朝のサンヨウシティは、昨日より少しだけ近く感じた。
知らない町のはずなのに、一度歩いた道があるだけで、景色のよそよそしさが薄れる。
ポケモンセンターを出たところで、ベルが空を見上げた。
「今日はいい天気だね」
「夢の跡地に行くにはちょうどいいんじゃない?」
トウヤが言う。
「ちょうどいいかどうかは知らないけど、雨よりはましだろ」
シンが肩を鳴らす。
ミジュマルは朝から機嫌がよく、足もとをせわしなく行ったり来たりしていた。
昨日の時点でも気にしていた場所だ。
相棒なりに、今日はあそこへ行く日だと分かっているのかもしれない。
チェレンが荷物の位置を直しながら言う。
「夢の跡地を見てから、必要なら少し調整する。そのうえでジムへ向かう。流れとしては悪くないと思う」
「言い方がもう作戦会議なんだよな」
シンが言うと、チェレンはわずかに眉を上げた。
「作戦なしで行くよりいいだろ」
「まあな」
ベルがその横で小さく息を吐く。
「……やっぱり、ちょっと緊張する」
「夢の跡地とジム、どっちに?」
トウヤが聞いた。
ベルは少し考えてから、正直に答えた。
「両方」
「知ってた」
シンが即答すると、ベルはむっとした顔をした。
「何その分かったみたいな言い方」
「分かりやすいんだよ、お前は」
「それ、昨日も言われた気がする」
「昨日だけじゃないだろ」
軽口を交わしながら町の外れへ向かう。
昨日は夕方だった道も、朝の光の中ではまた別の表情をしていた。
建物の影は短く、風はまだ少しひんやりしている。
にぎやかな中心部を離れるにつれて、人の声が少なくなった。
その静けさが、目的地の名を思い出させる。
夢の跡地。
名前だけなら曖昧で柔らかいのに、実際に近づくにつれて、その場所が持つ空白の気配はむしろはっきりしていく。
やがて、昨日見た白い建物がまた姿を現した。
崩れた壁。
ひびの入った窓。
伸びた草。
それなのに、ただ荒れているだけではなく、どこか“置き去りにされたまま時間が残っている”ような感じがある。
ベルが小声で言った。
「明るいと、ちょっとだけ怖くない」
「ちょっとだけなんだな」
シンが返す。
「ゼロじゃないもん」
「正直でよろしい」
トウヤが笑った。
チェレンは周囲を見回している。
建物そのものだけでなく、入口の足場、塀の崩れ方、草の揺れ方まで、無意識に確認しているようだった。
「昨日よりは見やすいね」
「何が?」
ベルが聞く。
「人が通った形跡」
チェレンが地面を指す。
「完全に放置されてるわけじゃない。町の人か、トレーナーか、野生のポケモンかは断言できないけど、少なくとも誰も寄りつかない場所ではない」
その言葉に、シンも足もとを見る。
土の上には、浅い踏み跡のようなものがいくつかあった。
人の靴跡に見えるものもあれば、ポケモンのものらしい小さな痕もある。
昨日は気づかなかった。
暗くなりかけていたせいもあるし、自分たちの意識が建物そのものへ寄りすぎていたのかもしれない。
「じゃあ、入っても大丈夫そう?」
ベルが訊く。
「大丈夫とは言わないけど、危険しかない場所なら町の近くにそのまま残ってないと思う」
チェレンの答えはいつも通り慎重だった。
けれど、進むこと自体を止める調子ではない。
シンは建物の正面を見た。
半分壊れた入口の向こうは、薄い影になっている。
朝の光が差しこんでいる分、昨日より内部の様子は見えた。
床には破片が散らばり、古い机らしきものが奥に倒れている。
風が抜けるたび、どこかでかすかな軋みが鳴った。
「行くぞ」
そう言って最初に足を向けたのは、結局シンだった。
ミジュマルがすぐ横につく。
相棒の気配があるだけで、妙に足が落ち着く。
ベルたちも続いた。
中へ入ると、外より少しだけ空気が冷たかった。
湿っているというほどではないが、日向とは違う静けさがある。
床に散った紙くずは文字が薄れていて、何に使われていたものかも分からない。
壁際には壊れた棚があり、そのひとつにはガラス瓶の名残みたいなものが残っていた。
「ほんとに研究所みたい」
トウヤが辺りを見ながら言う。
「夢の研究って、何してたんだろうね」
ベルが首を傾げる。
「ポケモンの眠りとか?」
「あるいは、人間の見る夢そのものかもしれない」
チェレンが答えた。
「この地方には、夢に関する伝承を持つポケモンもいる。そういう存在を調べていた可能性はある」
「伝承って、ムンナとか?」
ベルが言うと、チェレンは頷いた。
「そう。夢を食べるとか、夢に関わる匂いを出すとか、色々言われてる」
「なんか急に、この場所の名前がそれっぽくなってきたな」
シンが呟いたときだった。
奥のほうから、かすかな音がした。
擦れるような、小さな足音。
四人が一斉にそちらを見る。
ミジュマルも身体をぴんと張った。
「……いる」
ベルの声が低くなる。
昨日の軽い怖がり方とは違う。
ちゃんと気配を感じ取ったときの声だった。
シンは手を上げ、三人を止めるようにした。
「騒ぐなよ」
「言われなくても」
ベルが小さく返す。
壊れた棚の向こう、少し開けた場所へ視線を向ける。
最初に見えたのは、桃色だった。
丸みのある身体。
額にふわりと浮かぶ模様。
眠たげにも見える目つき。
昨日、裏手で一瞬だけ見えた影と同じだ。
「ムンナ……」
ベルが息を呑む。
ムンナは四人を見つめていた。
逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ様子をうかがうように静かに浮いている。
野生のポケモンにしては、妙に落ち着いていた。
その周囲の空気だけ、少し柔らかく見える気さえした。
「かわいい」
ベルが思わず漏らす。
「声抑えろ」
シンが言ったが、気持ちは分からなくもなかった。
ミジュマルも警戒一辺倒ではない顔をしている。
敵意が薄いことは感じ取っているのだろう。
トウヤが一歩だけ位置をずらした。
「どうする?」
「何もしないなら、向こうも動かないかも」
チェレンが低く言う。
「刺激しないほうがいい」
シンもそのつもりだった。
無理に戦う理由はない。
ここへ来たのは、何かを確かめるためであって、手当たり次第にぶつかるためじゃない。
そう思った矢先、別の音がした。
今度はムンナの側ではない。
崩れた壁の向こう、外へ続くほうから、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。
人だ。
しかも一人ではない。
四人が反応するより早く、入口のほうから二つの影が姿を現した。
黒い服。
胸元の大きなPの字。
見覚えのある、統一された格好。
「プラズマ団……?」
ベルが思わず声に出す。
昨日、カラクサタウンで演説をしていた連中と同じだ。
現れた二人も、こちらに気づいた瞬間、あからさまに顔をしかめた。
「子どもか」
「こんなところで何してる」
吐き捨てるような声だった。
シンは反射的に一歩踏みかけて、そこで無理に勢いを乗せないよう意識する。
相手が何者か分からないわけではない。
だが、何をしに来たのかまではまだ断定できない。
チェレンが静かに問う。
「それはこっちの台詞だと思うけど」
その言い方に、片方の団員が鼻で笑った。
「見学だよ」
「そんな格好で?」
トウヤが軽く返す。
「ずいぶん怪しい見学だね」
ベルはシンのすぐ後ろにいたが、逃げ腰ではなかった。
怖がっているのは分かる。
それでも、ただ引くだけでは終わらないところがこいつらしい。
ムンナはそのやり取りのあいだも、少し離れた位置で浮いたままだった。
ただし、さっきより明らかに落ち着かない。
身体の周りに漂う空気が揺れている。
シンはそちらを見て、嫌な予感を覚えた。
こいつらの目的は、自分たちじゃない。
「……ムンナか」
口に出した瞬間、団員の片方の目つきが変わった。
それだけで十分だった。
「ベル、下がれ」
「え?」
「いいから」
シンが言った直後、団員のひとりが前へ出た。
いや、出たというより、獲物との距離を詰めるために身体を滑らせた。
「逃がすな!」
その声に、ムンナがびくりと震える。
次の瞬間には、ふわりと浮いていた体が奥へ退いた。
「やっぱりそういうことかよ」
シンの声が低くなる。
昨日の演説が頭をよぎる。
ポケモンのためだとか、解放だとか、もっともらしいことを言っていた連中が、こういう場所で野生のポケモンを追っている。
気に食わない、で済む話じゃなかった。
「ミジュマル!」
呼ばれるより早く、相棒は動いていた。
団員がムンナへ向けて伸ばした手の前へ、割りこむように飛び出す。
「邪魔をするな!」
「するに決まってるだろ!」
シンが返す。
団員がモンスターボールを抜いた。
飛び出したのはミネズミだった。
素早く、いやらしく動く目つき。
「かみつけ!」
鋭い指示と同時に、ミネズミが低く走る。
正面からではない。
床に散った破片を縫うように、足場の悪い場所をわざと選んでくる。
昨日までなら、その速さに釣られていたかもしれない。
だがシンは短く息を吸った。
「ミジュマル、迎え撃つな。横を切れ!」
ミジュマルがぶつかる直前で軸を外す。
ミネズミの牙が空を噛む。
そのすぐ脇を、貝の刃が浅く走った。
「みずでっぽう!」
狭い室内で撃たれた水が一直線に飛び、ミネズミの身体を壁際へ弾き飛ばす。
団員が舌打ちした。
「もう一匹出せ!」
もう片方の団員がボールを投げる。
出てきたのはチョロネコだった。
軽い身のこなしで瓦礫の上へ飛び乗り、上からこちらを見下ろしている。
ベルが息を呑んだ。
「二対一……!」
「分かってる!」
シンが返す。
分かっているからこそ、焦るなと自分へ言い聞かせる。
ミジュマルも気づいていた。
視線を左右へ配り、どちらを先に見るべきかを測っている。
そのとき、トウヤが一歩寄った。
「シン!」
「来るな!」
強く言ってから、自分の声が少し荒かったと気づく。
だが今は、誰かが半端に入るほうが危ない。
これはまだ、自分とミジュマルで収められる間合いだ。
チェレンもその判断を理解したのか、ベルの肩を軽く押さえていた。
「いまは任せろ」
短い声だった。
シンは前だけを見る。
チョロネコが上から飛ぶ。
同時に、立て直したミネズミが下から走る。
挟むつもりだ。
「ミジュマル、下は無視だ!」
相棒が一瞬だけこちらを見る。
意図は伝わった。
先に危険なのは上だ。
チョロネコの爪が振り下ろされる直前、ミジュマルは身体をひねって貝の刃で受けた。
火花みたいに小さな音が散る。
着地の瞬間、足もとへ来ていたミネズミが飛びかかった。
「いまだ、踏みこめ!」
今度は真正面だった。
ミジュマルは逃げない。
低い姿勢のまま一気に間合いを詰め、体当たりでミネズミを押し返す。
狭い場所でのぶつかり合いは、一歩ぶんの気迫で決まる。
押し切られたミネズミが床を転がった。
そこへ、態勢を立て直すより先に水が走る。
みずでっぽうがまともに決まり、ミネズミは声を上げて動きを止めた。
「チョロネコ、ひっかけろ!」
頭上からの声。
ミジュマルが反応するより少し先に、シンが叫ぶ。
「そのまま回れ!」
相棒は倒れたミネズミを軸にするように身体を回した。
爪を振り下ろしたチョロネコの狙いがわずかに外れる。
貝の刃が、すれ違いざまに相手の腹側を払った。
着地したチョロネコが苦そうに顔をしかめる。
シンはそこで止めなかった。
「もう一発!」
みずでっぽうが近距離から叩きつけられ、チョロネコも壁へぶつかった。
二匹ともすぐには起き上がれない。
室内に、急に静けさが落ちる。
団員たちが顔を見合わせた。
最初に表情を崩したのは、ムンナを追っていたほうだった。
「ちっ……!」
それ以上の強気は続かなかった。
目的を邪魔され、手持ちも崩された。
しかも、ここは町からそう遠くない。
騒ぎが大きくなれば面倒なのだろう。
「覚えていろ」
ありがちな捨て台詞を残し、二人は倒れたポケモンを回収して建物の外へ駆けていった。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、ようやくベルが大きく息を吐いた。
「び、びっくりした……」
「無事か」
シンが振り返ると、ベルは悔しそうに眉を寄せた。
「無事だけど、悔しい。何もできなかった」
「勝手に飛びこまなかっただけ十分だろ」
チェレンが言う。
「状況を崩さなかったのは正しい」
ベルは少しだけ口を尖らせたが、反論はしなかった。
トウヤは肩の力を抜きながら、床に転がる破片を避けて近づいてくる。
「シン、ミジュマル、よかった」
「……ああ」
シンは短く答え、ミジュマルを見る。
相棒はまだ少し荒い呼吸をしていたが、立ち姿は崩れていない。
さっきの連続した切り替えは、昨日までより明らかによかった。
勢いだけじゃない。
ちゃんと噛み合っていた。
「平気か」
ミジュマルが鳴く。
胸を張る仕草はいつも通りだが、その声には少しだけ疲れも混じっていた。
シンは小さく息を吐く。
「無茶はすんなよ」
すると、少し離れたところで、またやわらかな気配が揺れた。
ムンナだった。
逃げていなかったらしい。
崩れた柱の陰からそっと姿を見せ、こちらをうかがっている。
ベルがそっと膝を折る。
「……大丈夫だよ」
優しく声をかけると、ムンナはすぐには近づかないまでも、さっきほどの怯え方は見せなかった。
むしろ、何かを確かめるみたいに、四人と四匹を順番に見ている。
その視線がシンとミジュマルに留まる。
ほんの一瞬、甘い匂いのようなものが空気に混じった気がした。
花とも違う、もっと曖昧で、眠気の縁に触れるような匂い。
「……何だ、いまの」
シンが呟く。
チェレンが目を細めた。
「ムンナの出す気配かもしれない。夢に関わる力の一種だって話もある」
ベルは驚いたように目を丸くした。
「怒ってないのかな」
「少なくとも、逃げたままじゃない」
トウヤが言う。
それはたぶん、そういうことなのだろう。
ムンナは少しだけ浮かび上がり、それから壊れた窓のほうへ向かった。
途中で一度だけ振り返る。
まるで、ここまででいい、とでも言うような間だった。
次の瞬間には、朝の光の向こうへ溶けるように消えていった。
静けさが戻る。
けれど、さっきまでの静けさとは違っていた。
ただ空っぽなだけの場所じゃない。
ここには、まだ息づいているものがある。
シンは崩れた壁の向こうを見ながら思った。
「……感じ悪い連中だったな」
昨日の演説のことを思い出すと、なおさら腹が立つ。
口では立派なことを並べておいて、やってることはあれだ。
Nの顔も一瞬よぎった。
あいつが見ていたものと、あの団員たちがやっていたことが、同じ線の上にあるのかどうかはまだ分からない。
でも、少なくとも気分のいい話ではなかった。
ベルが立ち上がる。
「ジム、行こう」
思ったより強い声だった。
シンたちがそちらを見ると、ベルは自分でも驚いたみたいに瞬きをしたあと、言い直す。
「……いや、すぐじゃなくてもいいけど。でも、なんか、行きたくなった」
「何だそれ」
シンが言う。
「上手く言えないけど、逃げたくなくなったの」
ベルは少しだけ唇を引き結んだ。
「怖いのは変わらない。でも、嫌なもの見たあとだからかな。ちゃんと自分で選んで進みたい」
その言葉に、チェレンが小さく頷く。
「僕も同意見だ」
「夢の跡地、来てよかったかもね」
トウヤが言う。
軽く聞こえる口調だったが、中身は軽くない。
シンも、同じことを思っていた。
ここへ来たからこそ、今の自分たちの立ち位置が少しはっきりした気がする。
ジムはただの関門じゃない。
自分たちがどう進みたいかを、自分で決めるための場所でもあるのかもしれない。
ミジュマルがシンの足を軽く叩いた。
見上げてくる目は、もう迷っていなかった。
お前はそうかよ、とシンは思う。
でも、その単純さに助けられることもある。
「……戻るか」
「うん」
ベルがすぐ答える。
「今日は、昨日よりちゃんと歩けそう」
「その基準は何なんだよ」
「気分」
「雑すぎるだろ」
「でも分かる」
トウヤが笑う。
チェレンも否定しなかった。
四人は夢の跡地をあとにした。
壊れた建物は相変わらず静かだったが、もうただ不気味なだけには見えない。
あそこで見たものが、少しだけこの旅の輪郭を濃くした。
町へ戻る道の先には、サンヨウジムがある。
あの妙にいい匂いのする、洒落たレストランみたいな最初の壁が。
そこへ向かう足取りは、昨日の見学のときより確かだった。
まだ不安はある。
勝てる保証もない。
けれど、だからこそ行く意味がある。
シンは隣を歩くミジュマルを見下ろした。
相棒もまた、同じ方向を見ていた。
サンヨウシティの朝は、もう次の勝負の匂いを運び始めていた。