BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第79話 戦わせない、という選択

朝の光は、昨日の夕方よりずっと素直だった。

 

ポケモンセンターの二階、宿泊部屋の窓から差し込む白い光が、床に置いた布の縁を照らしている。シンはベッドの上で一度だけ大きく息を吸い、それから体を起こした。

 

肩が重い。昨日の西搬送路Bで、資材の影に何度も体を滑り込ませたせいだ。膝の外側にも、うっすらと擦った跡が残っている。人間の体は正直だった。

 

部屋の隅では、ミジュマルがすでに起きていた。丸めた布の上で前脚を伸ばし、シンの顔を覗き込むように待っている。フシデはまだ半分眠っていて、触角だけがゆっくり動いていた。

 

そして。

 

窓際に、ケルディオがいた。

 

昨夜、寝る前に見たときと同じ場所だ。ただし姿勢は違う。伏せてはいない。四本の脚で、まっすぐ立っている。首を持ち上げ、ガラスの向こうの空を見ていた。

 

シンは声をかけようとして、やめた。

 

その横顔が、昨日の夜中に見たものと同じだったからだ。

 

深夜、物音で目を覚ましたとき、ケルディオはこの場所で前脚を鳴らしていた。夢を見ているのか、外の何かに反応しているのか、判断がつかなかった。シンが近づかずに声をかけると、しばらくしてから緊張を解いて布へ戻っていった。

 

あのときと、今の目の色は違う。

 

夜中のそれは、何かに追われている目だった。今は、追われてはいない。ただ、追われていた記憶を確かめているような、そういう静けさがある。

 

「起きてたのか」

 

結局、そう声をかけた。

 

ケルディオの耳が動く。振り返りはしない。けれど、逃げるための身構えもしなかった。それが昨日までとの違いだった。

 

シンは荷物のところへ行き、まず水筒の中身を確かめた。それから、昨日使わずに残しておいた清潔な布を畳み直す。西搬送路Bに置いてきた水皿と布は、今日のうちに回収して洗わなければならない。街の管理区画に私物を放置したままにしておくのは、単純に迷惑だ。

 

「今日は、まず昨日のところへ行く」

 

支度をしながら、独り言のように言う。

 

「置いてきたもんを片づけて、そのあとで街の様子を見る」

 

ミジュマルがすぐに反応して、短く鳴いた。フシデもようやく完全に目を覚まし、体を伸ばしている。

 

ケルディオだけが、何も返さなかった。

 

けれど、シンが荷物を背負って立ち上がったとき、その脚は自然にドアのほうへ向いていた。ついてくる気はあるらしい。

 

シンは腰のベルトからボールを一つ外した。昨日、ケルディオが自分から前脚で触れた、あのボールだ。

 

「街の中は、あんまり大っぴらに歩けない」

 

説明する。命令ではなく、事情を伝えるための声だった。

 

「お前は目立つ。ライモンは人が多い。騒ぎになると、動きづらくなる」

 

ケルディオの視線が、ボールへ落ちる。

 

昨日、初めて触れたときのような迷いはなかった。ただ、完全に納得している顔でもない。それでも、赤い光が差し出されたとき、避けはしなかった。

 

光がケルディオを包み、ボールが手の中で一度だけ揺れて、静かになる。

 

シンはそれをベルトに戻し、ミジュマルを見た。

 

「お前は出ててくれ。フシデ、悪いけど今日は入っててくれるか」

 

フシデは短く体を弾ませてから、素直にボールの中へ収まった。街中で百足型のポケモンを長く歩かせると、人の視線を集める。悪意ではなく、単純にぎょっとされる。フシデ自身もそれを分かっていて、混雑した場所では自分から早く戻りたがった。

 

外へ出るのはミジュマル一匹。それが、この街での基本だった。

 

ライモンシティの朝は早い。

 

まだ観覧車が動き出す前の時間なのに、大通りにはもう人が出ていた。屋台の準備をする声、荷を運ぶ台車の音、遠くで鳴っている工事のブザー。夜の街とは違う種類のうるささが、朝の光の下に散らばっている。

 

シンはミジュマルを足元に連れて、人の流れの端を歩いた。

 

西搬送路Bへ続く区画に近づくにつれ、人の数は減っていく。工事用のフェンスが増え、看板の文字が事務的になる。昨日ここを通ったときは夕方で、影が長かった。今は影が短い分、床の汚れや傷がよく見えた。

 

「昨日の場所だ」

 

角を曲がったところで、シンは足を止めた。

 

鉄骨の柱、積み上がった資材、横倒しになったままの台車。プラズマ団が置いていったそれは、まだ誰も片づけていなかった。だが周囲を見る限り、彼らが戻ってきた形跡はない。撒き餌の甘い匂いも、水で流したきり戻っていなかった。

 

シンは壁際へ向かい、置いてきた水皿を拾い上げた。

 

中身は、ほとんど減っていない。

 

「……来てないな」

 

エモンガたちは昨日の夕方、東の空へ飛んでいった。ここへ戻ってくる理由は、もうない。分かっていたことだ。

 

それでもシンは、水皿を持ち上げたまま、少しのあいだ梁の上を見上げた。

 

錆びたボルトの近く、二匹が身を潜めていた暗がり。今はただの影だ。何もいない。

 

ミジュマルが、シンの足元で小さく鳴いた。

 

「ああ。分かってる」

 

シンは水皿の中身を排水溝へ空け、布を回収して荷物へ入れた。使った分は洗って乾かす。まだきれいな一枚だけは、昨日と同じ場所に残しておいた。ここを通る何かが、いつか必要とするかもしれない。

 

作業を終えて振り返ると、通路の奥から作業服の男が歩いてきた。ヘルメットを片手に持ち、もう片方には点検用の記録板を抱えている。

 

「兄ちゃん、こんなとこで何してんだ」

 

咎める声ではなかった。単純に、こんな時間にこんな場所にいる人間が珍しかったのだろう。

 

「昨日、置いていったものを取りに来ました」

 

シンは正直に答えた。隠す理由もない。

 

男は横倒しの台車を見て、それから床の濡れた跡を見た。

 

「昨日の騒ぎ、あんたか」

 

「……騒ぎになってましたか」

 

「笛が鳴ったからな。警備が来たときにはもう誰もいなかったが」

 

男は台車の脇にしゃがみ、シートをめくった。伸縮棒の残骸と、破れた袋網が出てくる。

 

「うちの備品じゃない。誰かが持ち込んで、置いていった」

 

「黒い制服の二人組でした」

 

シンが言うと、男は一瞬だけ手を止めた。

 

「……そうか」

 

それ以上は聞かなかった。聞いても仕方がないと思ったのか、あるいは、その手の話に関わりたくなかったのか。シンはどちらでも構わなかった。伝えるべきことは伝えた。

 

「ここ、しばらく夜間の巡回を増やすらしい。上がそう決めた」

 

男は立ち上がり、記録板に何かを書き込む。

 

「あんたも、夜は来るな」

 

「はい」

 

素直にうなずいた。

 

男は満足したのか、それ以上何も言わずに奥へ歩いていった。その背中を見送ってから、シンはもう一度だけ梁を見上げ、それから背を向けた。

 

大通りへ戻る途中、細い路地の前を通りかかったとき、ミジュマルが立ち止まった。

 

シンも足を止める。

 

路地の奥、積み重なった空き箱の隙間。そこに、灰色がかった白い毛の塊があった。

 

チラーミィだ。

 

シンは近づかなかった。三日前にも、二日前にも、この個体とは顔を合わせている。最初は逃げられた。二度目は、少し離れた場所からじっと見られた。今日は、三度目だった。

 

チラーミィは箱の上に座り、前脚で耳の毛を整えていた。シンたちが立ち止まったことに気づいていないはずがないのに、慌てる素振りはない。整え終えると、今度は箱の縁に落ちていた埃を、丁寧に払い落とし始めた。

 

きれい好き、というより、そういう性分なのだろう。汚れているものが目に入ると、放っておけない。

 

「相変わらずだな」

 

シンが小さく言うと、チラーミィはようやく顔を上げた。

 

じっと見てくる。値踏みするような目ではない。どちらかと言えば、点検している目だった。シンの服の汚れ、荷物の掛け方、ミジュマルの毛並み。ひとつずつ確かめて、それから小さく鼻を鳴らす。

 

合格なのか不合格なのか、判断はつかなかった。

 

「今日は何も持ってきてない」

 

言い訳のように言う。

 

チラーミィは箱から降り、少しだけ近づいてきた。三歩。そこで止まる。それ以上は来ない。

 

昨日、ケルディオが詰めた距離のことを思い出した。あれは特別だった。何日もかけて測り直した末に、ようやく一歩分だけ動いたものだ。

 

このチラーミィとの距離も、たぶん同じだ。急いで縮めようとすれば、その分だけ遠ざかる。

 

「またな」

 

短く言って、シンは歩き出した。

 

チラーミィは追ってこなかった。けれど、路地を出るまで、視線だけはずっと背中に張りついていた。

 

昼を過ぎたころ、シンはライモンジムの前にいた。

 

巨大なドーム型の建物が、日差しを跳ね返している。壁面には電飾が組み込まれていて、夜になれば街の目印になる。今は光っていないが、それでも周囲の建物より一段大きく見えた。

 

正面の入口には、順番待ちの挑戦者が数人並んでいる。

 

シンは列に並ばず、少し離れた場所から建物を見上げた。

 

「電気タイプのジム」

 

自分に確認するように言う。

 

「リーダーはカミツレ。……らしいな」

 

昨日、ポケモンセンターの受付で聞いた名前だ。街の人間なら誰でも知っていて、しかも十人中十人が「強い」と言った。誇張ではなく、事実として。

 

シンは足元のミジュマルを見た。

 

「相性は悪い」

 

みずタイプに、でんきタイプ。それだけで、正面からぶつかるには不利がある。

 

ミジュマルは首をかしげ、それから胸を張った。相性が悪いことを知っているのか知らないのか、どちらにせよ、怯む様子はない。

 

シンは少しだけ笑った。

 

「そうだな。まだ挑む前だ」

 

けれど、その笑いはすぐに引っ込んだ。

 

手持ちは三匹。ミジュマル、フシデ、ケルディオ。

 

数だけを見れば足りている。だが。

 

シンはベルトのボールに手を触れた。

 

昨日の西搬送路Bで、ケルディオは戦った。網の軌道をアクアジェットで弾き、レパルダスをにどげりで吹き飛ばし、ヤブクロンの臭気をバブルこうせんで押し返した。あれは間違いなく戦闘だった。

 

だが、それは「守るため」の動きだった。

 

エモンガが網に捕まる寸前だったから、体が先に出た。相手を倒すためではなく、間に合わせるための動きだ。

 

ジム戦は違う。

 

向かい合って、名前を呼ばれて、指示を受けて、正面から打ち合う。逃げ場のない、試合としての戦闘。

 

――それを、この個体はできるのか。

 

シンには確信がなかった。

 

ジムの近く、街の広場に設けられたバトルコートは、午後になると空きが出る。

 

シンがそこへ足を向けたのは、確かめるためだった。

 

コートの一つに、同年代くらいのトレーナーがいた。使い込んだ帽子をかぶり、足元にヨーテリーを連れている。順番待ちをしていたが、相手が見つからずに手持ち無沙汰にしていたらしい。

 

「一戦、いいか」

 

シンが声をかけると、相手はすぐに顔を上げた。

 

「お、やる? 二対二でいい?」

 

「頼む」

 

コートの端と端に分かれる。審判はいない。街の広場のバトルコートは、そういう気軽な場所だった。

 

「ヨーテリー、いけ!」

 

相手が最初に出したのは、足元にいたヨーテリーだった。小さな体で軽快に飛び出し、コートの中央近くまで走り込む。

 

シンはボールを一つ手に取った。

 

「ミジュマル」

 

呼ぶまでもなく、ミジュマルはすでに前へ出ていた。殻を腹の前で構え、低い姿勢を取る。

 

戦いは短かった。

 

ヨーテリーのたいあたりを殻で受け、角度を変えて流す。踏み込みが崩れたところへ、みずでっぽうを至近から叩き込む。相手のトレーナーが「かみつけ」と叫んだときには、ミジュマルはもう横へ回り込んでいた。

 

「そこまで!」

 

相手が手を上げる。ヨーテリーが尻もちをついて、それきり立ち上がらなかった。

 

「強いな、そのミジュマル」

 

「ありがとう」

 

シンは短く答え、ミジュマルを下がらせた。まだ余力はある。だが、今日はミジュマルの調子を測りに来たわけではなかった。

 

相手が次のボールを構える。

 

「次、バスラオ!」

 

赤い光がはじけ、コートに現れたのは赤い筋の入ったバスラオだった。水タイプ。気性が荒く、コートに現れた瞬間から相手を睨みつけている。

 

シンは、ベルトのボールに手を伸ばした。

 

ケルディオのボールだ。

 

指がボタンにかかる。

 

そこで、一瞬だけ止まった。

 

――大丈夫か。

 

問いかける相手は、目の前にいない。ボールの中だ。答えは返らない。

 

シンはボタンを押した。

 

白い光がコートに落ち、かたちを結ぶ。

 

ケルディオが現れた。

 

その瞬間、シンは自分の判断が間違っていたことを理解した。

 

ケルディオは、動かなかった。

 

コートの土の上に降り立ったまま、四本の脚が固まっている。首はわずかに下がり、耳は後ろへ倒れていた。

 

目が、正面を見ていない。

 

バスラオを見ているようで、その奥の何かを見ている。焦点が、ここではないどこかに合っていた。

 

「……おい」

 

シンが声をかける。

 

反応はある。耳がぴくりと動いた。だが、脚は動かない。前へも、後ろへも。

 

相手のトレーナーが、不思議そうな顔をした。

 

「なんだそいつ。見たことないポケモンだな」

 

「……ああ」

 

シンは答えながら、目をケルディオから離さなかった。

 

前脚が、震えている。

 

大きな震えではない。膝から下、蹄の少し上のあたりが、細かく揺れていた。地面が揺れているわけではない。寒いわけでもない。

 

昨夜、深夜に窓際で前脚を鳴らしていたときと、同じ揺れ方だった。

 

「バスラオ、みずのはどう!」

 

相手が指示を出す。

 

バスラオの口の前に、青い球が生まれた。渦を巻いて、放たれる。

 

ケルディオは避けなかった。

 

避けようとしなかったのではない。動けなかった。首をわずかに下げただけで、水の球はそのまま肩口に当たった。

 

音がして、白い体が半歩よろける。

 

決して重い一撃ではない。昨日、ミルホッグの体当たりを正面から受け止めていた個体だ。この程度で崩れる体ではない。

 

なのに、ケルディオはその半歩から立て直せなかった。

 

「もう一発、いけ!」

 

「――やめろ」

 

シンの声が出た。

 

自分でも驚くくらい、鋭い声だった。

 

相手のトレーナーがぎょっとして、指示を途中で止める。バスラオも、次の技を出しかけたまま動きを止めた。

 

シンはコートに踏み込んだ。

 

ルール違反だ。トレーナーがコートの中へ入るのは、試合の途中では認められない。だが、そんなことはどうでもよかった。

 

ケルディオのすぐ横まで来て、シンは足を止めた。

 

近づきすぎない。昨日までずっと守ってきた距離を、ここでも崩さない。

 

「もういい」

 

低く言う。

 

「戻れ」

 

赤い光がケルディオを包む。

 

抵抗はなかった。むしろ、光に触れた瞬間、張り詰めていた体から一気に力が抜けたように見えた。

 

ボールが手の中に戻る。

 

シンは顔を上げ、相手のトレーナーへ向き直った。

 

「悪い。こっちの負けだ」

 

「え、いや、でも」

 

「あいつは、今日は戦える状態じゃなかった。俺の判断ミスだ」

 

きっぱり言うと、相手は困った顔をした。悪いことをしたわけでもないのに、責められているような気分になったのだろう。

 

「気にすんな。俺のほうが悪い」

 

シンは付け加えた。

 

「出す相手を間違えた。それだけだ」

 

夕方、ポケモンセンターの裏手にある小さな中庭で、シンは石段に腰を下ろしていた。

 

ここは宿泊者用の休憩スペースで、この時間はほとんど人がいない。周囲を建物に囲まれていて、街の喧騒も届きにくい。安全が確保されている場所だ。だから、三匹とも出していた。

 

ミジュマルは膝の横に座り、フシデは足元の日なたで丸くなっている。

 

ケルディオは、少し離れた植え込みの前に立っていた。

 

震えは、もう止まっていた。

 

シンは何も言わずに、しばらくそのままでいた。日が傾いて、中庭の石畳がゆっくり色を変えていく。

 

やがて、口を開いた。

 

「昨日、お前は戦った」

 

ケルディオの耳が動く。

 

「網を弾いて、レパルダスを蹴って、ヤブクロンを止めた。あれは強かった」

 

事実を並べる。褒めているのではない。確認しているのだ。

 

「今日は、動けなかった」

 

ケルディオの首が、わずかに下がる。

 

シンは続けた。

 

「理由は、聞かない」

 

その言葉に、ケルディオが顔を上げた。

 

初めて、まっすぐシンを見た。

 

「聞いても、たぶん俺には答えられないだろうし。言葉が通じないからじゃない。……お前が、言いたくないんだと思う」

 

風が中庭を抜けていく。植え込みの葉が、小さく鳴った。

 

「でも、ひとつだけ分かることがある」

 

シンはケルディオの目を見返した。

 

「昨日と今日で、違ったのは相手じゃない。かたちだ」

 

昨日は、守るための戦いだった。今日は、向かい合うための戦いだった。

 

「正面から向き合って、名前を呼ばれて、勝ち負けを決める。……そういうのが、駄目なんだろ」

 

ケルディオは動かなかった。否定もしない。肯定もしない。

 

けれど、その目が逸れなかった。それが答えのようなものだった。

 

シンは膝の上で手を組み、少しのあいだ黙った。

 

考えていたのは、明日のジム戦のことではない。

 

「俺は、お前に戦ってほしいと思ってる」

 

正直に言った。

 

「強いからじゃない。一緒に行くって決めたやつが、いつも後ろにいるのは、たぶんお互いにきつい」

 

ケルディオの耳が、わずかに後ろへ倒れる。

 

「でもな」

 

シンは言葉を切って、それから続けた。

 

「それは、今日じゃない」

 

はっきりと言った。

 

「無理に立たせて、あの震えたまま戦わせて、それで勝っても意味がない。俺が欲しいのは、勝ちじゃない」

 

ミジュマルが、シンの膝を見上げた。フシデも、丸めていた体を少しだけ起こす。

 

「だから、戦わなくていい」

 

ケルディオの前脚が、地面を一度だけ小さく擦った。

 

「明日、ジムに行く。相手は電気タイプだ。相性で言えば、お前は悪くない。……でも、出さない」

 

言い切る。

 

「ミジュマルとフシデで行く。二匹で足りなかったら、俺が考え直す。それだけだ」

 

沈黙が落ちた。

 

石畳の上を、日の色がゆっくり移動していく。中庭の隅で、どこかから飛んできた小さな羽虫が、植え込みの葉に止まった。

 

やがて、ケルディオが歩き出した。

 

シンのほうへ。

 

一歩、二歩。昨日、西搬送路Bで詰めたのと同じ距離まで来て、そこで止まる。

 

それから、もう半歩だけ前へ出た。

 

昨日より、近い。

 

シンは動かなかった。手も伸ばさない。ただ、そこに座っていた。

 

ケルディオは首を下げ、シンの肩のあたりに鼻先を近づけた。触れる寸前で止まる。息が、シャツの布地を撫でた。

 

それだけだった。

 

すぐに離れて、少し下がる。けれど、逃げるための後退ではなかった。

 

「……ああ」

 

シンは短く言った。

 

それ以上、言葉は要らなかった。

 

その夜、宿泊部屋の窓の外には、観覧車の光が回っていた。

 

ライモンシティの夜は明るい。街全体が電気で光っていて、部屋の明かりを消しても真っ暗にはならない。

 

シンはベッドに座り、三つのボールを並べていた。

 

明日はジムだ。

 

相性は悪い。ミジュマルは水タイプで、電気には弱い。フシデは毒タイプで、電気には特別強くも弱くもない。数の上でも、二匹でジムリーダーに挑むのは無謀に近い。

 

普通のトレーナーなら、三匹目を使う。

 

シンはケルディオのボールを手に取り、しばらく見つめた。

 

それから、ベルトへ戻した。

 

「使わない」

 

声に出して言う。誰に聞かせるためでもない。自分に、はっきり刻むためだ。

 

窓際では、ケルディオが今夜も立っていた。昨夜と同じ姿勢だ。ただし、今夜は前脚を鳴らしていない。空を見ているわけでもない。

 

ただ、部屋の中を見ていた。

 

丸くなって眠るミジュマルとフシデ。荷物。壁に立てかけた杖代わりの枝。そして、ベッドに座るシン。

 

ひとつずつ、確かめるように見ている。

 

シンは明かりを落とし、横になった。

 

天井を見上げながら、昼のバトルコートを思い出す。動けなかった前脚。焦点の合わない目。あれが何なのか、シンにはまだ何も分かっていない。

 

分からないまま、明日ジムへ行く。

 

それでいい、と思った。

 

分かるまで待つのではなく、分からないまま隣に置いておく。そういう距離の測り方もあるはずだ。昨日、ボールに触れた前脚が教えたのは、たぶんそういうことだった。

 

「明日は、俺たちが勝つ」

 

暗い天井へ向かって、シンは言った。

 

ミジュマルが寝返りを打つ音がした。フシデの触角が、短く床を叩いた。

 

窓際の気配は、動かなかった。

 

けれど、逃げてもいなかった。

 

眠りに落ちる直前、シンはもう一度だけ、昼のコートを思い返した。

 

自分が悪かった。あれは、確かめるための一戦だった。確かめる必要があると思った時点で、出すべきではなかったのだ。試すという行為そのものが、あの個体にとっては刃になる。

 

――次は、間違えない。

 

そう決めて、目を閉じた。

 

観覧車の光が、カーテンの隙間から一定の速さで流れ込んでくる。その明滅が瞼の裏で薄く回るのを感じながら、シンの意識はゆっくり沈んでいった。

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