモンガも、ケルディオもまだその場にいる。ここで背を向けるほうが危ない。
ミジュマルが「ミジュッ」と一度だけ追いたそうに鳴く。 シンはすぐに首を振った。
「追うな」
フシデもその場で止まる。
足音が完全に遠ざかるまで待ってから、シンはようやく長く息を吐いた。
通路の向こうから、さっきの作業員らしい二人組が顔を出しかけたが、シンが「箱が倒れただけです、もう平気です」と先に声をかけると、相手は荷箱の散らばり具合だけを見て、「危ないから気をつけろよ」と言って引いていった。裏手の小さな騒ぎくらいにしか見えなかったのだろう。
人の気配が完全に消えると、区画の空気がようやく落ち着きを取り戻した。
ミジュマルはその場に座り込み、「ミジュゥ……」と長く息を吐く。フシデも壁際で「フシ」と短く鳴き、体を低く戻した。
シンは荷箱の前にしゃがみ、配管の上へ視線を向けた。
エモンガ二匹はまだそこにいる。逃げるでもなく、下りるでもなく、体を寄せ合ってこちらを見ていた。箱の中に戻りたいわけではない。ただ、いまは何も信じきれないのだろう。
「もう入れない」
シンが低く言う。
その声に、エモンガの片方がびくっと肩を揺らした。だが飛びはしない。
シンはそこで、さっきケルディオが蹴りの線へ入ったことを思い出した。振り返ると、ケルディオは荷箱の脇に立ったまま、まだ耳を立てていた。さっき無理に肩へ入ったぶん、呼吸は少し速い。右後ろ脚の置き方も少し硬い。
「……痛めたか」
言ってから、すぐには近づかない。
ケルディオはそれでも引かなかった。耳が一度だけシンへ向く。それから、箱の上のエモンガへ向く。最後にまたシンへ戻る。
その視線の流れだけで、シンにはだいたいわかった。
まだ終わっていない。 ここで散らせない。 そういう顔だった。
ミジュマルが立ち上がり、配管の上のエモンガを見て「ミジュ」と短く鳴く。フシデも「フシ」と続いた。追い立てる声ではない。少しだけ落ち着かせるような、低い声だった。
エモンガたちは、それでもすぐには下りてこない。
当たり前だとシンは思った。ついさっき箱へ詰められていたのだ。人間が近くにいれば警戒するし、急に助けた側へ寄るわけでもない。
だからシンは、点検スペースの入口近くに新しい水を置き、もう一つを荷箱のそばへ置いた。拘束具の紐も全部切って捨てる。箱そのものはひっくり返して、中にもう何もないことを見せる。
「ここには戻さない」
独り言みたいに言ってから、少しだけ下がった。
エモンガたちはまだ高い位置から見ている。だが、片方がほんの少しだけ首を伸ばした。喉が渇いているのだろう。
そのあいだ、ケルディオはシンのすぐ近くに来ることこそなかったが、通路の外へも引かなかった。荷箱と点検スペース、そのあいだくらいの位置に残っている。相手がプラズマ団だったからか、あるいはエモンガがまだ怯えているのを見ているからか、とにかくまだここを離れるつもりはなさそうだった。
シンはその位置を見て、今日の事件がまだ半分しか終わっていないことを感じた。
プラズマ団は引いた。 だが逃げたわけではない。 見つかった以上、回収を諦めるとも思えない。
しかも、さっきの箱の中身は二匹だけだった。 あの連中の言い方からして、他にも何か動いている可能性がある。
シンは荷箱のそばを探った。蹴られた拍子か、男の一人が布を剥がすときに何かを落としたらしい。小さな紙片がひとつ、箱の下から半分見えている。
拾う。
薄い運搬札だった。 表には大したことは書いていない。資材記号のようなものと、時間だけだ。 だが裏に、黒い印で短いメモがあった。
西搬送路B 夕刻再回収
シンは眉をひそめた。
やっぱり終わっていない。
ミジュマルが紙片を覗き込むように「ミジュ?」と鳴く。フシデも「フシ」と短く続く。ケルディオはそこまではわからないだろうが、シンの空気が変わったことには気づいたらしい。耳が少し立つ。
「……夕方にまた来る」
口に出してから、シンは自分の中でそれを確定させた。
なら、ここで終わりにはできない。 いま助けた二匹を守るだけでも足りない。 相手が回収に戻るなら、その前に止めなければならない。
シンは配管の上のエモンガたちを見た。まだ動かない。だが、逃げ去りもしない。点検スペースと荷箱のあいだ、いま自分たちが守っている空間からは離れていない。
「ミジュマル、フシデ。いったん戻る」 「ミジュ?」 「フシ」
「終わってない。夕方また来る」
二匹とも、言葉の全部がわかったわけではなくても、声の重さで察したらしい。すぐ騒がず、シンの顔を見る。
シンはそこで、ケルディオに視線を向けた。
ケルディオは相変わらず少し離れた位置にいた。手の届かない距離。けれど、今日はもう、ただ近くに残るだけではない。同じ箱の前に立ち、同じ危機に向き、同じ相手を見ていた。
「……まだ終わってない」
ケルディオの耳がひとつ動く。
それが返事ではないことはわかっている。 それでも、シンには十分だった。
エモンガたちの逃げ道を確保するため、点検スペースの奥へ新しい水と布をもう一つ置いてから、シンはゆっくり立ち上がった。大きく動けばまた怯える。だから急がない。
ミジュマルもフシデも、その速度に合わせる。 ケルディオも、その場を離れない。
シンは区画を出る直前で、一度だけ振り返った。
エモンガ二匹はまだ高い位置にいる。 ケルディオはその少し手前、通路の気配が見える位置に残っている。 荷箱は開いたままだ。
さっきまで閉じ込められていた場所は、もう空になっていた。
それだけでも、意味はあった。
だが、今日の本番はまだ先だ。
ポケモンセンターへ戻る道で、ライモンの昼前の速さが少しずつ増していく。売店が開き、人通りが太くなり、駅前のざわめきも大きくなる。けれどシンの頭の中には、さっきの運搬札の文字しか残っていなかった。
夕刻再回収。
ミジュマルは途中で何度かシンの顔を見上げたが、シンが喋らないとわかると黙って歩いた。フシデも壁際を沿うようについてくる。
ポケモンセンターへ戻る前、シンは一度だけ立ち止まり、紙片を見直した。読み違いではない。時間ははっきり夕方を示している。
なら、次は待ち伏せになる。 昼のうちに位置を見直し、水と影の場所も押さえ、エモンガたちをどう逃がすかも考えなければならない。 そして――
ケルディオが、どこまで一緒に動くか。
そのことを考えたとき、シンはもう「いてくれれば助かる」とは思っていなかった。そうではなく、すでに同じ方向を向いているものとして、どう動けば一番ましになるかを考えていた。
それはたぶん、昨日までといちばん違うところだった。
ポケモンセンターの扉を押して中へ入ると、外の音が一枚ぶんだけ遠くなる。ミジュマルはそこでようやく「ミジュゥ」と長く息を吐き、フシデも「フシ」と短く鳴いた。
「昼まで休む」
シンが言う。 二匹とも逆らわない。
それからシンはもう一度だけ、手の中の紙片を見た。
朝まで近い影に残っていたケルディオ。 箱の前から引かなかったケルディオ。 そして、これから夕方にもう一度動くことになる、自分たち。
事件は、そこでやっと半分まで来たのだと、シンは思った。