BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第80話 輝きの中で、殻は割れる

朝、宿泊部屋を出る前に、シンはボールを三つ並べた。

 

ミジュマル、フシデ、ケルディオ。

 

昨日の中庭で言ったことを、もう一度なぞる必要はなかった。それでもシンは、ケルディオのボールを手に取り、しばらく掌の上で見つめた。

 

「行ってくる」

 

短く言う。

 

「お前は、宿で待っててもいい。……けど、たぶん、そうしないだろ」

 

ボタンを押すと、白い光が床に落ちた。

 

ケルディオが現れる。

 

窓際に立っていた昨夜の姿勢と同じ、まっすぐな四つ足。ただし目は逸れていない。シンの顔を、正面から見ていた。

 

「ジムには連れて行く。でも、コートには出さない」

 

シンははっきり言った。

 

「見てるだけでいい。それが嫌なら、ここに置いていく」

 

ケルディオは動かなかった。逃げも、うなずきもしない。

 

ただ、シンが荷物を背負って立ち上がったとき、その脚は先にドアのほうを向いていた。

 

「……分かった」

 

シンは小さく笑い、ボールを構えた。

 

「じゃあ、行くぞ」

 

赤い光がケルディオを包む。抵抗はなかった。

 

足元では、すでにミジュマルが待っていた。

 

「ミジュ」

 

短く鳴く。いつもより低い声だった。今日が何の日か、この個体は分かっている。

 

「ああ。今日だ」

 

シンはミジュマルの頭を軽く叩き、部屋を出た。

 

ライモンジムの正面に立つと、朝の光を跳ね返すドームの壁が、まぶしくて目を細めるほどだった。

 

昨日は列に並ばずに帰った。今日は並ぶ。

 

前に五人。そのうち三人が、挑戦して負けて出てきた。ひとりは肩を落とし、ひとりは笑って「また来る」と言い、もうひとりは何も言わずに通り過ぎた。

 

シンは列の中で、ずっと黙っていた。

 

自分の番が来て中へ入ると、正面に赤い作業服の男が立っていた。ヘルメットの下から人懐こい顔を覗かせている。ジムの案内係――通称ガイドーだ。

 

「どうっすか! 驚いたでしょう!?」

 

いきなり大声だった。

 

「このジムは見てのとおり、ジェットコースターなんすよね!!」

 

シンは天井を見上げた。

 

確かに、ジェットコースターだった。

 

広いドームの内部を、鉄のレールが何本も走っている。上へ、横へ、ねじれるように交差し、途中で分岐し、また合流する。その上を、四人乗りほどの小さなコースターがゆっくり移動していた。人間が乗るための遊具ではない。挑戦者をリーダーのところまで運ぶための、移動装置だ。

 

「乗り場はあっち。ただし、そのままじゃリーダーのところまでは行けないっす。途中でトレーナーが待ってるんで」

 

ガイドーは指を三本立てた。

 

「三人。倒せば、レールの分岐が切り替わる。それで奥まで行けるようになってるんすよ」

 

「分かった」

 

「あ、あとひとつだけ」

 

ガイドーが声を少しだけ落とした。

 

「電気タイプに地面技が効くのは常識っすけど、リーダーの手持ちには効かないのが混ざってるんで。そこだけは気をつけたほうがいいっす」

 

シンは足を止め、振り返った。

 

「効かない?」

 

「それ以上は言えないっすねえ。ジムの案内係なんで」

 

にやりと笑って、ガイドーは手を振った。

 

シンは軽く頭を下げて、乗り場へ向かった。

 

――地面技が効かない、電気タイプ。

 

歩きながら、頭の中で候補を挙げる。地面技を無効にするのは、飛行タイプか、特性ふゆう。電気と飛行の複合。

 

思い当たるものが、ひとつあった。

 

「……エモンガか」

 

昨日まで、西搬送路Bで守っていた相手と同じ種族。

 

皮肉な話だと思った。

 

コースターは、思ったよりゆっくり動いた。

 

レールに沿って高度を上げ、ドームの天井近くを横切る。眼下には、電飾で装飾されたステージがいくつも見える。ここは戦うための場所であると同時に、見せるための場所でもあるらしい。

 

最初の停留所で、ジムトレーナーが待っていた。

 

「ようこそ、光のジムへ!」

 

派手なジャケットを着た若い男が、大げさに手を広げる。

 

「シビシラス、いくよ!」

 

現れたのは、青白い体をした小さなポケモンだった。目玉のような模様がふたつ、体の前面についている。

 

シンは迷わずボールを投げた。

 

「フシデ」

 

「フシッ!」

 

赤い光の中から、フシデが飛び出す。低く体を伸ばし、触角を前へ向けた。

 

「シビシラス、でんきショック!」

 

小さな体から電気が走る。

 

「かわせ!」

 

フシデの体が横へ流れた。地面すれすれを走る動きは、電気の直線とは相性がいい。多足の体は方向転換が速く、狙いを外させることに長けている。

 

「どくばり!」

 

紫の針が、シビシラスの側面へ突き刺さる。

 

「シデェッ!」

 

一撃では落ちない。だが、二撃目のときには相手の動きが目に見えて鈍っていた。毒が回っている。

 

「もう一回!」

 

三撃目で、シビシラスは床に落ちた。

 

「うわ、速い……!」

 

トレーナーが慌ててボールを構える。

 

シンはすでに次を見ていた。この程度で消耗するわけにはいかない。ジムリーダーはこの先だ。

 

二人目、三人目のトレーナーも、似たような流れで抜けた。

 

フシデが二人、ミジュマルが一人。どちらも大きな消耗はない。だが、電気技を受けた回数だけ、確実に体には残っている。ミジュマルは水タイプだ。相性は最悪に近い。まともに食らえば、一撃で足に来る。

 

分岐が切り替わり、コースターが最後のレールへ入った。

 

高度が上がる。

 

ドームの中央、一段高い場所に、光の集まる場所があった。

 

そこは、ステージだった。

 

円形の床。周囲を囲む照明。中央に立つ人影に、真上からスポットライトが落ちている。

 

金髪をショートに切りそろえた、背の高い女性だった。黄色と黒のコートに、耳には大ぶりのヘッドホン。細いフレームのサングラス越しに、こちらを見ている。

 

カミツレ。

 

写真では何度も見た顔だ。だが、実物は写真より、はるかに大きく見えた。背の高さの話ではない。そこに立っているだけで、周囲の光がその人のほうへ集まっていくような、そういう存在感だった。

 

「ようこそ、このステージへ」

 

低く、澄んだ声だった。

 

「わたしの愛しのポケモンたちと、あなたのポケモン……!」

 

サングラスの奥で、目が細くなる。

 

「どちらの輝きが本物か、確かめさせてもらうわ」

 

シンはステージの反対側に立ち、荷物を下ろした。

 

「シンだ。カラクサタウンから来た」

 

「シン、ね」

 

カミツレはその名前を一度だけ口の中で転がした。

 

「あら。緊張してる?」

 

「してる」

 

正直に答えた。

 

「ふふ。いいことよ」

 

彼女は肩をすくめた。

 

「緊張していない子は、たいてい一分でステージから降りることになるから」

 

そして、コートの内側からボールを抜く。

 

「三対三。……あなた、手持ちは?」

 

シンは一瞬、間を置いた。

 

「二匹で行く」

 

カミツレの動きが止まった。

 

サングラスがわずかに下がり、その奥の目が完全に見えた。青みがかった、鋭い目だった。

 

「三匹持っているのに?」

 

見抜かれている。ベルトのボールは三つ。数えれば分かることだ。

 

「持ってる。でも、出さない」

 

「……理由を聞いても?」

 

「今日は、戦わせない」

 

シンははっきり言った。

 

「そう決めた」

 

しばらく、カミツレは何も言わなかった。

 

ステージの照明が、ジジ、と小さな音を立てる。

 

やがて彼女は、口の端を上げた。

 

「ステキ」

 

想像していた反応ではなかった。

 

「ハンデのつもりならやめておきなさい、って言うところだけど……」

 

カミツレはボールを高く掲げた。

 

「その顔は、ハンデを出してる顔じゃないもの」

 

スポットライトの光が、ボールの表面で跳ねる。

 

「いいわ。二匹で来なさい。――エモンガ! スポットライトの中へ!」

 

白い光がステージに落ちる。

 

現れたのは、黄色と黒の小さな体だった。頬に丸い模様。腕と胴のあいだに広がった膜。空を滑るための翼だ。

 

「エモッ!」

 

高く鳴いて、そいつは軽々と宙へ舞い上がった。

 

シンの喉が、一度だけ鳴った。

 

昨日まで守っていた種族。だが、この個体は野生ではない。ジムリーダーに鍛えられた個体だ。宙に浮かんだまま、こちらを見下ろす目に、怯えは欠片もなかった。

 

「フシデ、頼む」

 

「フシッ!」

 

「エモンガ、ボルトチェンジ!」

 

初手からだった。

 

エモンガの体が電気をまとい、弾丸のように急降下してくる。フシデが横へ跳んだが、狙いは正確だった。肩口に電気の塊が突き刺さる。

 

「シデッ――!」

 

短い悲鳴。

 

そして次の瞬間、エモンガの姿がステージから消えた。

 

「え」

 

赤い光。カミツレの手元へ戻っている。ボルトチェンジ。攻撃したあと、自分から引っ込む技だ。

 

「もう一匹のエモンガ! スポットライトの中へ!」

 

出てきたのは、同じくエモンガ。だが体の線が少し細い。目つきも違う。

 

「エモーッ!」

 

「つばめがえし!」

 

膜を広げたエモンガが、鋭い弧を描いてフシデへ突っ込んだ。

 

避けられない技だ。

 

シンは瞬時に判断を切り替えた。

 

「フシデ、丸まれ!」

 

「フシッ!」

 

フシデが体を縮め、外骨格の硬い部分を上へ向けた。真正面から受ける。衝撃で体が押し出され、ステージの床を滑る。

 

だが、倒れなかった。

 

「よし、そのまま――どくばり!」

 

滑りながら、フシデが針を放つ。上空のエモンガの膜をかすめた。

 

「エモッ!?」

 

軌道が乱れる。

 

「いいわね。狙いが冷静」

 

カミツレの声には、余裕がまだあった。

 

「でも、その子……速さでは追いつけないでしょう?」

 

その通りだった。

 

フシデは地上の生き物だ。跳躍はできるが、飛べない。空を取られている時点で、こちらの攻撃はほとんど当たらない。

 

「つばめがえし、もう一度!」

 

二撃目が来る。

 

「フシデ、床!」

 

シンは叫んだ。

 

フシデが理解した。丸まった体を、そのまま横へ転がす。ころがるように床を進み、突っ込んできたエモンガの真下をくぐった。

 

エモンガが空振りする。急降下から立て直すまでの、わずかな時間。

 

「今だ、どくばり!」

 

「シデェェッ!」

 

至近距離から、針の連射。

 

今度は当たった。エモンガの膜に紫の点が散り、体が大きく揺れる。

 

「エモォ……ッ」

 

「毒が入った」

 

シンが言うと、カミツレは軽く息を吐いた。

 

「ええ。入ったわね」

 

だが、その声はまだ焦っていなかった。

 

「――でも、あなたのその子も、限界でしょう?」

 

見抜かれている。

 

フシデの体は、最初のボルトチェンジと、つばめがえし一発を正面から受けている。外骨格には亀裂が走り、脚の動きも鈍っていた。

 

「エモンガ、でんきショック!」

 

上空から電気が走る。

 

避けられなかった。

 

「シデ……ッ」

 

フシデの体が痙攣し、そのまま床に伏せる。触角がゆっくり垂れた。

 

「フシデ!」

 

シンは駆け寄りたい衝動を抑え、ボールを構えた。

 

「よくやった。……本当に、よくやった」

 

赤い光がフシデを包む。

 

これで、残りは一匹。

 

相手は、毒を受けたエモンガと、無傷のエモンガと、まだ姿を見せていない切り札。

 

三対一。

 

シンは、腰のベルトに触れた。

 

指が、ケルディオのボールをかすめる。

 

――出せば、勝てるかもしれない。

 

水と格闘の複合。電気には弱い。だが、あの蹴りの威力なら、エモンガ程度は一撃で落とせる。

 

指が、そこで止まった。

 

昨日の震えを思い出す。焦点の合わない目。動かなかった前脚。

 

シンは指をずらし、隣のボールを取った。

 

「ミジュマル」

 

「ミジュッ!」

 

現れたミジュマルは、腹の前で殻を構え、すぐに低い姿勢を取った。

 

「あら、その子」

 

カミツレが小さく声を上げた。

 

「水タイプ。……このステージに、一番来てほしくない子ね」

 

「そうか?」

 

「ええ。だって――」

 

彼女は指を鳴らした。

 

「一番、危ないから」

 

エモンガの電気が走る。

 

「ミジュマル、右!」

 

短い指示。ミジュマルは殻を盾にして半身をずらし、電気を斜めに逃がした。それでも、完全には避けきれない。青い体の毛先が焦げる。

 

「ミジュ……ッ」

 

「痛いだろうけど、耐えろ!」

 

シンは声を張った。

 

「そいつは毒が回ってる! あと少しだ!」

 

ミジュマルの目が変わった。

 

「ミジュッ!」

 

「みずでっぽう!」

 

青い線が、上空のエモンガへ向かって走る。

 

当たらない。エモンガは膜を広げて滑るように避けた。

 

「甘いわ。空を飛ぶ子に、まっすぐ撃っても届かない」

 

カミツレの言葉は正しかった。

 

だが、シンはもう一手を見ていた。

 

「ミジュマル、天井!」

 

「ミジュ!?」

 

「照明だ! そこを狙え!」

 

ミジュマルが上を向く。エモンガのさらに上、ステージを照らす照明の一つ。

 

みずでっぽうが、そこへ命中した。

 

強い光の中に水が飛び込む。ばちん、と乾いた音がして、照明が一瞬だけ消えた。

 

エモンガの視界が、ほんの一瞬だけ暗くなる。

 

「エモッ!?」

 

滑空の軌道がぶれた。

 

「今だ! たいあたり!」

 

床を蹴ったミジュマルが、下から突き上げるようにぶつかる。

 

小さな体が跳ね上がり、そこへ毒のダメージが重なった。

 

「エモォ……」

 

エモンガが床に落ちる。動かない。

 

「……一匹」

 

シンは息を吐いた。

 

「照明を撃つなんて、考えたこともなかったわ」

 

カミツレは倒れたエモンガをボールに戻しながら、感心したように言った。

 

「うちのジムの照明代、高いのよ?」

 

「悪い」

 

「ふふ、冗談。……でも、次はそう簡単にいかないから」

 

彼女は二つ目のボールを構えた。

 

「エモンガ! スポットライトの中へ!」

 

無傷のほうのエモンガが、ステージへ戻ってくる。

 

「エモッ!」

 

ここからが、本当の苦戦だった。

 

「ボルトチェンジ!」

 

急降下。ミジュマルが殻で受ける。

 

「ミジュッ……!」

 

電気が体を走り、そのままエモンガは引っ込む――と思ったら、戻らなかった。

 

「あら、戻さないの? って顔ね」

 

カミツレが笑う。

 

「ボルトチェンジは、戻る技。でも、戻る先がなければ、戻らない」

 

そうだ。カミツレの残りは、ゼブライカ一匹。まだ切り札は出したくないのだろう。

 

つまり、このエモンガは逃げない。

 

「つばめがえし!」

 

鋭い一撃が、ミジュマルの脇腹に入った。

 

「ミジュゥッ!」

 

体が吹き飛び、ステージの縁近くまで転がる。

 

「ミジュマル!」

 

シンは叫んだ。

 

ミジュマルは、すぐには立たなかった。

 

殻を杖のようにして床につき、震える脚で押し上げる。一度、二度、失敗して、三度目でやっと立った。

 

「……ミジュ」

 

弱い声だった。

 

だが、目は死んでいなかった。

 

シンは奥歯を噛んだ。

 

相性が悪い。速さで負けている。空を取られている。

 

――どうする。

 

考えろ。西搬送路Bで、網から逃げる相手をどう捕まえた。逃げ道を塞いだ。台車を倒して、道を殺した。

 

空は殺せない。だが。

 

「ミジュマル」

 

シンは低く言った。

 

「あいつが降りてくるのは、いつだ」

 

「ミジュ?」

 

「攻撃するときだ」

 

その一言で、ミジュマルの姿勢が変わった。

 

構えを解いたのだ。

 

殻を下ろし、体の力を抜く。まるで、もう戦う気がないように見える。

 

「……あら?」

 

カミツレが眉を寄せた。

 

「降参?」

 

「まさか」

 

シンは笑わなかった。

 

「エモンガ、つばめがえし!」

 

来る。

 

膜を広げたエモンガが、鋭い弧を描いて降下してくる。避けられない技。だからこそ、必ず当たる場所へ来る。

 

ミジュマルは動かない。

 

「――今!」

 

シンが叫んだ瞬間、ミジュマルが殻を跳ね上げた。

 

腹の前ではない。真上へ。

 

つばめがえしの軌道に、殻が割り込む。硬い貝殻と、鋭い翼が正面から衝突した。

 

「エモッ!?」

 

弾かれたのはエモンガだった。速度に乗った体は、止まれない。軌道を殺されて、そのまま床へ叩きつけられる。

 

「みずでっぽう、ゼロ距離!」

 

「ミジュゥッ!」

 

倒れたエモンガへ、水が真上から降り注いだ。

 

床に水たまりができる。エモンガはその中で、二度ほど身をよじって、動かなくなった。

 

「……二匹」

 

シンの膝が、少しだけ笑っていた。

 

「ステキ」

 

カミツレの声が、ステージに響いた。

 

「本当に、ステキ」

 

彼女は倒れたエモンガをボールに戻し、それを胸に当てるようにして持った。

 

「うちの子たちが、二匹とも落ちたのは……久しぶりよ」

 

そして、最後のボールを抜く。

 

「でもね」

 

サングラスを、指で押し上げた。

 

「ドラマチックに勝つには、ピンチも必要なのよ」

 

ボールが宙へ投げられる。

 

「ゼブライカ! スポットライトの中へ!」

 

現れた瞬間、ステージの空気が変わった。

 

黒と白の縞模様。長い脚。たてがみは黄色く逆立ち、そこから細かい火花が散っている。

 

「ゼブラァッ!」

 

嘶きが、ドームの天井まで届いた。

 

ミジュマルの体が、目に見えて強張った。

 

シンにも分かった。格が違う。エモンガ二匹とは、纏っている圧が違う。

 

「ゼブライカ、ニトロチャージ!」

 

黒い体が炎をまとった。

 

速い。

 

シンが指示を出す前に、ミジュマルは真横から吹き飛ばされていた。

 

「ミジュゥッ!」

 

床を三度跳ねて、ステージの端で止まる。

 

「ミジュマル!」

 

「――そして、ニトロチャージは」

 

カミツレの声が続く。

 

「当てるたびに、この子は速くなる」

 

二撃目が来た。

 

さっきより速い。ミジュマルは立ち上がりかけた姿勢のまま、また吹き飛ばされた。

 

「ミジュ……ッ」

 

三撃目。

 

四撃目。

 

そのたびにゼブライカの速度は上がり、ミジュマルの体は削れていく。

 

殻に亀裂が入った。

 

青い体毛のあちこちが焦げ、片方の目がうまく開かなくなっている。

 

「ミジュマル、戻れ!」

 

シンがボールを構えた。

 

だが、ミジュマルは首を振った。

 

「ミジュ」

 

「……おい」

 

「ミジュッ!」

 

はっきりした声だった。

 

戻らない。ここで戻れば、もう出す駒がない。それを、このポケモンは理解していた。

 

シンの手が、また腰へ動いた。

 

ケルディオのボール。

 

指が触れる。

 

――出せば。

 

そこで、視界の端が動いた。

 

ステージの外、観覧スペースの手すりのところ。

 

いつのまにか、白い姿がそこにいた。

 

ケルディオだった。

 

シンが出した覚えはない。ボールはベルトにある。触れていない。

 

――自分から出たのか。

 

そんなことができるのかどうか、シンには分からなかった。だが、そこにいた。手すりの向こうから、ステージを見ている。

 

その目は、ミジュマルを見ていた。

 

そして、シンを見た。

 

震えていなかった。

 

前脚は地を踏んでいた。首は上がっていた。昨日のバトルコートで固まったときの、あの目ではない。

 

――出してくれ、とは言っていない。

 

シンには、それが分かった。

 

その目が言っているのは、もっと別のことだった。

 

――お前は、そこにいろ。

 

「……ああ」

 

シンは腰から手を離した。

 

そして、前を向いた。

 

「ミジュマル」

 

「ミジュ!」

 

「ゼブライカは、速い。俺たちより速い。それは変わらない」

 

「ミジュッ」

 

「だから、追わなくていい」

 

シンは息を吸った。

 

「待て」

 

「ニトロチャージ!」

 

五撃目が来る。

 

黒い影が、炎の尾を引いてステージを走った。もう目で追える速度ではない。空気が裂ける音だけが、方向を教えてくれる。

 

ミジュマルは動かなかった。

 

構えもしない。殻も上げない。

 

ただ、立っていた。

 

「……危ないわね」

 

カミツレの声に、初めて何かが混じった。

 

炎が迫る。

 

「ミジュマル――」

 

シンは叫ばなかった。

 

代わりに、ごく短く言った。

 

「今」

 

その瞬間、ミジュマルの体が、半歩だけ横へ滑った。

 

避けたのではない。

 

ゼブライカの体が、ミジュマルのすぐ横をかすめて通り過ぎる。速すぎて止まれない体。突進の直線から、ほんのわずかに外された軌道。

 

すれ違いざま、ミジュマルは殻を振り上げた。

 

――届かない。

 

腕が短い。体が小さい。あと少しのところで、殻はゼブライカの脇腹に届かなかった。

 

「ミジュ……ッ!」

 

悔しさの声だった。

 

その声が、変わった。

 

「ミジュ――」

 

光った。

 

ミジュマルの体を、白い光が包む。

 

「え……」

 

カミツレが声を漏らす。

 

光は膨らみ、輪郭を書き換えていく。丸かった体が伸びる。短かった腕が長くなる。二本足で立つかたちへ。

 

そして、腹の前にあった殻が、二つに増えた。

 

光が弾ける。

 

「フタチッ!」

 

そこに立っていたのは、ミジュマルではなかった。

 

青と白の体。両腕に構えた二枚の殻。細い目が、まっすぐにゼブライカを見据えている。

 

フタチマル。

 

「……進化」

 

シンは呆然と呟き、それからすぐに我に返った。

 

「フタチマル、まだ来るぞ!」

 

「フタチッ!」

 

ゼブライカが振り返る。

 

「ゼブラァッ!」

 

炎が再び灯る。ニトロチャージの積み重ねで、その速度はすでに限界近い。

 

「ゼブライカ、もう一度!」

 

カミツレの声が飛ぶ。

 

黒い影が走った。

 

フタチマルは動かない。

 

さっきと同じだ。ただし、今度は腕の長さが違う。体の大きさが違う。届かなかった距離が、届く距離になっている。

 

シンは、その一点だけを信じた。

 

「――今!」

 

フタチマルの体が、半歩滑る。

 

同じ動き。同じ間合いの外し方。

 

だが、次の動作が違った。

 

フタチマルは、殻を「振り上げ」なかった。

 

腕から、殻を「抜いた」。

 

右の殻が、腕を離れて手の中へ収まる。その瞬間、殻の縁に沿って、青白い光の刃が伸びた。

 

貝殻ではない。

 

剣だった。

 

シンは、その名前を知らなかった。教えたこともない。技マシンで覚えさせたわけでもない。

 

ただ、フタチマルの体が、それを知っていた。

 

「フタチマルッ!」

 

すれ違いざま、光の刃が走った。

 

音は、驚くほど小さかった。ぱん、と紙を裂くような、それだけの音。

 

ゼブライカの体が、そのまま前へ走り抜ける。

 

三歩。

 

四歩。

 

五歩目で、前脚が折れた。

 

「ゼブ……ッ」

 

黒い体がステージの床を滑り、たてがみの火花が消えていく。

 

そして、動かなくなった。

 

ドームの中が、静まり返った。

 

照明が、ジジ、と鳴る。

 

フタチマルは、殻を持った腕を下ろした。光の刃が消え、ただの貝殻に戻る。それを腕の鞘へ収め、ゆっくり息を吐いた。

 

「フタチ……」

 

疲れた声だった。

 

シンは、しばらく動けなかった。

 

「――ステキ」

 

沈黙を破ったのは、カミツレだった。

 

彼女はゼブライカに歩み寄り、その首筋を撫でてからボールに戻した。

 

「クラクラさせるつもりが、逆にさせられたわね」

 

サングラスを外す。

 

その下の目は、意外なほど柔らかかった。

 

「あなたとポケモン……華麗に輝いていたわ」

 

シンはようやく、息を吐いた。

 

「ありがとう」

 

「あの最後の技。あの子、いつから使えたの?」

 

「……たった今からだ」

 

正直に答えると、カミツレは声を上げて笑った。

 

「そう。いいわね、そういうの」

 

彼女はステージを横切り、シンの前まで来た。近くで見ると、やはり背が高い。

 

「ホレボレしちゃうファイトスタイル。あなた、いいトレーナーね」

 

そして、掌に小さなバッジを置いた。

 

雷を象った、黄色い金属。

 

「ボルトバッジ。……受け取りなさい」

 

シンはそれを両手で受け取り、しばらく見つめた。

 

四つ目のバッジだ。

 

だが、今までのどれよりも、重く感じた。

 

「ひとつ、聞いてもいい?」

 

カミツレが言った。

 

「出さなかった三匹目のこと」

 

シンは顔を上げた。

 

「……ああ」

 

「あの子でしょう?」

 

彼女が視線を向けた先、観覧スペースの手すりのところに、ケルディオがまだ立っていた。

 

「珍しい子。……というより、見たことがないわ」

 

カミツレの目が、少しだけ細くなる。

 

「あなた、あの子に何かしてる?」

 

「してない」

 

シンは首を振った。

 

「何もしてない。……するのを、やめた」

 

「あら」

 

「戦えって言うのは、簡単だった。でも、それをやると、たぶん壊れる」

 

シンはバッジを握りしめた。

 

「だから、待つことにした」

 

カミツレはしばらく黙り、それから小さく笑った。

 

「……ポケモンの魅力をひきだすには、ひきだす側にも魅力がないと難しいわね」

 

独り言のような声だった。

 

「なんだ、それ」

 

「わたしの持論。気にしないで」

 

彼女は肩をすくめ、それから思い出したように言った。

 

「そうだ。あなた、次はホドモエシティに行くの?」

 

「その予定だ」

 

「アッ……でも、行けないわね、きっと」

 

カミツレは眉をひそめた。

 

「あそこへ渡る橋が、今止まってるのよ。跳ね橋が上がったまま」

 

「上がったまま?」

 

「ええ。そうね……」

 

そこで、彼女はにやりと笑った。

 

「わたしが渡れるようにするわ。五番道路で待っていて」

 

「そんなことができるのか」

 

「できるわよ。だって」

 

カミツレは胸を張った。

 

「ライモンで、ポケモンつよいもん」

 

シンは一瞬、反応が遅れた。

 

「……え?」

 

「ライモンで、ポケモン、つよいもん」

 

もう一度、丁寧に繰り返された。

 

シンは真顔で二秒ほど考え、それから言った。

 

「……ああ、そういう」

 

「笑うところよ」

 

「悪い。今、脳が疲れてる」

 

「ひどい!」

 

ジムを出ると、外はもう昼を過ぎていた。

 

シンはポケモンセンターへ直行し、フシデとフタチマルを預けた。回復にはしばらくかかると言われたが、命に関わるものではないという話だった。

 

待合のベンチに座り、シンはバッジを取り出した。

 

雷のかたちの金属が、天井の照明を跳ね返す。

 

隣に、ケルディオが座った。

 

正確には、座ったのではない。ベンチの横の床に、四つ足のまま伏せた。距離は、昨日の中庭より近い。手を伸ばせば、届く。

 

シンは伸ばさなかった。

 

「……見てただろ」

 

そう言うと、ケルディオの耳が動いた。

 

「ミジュマルが、あれになったところ」

 

返事はない。

 

「あいつ、名前も知らない技を使った。誰も教えてない。俺も知らない」

 

シンはバッジを握った。

 

「たぶん、あいつの中に最初からあったんだ。ずっと。使えるようになるまで、出てこなかっただけで」

 

そこで、言葉を切る。

 

「……お前にも、あるんだと思う」

 

ケルディオの首が、わずかに動いた。

 

「何がとは言えない。俺には見えないから」

 

シンはバッジをしまい、背もたれに体を預けた。

 

「でも、出てくるまで、待つ」

 

窓の外では、観覧車が回っていた。

 

回復を知らせるベルが鳴るまで、二人はそのままだった。

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