西搬送路Bに着いたとき、日はまだ沈み切っていなかった。高い鉄骨のあいだから差す夕方の光が、床に長い帯を何本も作っていた。昼の熱は残っているが、空気の角は少しだけ鈍くなっている。作業の音も、昼間ほど多くない。
シンは歩幅を落とし、先に視線だけを上へやった。
昨日、逃がしたエモンガたちが身を潜めていた梁のあたりは、ぱっと見では変わらない。けれど、変わっていないように見える場所ほど、今日は信用できなかった。
足元で、フシデが短く体をこわばらせた。
「……気づいたか」
シンが小さく言うと、フシデは床を一度だけ爪で叩いた。
ミジュマルは鼻を上げ、すぐに嫌そうな顔をした。油ともゴミとも違う、甘ったるい匂いが薄く混じっている。木の実を潰して放っておいたような、わざとらしい匂いだった。
シンは歩きながら、床に残った細い擦れ跡を見つけた。台車の車輪の跡だ。古いものではない。さっき付いたばかりの線が、梁の真下を横切って、奥のパレットの影まで続いている。
その先に、黒い布の端が少しだけ見えた。
しゃがんで引くと、折りたたまれた網だった。軽く見えて、手に取ると意外と重い。縁に鉛が仕込まれている。投げて被せれば、空を切って逃げるポケモンでも落とせる作りだ。
シンは網を元の位置に戻さなかった。すぐ横の空いたドラム缶の陰へ押し込み、見えないように寄せる。
「まだ来る」
誰に説明するでもなく、そう言った。
ミジュマルがシンの膝を見上げ、フシデは奥へ顔を向けた。少し離れた柱の陰で、ケルディオも止まっている。近い。けれど、まだ手は届かない。その距離だけは、ここまでずっと変わらないままだった。
変わったのは、逃げないことだ。
シンが西搬送路Bへ向かうと、ケルディオは後ろから付いてくる。途中で姿が見えなくなっても、振り返れば別の影にいる。近づき過ぎず、置いていかれもしない。今日もここまで、同じだった。
シンは梁を見上げた。
「いるなら、上から出るな」
声は上げない。聞かせる相手がエモンガでも、余計に刺激したくなかった。
返事はない。だが、少し間を置いて、錆びたボルトの近くの暗がりがわずかに揺れた。二つ。昨日の二匹だ。
一匹は、体をぺたりと梁に伏せたまま動かない。もう一匹は端まで来て、下をのぞき、それからすぐに引っ込んだ。警戒心は強いが、完全に弱って動けないわけではない。まだ間に合う。
シンは肩の荷物を下ろし、水の入った浅い容器を二つ取り出した。ひとつはいつもの位置、壁際の影。もうひとつは、梁の真下から少しずらした場所。直線で狙われにくい、パレットの角の内側だ。
ケルディオが、その手元を見ていた。
シンはそちらを見ないまま口を開く。
「今日は、置くだけじゃ終わらないかもな」
言ってから、荷物の中身を確かめる。濡らした布。応急用の紐。小さい懐中電灯。木の実を潰したものは持ってきていない。匂いで誘う真似はしたくなかった。
空の上を何かが横切った。小さな影。梁の上の二匹のどちらかが、一瞬だけ位置を変えたのだろう。
そのとき、搬送路の入口側から、靴底が鉄板を踏む音がした。
シンはすぐに体を低くし、ミジュマルとフシデに合図した。三人と一匹が、積み上がった資材の影へ滑り込む。ケルディオは一瞬だけ遅れたが、音の出ない場所を選ぶようにして、別の柱の陰へ移った。
足音は二人分。
話し声もする。
「上だな」 「まだ出てってねえのかよ。昨日しくじったからだろ」 「黙って回収すりゃ済む。騒がせるな」
黒に近い制服の男が二人、細い台車を押して現れた。後ろには、黒いシートで覆った長物が積んである。網の柄か、伸縮棒か、そのあたりだろう。
見張り役らしいミネズミ……と一瞬思ったが、次に顔を上げたとき、その目の光り方でシンは見直した。進化したミルホッグだった。細い体に対して目だけがやけに強く、暗がりでも視線が通る。
もう片方はダストダスではない。まだ小さいヤブクロンだ。口元を引きつらせ、臭気の混じった息を吐いている。
プラズマ団。
昨日、箱の前でぶつかった連中と同じ色だった。目立たない場所を選んでいるくせに、やることは乱暴だ。
シンは梁の上を見た。二匹のエモンガは動いていない。けれど、音と匂いの両方が近づけば、いつまでも同じ場所にはいられない。
男のひとりが足を止め、床の水皿を見つけた。
「誰か入ってるな」 「野良にやるやつだろ。後で片づけりゃいい」
もう片方が、梁の真下へ顔を向ける。ミルホッグも鼻を鳴らした。
「見つけろ。上だ」
命じられて、ミルホッグが前へ出る。首を持ち上げ、梁に向かって鳴いた。鋭く、嫌な音だった。
その瞬間、上の暗がりで一匹が動いた。小さな白い腹が見え、すぐ消える。
「いた」
男が笑う。
もう片方が台車のシートをはがした。伸びる柄の先に、輪になった金具が付いている。さらに別の袋も取り出した。布ではない。空気で膨らませる式の袋網だ。逃げ道を塞ぎ、落ちたところを受けるつもりだろう。
シンは息を止めて一拍待った。二人が完全に梁の真下へ入る。ミルホッグが前。ヤブクロンは後ろ。
今なら、まとめて崩せる。
「ミジュマル、みずでっぽう」 「ミジュ!」
青い線が資材の陰から飛び、男の手の袋網を直撃した。畳まれていた布が半端に開き、水を吸って重くなる。男が舌打ちし、柄を落としかけた。
「誰だ!」
「フシデ、足!」
フシデが低く走った。狙ったのは人ではない。細い台車の前輪だ。体当たりで横から押し、少しだけ向きをずらす。傾いた台車が床の段差に引っかかり、積んでいた伸縮棒が派手な音を立てて崩れた。
ミルホッグが振り向くより早く、シンは影から出た。
「上を見るな。ミジュマル、もう一回!」
水が今度は梁ではなく床を打つ。甘い匂いのする撒き餌を洗い流すためだ。濡れた床が光り、匂いが薄まる。
「ガキか」 「昨日のやつだな!」
男のひとりが前へ出る。
「ミルホッグ、かみつけ!」
飛び出したミルホッグを、ミジュマルが殻で受けた。真正面では重い。シンは一歩寄って角度を変え、ミジュマルが押し負けない位置へ体を寄せる。
「右!」
短く言うと、ミジュマルはすぐに軸をずらした。噛みつきの勢いを正面で止めず、横へ流す。爪が床を滑り、ミルホッグの体勢が崩れる。
「フシデ、どくばり!」
フシデの針が、ミルホッグの足元の床を打つ。直撃ではない。進路を狭めるための一撃だった。ミルホッグがたたらを踏んだところへ、ミジュマルのたいあたりが横から入る。大きな体が資材の角へぶつかった。
だが、そのあいだにもう一人が動いていた。
「ヤブクロン、ヘドロこうげき!」
紫がかった塊が、梁の上へ向かって投げられる。
「まずい」
シンが上を見た、その瞬間だった。
梁の影から一匹のエモンガが飛び出す。ヘドロを避けたせいで、待ち伏せの位置から外へ出た。男はそこを待っていた。濡れて重くなった袋網ではなく、床に隠していた別の投げ網を拾い上げ、真上へ放る。
黒い網が開く。
「っ、上!」
シンが叫ぶのと、白い水が横から走るのは、ほとんど同時だった。
ケルディオだった。
柱の陰から飛び出した体は、夕方の光をまとって細く見えた。前脚が床を打つ。次の瞬間には、もう網の落ちる線へ入っている。踏み込んだ蹄の下で水がはじけ、その勢いのまま体ごと突き上がる。アクアジェット。
網の端が弾かれ、軌道がずれた。
完全には外れない。けれど、エモンガの頭から被さるはずだった黒布が肩先をかすめて落ちる。その一瞬で、上のもう一匹が飛んだ。小さな体が仲間の胴を押し、二匹まとめて梁の奥へ転がり込ませる。
男が舌打ちした。
「珍しいのまでいるじゃねえか」 「そっちも回収だ、逃がすな!」
その言葉に、ケルディオの耳がぴくりと動いた。
逃げなかった。
むしろ、エモンガのいる真下へ足を運んだ。シンたちと同じ線上だ。前へ出る位置が、完全に重なった。
シンはそれを見て、言葉を選ぶのをやめた。
「ミジュマル、左を止めろ! フシデ、台車!」
細かい説明は要らない。ミジュマルはすぐ左の男へ向かい、フシデは崩れた台車の下へ潜り込む。車輪をさらにひねり、道を塞ぐ。逃げ道を作るんじゃない。捕まえる側の足を殺す。
男のひとりが、腰のベルトから別のボールを抜いた。
「レパルダス、いけ!」
赤い光が床へ落ち、しなやかな影が現れる。チョロネコではない。進化したレパルダスだ。長い胴が低く伸び、すぐにケルディオの横腹を狙ってくる。
シンが口を開くより先に、ケルディオが体をひねった。
後ろへ逃げない。半歩だけ引き、空いた前脚で踏み込み直す。鋭い二連の蹴りがレパルダスの胸に入った。にどげり。軽い音ではなかった。細い体が横へ吹き、床を滑ってパレットにぶつかる。
ミジュマルが目を見開く。フシデの触角もぴんと立った。
シンは見ていただけじゃない。すぐに次を見る。
ヤブクロンが口を広げていた。今度は下じゃなく、梁の奥へ臭気を送り込むつもりだ。煙のように追い込み、飛び出したところをまた網で取る。
「ケルディオ、上!」
呼んだのは命令じゃない。ただ、向いている先を合わせるための一声だった。
ケルディオがそれに反応したのを、シンは横目で見た。
白い首が上がる。口の奥に青い光が集まり、細い水の束が一気に弾けた。バブルこうせん。泡を帯びた水流がヤブクロンの顔面を叩き、発射前の臭気ごと押し返す。ヤブクロンは床を転がり、積まれた木箱にぶつかって止まった。
「今だ、ミジュマル!」
「ミジュッ!」
みずでっぽうが追加で飛ぶ。濡れたヤブクロンの足元がさらに滑り、立て直せない。
男が後退した。
「くそ、連携してやがる」
その一言が、シンには聞き捨てならなかった。
連携。そうだ。今、たしかにそう見えた。
昨日までは違った。ケルディオは同じ場にいても、同じ列には立たなかった。危険が向けば逃げる準備を先にしていた。けれど今は、梁の上の二匹を守るために、シンたちと同じ出口を見ている。
それで十分だった。
ミルホッグが起き上がり、今度はシン本人へ向かってきた。足を止めさせるつもりだ。シンは避けるために半歩引いたが、その後ろには水皿がある。倒せば、エモンガのために残した水が無駄になる。
引き切る前に、横から白い影が入った。
ケルディオの肩だった。
体ごと割り込むようにしてミルホッグの進路をずらし、自分も止まり切らずに前へ抜ける。ぶつかり合った二匹の爪が火花みたいな音を立てた。ミルホッグは押し負けて、濡れた床で足を取られる。
「フシデ!」
シンが名前を呼ぶ。
フシデはすでに動いていた。糸ではない。細い体を低く伸ばし、倒れかけた台車の底へもう一度体当たりする。傾いた台車が完全に横倒しになり、通路の中央を塞いだ。
プラズマ団の二人は、そこで初めて顔をしかめた。
後ろへ下がる道が半分消えたからだ。
シンはすぐに梁の上を見た。
「今なら行ける」
エモンガに向けた声は小さかった。けれど、二匹とも動いた。奥へ逃げるんじゃない。梁のさらに上、外壁近くの細い補強材へ伝っていく。そこなら、真下からの網も、横からの臭気も届きにくい。
そのうち一匹――昨日より少しだけ動きの大きいほうが、途中で振り返った。腹の白が夕方の光を受ける。耳の先の毛が、片方だけ少し短い。
そいつは一瞬だけ、シンではなくケルディオを見た。
それからすぐに上へ消える。
「上に逃がすな!」
男が叫び、レパルダスへ再び指示を飛ばそうとした。だが、その前にミジュマルのたいあたりが膝の横に入る。人間へ当てたわけじゃない。足元に置かれた伸縮棒を弾いて、踏み込みを止めただけだ。男は態勢を崩し、言葉が途切れた。
もう一人が焦ってボールを拾う。けれど床は濡れ、台車は横倒し。ヤブクロンは起き切らず、ミルホッグもケルディオの前を抜けられない。
そこで、遠くから笛の音がした。
ひとつではない。巡回の警備か、作業員が異変に気づいたか。どちらにせよ、長居できる音ではない。
男のひとりが舌打ちした。
「引くぞ!」 「でも――」 「ここで捕まったら終わりだ!」
黒い制服が後ろへ下がる。レパルダスとミルホッグを無理やり戻し、ヤブクロンだけは抱えるようにして回収する。横倒しの台車を乗り越えるのに手間取り、そのあいだに二度、三度と笛の音が近づいた。
最後にひとりがシンを睨んだ。
「覚えてろ」
それだけ言って、二人は入口側の暗がりへ消えた。
残ったのは、水の匂いと、ヤブクロンの臭気の名残と、荒くなった呼吸だけだった。
ミジュマルがすぐにシンの足へ戻る。フシデも、通路の中央から外へ寄った。どちらも追おうとはしない。追って得るものがないと、もう分かっている。
シンは肩で息をしながら、まず上を見た。
「……無事か」
返事の代わりに、金属の高いところで小さな爪の音がした。二匹ともいる。
次に、目の前を見る。
ケルディオがまだ立っていた。
さっきミルホッグを受けた肩が少し濡れている。水だけではない。擦ったのか、毛並みが乱れていた。けれど、その脚はもう逃げる方向を向いていなかった。西搬送路Bの奥でも、外でもない。シンたちと同じ、入口側を見ている。追っ手が戻れば、また前へ出るつもりの立ち方だった。
シンはゆっくり息を整え、荷物のところへ戻る。新しい水皿を出し、少し離して置く。濡らした布もその横だ。
ケルディオは警戒して耳を動かしたが、引かない。
ミジュマルが一歩前へ出かけて、すぐ止まる。フシデも横に並び、ただ見ている。
梁の上から、二匹のエモンガが下りてきたのは、その少しあとだった。
すぐ手の届く高さまでは来ない。配管の上、ケルディオの背より少し高い位置で止まる。白い腹が上下している。さっきまでより呼吸は落ち着いていた。
片方はすぐに水皿へ視線を落とし、足場を伝って近づいた。飲むまでに少し迷ったが、喉が渇いていたのだろう。すぐに口をつける。
もう片方――耳の先の毛が短いほうは、先にケルディオのほうへ寄った。鼻先を一度だけ、濡れた肩の近くへ向ける。触れる寸前で止まって、すぐ離れる。礼なのか、確認なのか、そこまでは読めない。
ただ、次にそいつが向いたのは、東の空だった。
この場に留まるつもりではない目だった。
シンはそれを見て、追う気を捨てる。もともと追うつもりはない。けれど、ここで「一緒に来るか」と誘うのは違うと、はっきり分かった。
「行けるなら、行ったほうがいい」
独り言みたいに言う。
エモンガは言葉の意味なんか知らないはずなのに、二匹とも少しだけ静かになった。水を飲んだほうが先に飛び上がり、梁から梁へ移る。耳の先の毛が短いほうは、最後まで一度だけ下を見た。
シンを見たわけじゃない。
ミジュマル、フシデ、そしてケルディオをまとめて見て、そのまま後を追った。
小さな影が外壁の隙間を抜け、夕方の空へ消える。
残ったのは、三人と一匹だけだった。
笛の音は近くで止まり、別の方向へ離れていった。ここまでは来ないらしい。騒ぎの中心が入口側だと思われたのだろう。今はそれでいい。
シンはケルディオから一歩分だけ距離を置いてしゃがんだ。
「今日は助かった」
短く言う。
ケルディオは何も返さない。けれど、視線は逸らさなかった。
シンはそのまま、濡れた布を指先で少し持ち上げる。
「冷やすなら、使え」
近づけない。投げもしない。ただ、床へ戻しておく。
ケルディオはしばらく動かなかった。ミジュマルが先に水を一口飲み、フシデは少し離れた乾いた場所に丸くなる。騒ぎのあとの沈黙が、やっとこの場に落ちてきた。
その沈黙のなかで、ケルディオが一歩、前へ出た。
いつもの一歩とは違う。水皿に寄るためだけの角度ではない。シンとのあいだにある距離を、そのままひとつ削る歩幅だった。
シンは動かない。
もう一歩。
手を伸ばせば触れられる距離まで来て、ケルディオは止まった。そこで初めて、床の布に鼻先を寄せ、自分の肩を軽く擦りつける。冷たさを確かめるように、短く。
ミジュマルが、息を呑んだみたいな声を出した。
シンはそちらを見ない。
代わりに、荷物の奥へ手を入れた。
出したのは、モンスターボールだった。
ずっと持ってはいた。出す理由がなかっただけだ。ケルディオがいなかったわけじゃない。近くにいた。けれど、近くにいることと、こちら側へ来ることは別だった。
今は、その別が少しだけ動いた。
シンはボールを握ったまま、すぐには差し出さない。
「……無理なら、いい」
声は低い。説明もしない。
「でも、これなら、一緒に動ける」
ケルディオの耳が、言葉より先に手元へ向いた。
シンは肘を伸ばし切らない位置で、ボールを前へ出す。押しつけない。逃げ道を塞がない。選ぶ分だけ、前を空ける。
しばらく、誰も動かなかった。
夕方の光がまた少し沈む。鉄骨の影が長くなり、床の色が鈍る。
ケルディオはシンの顔を見た。次に、ボールを見る。ミジュマルを見る。フシデを見る。最後に、エモンガたちが消えた外壁の隙間を一度だけ振り返った。
それから、前へ出た。
逃げるための前進じゃない。
鼻先ではなく、額でもなく、右の前脚の先で、シンの持つボールに軽く触れる。
小さな音がした。
赤い光が、ケルディオの体を包む。抵抗はない。吸い込まれたあと、ボールはシンの手の中で一度だけ揺れて、すぐ静かになった。
長くはなかった。
本当に、一度だけだった。
シンはしばらくそのまま動かず、握った手の重さが変わったことを確かめる。
ミジュマルが、抑えきれないみたいに鳴いた。
「ミジュ!」
フシデも短く体を跳ねさせる。
シンはそこでやっと息を吐いた。変に笑う気にはならない。叫ぶほどでもない。ただ、肩の奥に入っていた固いものが、少しだけ抜けた。
ボールを見下ろし、小さく言う。
「……来るんだな」
返事は、もちろんない。
けれど、さっきまでの沈黙とは違った。何も返ってこないのに、もう一人増えたあとの静けさだった。
シンは立ち上がる。周囲を見回し、残した水皿を回収する。濡れた布のうち、使ったものだけはそのまま畳み、まだきれいな一枚を残しておく。もう戻ってくるかもしれない何かのために。ここで起きたことを、全部片づけてしまう気にはなれなかった。
ミジュマルが足元へ来る。フシデもその横。
「帰るぞ」
短く言ってから、シンは手の中のボールを見た。
「お前も」
西搬送路Bの外へ出るころには、空はほとんど紫に変わっていた。工事の音は遠く、街の明かりが順に点き始める。さっきまでいた場所はもう見えない。
それでもシンには分かっていた。
今日で終わったわけじゃない。プラズマ団がまた別の場所で何かをするかもしれないし、エモンガたちがどこへ行くのかもまだ知らない。チラーミィだって、どこか別の路地で同じように人を見ているかもしれない。
全部、この先だ。
ただ、その先へ向かう並びだけは、今日ではっきり変わった。
シンは歩きながら、ボールをしまう前に一度だけ指先で軽く叩く。
「明日から、距離は測り直しだな」
独り言みたいにそう言って、前を向く。
ミジュマルが左、フシデが右。
その真ん中に、新しく埋まった重さがひとつあった。
もう、置いた水の先で待つだけじゃない。