朝の光は、昨日の夕方よりずっと素直だった。
ポケモンセンターの二階、宿泊部屋の窓から差し込む白い光が、床に置いた布の縁を照らしている。シンはベッドの上で一度だけ大きく息を吸い、それから体を起こした。
肩が重い。昨日の西搬送路Bで、資材の影に何度も体を滑り込ませたせいだ。膝の外側にも、うっすらと擦った跡が残っている。人間の体は正直だった。
部屋の隅では、ミジュマルがすでに起きていた。丸めた布の上で前脚を伸ばし、シンの顔を覗き込むように待っている。フシデはまだ半分眠っていて、触角だけがゆっくり動いていた。
そして。
窓際に、ケルディオがいた。
昨夜、寝る前に見たときと同じ場所だ。ただし姿勢は違う。伏せてはいない。四本の脚で、まっすぐ立っている。首を持ち上げ、ガラスの向こうの空を見ていた。
シンは声をかけようとして、やめた。
その横顔が、昨日の夜中に見たものと同じだったからだ。
深夜、物音で目を覚ましたとき、ケルディオはこの場所で前脚を鳴らしていた。夢を見ているのか、外の何かに反応しているのか、判断がつかなかった。シンが近づかずに声をかけると、しばらくしてから緊張を解いて布へ戻っていった。
あのときと、今の目の色は違う。
夜中のそれは、何かに追われている目だった。今は、追われてはいない。ただ、追われていた記憶を確かめているような、そういう静けさがある。
「起きてたのか」
結局、そう声をかけた。
ケルディオの耳が動く。振り返りはしない。けれど、逃げるための身構えもしなかった。それが昨日までとの違いだった。
シンは荷物のところへ行き、まず水筒の中身を確かめた。それから、昨日使わずに残しておいた清潔な布を畳み直す。西搬送路Bに置いてきた水皿と布は、今日のうちに回収して洗わなければならない。街の管理区画に私物を放置したままにしておくのは、単純に迷惑だ。
「今日は、まず昨日のところへ行く」
支度をしながら、独り言のように言う。
「置いてきたもんを片づけて、そのあとで街の様子を見る」
ミジュマルがすぐに反応して、短く鳴いた。フシデもようやく完全に目を覚まし、体を伸ばしている。
ケルディオだけが、何も返さなかった。
けれど、シンが荷物を背負って立ち上がったとき、その脚は自然にドアのほうへ向いていた。ついてくる気はあるらしい。
シンは腰のベルトからボールを一つ外した。昨日、ケルディオが自分から前脚で触れた、あのボールだ。
「街の中は、あんまり大っぴらに歩けない」
説明する。命令ではなく、事情を伝えるための声だった。
「お前は目立つ。ライモンは人が多い。騒ぎになると、動きづらくなる」
ケルディオの視線が、ボールへ落ちる。
昨日、初めて触れたときのような迷いはなかった。ただ、完全に納得している顔でもない。それでも、赤い光が差し出されたとき、避けはしなかった。
光がケルディオを包み、ボールが手の中で一度だけ揺れて、静かになる。
シンはそれをベルトに戻し、ミジュマルを見た。
「お前は出ててくれ。フシデ、悪いけど今日は入っててくれるか」
フシデは短く体を弾ませてから、素直にボールの中へ収まった。街中で百足型のポケモンを長く歩かせると、人の視線を集める。悪意ではなく、単純にぎょっとされる。フシデ自身もそれを分かっていて、混雑した場所では自分から早く戻りたがった。
外へ出るのはミジュマル一匹。それが、この街での基本だった。
ライモンシティの朝は早い。
まだ観覧車が動き出す前の時間なのに、大通りにはもう人が出ていた。屋台の準備をする声、荷を運ぶ台車の音、遠くで鳴っている工事のブザー。夜の街とは違う種類のうるささが、朝の光の下に散らばっている。
シンはミジュマルを足元に連れて、人の流れの端を歩いた。
西搬送路Bへ続く区画に近づくにつれ、人の数は減っていく。工事用のフェンスが増え、看板の文字が事務的になる。昨日ここを通ったときは夕方で、影が長かった。今は影が短い分、床の汚れや傷がよく見えた。
「昨日の場所だ」
角を曲がったところで、シンは足を止めた。
鉄骨の柱、積み上がった資材、横倒しになったままの台車。プラズマ団が置いていったそれは、まだ誰も片づけていなかった。だが周囲を見る限り、彼らが戻ってきた形跡はない。撒き餌の甘い匂いも、水で流したきり戻っていなかった。
シンは壁際へ向かい、置いてきた水皿を拾い上げた。
中身は、ほとんど減っていない。
「……来てないな」
エモンガたちは昨日の夕方、東の空へ飛んでいった。ここへ戻ってくる理由は、もうない。分かっていたことだ。
それでもシンは、水皿を持ち上げたまま、少しのあいだ梁の上を見上げた。
錆びたボルトの近く、二匹が身を潜めていた暗がり。今はただの影だ。何もいない。
ミジュマルが、シンの足元で小さく鳴いた。
「ああ。分かってる」
シンは水皿の中身を排水溝へ空け、布を回収して荷物へ入れた。使った分は洗って乾かす。まだきれいな一枚だけは、昨日と同じ場所に残しておいた。ここを通る何かが、いつか必要とするかもしれない。
作業を終えて振り返ると、通路の奥から作業服の男が歩いてきた。ヘルメットを片手に持ち、もう片方には点検用の記録板を抱えている。
「兄ちゃん、こんなとこで何してんだ」
咎める声ではなかった。単純に、こんな時間にこんな場所にいる人間が珍しかったのだろう。
「昨日、置いていったものを取りに来ました」
シンは正直に答えた。隠す理由もない。
男は横倒しの台車を見て、それから床の濡れた跡を見た。
「昨日の騒ぎ、あんたか」
「……騒ぎになってましたか」
「笛が鳴ったからな。警備が来たときにはもう誰もいなかったが」
男は台車の脇にしゃがみ、シートをめくった。伸縮棒の残骸と、破れた袋網が出てくる。
「うちの備品じゃない。誰かが持ち込んで、置いていった」
「黒い制服の二人組でした」
シンが言うと、男は一瞬だけ手を止めた。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。聞いても仕方がないと思ったのか、あるいは、その手の話に関わりたくなかったのか。シンはどちらでも構わなかった。伝えるべきことは伝えた。
「ここ、しばらく夜間の巡回を増やすらしい。上がそう決めた」
男は立ち上がり、記録板に何かを書き込む。
「あんたも、夜は来るな」
「はい」
素直にうなずいた。
男は満足したのか、それ以上何も言わずに奥へ歩いていった。その背中を見送ってから、シンはもう一度だけ梁を見上げ、それから背を向けた。
大通りへ戻る途中、細い路地の前を通りかかったとき、ミジュマルが立ち止まった。
シンも足を止める。
路地の奥、積み重なった空き箱の隙間。そこに、灰色がかった白い毛の塊があった。
チラーミィだ。
シンは近づかなかった。三日前にも、二日前にも、この個体とは顔を合わせている。最初は逃げられた。二度目は、少し離れた場所からじっと見られた。今日は、三度目だった。
チラーミィは箱の上に座り、前脚で耳の毛を整えていた。シンたちが立ち止まったことに気づいていないはずがないのに、慌てる素振りはない。整え終えると、今度は箱の縁に落ちていた埃を、丁寧に払い落とし始めた。
きれい好き、というより、そういう性分なのだろう。汚れているものが目に入ると、放っておけない。
「相変わらずだな」
シンが小さく言うと、チラーミィはようやく顔を上げた。
じっと見てくる。値踏みするような目ではない。どちらかと言えば、点検している目だった。シンの服の汚れ、荷物の掛け方、ミジュマルの毛並み。ひとつずつ確かめて、それから小さく鼻を鳴らす。
合格なのか不合格なのか、判断はつかなかった。
「今日は何も持ってきてない」
言い訳のように言う。
チラーミィは箱から降り、少しだけ近づいてきた。三歩。そこで止まる。それ以上は来ない。
昨日、ケルディオが詰めた距離のことを思い出した。あれは特別だった。何日もかけて測り直した末に、ようやく一歩分だけ動いたものだ。
このチラーミィとの距離も、たぶん同じだ。急いで縮めようとすれば、その分だけ遠ざかる。
「またな」
短く言って、シンは歩き出した。
チラーミィは追ってこなかった。けれど、路地を出るまで、視線だけはずっと背中に張りついていた。
昼を過ぎたころ、シンはライモンジムの前にいた。
巨大なドーム型の建物が、日差しを跳ね返している。壁面には電飾が組み込まれていて、夜になれば街の目印になる。今は光っていないが、それでも周囲の建物より一段大きく見えた。
正面の入口には、順番待ちの挑戦者が数人並んでいる。
シンは列に並ばず、少し離れた場所から建物を見上げた。
「電気タイプのジム」
自分に確認するように言う。
「リーダーはカミツレ。……らしいな」
昨日、ポケモンセンターの受付で聞いた名前だ。街の人間なら誰でも知っていて、しかも十人中十人が「強い」と言った。誇張ではなく、事実として。
シンは足元のミジュマルを見た。
「相性は悪い」
みずタイプに、でんきタイプ。それだけで、正面からぶつかるには不利がある。
ミジュマルは首をかしげ、それから胸を張った。相性が悪いことを知っているのか知らないのか、どちらにせよ、怯む様子はない。
シンは少しだけ笑った。
「そうだな。まだ挑む前だ」
けれど、その笑いはすぐに引っ込んだ。
手持ちは三匹。ミジュマル、フシデ、ケルディオ。
数だけを見れば足りている。だが。
シンはベルトのボールに手を触れた。
昨日の西搬送路Bで、ケルディオは戦った。網の軌道をアクアジェットで弾き、レパルダスをにどげりで吹き飛ばし、ヤブクロンの臭気をバブルこうせんで押し返した。あれは間違いなく戦闘だった。
だが、それは「守るため」の動きだった。
エモンガが網に捕まる寸前だったから、体が先に出た。相手を倒すためではなく、間に合わせるための動きだ。
ジム戦は違う。
向かい合って、名前を呼ばれて、指示を受けて、正面から打ち合う。逃げ場のない、試合としての戦闘。
――それを、この個体はできるのか。
シンには確信がなかった。
ジムの近く、街の広場に設けられたバトルコートは、午後になると空きが出る。
シンがそこへ足を向けたのは、確かめるためだった。
コートの一つに、同年代くらいのトレーナーがいた。使い込んだ帽子をかぶり、足元にヨーテリーを連れている。順番待ちをしていたが、相手が見つからずに手持ち無沙汰にしていたらしい。
「一戦、いいか」
シンが声をかけると、相手はすぐに顔を上げた。
「お、やる? 二対二でいい?」
「頼む」
コートの端と端に分かれる。審判はいない。街の広場のバトルコートは、そういう気軽な場所だった。
「ヨーテリー、いけ!」
相手が最初に出したのは、足元にいたヨーテリーだった。小さな体で軽快に飛び出し、コートの中央近くまで走り込む。
シンはボールを一つ手に取った。
「ミジュマル」
呼ぶまでもなく、ミジュマルはすでに前へ出ていた。殻を腹の前で構え、低い姿勢を取る。
戦いは短かった。
ヨーテリーのたいあたりを殻で受け、角度を変えて流す。踏み込みが崩れたところへ、みずでっぽうを至近から叩き込む。相手のトレーナーが「かみつけ」と叫んだときには、ミジュマルはもう横へ回り込んでいた。
「そこまで!」
相手が手を上げる。ヨーテリーが尻もちをついて、それきり立ち上がらなかった。
「強いな、そのミジュマル」
「ありがとう」
シンは短く答え、ミジュマルを下がらせた。まだ余力はある。だが、今日はミジュマルの調子を測りに来たわけではなかった。
相手が次のボールを構える。
「次、バスラオ!」
赤い光がはじけ、コートに現れたのは赤い筋の入ったバスラオだった。水タイプ。気性が荒く、コートに現れた瞬間から相手を睨みつけている。
シンは、ベルトのボールに手を伸ばした。
ケルディオのボールだ。
指がボタンにかかる。
そこで、一瞬だけ止まった。
――大丈夫か。
問いかける相手は、目の前にいない。ボールの中だ。答えは返らない。
シンはボタンを押した。
白い光がコートに落ち、かたちを結ぶ。
ケルディオが現れた。
その瞬間、シンは自分の判断が間違っていたことを理解した。
ケルディオは、動かなかった。
コートの土の上に降り立ったまま、四本の脚が固まっている。首はわずかに下がり、耳は後ろへ倒れていた。
目が、正面を見ていない。
バスラオを見ているようで、その奥の何かを見ている。焦点が、ここではないどこかに合っていた。
「……おい」
シンが声をかける。
反応はある。耳がぴくりと動いた。だが、脚は動かない。前へも、後ろへも。
相手のトレーナーが、不思議そうな顔をした。
「なんだそいつ。見たことないポケモンだな」
「……ああ」
シンは答えながら、目をケルディオから離さなかった。
前脚が、震えている。
大きな震えではない。膝から下、蹄の少し上のあたりが、細かく揺れていた。地面が揺れているわけではない。寒いわけでもない。
昨夜、深夜に窓際で前脚を鳴らしていたときと、同じ揺れ方だった。
「バスラオ、みずのはどう!」
相手が指示を出す。
バスラオの口の前に、青い球が生まれた。渦を巻いて、放たれる。
ケルディオは避けなかった。
避けようとしなかったのではない。動けなかった。首をわずかに下げただけで、水の球はそのまま肩口に当たった。
音がして、白い体が半歩よろける。
決して重い一撃ではない。昨日、ミルホッグの体当たりを正面から受け止めていた個体だ。この程度で崩れる体ではない。
なのに、ケルディオはその半歩から立て直せなかった。
「もう一発、いけ!」
「――やめろ」
シンの声が出た。
自分でも驚くくらい、鋭い声だった。
相手のトレーナーがぎょっとして、指示を途中で止める。バスラオも、次の技を出しかけたまま動きを止めた。
シンはコートに踏み込んだ。
ルール違反だ。トレーナーがコートの中へ入るのは、試合の途中では認められない。だが、そんなことはどうでもよかった。
ケルディオのすぐ横まで来て、シンは足を止めた。
近づきすぎない。昨日までずっと守ってきた距離を、ここでも崩さない。
「もういい」
低く言う。
「戻れ」
赤い光がケルディオを包む。
抵抗はなかった。むしろ、光に触れた瞬間、張り詰めていた体から一気に力が抜けたように見えた。
ボールが手の中に戻る。
シンは顔を上げ、相手のトレーナーへ向き直った。
「悪い。こっちの負けだ」
「え、いや、でも」
「あいつは、今日は戦える状態じゃなかった。俺の判断ミスだ」
きっぱり言うと、相手は困った顔をした。悪いことをしたわけでもないのに、責められているような気分になったのだろう。
「気にすんな。俺のほうが悪い」
シンは付け加えた。
「出す相手を間違えた。それだけだ」
夕方、ポケモンセンターの裏手にある小さな中庭で、シンは石段に腰を下ろしていた。
ここは宿泊者用の休憩スペースで、この時間はほとんど人がいない。周囲を建物に囲まれていて、街の喧騒も届きにくい。安全が確保されている場所だ。だから、三匹とも出していた。
ミジュマルは膝の横に座り、フシデは足元の日なたで丸くなっている。
ケルディオは、少し離れた植え込みの前に立っていた。
震えは、もう止まっていた。
シンは何も言わずに、しばらくそのままでいた。日が傾いて、中庭の石畳がゆっくり色を変えていく。
やがて、口を開いた。
「昨日、お前は戦った」
ケルディオの耳が動く。
「網を弾いて、レパルダスを蹴って、ヤブクロンを止めた。あれは強かった」
事実を並べる。褒めているのではない。確認しているのだ。
「今日は、動けなかった」
ケルディオの首が、わずかに下がる。
シンは続けた。
「理由は、聞かない」
その言葉に、ケルディオが顔を上げた。
初めて、まっすぐシンを見た。
「聞いても、たぶん俺には答えられないだろうし。言葉が通じないからじゃない。……お前が、言いたくないんだと思う」
風が中庭を抜けていく。植え込みの葉が、小さく鳴った。
「でも、ひとつだけ分かることがある」
シンはケルディオの目を見返した。
「昨日と今日で、違ったのは相手じゃない。かたちだ」
昨日は、守るための戦いだった。今日は、向かい合うための戦いだった。
「正面から向き合って、名前を呼ばれて、勝ち負けを決める。……そういうのが、駄目なんだろ」
ケルディオは動かなかった。否定もしない。肯定もしない。
けれど、その目が逸れなかった。それが答えのようなものだった。
シンは膝の上で手を組み、少しのあいだ黙った。
考えていたのは、明日のジム戦のことではない。
「俺は、お前に戦ってほしいと思ってる」
正直に言った。
「強いからじゃない。一緒に行くって決めたやつが、いつも後ろにいるのは、たぶんお互いにきつい」
ケルディオの耳が、わずかに後ろへ倒れる。
「でもな」
シンは言葉を切って、それから続けた。
「それは、今日じゃない」
はっきりと言った。
「無理に立たせて、あの震えたまま戦わせて、それで勝っても意味がない。俺が欲しいのは、勝ちじゃない」
ミジュマルが、シンの膝を見上げた。フシデも、丸めていた体を少しだけ起こす。
「だから、戦わなくていい」
ケルディオの前脚が、地面を一度だけ小さく擦った。
「明日、ジムに行く。相手は電気タイプだ。相性で言えば、お前は悪くない。……でも、出さない」
言い切る。
「ミジュマルとフシデで行く。二匹で足りなかったら、俺が考え直す。それだけだ」
沈黙が落ちた。
石畳の上を、日の色がゆっくり移動していく。中庭の隅で、どこかから飛んできた小さな羽虫が、植え込みの葉に止まった。
やがて、ケルディオが歩き出した。
シンのほうへ。
一歩、二歩。昨日、西搬送路Bで詰めたのと同じ距離まで来て、そこで止まる。
それから、もう半歩だけ前へ出た。
昨日より、近い。
シンは動かなかった。手も伸ばさない。ただ、そこに座っていた。
ケルディオは首を下げ、シンの肩のあたりに鼻先を近づけた。触れる寸前で止まる。息が、シャツの布地を撫でた。
それだけだった。
すぐに離れて、少し下がる。けれど、逃げるための後退ではなかった。
「……ああ」
シンは短く言った。
それ以上、言葉は要らなかった。
その夜、宿泊部屋の窓の外には、観覧車の光が回っていた。
ライモンシティの夜は明るい。街全体が電気で光っていて、部屋の明かりを消しても真っ暗にはならない。
シンはベッドに座り、三つのボールを並べていた。
明日はジムだ。
相性は悪い。ミジュマルは水タイプで、電気には弱い。フシデは毒タイプで、電気には特別強くも弱くもない。数の上でも、二匹でジムリーダーに挑むのは無謀に近い。
普通のトレーナーなら、三匹目を使う。
シンはケルディオのボールを手に取り、しばらく見つめた。
それから、ベルトへ戻した。
「使わない」
声に出して言う。誰に聞かせるためでもない。自分に、はっきり刻むためだ。
窓際では、ケルディオが今夜も立っていた。昨夜と同じ姿勢だ。ただし、今夜は前脚を鳴らしていない。空を見ているわけでもない。
ただ、部屋の中を見ていた。
丸くなって眠るミジュマルとフシデ。荷物。壁に立てかけた杖代わりの枝。そして、ベッドに座るシン。
ひとつずつ、確かめるように見ている。
シンは明かりを落とし、横になった。
天井を見上げながら、昼のバトルコートを思い出す。動けなかった前脚。焦点の合わない目。あれが何なのか、シンにはまだ何も分かっていない。
分からないまま、明日ジムへ行く。
それでいい、と思った。
分かるまで待つのではなく、分からないまま隣に置いておく。そういう距離の測り方もあるはずだ。昨日、ボールに触れた前脚が教えたのは、たぶんそういうことだった。
「明日は、俺たちが勝つ」
暗い天井へ向かって、シンは言った。
ミジュマルが寝返りを打つ音がした。フシデの触角が、短く床を叩いた。
窓際の気配は、動かなかった。
けれど、逃げてもいなかった。
眠りに落ちる直前、シンはもう一度だけ、昼のコートを思い返した。
自分が悪かった。あれは、確かめるための一戦だった。確かめる必要があると思った時点で、出すべきではなかったのだ。試すという行為そのものが、あの個体にとっては刃になる。
――次は、間違えない。
そう決めて、目を閉じた。
観覧車の光が、カーテンの隙間から一定の速さで流れ込んでくる。その明滅が瞼の裏で薄く回るのを感じながら、シンの意識はゆっくり沈んでいった。