BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第81話 夜景は、高いところにある

 

 

回復を知らせるベルが鳴ったのは、日が傾き始めたころだった。

 

シンはベンチから立ち上がり、カウンターへ向かった。足元では、床に伏せていたケルディオが顔を上げる。ついてくるかどうか一瞬だけ迷ったような間を置いて、結局は立ち上がった。

 

「お待たせしました。二匹とも、元気になっていますよ」

 

看護師がトレーを差し出す。

 

「毒針を使っていた子のほうは、外骨格に軽い亀裂が入っていました。処置はしてありますが、明日一日は激しい戦闘を避けてあげてください」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

看護師は少しだけ声の調子を変えた。

 

「進化したばかりの子は、しばらく体の感覚がずれることがあります。転んだり、力の加減を間違えたりするかもしれませんが、心配はいりません」

 

シンはボールを受け取り、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

体の感覚がずれる。

 

そういうものなのか、と思った。考えたことがなかった。

 

センターの外へ出ると、ライモンの空は薄い橙に染まりかけていた。

 

人通りの多い場所を避けて、シンは建物の裏手の空き地まで歩いた。そこでボールを二つ、続けて開く。

 

「フシデ、フタチマル」

 

赤い光が二つ、地面に落ちた。

 

「フシッ!」

 

フシデがまず飛び出す。外骨格の一部に薄い保護材が貼られているが、動きに大きな支障はなさそうだった。シンの足元まで走ってきて、触角でズボンの裾を軽く叩く。

 

「悪かったな。無理させた」

 

「フシ」

 

短く返ってくる。恨んではいないらしい。

 

そして、もう一つの光がかたちを結んだ。

 

「……フタチ」

 

そこに立っていたのは、やはりミジュマルではなかった。

 

背が伸びた。腕が長くなった。二本の脚で立ち、腰のあたりに二枚の殻を提げている。頭の大きさに対して体が細く、全体の輪郭がすっきりしていた。

 

シンはしばらく、黙ってその姿を見ていた。

 

「……大きくなったな」

 

「フタチッ」

 

フタチマルが胸を張る。その動きで、わずかに体が後ろへ傾いた。

 

「おい」

 

「フタ!?」

 

慌てて足を出し、なんとか踏みとどまる。

 

シンは思わず笑った。

 

「看護師の言ったとおりだ。重心が変わってる」

 

「フタチ……」

 

決まりの悪そうな声。フシデが横で触角を震わせている。笑っているらしい。

 

「シデェ」

 

「フタチッ!」

 

抗議するようにフシデへ向き直るフタチマル。その足がまたもつれて、今度は本当に尻もちをついた。

 

「フシッ、フシッ」

 

「……フタチ」

 

シンはしゃがみ込み、フタチマルの頭に手を置いた。

 

「焦らなくていい」

 

短く言う。

 

「今日は勝ったんだ。それも、お前のおかげだ」

 

フタチマルは顔を上げ、それからゆっくり自分の手を見た。

 

長くなった腕。細くなった指。

 

その先に、あの光の刃が生まれた。

 

シンにも、フタチマル自身にも、あれが何だったのかは分からない。教えたわけでも、覚えさせたわけでもない技だ。ただ、あの一瞬だけ、この個体の体はそれを知っていた。

 

「……フタチ」

 

フタチマルは自分の手を握ったり開いたりして、それから殻の一つに触れた。

 

抜かなかった。

 

抜こうとして、やめた、というほうが近い。

 

「今は、いい」

 

シンは言った。

 

「使い方は、そのうち分かる」

 

日が落ち切る前に、シンは荷物を宿へ置きに戻った。

 

部屋のテーブルに、四つ目のバッジを並べる。

 

雷のかたちをした黄色い金属が、三つの先輩たちの横に収まった。並べてみると、ここまでの距離が急に短く感じられて、逆に落ち着かない気分になった。

 

窓の外では、街の明かりが順に点き始めている。

 

その中でも、ひときわ大きい光の輪があった。

 

観覧車だ。

 

ライモンシティの象徴。街のどこからでも見える巨大な回転体が、夕闇の中でゆっくり色を変えながら回っている。

 

シンはしばらくそれを眺めていた。

 

来てから今日まで、一度も乗っていない。乗ろうと思ったことすら、たぶんなかった。エモンガのこと、プラズマ団のこと、ケルディオのこと、ジムのこと。目の前のものを片づけるだけで日が終わっていた。

 

「……行くか」

 

誰にともなく言って、シンは立ち上がった。

 

遊園地の入口は、思っていたよりずっと明るかった。

 

ゲート全体が電飾で縁取られ、その下を家族連れやカップルが通っていく。屋台の匂い。子どもの声。回転する乗り物の機械音。昼間の大通りとはまた違う種類のうるささが、夜のほうへ向かって広がっていた。

 

シンは足元を見た。

 

外に出しているのはフタチマルだけだ。フシデは人混みでは自分から戻りたがるし、ケルディオは目立ちすぎる。街の中でのやり方は、昨日と変えていない。

 

「フタチ」

 

フタチマルは人の多さに少し圧倒されているようで、シンの脚のすぐ横をぴったりついて歩いていた。

 

ゲートをくぐってすぐの通りには、屋台が並んでいた。

 

焼いた串の匂い。砂糖を熱した甘い匂い。その両方が混ざって、夜の空気の中に重く漂っている。

 

フタチマルが立ち止まった。

 

「フタチ」

 

視線の先には、丸い菓子を袋詰めにして売っている店があった。色とりどりの砂糖菓子が、照明を受けてつやつや光っている。

 

「食うか?」

 

「フタチッ」

 

即答だった。

 

シンは苦笑して、財布を出した。ジムに勝った日くらいは、多少無駄遣いしてもいいだろうと思った。

 

小袋を二つ買い、片方をフタチマルに渡す。長くなった腕でそれを受け取ったフタチマルは、袋の口を開けようとして、力を入れすぎた。

 

破れた袋から、砂糖菓子が地面に散らばる。

 

「フタ……!?」

 

「言ったろ。力の加減がずれてる」

 

シンはしゃがんで拾い集めた。幸い、ほとんどは包装のまま落ちただけだった。

 

「フタチ……」

 

しょげた声が上から降ってくる。

 

「気にするな。慣れるまでの話だ」

 

シンは拾った分を自分の袋に移し、代わりに自分の袋をそのままフタチマルに渡した。

 

「これ使え。開けてやる」

 

丁寧に口を開いてやると、フタチマルは今度は両手でそっと受け取った。

 

一つ口に入れて、目を丸くする。

 

「フタチッ!」

 

「うまいか」

 

「フタチ、フタチッ!」

 

腕を上下に振って喜んでいる。その動きでまた重心が崩れかけて、慌てて足を踏ん張った。

 

シンは笑いを噛み殺した。

 

進化して大きくなっても、中身はさっきまでのミジュマルのままだった。名前を知らない技を出したときの、あの静かな目つきが嘘のようだ。

 

たぶん、どちらも本当なのだろう。

 

「ほら、行くぞ」

 

観覧車の乗り場は、園内の一番奥にあった。

 

近づくにつれ、その大きさが実感として分かってくる。首を限界まで反らせても、頂上が見えない。骨組みの一本一本が、街灯より太かった。

 

「フタチ……」

 

フタチマルが、口を半分開けたまま見上げている。

 

「でかいだろ」

 

「フタチッ」

 

乗り場には短い列ができていた。並んでいるあいだに、フタチマルは何度も上を見て、そのたびに首を戻し、また見上げた。落ち着かないらしい。

 

順番が回ってくると、係員の女性が笑顔で迎えた。

 

「お一人ですか?」

 

「……三匹連れてる」

 

シンはベルトのボールを示した。

 

「ゴンドラの中で出してもいいか」

 

係員は少しだけ考えて、それからうなずいた。

 

「大丈夫ですよ。中は扉が閉まりますし、他のお客様と一緒になることもありませんから」

 

そして、付け加えた。

 

「ただ、大型のポケモンさんだと、窮屈になるかもしれませんね」

 

「一匹、少し大きいのがいる」

 

「馬くらいですか?」

 

「……小柄な馬くらいだ」

 

「でしたら、大丈夫です。うちのゴンドラ、けっこう広いんですよ」

 

係員はゴンドラの扉を開けた。

 

中は、円形のベンチが壁沿いに設けられていて、床は思ったより広い。大人が四人座っても余裕がある。

 

「では、ごゆっくり」

 

扉が閉まった。

 

ゴンドラが、ゆっくりと動き出す。

 

地面から離れる感覚は、乗り物というより、持ち上げられている感じに近かった。

 

シンはベンチに座り、腰のボールを外した。

 

「出るぞ」

 

赤い光が二つ、狭い空間の中で弾ける。

 

フシデが床に、ケルディオが向かい側のベンチの前に現れた。

 

「フシッ!?」

 

フシデは床に着地した瞬間、体を硬直させた。足の下が動いているのが分かったのだろう。触角を高く上げ、警戒の姿勢を取る。

 

「揺れてるだけだ。落ちないから安心しろ」

 

「フシ……」

 

納得はしていないようだったが、フシデはとりあえず床に体を伏せた。低い姿勢のほうが安心するらしい。

 

ケルディオは、動かなかった。

 

四本の脚で立ったまま、まず天井を見て、次に足元を見て、最後に窓へ視線を移す。

 

そして、そこで止まった。

 

シンは、その様子を見ていた。

 

狭い箱の中に閉じ込められて、しかも地面から離れていく。逃げ場のない状況としては、かなり上位に入るはずだった。昨日のバトルコートで固まったことを思えば、ここで同じことが起きてもおかしくない。

 

だが、前脚は震えていなかった。

 

理由を考えて、シンはひとつだけ思い当たった。

 

ここには、向かい合う相手がいない。

 

戦う場所ではないからだ。狭くても、逃げられなくても、ここでは誰もこの個体に「立て」と言わない。

 

「……なるほどな」

 

小さく呟く。

 

ケルディオの耳が、わずかに動いた。

 

「なんでもない」

 

シンは窓のほうへ向き直った。

 

窓の外には、ライモンシティが広がり始めていた。

 

高さが上がるにつれて、街の見え方が変わっていく。

 

最初は建物の屋根が見えた。次に、街路の並びが見えた。そして、光の粒がひとつずつ、意味のある並び方をしていることが分かってくる。

 

大通りは、まっすぐな光の帯だった。

 

その帯から細い線が何本も枝分かれして、住宅街の四角い区画を作っている。ポケモンセンターの赤い屋根は、そのどこかにあるはずだった。

 

「フタチ……」

 

フタチマルが窓に手をついた。

 

その姿勢のまま、しばらく動かない。

 

「あれが、俺たちが歩いてた道だ」

 

シンは指をさした。

 

「ジムはあっち。ドームの屋根が光ってるだろ」

 

「フタチッ」

 

「センターは、あの赤いところ」

 

「フタチ」

 

「で、あっちが――」

 

言いかけて、シンは指を止めた。

 

街の北西の端。建物が減り、代わりに鉄骨と資材置き場が並ぶ区画。

 

西搬送路Bのあるあたりだ。

 

そこだけ、光が少なかった。夜間の作業灯がぽつぽつと点いているだけで、街の他の場所のような賑やかさはない。

 

「……あそこだ」

 

シンは言った。

 

「エモンガがいたところ」

 

フシデが床から顔を上げた。触角がゆっくりそちらを向く。

 

ケルディオも、窓の外のその一点を見た。

 

「二匹とも、東へ行った」

 

シンは続けた。

 

「どこまで行ったのかは、分からない。もう会わないかもしれない」

 

窓の外を、光の粒が流れていく。

 

「でも、あそこで何かが変わった」

 

そう言ってから、シンはケルディオを見た。

 

ケルディオは窓を見たままだった。振り向かない。

 

けれど、耳はこちらを向いていた。

 

聞いている。

 

シンはそれ以上、言葉を足さなかった。

 

ゴンドラが、さらに高度を上げる。

 

半分を過ぎたあたりから、街の外まで見えるようになった。

 

東には、闇に沈んだ丘の稜線。あの向こうに五番道路があり、その先にホドモエシティがある。

 

北には、光の少ない一帯。地図で見た限りでは、ヤグルマの森のはずだ。

 

南は、ヒウンシティの方角。海の匂いはここまで届かないが、遠くで小さく光っているのは港の灯りだろう。

 

シンは、その全部を順番に見た。

 

「……歩いてきたな」

 

自然に言葉が出た。

 

カラクサタウンを出て、サンヨウで最初のジムに挑んで、ヒウンで海を見て、ここまで来た。

 

地図の上では、大した距離ではない。イッシュ地方全体から見れば、まだ半分にも届いていない。

 

それでも、この高さから見下ろすと、歩いた分だけの光がそこにあった。

 

「フタチ」

 

フタチマルがシンの隣に来た。

 

窓に手をついたまま、シンと同じ方向を見ている。

 

「お前は最初からいたな」

 

シンは言った。

 

「アララギ博士のところで、三匹並んでたときから」

 

「フタチッ」

 

「あのとき、お前はいちばん前に出てきた。俺が選んだんじゃない。お前が出てきたんだ」

 

フタチマルが、シンの顔を見上げる。

 

「……覚えてるか?」

 

「フタチ」

 

短い返事だった。覚えているのかどうか、シンには分からない。

 

けれど、その目は逸れなかった。

 

シンはふと、フタチマルの腰の殻に目をやった。

 

二枚。左右に一枚ずつ。ミジュマルのときは腹の前に一枚だけだった。

 

「……見せてもらっていいか」

 

フタチマルが首をかしげる。

 

「その殻だ」

 

シンが手を出すと、フタチマルは少し迷ってから、右の殻を鞘から抜いてシンの掌に載せた。

 

思ったより軽い。だが、縁は硬く、指を当てると刃物のような角があった。厚みは中央が厚く、外へ行くほど薄い。武器として使うなら、この形は理にかなっている。

 

「今日、これから光が出た」

 

シンは殻を返しながら言った。

 

「見えたか?」

 

「フタチ」

 

小さくうなずく。

 

「あれは、何だったんだ」

 

問いかけたが、答えを期待していたわけではなかった。

 

フタチマルは殻を受け取り、しばらくそれを見つめていた。それから、握り直して、腕を軽く動かしてみせる。

 

一度。

 

二度。

 

光は出なかった。

 

「フタチ……」

 

「出ないか」

 

「フタチ」

 

悔しそうな声だった。

 

シンは首を振った。

 

「出なくていい。今日は使う場面じゃない」

 

そう言ってから、少しだけ考えた。

 

あの技が出たのは、ゼブライカとすれ違う、あの一瞬だった。届かなかった距離が、進化で届く距離になった。その差を埋めるものとして、体が勝手に刃を作った。

 

必要だったから、出た。

 

そういうことなのかもしれない。

 

「使いたいときに使えるようになるのが、たぶん次の課題だ」

 

シンは言った。

 

「五番道路で、少し試そう。相手はいくらでもいる」

 

「フタチッ」

 

今度の返事は、はっきりしていた。

 

床のほうで、フシデが少しずつ姿勢を戻していた。伏せていた体を起こし、恐る恐る窓のほうへ近づいていく。

 

「フシ……」

 

窓の縁に触角の先が届く。

 

外を見て、フシデは一度だけ大きく体を震わせた。

 

「フシッ!」

 

「怖いか」

 

「フシ、フシ」

 

「そうだな。俺も、正直あんまり得意じゃない」

 

シンは正直に言った。

 

高いところが怖いというより、足元に何もないことが落ち着かない。地面を踏んでいないと、判断の基準が持てない気がする。

 

「でも、ここまで来ないと見えないものがある」

 

フシデは触角を窓につけたまま、しばらくじっとしていた。

 

やがて、震えが止まった。

 

頂上に近づいたころ、ケルディオが動いた。

 

窓の前から一歩下がり、ゴンドラの中央へ来る。

 

そして、シンの座っているベンチのほうへ、二歩。

 

シンは動かなかった。

 

ケルディオは、そこで止まった。

 

昨日の中庭で詰めた距離より、さらに近い。ゴンドラが狭いせいもある。だが、それだけではないことは、シンにも分かった。

 

「……座れば?」

 

シンは自分の隣のベンチを、軽く叩いた。

 

ケルディオは、そこを見た。

 

しばらく、動かない。

 

やがて、前脚を曲げ、ゆっくりと床に伏せた。ベンチには乗らない。だが、シンの脚のすぐ横だった。

 

膝に、白い毛が触れた。

 

意図的なのか、狭さのせいなのか、シンには判断がつかなかった。

 

判断をつける必要も、なかった。

 

「……ああ」

 

短く言って、シンは窓の外へ視線を戻した。

 

ゴンドラが頂上に達する。

 

一瞬、動きが止まったように感じた。実際には止まっていない。速度が変わらないまま、上昇から下降へ切り替わる、そのわずかな時間だ。

 

その一瞬だけ、街の光が全部、同じ高さに見えた。

 

シンは息を吸った。

 

「明日、ここを出る」

 

誰にともなく言った。

 

「五番道路に行く。カミツレさんが、橋を渡れるようにしてくれるらしい」

 

フタチマルが窓から手を離し、こちらを向いた。

 

「その先はホドモエだ。プラズマ団が何かやってるらしいって話も聞いてる」

 

シンは膝の上で手を組んだ。

 

「たぶん、また面倒なことになる」

 

言葉に迷いはなかった。

 

「でも、逃げない」

 

昨日、バトルコートで自分が言ったことを思い出す。

 

――俺が欲しいのは、勝ちじゃない。

 

あれは、その場しのぎの言葉ではなかった。今日、二匹でジムに挑んで、フタチマルが土壇場で進化して、それでようやく分かったことがある。

 

強くなるのは、たぶん、追い込まれたときだ。

 

だが、追い込むのはトレーナーの仕事ではない。

 

「……全員で行く」

 

シンは言った。

 

「戦えるやつも、戦えないやつも」

 

膝の横で、白い毛がわずかに動いた。

 

ケルディオは、何も言わなかった。

 

下降が始まると、街はまた元の見え方に戻っていった。

 

光の粒が大きくなり、意味の分かる形へ戻る。ゴンドラの中の空気も、少しずつ地上に近づいていった。

 

半分ほど降りたところで、シンは向かい側の窓の外に目をやった。

 

観覧車は、たくさんのゴンドラが円周上に並んでいる。下降するこちらと、上昇していく向こう側とが、途中ですれ違う。

 

そのうちの一つが、視界を横切った。

 

明かりの中に、人影が二つ見えた。

 

一人は、長い緑色の髪の青年だった。帽子をかぶり、窓のほうを向いて何かを話している。

 

シンの背筋が、勝手に伸びた。

 

――N。

 

見間違えようがなかった。旅に出た初日、カラクサタウンの広場で向かい合った相手だ。ヒウンの倉庫街で、同じ側に立って戦った相手でもある。あの静かすぎる目も、周囲から半歩ずれたような立ち方も、記憶から薄れていない。

 

そして、その向かいに座っている少年を見たとき、シンの手が窓枠を掴んだ。

 

黒い髪。見慣れた背格好。少し前のめりになって、相手の話を聞いている姿勢まで、知っている。

 

――トウヤ。

 

すれ違いは、二秒もなかった。

 

ゴンドラは互いに反対方向へ流れ、すぐに見えなくなる。

 

「……おい」

 

声が出た。誰に向けたものでもない。

 

シンは反対側の窓へ移り、上がっていくゴンドラを目で追った。もう明かりの角度が変わっていて、中は見えない。

 

「なんで」

 

膝の上で手を握る。

 

なんで、あの二人が同じゴンドラに乗っている。

 

ヒウンで別れたときのことを思い出す。トウヤは振り返らずに歩いていった。次に会う約束はしない、とチェレンが言い、全員がそれに同意した。それでいいと思ったし、今も間違っていたとは思わない。

 

けれど、そのトウヤが、Nと二人で観覧車に乗っている。

 

Nがどういう相手なのかは知っている。ポケモンの声が聞こえると言い、プラズマ団と同じ問いを持ちながら、あの連中のやり方は違うと言った男だ。倉庫街では確かにこちらを助けた。それでも、シンの中でNは「味方だ」と言い切れる相手にはなっていない。

 

トウヤは、そのことを知っているのか。

 

知った上で、あそこに座っているのか。

 

「……分からない」

 

口に出すと、余計にはっきりした。

 

分からない。トウヤが何を考えているのかも、Nが何を話していたのかも、二人がいつからああして向かい合うようになったのかも。

 

別れてから、そう長い時間は経っていない。なのに、さっきの二秒で見えたものは、シンの知っているトウヤの位置から少しずれていた。

 

――君たちが進めば、いずれ交わる。

 

Nがそう言ったのは、旅に出た初日のことだ。

 

あのときは、勝手なことを言うと思った。

 

今は違う。あれは予言でも脅しでもなく、たぶんただの事実だったのだと、こうして見てから思う。

 

床のフシデが、触角を上げていた。

 

ケルディオも、顔を上げている。

 

二匹とも、同じ方向を見ていた。

 

「……知ってるやつだった」

 

シンは短く言った。

 

「二人とも」

 

説明にはならない説明だった。それでも、言葉にしておきたかった。

 

言ってから、シンはもう一度だけ上のほうを見る。

 

追いかけようがない。地上に降りるまで、ここからは何もできない。降りたところで、あのゴンドラが下りてくるまで待つのかと言われれば、それも違う気がした。

 

待って、何を聞くのか。

 

なぜあいつといるんだ、とでも言うのか。

 

自分にそれを聞く筋があるとは思えなかった。別々に行くと決めたのは、こっちも同じだ。

 

それでも、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。

 

ゴンドラが地上に戻り、扉が開く。

 

「お疲れさまでした!」

 

係員の明るい声に迎えられて、シンは外へ出た。

 

夜風が、思ったより冷たい。

 

フシデがボールへ戻りたがったので、そうしてやった。ケルディオも、遊園地の人混みの前で足を止めたので、シンは何も聞かずにボールを構えた。

 

赤い光が消えたあと、残ったのはフタチマルだけだった。

 

「フタチ」

 

「帰るか」

 

「フタチッ」

 

歩き出しながら、シンはもう一度だけ観覧車を振り返った。

 

さっきまで自分がいた高さが、遠く光っている。

 

宿の部屋に戻ったのは、夜の九時を回ったころだった。

 

シンは荷物を整理し、明日の分の水と食料を確認した。五番道路は、ライモンから北へ抜ける道だ。距離はそれほどないが、途中に施設や畑があり、トレーナーも多いと聞いている。

 

ベルトのボールを三つ、テーブルに並べる。

 

明日は、フシデを休ませる。看護師の言葉どおりだ。外に出すのはフタチマルにする。進化したばかりの体を、道中で慣れさせておいたほうがいい。

 

ケルディオは――。

 

シンは三つ目のボールを手に取り、少し考えた。

 

それから、ボタンを押した。

 

白い光が部屋に落ち、ケルディオが現れる。

 

「今日は、部屋にいろ」

 

シンは言った。

 

「明日から道に出る。街の中より、外のほうが気は張るだろうけど」

 

ケルディオは窓際へ歩き、そこで止まった。

 

昨日と同じ位置だ。

 

だが、姿勢が違った。

 

昨日は、外を見ていた。今日は、窓の縁に沿って一度体を回し、それから部屋の中央のほうを向いて伏せた。

 

外ではなく、内側を向いて眠る姿勢だった。

 

シンはそれに気づいて、少しだけ手を止めた。

 

何も言わなかった。

 

言うべきではない気がした。

 

明かりを落とし、ベッドに横になる。

 

フタチマルは部屋の隅ではなく、ベッドの足元に丸まった。進化して体が大きくなった分、そこは少し窮屈そうだったが、本人は気にしていないらしい。

 

「フタチ」

 

「……ああ。おやすみ」

 

天井を見上げながら、シンはさっきの観覧車を思い返した。

 

高いところから見ると、歩いた道は光の帯になっていた。まだ半分にも届いていない、その帯。

 

明日から、その先へ伸びる。

 

――全員で行く。

 

さっき言った言葉を、もう一度心の中で繰り返した。

 

戦えるやつも、戦えないやつも。

 

窓際の呼吸は、静かだった。

 

眠りに落ちる直前、シンはふと、観覧車ですれ違ったゴンドラのことを思い出した。

 

Nと、その向かいに座っていたトウヤ。

 

何を話していたのかは分からない。Nがなぜライモンにいるのかも、トウヤがいつからあの相手と向かい合うようになったのかも。

 

聞けば教えてくれるだろうか。

 

たぶん、教えてくれる。トウヤはそういうことを隠すやつではない。ただ、聞かれなければ自分からは言わないだろう。あいつはいつもそうだった。

 

だったら、次に会ったときに聞けばいい。

 

会うかどうかは分からない、と決めて別れたはずだった。それでも、今日あの二秒を見てしまったからには、いつか聞くつもりでいる自分がいる。

 

――君たちが進めば、いずれ交わる。

 

旅に出た初日、Nはそう言った。

 

あのときは、勝手なことを言うと思った。今は違う。

 

たぶん、あれは事実の確認だった。

 

シンは寝返りを打った。

 

明日、ホドモエへ向かう道に出る。カミツレは五番道路で待っていろと言った。プラズマ団が何かをやっているという話も聞いている。

 

その先で、誰と会うのかはまだ分からない。

 

ただ、会ったときに聞くことだけは、もうひとつ増えた。

 

窓際の呼吸は、変わらず静かだった

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