回復を知らせるベルが鳴ったのは、日が傾き始めたころだった。
シンはベンチから立ち上がり、カウンターへ向かった。足元では、床に伏せていたケルディオが顔を上げる。ついてくるかどうか一瞬だけ迷ったような間を置いて、結局は立ち上がった。
「お待たせしました。二匹とも、元気になっていますよ」
看護師がトレーを差し出す。
「毒針を使っていた子のほうは、外骨格に軽い亀裂が入っていました。処置はしてありますが、明日一日は激しい戦闘を避けてあげてください」
「分かりました」
「それと」
看護師は少しだけ声の調子を変えた。
「進化したばかりの子は、しばらく体の感覚がずれることがあります。転んだり、力の加減を間違えたりするかもしれませんが、心配はいりません」
シンはボールを受け取り、その言葉を頭の中で繰り返した。
体の感覚がずれる。
そういうものなのか、と思った。考えたことがなかった。
センターの外へ出ると、ライモンの空は薄い橙に染まりかけていた。
人通りの多い場所を避けて、シンは建物の裏手の空き地まで歩いた。そこでボールを二つ、続けて開く。
「フシデ、フタチマル」
赤い光が二つ、地面に落ちた。
「フシッ!」
フシデがまず飛び出す。外骨格の一部に薄い保護材が貼られているが、動きに大きな支障はなさそうだった。シンの足元まで走ってきて、触角でズボンの裾を軽く叩く。
「悪かったな。無理させた」
「フシ」
短く返ってくる。恨んではいないらしい。
そして、もう一つの光がかたちを結んだ。
「……フタチ」
そこに立っていたのは、やはりミジュマルではなかった。
背が伸びた。腕が長くなった。二本の脚で立ち、腰のあたりに二枚の殻を提げている。頭の大きさに対して体が細く、全体の輪郭がすっきりしていた。
シンはしばらく、黙ってその姿を見ていた。
「……大きくなったな」
「フタチッ」
フタチマルが胸を張る。その動きで、わずかに体が後ろへ傾いた。
「おい」
「フタ!?」
慌てて足を出し、なんとか踏みとどまる。
シンは思わず笑った。
「看護師の言ったとおりだ。重心が変わってる」
「フタチ……」
決まりの悪そうな声。フシデが横で触角を震わせている。笑っているらしい。
「シデェ」
「フタチッ!」
抗議するようにフシデへ向き直るフタチマル。その足がまたもつれて、今度は本当に尻もちをついた。
「フシッ、フシッ」
「……フタチ」
シンはしゃがみ込み、フタチマルの頭に手を置いた。
「焦らなくていい」
短く言う。
「今日は勝ったんだ。それも、お前のおかげだ」
フタチマルは顔を上げ、それからゆっくり自分の手を見た。
長くなった腕。細くなった指。
その先に、あの光の刃が生まれた。
シンにも、フタチマル自身にも、あれが何だったのかは分からない。教えたわけでも、覚えさせたわけでもない技だ。ただ、あの一瞬だけ、この個体の体はそれを知っていた。
「……フタチ」
フタチマルは自分の手を握ったり開いたりして、それから殻の一つに触れた。
抜かなかった。
抜こうとして、やめた、というほうが近い。
「今は、いい」
シンは言った。
「使い方は、そのうち分かる」
日が落ち切る前に、シンは荷物を宿へ置きに戻った。
部屋のテーブルに、四つ目のバッジを並べる。
雷のかたちをした黄色い金属が、三つの先輩たちの横に収まった。並べてみると、ここまでの距離が急に短く感じられて、逆に落ち着かない気分になった。
窓の外では、街の明かりが順に点き始めている。
その中でも、ひときわ大きい光の輪があった。
観覧車だ。
ライモンシティの象徴。街のどこからでも見える巨大な回転体が、夕闇の中でゆっくり色を変えながら回っている。
シンはしばらくそれを眺めていた。
来てから今日まで、一度も乗っていない。乗ろうと思ったことすら、たぶんなかった。エモンガのこと、プラズマ団のこと、ケルディオのこと、ジムのこと。目の前のものを片づけるだけで日が終わっていた。
「……行くか」
誰にともなく言って、シンは立ち上がった。
遊園地の入口は、思っていたよりずっと明るかった。
ゲート全体が電飾で縁取られ、その下を家族連れやカップルが通っていく。屋台の匂い。子どもの声。回転する乗り物の機械音。昼間の大通りとはまた違う種類のうるささが、夜のほうへ向かって広がっていた。
シンは足元を見た。
外に出しているのはフタチマルだけだ。フシデは人混みでは自分から戻りたがるし、ケルディオは目立ちすぎる。街の中でのやり方は、昨日と変えていない。
「フタチ」
フタチマルは人の多さに少し圧倒されているようで、シンの脚のすぐ横をぴったりついて歩いていた。
ゲートをくぐってすぐの通りには、屋台が並んでいた。
焼いた串の匂い。砂糖を熱した甘い匂い。その両方が混ざって、夜の空気の中に重く漂っている。
フタチマルが立ち止まった。
「フタチ」
視線の先には、丸い菓子を袋詰めにして売っている店があった。色とりどりの砂糖菓子が、照明を受けてつやつや光っている。
「食うか?」
「フタチッ」
即答だった。
シンは苦笑して、財布を出した。ジムに勝った日くらいは、多少無駄遣いしてもいいだろうと思った。
小袋を二つ買い、片方をフタチマルに渡す。長くなった腕でそれを受け取ったフタチマルは、袋の口を開けようとして、力を入れすぎた。
破れた袋から、砂糖菓子が地面に散らばる。
「フタ……!?」
「言ったろ。力の加減がずれてる」
シンはしゃがんで拾い集めた。幸い、ほとんどは包装のまま落ちただけだった。
「フタチ……」
しょげた声が上から降ってくる。
「気にするな。慣れるまでの話だ」
シンは拾った分を自分の袋に移し、代わりに自分の袋をそのままフタチマルに渡した。
「これ使え。開けてやる」
丁寧に口を開いてやると、フタチマルは今度は両手でそっと受け取った。
一つ口に入れて、目を丸くする。
「フタチッ!」
「うまいか」
「フタチ、フタチッ!」
腕を上下に振って喜んでいる。その動きでまた重心が崩れかけて、慌てて足を踏ん張った。
シンは笑いを噛み殺した。
進化して大きくなっても、中身はさっきまでのミジュマルのままだった。名前を知らない技を出したときの、あの静かな目つきが嘘のようだ。
たぶん、どちらも本当なのだろう。
「ほら、行くぞ」
観覧車の乗り場は、園内の一番奥にあった。
近づくにつれ、その大きさが実感として分かってくる。首を限界まで反らせても、頂上が見えない。骨組みの一本一本が、街灯より太かった。
「フタチ……」
フタチマルが、口を半分開けたまま見上げている。
「でかいだろ」
「フタチッ」
乗り場には短い列ができていた。並んでいるあいだに、フタチマルは何度も上を見て、そのたびに首を戻し、また見上げた。落ち着かないらしい。
順番が回ってくると、係員の女性が笑顔で迎えた。
「お一人ですか?」
「……三匹連れてる」
シンはベルトのボールを示した。
「ゴンドラの中で出してもいいか」
係員は少しだけ考えて、それからうなずいた。
「大丈夫ですよ。中は扉が閉まりますし、他のお客様と一緒になることもありませんから」
そして、付け加えた。
「ただ、大型のポケモンさんだと、窮屈になるかもしれませんね」
「一匹、少し大きいのがいる」
「馬くらいですか?」
「……小柄な馬くらいだ」
「でしたら、大丈夫です。うちのゴンドラ、けっこう広いんですよ」
係員はゴンドラの扉を開けた。
中は、円形のベンチが壁沿いに設けられていて、床は思ったより広い。大人が四人座っても余裕がある。
「では、ごゆっくり」
扉が閉まった。
ゴンドラが、ゆっくりと動き出す。
地面から離れる感覚は、乗り物というより、持ち上げられている感じに近かった。
シンはベンチに座り、腰のボールを外した。
「出るぞ」
赤い光が二つ、狭い空間の中で弾ける。
フシデが床に、ケルディオが向かい側のベンチの前に現れた。
「フシッ!?」
フシデは床に着地した瞬間、体を硬直させた。足の下が動いているのが分かったのだろう。触角を高く上げ、警戒の姿勢を取る。
「揺れてるだけだ。落ちないから安心しろ」
「フシ……」
納得はしていないようだったが、フシデはとりあえず床に体を伏せた。低い姿勢のほうが安心するらしい。
ケルディオは、動かなかった。
四本の脚で立ったまま、まず天井を見て、次に足元を見て、最後に窓へ視線を移す。
そして、そこで止まった。
シンは、その様子を見ていた。
狭い箱の中に閉じ込められて、しかも地面から離れていく。逃げ場のない状況としては、かなり上位に入るはずだった。昨日のバトルコートで固まったことを思えば、ここで同じことが起きてもおかしくない。
だが、前脚は震えていなかった。
理由を考えて、シンはひとつだけ思い当たった。
ここには、向かい合う相手がいない。
戦う場所ではないからだ。狭くても、逃げられなくても、ここでは誰もこの個体に「立て」と言わない。
「……なるほどな」
小さく呟く。
ケルディオの耳が、わずかに動いた。
「なんでもない」
シンは窓のほうへ向き直った。
窓の外には、ライモンシティが広がり始めていた。
高さが上がるにつれて、街の見え方が変わっていく。
最初は建物の屋根が見えた。次に、街路の並びが見えた。そして、光の粒がひとつずつ、意味のある並び方をしていることが分かってくる。
大通りは、まっすぐな光の帯だった。
その帯から細い線が何本も枝分かれして、住宅街の四角い区画を作っている。ポケモンセンターの赤い屋根は、そのどこかにあるはずだった。
「フタチ……」
フタチマルが窓に手をついた。
その姿勢のまま、しばらく動かない。
「あれが、俺たちが歩いてた道だ」
シンは指をさした。
「ジムはあっち。ドームの屋根が光ってるだろ」
「フタチッ」
「センターは、あの赤いところ」
「フタチ」
「で、あっちが――」
言いかけて、シンは指を止めた。
街の北西の端。建物が減り、代わりに鉄骨と資材置き場が並ぶ区画。
西搬送路Bのあるあたりだ。
そこだけ、光が少なかった。夜間の作業灯がぽつぽつと点いているだけで、街の他の場所のような賑やかさはない。
「……あそこだ」
シンは言った。
「エモンガがいたところ」
フシデが床から顔を上げた。触角がゆっくりそちらを向く。
ケルディオも、窓の外のその一点を見た。
「二匹とも、東へ行った」
シンは続けた。
「どこまで行ったのかは、分からない。もう会わないかもしれない」
窓の外を、光の粒が流れていく。
「でも、あそこで何かが変わった」
そう言ってから、シンはケルディオを見た。
ケルディオは窓を見たままだった。振り向かない。
けれど、耳はこちらを向いていた。
聞いている。
シンはそれ以上、言葉を足さなかった。
ゴンドラが、さらに高度を上げる。
半分を過ぎたあたりから、街の外まで見えるようになった。
東には、闇に沈んだ丘の稜線。あの向こうに五番道路があり、その先にホドモエシティがある。
北には、光の少ない一帯。地図で見た限りでは、ヤグルマの森のはずだ。
南は、ヒウンシティの方角。海の匂いはここまで届かないが、遠くで小さく光っているのは港の灯りだろう。
シンは、その全部を順番に見た。
「……歩いてきたな」
自然に言葉が出た。
カラクサタウンを出て、サンヨウで最初のジムに挑んで、ヒウンで海を見て、ここまで来た。
地図の上では、大した距離ではない。イッシュ地方全体から見れば、まだ半分にも届いていない。
それでも、この高さから見下ろすと、歩いた分だけの光がそこにあった。
「フタチ」
フタチマルがシンの隣に来た。
窓に手をついたまま、シンと同じ方向を見ている。
「お前は最初からいたな」
シンは言った。
「アララギ博士のところで、三匹並んでたときから」
「フタチッ」
「あのとき、お前はいちばん前に出てきた。俺が選んだんじゃない。お前が出てきたんだ」
フタチマルが、シンの顔を見上げる。
「……覚えてるか?」
「フタチ」
短い返事だった。覚えているのかどうか、シンには分からない。
けれど、その目は逸れなかった。
シンはふと、フタチマルの腰の殻に目をやった。
二枚。左右に一枚ずつ。ミジュマルのときは腹の前に一枚だけだった。
「……見せてもらっていいか」
フタチマルが首をかしげる。
「その殻だ」
シンが手を出すと、フタチマルは少し迷ってから、右の殻を鞘から抜いてシンの掌に載せた。
思ったより軽い。だが、縁は硬く、指を当てると刃物のような角があった。厚みは中央が厚く、外へ行くほど薄い。武器として使うなら、この形は理にかなっている。
「今日、これから光が出た」
シンは殻を返しながら言った。
「見えたか?」
「フタチ」
小さくうなずく。
「あれは、何だったんだ」
問いかけたが、答えを期待していたわけではなかった。
フタチマルは殻を受け取り、しばらくそれを見つめていた。それから、握り直して、腕を軽く動かしてみせる。
一度。
二度。
光は出なかった。
「フタチ……」
「出ないか」
「フタチ」
悔しそうな声だった。
シンは首を振った。
「出なくていい。今日は使う場面じゃない」
そう言ってから、少しだけ考えた。
あの技が出たのは、ゼブライカとすれ違う、あの一瞬だった。届かなかった距離が、進化で届く距離になった。その差を埋めるものとして、体が勝手に刃を作った。
必要だったから、出た。
そういうことなのかもしれない。
「使いたいときに使えるようになるのが、たぶん次の課題だ」
シンは言った。
「五番道路で、少し試そう。相手はいくらでもいる」
「フタチッ」
今度の返事は、はっきりしていた。
床のほうで、フシデが少しずつ姿勢を戻していた。伏せていた体を起こし、恐る恐る窓のほうへ近づいていく。
「フシ……」
窓の縁に触角の先が届く。
外を見て、フシデは一度だけ大きく体を震わせた。
「フシッ!」
「怖いか」
「フシ、フシ」
「そうだな。俺も、正直あんまり得意じゃない」
シンは正直に言った。
高いところが怖いというより、足元に何もないことが落ち着かない。地面を踏んでいないと、判断の基準が持てない気がする。
「でも、ここまで来ないと見えないものがある」
フシデは触角を窓につけたまま、しばらくじっとしていた。
やがて、震えが止まった。
頂上に近づいたころ、ケルディオが動いた。
窓の前から一歩下がり、ゴンドラの中央へ来る。
そして、シンの座っているベンチのほうへ、二歩。
シンは動かなかった。
ケルディオは、そこで止まった。
昨日の中庭で詰めた距離より、さらに近い。ゴンドラが狭いせいもある。だが、それだけではないことは、シンにも分かった。
「……座れば?」
シンは自分の隣のベンチを、軽く叩いた。
ケルディオは、そこを見た。
しばらく、動かない。
やがて、前脚を曲げ、ゆっくりと床に伏せた。ベンチには乗らない。だが、シンの脚のすぐ横だった。
膝に、白い毛が触れた。
意図的なのか、狭さのせいなのか、シンには判断がつかなかった。
判断をつける必要も、なかった。
「……ああ」
短く言って、シンは窓の外へ視線を戻した。
ゴンドラが頂上に達する。
一瞬、動きが止まったように感じた。実際には止まっていない。速度が変わらないまま、上昇から下降へ切り替わる、そのわずかな時間だ。
その一瞬だけ、街の光が全部、同じ高さに見えた。
シンは息を吸った。
「明日、ここを出る」
誰にともなく言った。
「五番道路に行く。カミツレさんが、橋を渡れるようにしてくれるらしい」
フタチマルが窓から手を離し、こちらを向いた。
「その先はホドモエだ。プラズマ団が何かやってるらしいって話も聞いてる」
シンは膝の上で手を組んだ。
「たぶん、また面倒なことになる」
言葉に迷いはなかった。
「でも、逃げない」
昨日、バトルコートで自分が言ったことを思い出す。
――俺が欲しいのは、勝ちじゃない。
あれは、その場しのぎの言葉ではなかった。今日、二匹でジムに挑んで、フタチマルが土壇場で進化して、それでようやく分かったことがある。
強くなるのは、たぶん、追い込まれたときだ。
だが、追い込むのはトレーナーの仕事ではない。
「……全員で行く」
シンは言った。
「戦えるやつも、戦えないやつも」
膝の横で、白い毛がわずかに動いた。
ケルディオは、何も言わなかった。
下降が始まると、街はまた元の見え方に戻っていった。
光の粒が大きくなり、意味の分かる形へ戻る。ゴンドラの中の空気も、少しずつ地上に近づいていった。
半分ほど降りたところで、シンは向かい側の窓の外に目をやった。
観覧車は、たくさんのゴンドラが円周上に並んでいる。下降するこちらと、上昇していく向こう側とが、途中ですれ違う。
そのうちの一つが、視界を横切った。
明かりの中に、人影が二つ見えた。
一人は、長い緑色の髪の青年だった。帽子をかぶり、窓のほうを向いて何かを話している。
シンの背筋が、勝手に伸びた。
――N。
見間違えようがなかった。旅に出た初日、カラクサタウンの広場で向かい合った相手だ。ヒウンの倉庫街で、同じ側に立って戦った相手でもある。あの静かすぎる目も、周囲から半歩ずれたような立ち方も、記憶から薄れていない。
そして、その向かいに座っている少年を見たとき、シンの手が窓枠を掴んだ。
黒い髪。見慣れた背格好。少し前のめりになって、相手の話を聞いている姿勢まで、知っている。
――トウヤ。
すれ違いは、二秒もなかった。
ゴンドラは互いに反対方向へ流れ、すぐに見えなくなる。
「……おい」
声が出た。誰に向けたものでもない。
シンは反対側の窓へ移り、上がっていくゴンドラを目で追った。もう明かりの角度が変わっていて、中は見えない。
「なんで」
膝の上で手を握る。
なんで、あの二人が同じゴンドラに乗っている。
ヒウンで別れたときのことを思い出す。トウヤは振り返らずに歩いていった。次に会う約束はしない、とチェレンが言い、全員がそれに同意した。それでいいと思ったし、今も間違っていたとは思わない。
けれど、そのトウヤが、Nと二人で観覧車に乗っている。
Nがどういう相手なのかは知っている。ポケモンの声が聞こえると言い、プラズマ団と同じ問いを持ちながら、あの連中のやり方は違うと言った男だ。倉庫街では確かにこちらを助けた。それでも、シンの中でNは「味方だ」と言い切れる相手にはなっていない。
トウヤは、そのことを知っているのか。
知った上で、あそこに座っているのか。
「……分からない」
口に出すと、余計にはっきりした。
分からない。トウヤが何を考えているのかも、Nが何を話していたのかも、二人がいつからああして向かい合うようになったのかも。
別れてから、そう長い時間は経っていない。なのに、さっきの二秒で見えたものは、シンの知っているトウヤの位置から少しずれていた。
――君たちが進めば、いずれ交わる。
Nがそう言ったのは、旅に出た初日のことだ。
あのときは、勝手なことを言うと思った。
今は違う。あれは予言でも脅しでもなく、たぶんただの事実だったのだと、こうして見てから思う。
床のフシデが、触角を上げていた。
ケルディオも、顔を上げている。
二匹とも、同じ方向を見ていた。
「……知ってるやつだった」
シンは短く言った。
「二人とも」
説明にはならない説明だった。それでも、言葉にしておきたかった。
言ってから、シンはもう一度だけ上のほうを見る。
追いかけようがない。地上に降りるまで、ここからは何もできない。降りたところで、あのゴンドラが下りてくるまで待つのかと言われれば、それも違う気がした。
待って、何を聞くのか。
なぜあいつといるんだ、とでも言うのか。
自分にそれを聞く筋があるとは思えなかった。別々に行くと決めたのは、こっちも同じだ。
それでも、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。
ゴンドラが地上に戻り、扉が開く。
「お疲れさまでした!」
係員の明るい声に迎えられて、シンは外へ出た。
夜風が、思ったより冷たい。
フシデがボールへ戻りたがったので、そうしてやった。ケルディオも、遊園地の人混みの前で足を止めたので、シンは何も聞かずにボールを構えた。
赤い光が消えたあと、残ったのはフタチマルだけだった。
「フタチ」
「帰るか」
「フタチッ」
歩き出しながら、シンはもう一度だけ観覧車を振り返った。
さっきまで自分がいた高さが、遠く光っている。
宿の部屋に戻ったのは、夜の九時を回ったころだった。
シンは荷物を整理し、明日の分の水と食料を確認した。五番道路は、ライモンから北へ抜ける道だ。距離はそれほどないが、途中に施設や畑があり、トレーナーも多いと聞いている。
ベルトのボールを三つ、テーブルに並べる。
明日は、フシデを休ませる。看護師の言葉どおりだ。外に出すのはフタチマルにする。進化したばかりの体を、道中で慣れさせておいたほうがいい。
ケルディオは――。
シンは三つ目のボールを手に取り、少し考えた。
それから、ボタンを押した。
白い光が部屋に落ち、ケルディオが現れる。
「今日は、部屋にいろ」
シンは言った。
「明日から道に出る。街の中より、外のほうが気は張るだろうけど」
ケルディオは窓際へ歩き、そこで止まった。
昨日と同じ位置だ。
だが、姿勢が違った。
昨日は、外を見ていた。今日は、窓の縁に沿って一度体を回し、それから部屋の中央のほうを向いて伏せた。
外ではなく、内側を向いて眠る姿勢だった。
シンはそれに気づいて、少しだけ手を止めた。
何も言わなかった。
言うべきではない気がした。
明かりを落とし、ベッドに横になる。
フタチマルは部屋の隅ではなく、ベッドの足元に丸まった。進化して体が大きくなった分、そこは少し窮屈そうだったが、本人は気にしていないらしい。
「フタチ」
「……ああ。おやすみ」
天井を見上げながら、シンはさっきの観覧車を思い返した。
高いところから見ると、歩いた道は光の帯になっていた。まだ半分にも届いていない、その帯。
明日から、その先へ伸びる。
――全員で行く。
さっき言った言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
戦えるやつも、戦えないやつも。
窓際の呼吸は、静かだった。
眠りに落ちる直前、シンはふと、観覧車ですれ違ったゴンドラのことを思い出した。
Nと、その向かいに座っていたトウヤ。
何を話していたのかは分からない。Nがなぜライモンにいるのかも、トウヤがいつからあの相手と向かい合うようになったのかも。
聞けば教えてくれるだろうか。
たぶん、教えてくれる。トウヤはそういうことを隠すやつではない。ただ、聞かれなければ自分からは言わないだろう。あいつはいつもそうだった。
だったら、次に会ったときに聞けばいい。
会うかどうかは分からない、と決めて別れたはずだった。それでも、今日あの二秒を見てしまったからには、いつか聞くつもりでいる自分がいる。
――君たちが進めば、いずれ交わる。
旅に出た初日、Nはそう言った。
あのときは、勝手なことを言うと思った。今は違う。
たぶん、あれは事実の確認だった。
シンは寝返りを打った。
明日、ホドモエへ向かう道に出る。カミツレは五番道路で待っていろと言った。プラズマ団が何かをやっているという話も聞いている。
その先で、誰と会うのかはまだ分からない。
ただ、会ったときに聞くことだけは、もうひとつ増えた。
窓際の呼吸は、変わらず静かだった