朝、宿泊部屋を出る前に、シンはボールを三つ並べた。
ミジュマル、フシデ、ケルディオ。
昨日の中庭で言ったことを、もう一度なぞる必要はなかった。それでもシンは、ケルディオのボールを手に取り、しばらく掌の上で見つめた。
「行ってくる」
短く言う。
「お前は、宿で待っててもいい。……けど、たぶん、そうしないだろ」
ボタンを押すと、白い光が床に落ちた。
ケルディオが現れる。
窓際に立っていた昨夜の姿勢と同じ、まっすぐな四つ足。ただし目は逸れていない。シンの顔を、正面から見ていた。
「ジムには連れて行く。でも、コートには出さない」
シンははっきり言った。
「見てるだけでいい。それが嫌なら、ここに置いていく」
ケルディオは動かなかった。逃げも、うなずきもしない。
ただ、シンが荷物を背負って立ち上がったとき、その脚は先にドアのほうを向いていた。
「……分かった」
シンは小さく笑い、ボールを構えた。
「じゃあ、行くぞ」
赤い光がケルディオを包む。抵抗はなかった。
足元では、すでにミジュマルが待っていた。
「ミジュ」
短く鳴く。いつもより低い声だった。今日が何の日か、この個体は分かっている。
「ああ。今日だ」
シンはミジュマルの頭を軽く叩き、部屋を出た。
ライモンジムの正面に立つと、朝の光を跳ね返すドームの壁が、まぶしくて目を細めるほどだった。
昨日は列に並ばずに帰った。今日は並ぶ。
前に五人。そのうち三人が、挑戦して負けて出てきた。ひとりは肩を落とし、ひとりは笑って「また来る」と言い、もうひとりは何も言わずに通り過ぎた。
シンは列の中で、ずっと黙っていた。
自分の番が来て中へ入ると、正面に赤い作業服の男が立っていた。ヘルメットの下から人懐こい顔を覗かせている。ジムの案内係――通称ガイドーだ。
「どうっすか! 驚いたでしょう!?」
いきなり大声だった。
「このジムは見てのとおり、ジェットコースターなんすよね!!」
シンは天井を見上げた。
確かに、ジェットコースターだった。
広いドームの内部を、鉄のレールが何本も走っている。上へ、横へ、ねじれるように交差し、途中で分岐し、また合流する。その上を、四人乗りほどの小さなコースターがゆっくり移動していた。人間が乗るための遊具ではない。挑戦者をリーダーのところまで運ぶための、移動装置だ。
「乗り場はあっち。ただし、そのままじゃリーダーのところまでは行けないっす。途中でトレーナーが待ってるんで」
ガイドーは指を三本立てた。
「三人。倒せば、レールの分岐が切り替わる。それで奥まで行けるようになってるんすよ」
「分かった」
「あ、あとひとつだけ」
ガイドーが声を少しだけ落とした。
「電気タイプに地面技が効くのは常識っすけど、リーダーの手持ちには効かないのが混ざってるんで。そこだけは気をつけたほうがいいっす」
シンは足を止め、振り返った。
「効かない?」
「それ以上は言えないっすねえ。ジムの案内係なんで」
にやりと笑って、ガイドーは手を振った。
シンは軽く頭を下げて、乗り場へ向かった。
――地面技が効かない、電気タイプ。
歩きながら、頭の中で候補を挙げる。地面技を無効にするのは、飛行タイプか、特性ふゆう。電気と飛行の複合。
思い当たるものが、ひとつあった。
「……エモンガか」
昨日まで、西搬送路Bで守っていた相手と同じ種族。
皮肉な話だと思った。
コースターは、思ったよりゆっくり動いた。
レールに沿って高度を上げ、ドームの天井近くを横切る。眼下には、電飾で装飾されたステージがいくつも見える。ここは戦うための場所であると同時に、見せるための場所でもあるらしい。
最初の停留所で、ジムトレーナーが待っていた。
「ようこそ、光のジムへ!」
派手なジャケットを着た若い男が、大げさに手を広げる。
「シビシラス、いくよ!」
現れたのは、青白い体をした小さなポケモンだった。目玉のような模様がふたつ、体の前面についている。
シンは迷わずボールを投げた。
「フシデ」
「フシッ!」
赤い光の中から、フシデが飛び出す。低く体を伸ばし、触角を前へ向けた。
「シビシラス、でんきショック!」
小さな体から電気が走る。
「かわせ!」
フシデの体が横へ流れた。地面すれすれを走る動きは、電気の直線とは相性がいい。多足の体は方向転換が速く、狙いを外させることに長けている。
「どくばり!」
紫の針が、シビシラスの側面へ突き刺さる。
「シデェッ!」
一撃では落ちない。だが、二撃目のときには相手の動きが目に見えて鈍っていた。毒が回っている。
「もう一回!」
三撃目で、シビシラスは床に落ちた。
「うわ、速い……!」
トレーナーが慌ててボールを構える。
シンはすでに次を見ていた。この程度で消耗するわけにはいかない。ジムリーダーはこの先だ。
二人目、三人目のトレーナーも、似たような流れで抜けた。
フシデが二人、ミジュマルが一人。どちらも大きな消耗はない。だが、電気技を受けた回数だけ、確実に体には残っている。ミジュマルは水タイプだ。相性は最悪に近い。まともに食らえば、一撃で足に来る。
分岐が切り替わり、コースターが最後のレールへ入った。
高度が上がる。
ドームの中央、一段高い場所に、光の集まる場所があった。
そこは、ステージだった。
円形の床。周囲を囲む照明。中央に立つ人影に、真上からスポットライトが落ちている。
金髪をショートに切りそろえた、背の高い女性だった。黄色と黒のコートに、耳には大ぶりのヘッドホン。細いフレームのサングラス越しに、こちらを見ている。
カミツレ。
写真では何度も見た顔だ。だが、実物は写真より、はるかに大きく見えた。背の高さの話ではない。そこに立っているだけで、周囲の光がその人のほうへ集まっていくような、そういう存在感だった。
「ようこそ、このステージへ」
低く、澄んだ声だった。
「わたしの愛しのポケモンたちと、あなたのポケモン……!」
サングラスの奥で、目が細くなる。
「どちらの輝きが本物か、確かめさせてもらうわ」
シンはステージの反対側に立ち、荷物を下ろした。
「シンだ。カラクサタウンから来た」
「シン、ね」
カミツレはその名前を一度だけ口の中で転がした。
「あら。緊張してる?」
「してる」
正直に答えた。
「ふふ。いいことよ」
彼女は肩をすくめた。
「緊張していない子は、たいてい一分でステージから降りることになるから」
そして、コートの内側からボールを抜く。
「三対三。……あなた、手持ちは?」
シンは一瞬、間を置いた。
「二匹で行く」
カミツレの動きが止まった。
サングラスがわずかに下がり、その奥の目が完全に見えた。青みがかった、鋭い目だった。
「三匹持っているのに?」
見抜かれている。ベルトのボールは三つ。数えれば分かることだ。
「持ってる。でも、出さない」
「……理由を聞いても?」
「今日は、戦わせない」
シンははっきり言った。
「そう決めた」
しばらく、カミツレは何も言わなかった。
ステージの照明が、ジジ、と小さな音を立てる。
やがて彼女は、口の端を上げた。
「ステキ」
想像していた反応ではなかった。
「ハンデのつもりならやめておきなさい、って言うところだけど……」
カミツレはボールを高く掲げた。
「その顔は、ハンデを出してる顔じゃないもの」
スポットライトの光が、ボールの表面で跳ねる。
「いいわ。二匹で来なさい。――エモンガ! スポットライトの中へ!」
白い光がステージに落ちる。
現れたのは、黄色と黒の小さな体だった。頬に丸い模様。腕と胴のあいだに広がった膜。空を滑るための翼だ。
「エモッ!」
高く鳴いて、そいつは軽々と宙へ舞い上がった。
シンの喉が、一度だけ鳴った。
昨日まで守っていた種族。だが、この個体は野生ではない。ジムリーダーに鍛えられた個体だ。宙に浮かんだまま、こちらを見下ろす目に、怯えは欠片もなかった。
「フシデ、頼む」
「フシッ!」
「エモンガ、ボルトチェンジ!」
初手からだった。
エモンガの体が電気をまとい、弾丸のように急降下してくる。フシデが横へ跳んだが、狙いは正確だった。肩口に電気の塊が突き刺さる。
「シデッ――!」
短い悲鳴。
そして次の瞬間、エモンガの姿がステージから消えた。
「え」
赤い光。カミツレの手元へ戻っている。ボルトチェンジ。攻撃したあと、自分から引っ込む技だ。
「もう一匹のエモンガ! スポットライトの中へ!」
出てきたのは、同じくエモンガ。だが体の線が少し細い。目つきも違う。
「エモーッ!」
「つばめがえし!」
膜を広げたエモンガが、鋭い弧を描いてフシデへ突っ込んだ。
避けられない技だ。
シンは瞬時に判断を切り替えた。
「フシデ、丸まれ!」
「フシッ!」
フシデが体を縮め、外骨格の硬い部分を上へ向けた。真正面から受ける。衝撃で体が押し出され、ステージの床を滑る。
だが、倒れなかった。
「よし、そのまま――どくばり!」
滑りながら、フシデが針を放つ。上空のエモンガの膜をかすめた。
「エモッ!?」
軌道が乱れる。
「いいわね。狙いが冷静」
カミツレの声には、余裕がまだあった。
「でも、その子……速さでは追いつけないでしょう?」
その通りだった。
フシデは地上の生き物だ。跳躍はできるが、飛べない。空を取られている時点で、こちらの攻撃はほとんど当たらない。
「つばめがえし、もう一度!」
二撃目が来る。
「フシデ、床!」
シンは叫んだ。
フシデが理解した。丸まった体を、そのまま横へ転がす。ころがるように床を進み、突っ込んできたエモンガの真下をくぐった。
エモンガが空振りする。急降下から立て直すまでの、わずかな時間。
「今だ、どくばり!」
「シデェェッ!」
至近距離から、針の連射。
今度は当たった。エモンガの膜に紫の点が散り、体が大きく揺れる。
「エモォ……ッ」
「毒が入った」
シンが言うと、カミツレは軽く息を吐いた。
「ええ。入ったわね」
だが、その声はまだ焦っていなかった。
「――でも、あなたのその子も、限界でしょう?」
見抜かれている。
フシデの体は、最初のボルトチェンジと、つばめがえし一発を正面から受けている。外骨格には亀裂が走り、脚の動きも鈍っていた。
「エモンガ、でんきショック!」
上空から電気が走る。
避けられなかった。
「シデ……ッ」
フシデの体が痙攣し、そのまま床に伏せる。触角がゆっくり垂れた。
「フシデ!」
シンは駆け寄りたい衝動を抑え、ボールを構えた。
「よくやった。……本当に、よくやった」
赤い光がフシデを包む。
これで、残りは一匹。
相手は、毒を受けたエモンガと、無傷のエモンガと、まだ姿を見せていない切り札。
三対一。
シンは、腰のベルトに触れた。
指が、ケルディオのボールをかすめる。
――出せば、勝てるかもしれない。
水と格闘の複合。電気には弱い。だが、あの蹴りの威力なら、エモンガ程度は一撃で落とせる。
指が、そこで止まった。
昨日の震えを思い出す。焦点の合わない目。動かなかった前脚。
シンは指をずらし、隣のボールを取った。
「ミジュマル」
「ミジュッ!」
現れたミジュマルは、腹の前で殻を構え、すぐに低い姿勢を取った。
「あら、その子」
カミツレが小さく声を上げた。
「水タイプ。……このステージに、一番来てほしくない子ね」
「そうか?」
「ええ。だって――」
彼女は指を鳴らした。
「一番、危ないから」
エモンガの電気が走る。
「ミジュマル、右!」
短い指示。ミジュマルは殻を盾にして半身をずらし、電気を斜めに逃がした。それでも、完全には避けきれない。青い体の毛先が焦げる。
「ミジュ……ッ」
「痛いだろうけど、耐えろ!」
シンは声を張った。
「そいつは毒が回ってる! あと少しだ!」
ミジュマルの目が変わった。
「ミジュッ!」
「みずでっぽう!」
青い線が、上空のエモンガへ向かって走る。
当たらない。エモンガは膜を広げて滑るように避けた。
「甘いわ。空を飛ぶ子に、まっすぐ撃っても届かない」
カミツレの言葉は正しかった。
だが、シンはもう一手を見ていた。
「ミジュマル、天井!」
「ミジュ!?」
「照明だ! そこを狙え!」
ミジュマルが上を向く。エモンガのさらに上、ステージを照らす照明の一つ。
みずでっぽうが、そこへ命中した。
強い光の中に水が飛び込む。ばちん、と乾いた音がして、照明が一瞬だけ消えた。
エモンガの視界が、ほんの一瞬だけ暗くなる。
「エモッ!?」
滑空の軌道がぶれた。
「今だ! たいあたり!」
床を蹴ったミジュマルが、下から突き上げるようにぶつかる。
小さな体が跳ね上がり、そこへ毒のダメージが重なった。
「エモォ……」
エモンガが床に落ちる。動かない。
「……一匹」
シンは息を吐いた。
「照明を撃つなんて、考えたこともなかったわ」
カミツレは倒れたエモンガをボールに戻しながら、感心したように言った。
「うちのジムの照明代、高いのよ?」
「悪い」
「ふふ、冗談。……でも、次はそう簡単にいかないから」
彼女は二つ目のボールを構えた。
「エモンガ! スポットライトの中へ!」
無傷のほうのエモンガが、ステージへ戻ってくる。
「エモッ!」
ここからが、本当の苦戦だった。
「ボルトチェンジ!」
急降下。ミジュマルが殻で受ける。
「ミジュッ……!」
電気が体を走り、そのままエモンガは引っ込む――と思ったら、戻らなかった。
「あら、戻さないの? って顔ね」
カミツレが笑う。
「ボルトチェンジは、戻る技。でも、戻る先がなければ、戻らない」
そうだ。カミツレの残りは、ゼブライカ一匹。まだ切り札は出したくないのだろう。
つまり、このエモンガは逃げない。
「つばめがえし!」
鋭い一撃が、ミジュマルの脇腹に入った。
「ミジュゥッ!」
体が吹き飛び、ステージの縁近くまで転がる。
「ミジュマル!」
シンは叫んだ。
ミジュマルは、すぐには立たなかった。
殻を杖のようにして床につき、震える脚で押し上げる。一度、二度、失敗して、三度目でやっと立った。
「……ミジュ」
弱い声だった。
だが、目は死んでいなかった。
シンは奥歯を噛んだ。
相性が悪い。速さで負けている。空を取られている。
――どうする。
考えろ。西搬送路Bで、網から逃げる相手をどう捕まえた。逃げ道を塞いだ。台車を倒して、道を殺した。
空は殺せない。だが。
「ミジュマル」
シンは低く言った。
「あいつが降りてくるのは、いつだ」
「ミジュ?」
「攻撃するときだ」
その一言で、ミジュマルの姿勢が変わった。
構えを解いたのだ。
殻を下ろし、体の力を抜く。まるで、もう戦う気がないように見える。
「……あら?」
カミツレが眉を寄せた。
「降参?」
「まさか」
シンは笑わなかった。
「エモンガ、つばめがえし!」
来る。
膜を広げたエモンガが、鋭い弧を描いて降下してくる。避けられない技。だからこそ、必ず当たる場所へ来る。
ミジュマルは動かない。
「――今!」
シンが叫んだ瞬間、ミジュマルが殻を跳ね上げた。
腹の前ではない。真上へ。
つばめがえしの軌道に、殻が割り込む。硬い貝殻と、鋭い翼が正面から衝突した。
「エモッ!?」
弾かれたのはエモンガだった。速度に乗った体は、止まれない。軌道を殺されて、そのまま床へ叩きつけられる。
「みずでっぽう、ゼロ距離!」
「ミジュゥッ!」
倒れたエモンガへ、水が真上から降り注いだ。
床に水たまりができる。エモンガはその中で、二度ほど身をよじって、動かなくなった。
「……二匹」
シンの膝が、少しだけ笑っていた。
「ステキ」
カミツレの声が、ステージに響いた。
「本当に、ステキ」
彼女は倒れたエモンガをボールに戻し、それを胸に当てるようにして持った。
「うちの子たちが、二匹とも落ちたのは……久しぶりよ」
そして、最後のボールを抜く。
「でもね」
サングラスを、指で押し上げた。
「ドラマチックに勝つには、ピンチも必要なのよ」
ボールが宙へ投げられる。
「ゼブライカ! スポットライトの中へ!」
現れた瞬間、ステージの空気が変わった。
黒と白の縞模様。長い脚。たてがみは黄色く逆立ち、そこから細かい火花が散っている。
「ゼブラァッ!」
嘶きが、ドームの天井まで届いた。
ミジュマルの体が、目に見えて強張った。
シンにも分かった。格が違う。エモンガ二匹とは、纏っている圧が違う。
「ゼブライカ、ニトロチャージ!」
黒い体が炎をまとった。
速い。
シンが指示を出す前に、ミジュマルは真横から吹き飛ばされていた。
「ミジュゥッ!」
床を三度跳ねて、ステージの端で止まる。
「ミジュマル!」
「――そして、ニトロチャージは」
カミツレの声が続く。
「当てるたびに、この子は速くなる」
二撃目が来た。
さっきより速い。ミジュマルは立ち上がりかけた姿勢のまま、また吹き飛ばされた。
「ミジュ……ッ」
三撃目。
四撃目。
そのたびにゼブライカの速度は上がり、ミジュマルの体は削れていく。
殻に亀裂が入った。
青い体毛のあちこちが焦げ、片方の目がうまく開かなくなっている。
「ミジュマル、戻れ!」
シンがボールを構えた。
だが、ミジュマルは首を振った。
「ミジュ」
「……おい」
「ミジュッ!」
はっきりした声だった。
戻らない。ここで戻れば、もう出す駒がない。それを、このポケモンは理解していた。
シンの手が、また腰へ動いた。
ケルディオのボール。
指が触れる。
――出せば。
そこで、視界の端が動いた。
ステージの外、観覧スペースの手すりのところ。
いつのまにか、白い姿がそこにいた。
ケルディオだった。
シンが出した覚えはない。ボールはベルトにある。触れていない。
――自分から出たのか。
そんなことができるのかどうか、シンには分からなかった。だが、そこにいた。手すりの向こうから、ステージを見ている。
その目は、ミジュマルを見ていた。
そして、シンを見た。
震えていなかった。
前脚は地を踏んでいた。首は上がっていた。昨日のバトルコートで固まったときの、あの目ではない。
――出してくれ、とは言っていない。
シンには、それが分かった。
その目が言っているのは、もっと別のことだった。
――お前は、そこにいろ。
「……ああ」
シンは腰から手を離した。
そして、前を向いた。
「ミジュマル」
「ミジュ!」
「ゼブライカは、速い。俺たちより速い。それは変わらない」
「ミジュッ」
「だから、追わなくていい」
シンは息を吸った。
「待て」
「ニトロチャージ!」
五撃目が来る。
黒い影が、炎の尾を引いてステージを走った。もう目で追える速度ではない。空気が裂ける音だけが、方向を教えてくれる。
ミジュマルは動かなかった。
構えもしない。殻も上げない。
ただ、立っていた。
「……危ないわね」
カミツレの声に、初めて何かが混じった。
炎が迫る。
「ミジュマル――」
シンは叫ばなかった。
代わりに、ごく短く言った。
「今」
その瞬間、ミジュマルの体が、半歩だけ横へ滑った。
避けたのではない。
ゼブライカの体が、ミジュマルのすぐ横をかすめて通り過ぎる。速すぎて止まれない体。突進の直線から、ほんのわずかに外された軌道。
すれ違いざま、ミジュマルは殻を振り上げた。
――届かない。
腕が短い。体が小さい。あと少しのところで、殻はゼブライカの脇腹に届かなかった。
「ミジュ……ッ!」
悔しさの声だった。
その声が、変わった。
「ミジュ――」
光った。
ミジュマルの体を、白い光が包む。
「え……」
カミツレが声を漏らす。
光は膨らみ、輪郭を書き換えていく。丸かった体が伸びる。短かった腕が長くなる。二本足で立つかたちへ。
そして、腹の前にあった殻が、二つに増えた。
光が弾ける。
「フタチッ!」
そこに立っていたのは、ミジュマルではなかった。
青と白の体。両腕に構えた二枚の殻。細い目が、まっすぐにゼブライカを見据えている。
フタチマル。
「……進化」
シンは呆然と呟き、それからすぐに我に返った。
「フタチマル、まだ来るぞ!」
「フタチッ!」
ゼブライカが振り返る。
「ゼブラァッ!」
炎が再び灯る。ニトロチャージの積み重ねで、その速度はすでに限界近い。
「ゼブライカ、もう一度!」
カミツレの声が飛ぶ。
黒い影が走った。
フタチマルは動かない。
さっきと同じだ。ただし、今度は腕の長さが違う。体の大きさが違う。届かなかった距離が、届く距離になっている。
シンは、その一点だけを信じた。
「――今!」
フタチマルの体が、半歩滑る。
同じ動き。同じ間合いの外し方。
だが、次の動作が違った。
フタチマルは、殻を「振り上げ」なかった。
腕から、殻を「抜いた」。
右の殻が、腕を離れて手の中へ収まる。その瞬間、殻の縁に沿って、青白い光の刃が伸びた。
貝殻ではない。
剣だった。
シンは、その名前を知らなかった。教えたこともない。技マシンで覚えさせたわけでもない。
ただ、フタチマルの体が、それを知っていた。
「フタチマルッ!」
すれ違いざま、光の刃が走った。
音は、驚くほど小さかった。ぱん、と紙を裂くような、それだけの音。
ゼブライカの体が、そのまま前へ走り抜ける。
三歩。
四歩。
五歩目で、前脚が折れた。
「ゼブ……ッ」
黒い体がステージの床を滑り、たてがみの火花が消えていく。
そして、動かなくなった。
ドームの中が、静まり返った。
照明が、ジジ、と鳴る。
フタチマルは、殻を持った腕を下ろした。光の刃が消え、ただの貝殻に戻る。それを腕の鞘へ収め、ゆっくり息を吐いた。
「フタチ……」
疲れた声だった。
シンは、しばらく動けなかった。
「――ステキ」
沈黙を破ったのは、カミツレだった。
彼女はゼブライカに歩み寄り、その首筋を撫でてからボールに戻した。
「クラクラさせるつもりが、逆にさせられたわね」
サングラスを外す。
その下の目は、意外なほど柔らかかった。
「あなたとポケモン……華麗に輝いていたわ」
シンはようやく、息を吐いた。
「ありがとう」
「あの最後の技。あの子、いつから使えたの?」
「……たった今からだ」
正直に答えると、カミツレは声を上げて笑った。
「そう。いいわね、そういうの」
彼女はステージを横切り、シンの前まで来た。近くで見ると、やはり背が高い。
「ホレボレしちゃうファイトスタイル。あなた、いいトレーナーね」
そして、掌に小さなバッジを置いた。
雷を象った、黄色い金属。
「ボルトバッジ。……受け取りなさい」
シンはそれを両手で受け取り、しばらく見つめた。
四つ目のバッジだ。
だが、今までのどれよりも、重く感じた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
カミツレが言った。
「出さなかった三匹目のこと」
シンは顔を上げた。
「……ああ」
「あの子でしょう?」
彼女が視線を向けた先、観覧スペースの手すりのところに、ケルディオがまだ立っていた。
「珍しい子。……というより、見たことがないわ」
カミツレの目が、少しだけ細くなる。
「あなた、あの子に何かしてる?」
「してない」
シンは首を振った。
「何もしてない。……するのを、やめた」
「あら」
「戦えって言うのは、簡単だった。でも、それをやると、たぶん壊れる」
シンはバッジを握りしめた。
「だから、待つことにした」
カミツレはしばらく黙り、それから小さく笑った。
「……ポケモンの魅力をひきだすには、ひきだす側にも魅力がないと難しいわね」
独り言のような声だった。
「なんだ、それ」
「わたしの持論。気にしないで」
彼女は肩をすくめ、それから思い出したように言った。
「そうだ。あなた、次はホドモエシティに行くの?」
「その予定だ」
「アッ……でも、行けないわね、きっと」
カミツレは眉をひそめた。
「あそこへ渡る橋が、今止まってるのよ。跳ね橋が上がったまま」
「上がったまま?」
「ええ。そうね……」
そこで、彼女はにやりと笑った。
「わたしが渡れるようにするわ。五番道路で待っていて」
「そんなことができるのか」
「できるわよ。だって」
カミツレは胸を張った。
「ライモンで、ポケモンつよいもん」
シンは一瞬、反応が遅れた。
「……え?」
「ライモンで、ポケモン、つよいもん」
もう一度、丁寧に繰り返された。
シンは真顔で二秒ほど考え、それから言った。
「……ああ、そういう」
「笑うところよ」
「悪い。今、脳が疲れてる」
「ひどい!」
ジムを出ると、外はもう昼を過ぎていた。
シンはポケモンセンターへ直行し、フシデとフタチマルを預けた。回復にはしばらくかかると言われたが、命に関わるものではないという話だった。
待合のベンチに座り、シンはバッジを取り出した。
雷のかたちの金属が、天井の照明を跳ね返す。
隣に、ケルディオが座った。
正確には、座ったのではない。ベンチの横の床に、四つ足のまま伏せた。距離は、昨日の中庭より近い。手を伸ばせば、届く。
シンは伸ばさなかった。
「……見てただろ」
そう言うと、ケルディオの耳が動いた。
「ミジュマルが、あれになったところ」
返事はない。
「あいつ、名前も知らない技を使った。誰も教えてない。俺も知らない」
シンはバッジを握った。
「たぶん、あいつの中に最初からあったんだ。ずっと。使えるようになるまで、出てこなかっただけで」
そこで、言葉を切る。
「……お前にも、あるんだと思う」
ケルディオの首が、わずかに動いた。
「何がとは言えない。俺には見えないから」
シンはバッジをしまい、背もたれに体を預けた。
「でも、出てくるまで、待つ」
窓の外では、観覧車が回っていた。
回復を知らせるベルが鳴るまで、二人はそのままだった。