BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第82話 二匹で立つということ

 

ライモンシティの北ゲートは、朝のうちから人の出入りが多かった。

 

ホドモエ方面へ向かう旅人と、逆に街へ入ってくる荷車が同じ通路を使うせいで、ゲート内は常に半分詰まっている。係員が交通整理をしながら、順番に通していた。

 

シンはその列に並びながら、掲示板を見ていた。

 

五番道路。パフォーマーストリート。

 

そう書かれた案内の下に、小さく別の紙が貼られている。ホドモエの跳ね橋が現在停止中である旨と、復旧の見込みは未定であること。

 

「やっぱりまだか」

 

「フタチ」

 

足元のフタチマルが顔を上げた。

 

昨日カミツレが言っていた通りだ。橋は上がったまま。渡れるようにする、と彼女は言ったが、あれが具体的にどういう意味なのかは分からなかった。ジムリーダーが橋を動かせるものなのか、それとも別の伝手があるのか。

 

いずれにせよ、五番道路で待っていろと言われた。

 

なら、行くしかない。

 

順番が来て、ゲートを抜ける。

 

外へ出た瞬間、空気の質が変わった。

 

五番道路は、想像していたのとまるで違った。

 

道はある。整備もされている。だがその両脇に、テントや屋台や仮設の舞台が並んでいた。楽器を抱えた人間が路上で音を鳴らし、その周りで見物人が足を止めている。少し先ではダンサーが体を回し、その向こうでは道化のような格好の男が輪を投げていた。

 

「……なんだこれ」

 

「フタチ!?」

 

フタチマルが目を丸くして立ち止まる。

 

近くを歩いていた年配の女性が、その様子を見て笑った。

 

「初めて?」

 

「はい」

 

「五番道路はね、こういうところなの。ライモンで芸をしてる人たちが、外でも練習したり見せたりするのよ」

 

「毎日ですか」

 

「毎日じゃないけど、季節がいいときはね」

 

女性はそう言って、先へ歩いていった。

 

シンはあらためて周囲を見る。

 

音が多い。人も多い。だが、ライモンの街中とは種類が違った。街の音は生活の音だ。ここの音は、見せるための音だった。

 

道の右手には、柵で囲われた牧場が広がっている。バッフロンらしい大きな影が数頭、のんびり草を食んでいた。その手前にはコテージが並び、洗濯物が風に揺れている。

 

賑やかなのに、どこかのんびりしている。

 

そういう道だった。

 

「フシデも出すか」

 

ボールを開くと、フシデが現れた。

 

「フシ」

 

足元の土を一度だけ確かめて、それから歩き出す。舗装されていない道はフシデにとって歩きやすいらしく、ライモンの街中より足取りが軽かった。

 

ケルディオは、出さなかった。

 

人が多い。舞台もある。目立つ個体を歩かせるには向いていない。それに——昨日の観覧車で、ケルディオは自分から人混みの前で足を止めた。あれが答えだと思っている。

 

代わりに、シンはボールを一度だけ指で叩いた。

 

「今日は道だ。落ち着いたら出す」

 

返事はない。当然だ。

 

道を歩き始めて三十分ほど経ったころ、シンは足を止めた。

 

前方、道の脇にある小さな休憩所。木のベンチが二つ並んでいるだけの場所に、見覚えのある背中があった。

 

黒い髪。きちんと整えられた服。片手に本、もう片手で眼鏡の位置を直している。

 

その足元に、頑丈そうな体つきの火のポケモンが座っていた。

 

シンは息を止めた。

 

「……チェレン?」

 

声に出したつもりはなかったのに、届いたらしい。

 

背中が振り返る。

 

眼鏡の奥の目が、こちらを見て、一瞬だけ止まった。

 

「……シン」

 

短い名前だった。

 

それだけなのに、ヒウンで別れた朝からの時間が、まとめて戻ってくる気がした。

 

「久しぶり、でいいのか」

 

シンが近づきながら言うと、チェレンは本を閉じた。

 

「そうだね。三か月くらいか」

 

「そんなに経ったか」

 

「数えてないのか」

 

「数えてない」

 

「君らしいな」

 

チェレンは立ち上がり、シンの足元へ視線を落とした。

 

フタチマル。フシデ。

 

「進化したのか」

 

「昨日」

 

「昨日?」

 

「ライモンのジムで」

 

チェレンの眉がわずかに動いた。

 

「間に合わせみたいな進化じゃないだろうね」

 

「土壇場だった」

 

「じゃあ本物だ」

 

そう言ってから、チェレンは自分の足元を示した。

 

「ブオ」

 

チャオブーが低く鳴く。ヒウンのジムで進化したときより、さらに体が締まって見えた。あのときはまだ新しい体を持て余していたが、今は違う。四つ足の置き方に迷いがない。

 

「あれから、あと二匹増えた」

 

チェレンがボールを二つ取り出す。

 

「見るか」

 

「見る」

 

赤い光が二つ弾けて、ハーデリアとハトーボーが現れた。

 

「ハデッ」

 

「ポポォ」

 

ハーデリアはシンを一度だけ見て、それからすぐチェレンの隣に座った。躾が行き届いている、という言い方では足りない。自分がどこに立つべきかを分かっている座り方だった。ハトーボーは軽く羽ばたいて、休憩所の屋根の縁に止まる。

 

「ヨーテリーは、ヤグルマの先で。マメパトはヒウンを出てすぐだ」

 

「増やしたな」

 

「君は」

 

チェレンが問い返す。

 

「ヒウンのときと同じ二匹?」

 

シンは一瞬、答えに詰まった。

 

「……いや」

 

「増えたのか」

 

「増えた」

 

「じゃあ出せばいい」

 

「出さない」

 

チェレンの目が細くなった。

 

「なぜ」

 

シンは黙った。

 

説明しようとすれば長くなる。説明しなければ、たぶん誤解される。どちらにしても、いま立ち話で済ませられる話ではなかった。

 

チェレンはしばらくシンの顔を見ていたが、やがて眼鏡を押し上げた。

 

「……まあ、いい」

 

追及しない。

 

そのあたりの引き方は、昔よりずっと上手くなっていた。

 

「それより」

 

チェレンは休憩所のベンチから荷物を持ち上げる。

 

「一戦、やらないか」

 

道から少し外れた、草の広い場所へ移った。

 

近くにはトレーナー同士が使うらしい踏み固められた区画があり、五番道路ではそういう場所がいくつか用意されているらしかった。今は誰も使っていない。

 

チェレンが向かい側に立つ。

 

「三対三でいいか」

 

シンは首を振った。

 

「二匹だ」

 

チェレンの動きが止まった。

 

「……二匹?」

 

「うん」

 

「増えたと言っただろう」

 

「増えた。でも出さない」

 

「シン」

 

チェレンの声が、少しだけ低くなった。

 

「手加減のつもりなら、僕は受けない」

 

「そうじゃない」

 

「じゃあ何だ」

 

シンは正面からチェレンを見た。

 

「あいつは、まだ戦えない」

 

風が、草の上を渡っていった。

 

チェレンは何も言わない。ただ、シンの言い方を頭の中で確かめているような顔をしていた。

 

「怪我か」

 

「違う」

 

「じゃあ相性の問題?」

 

「それも違う」

 

シンは息を吸った。

 

「戦う形になると、動けなくなるんだ」

 

チェレンの表情が変わった。

 

呆れでも、疑いでもない。もっと真面目な、状況を組み直そうとしている顔だった。

 

「……つまり、戦闘という形式そのものが駄目なのか」

 

「たぶん」

 

「守るための動きなら?」

 

シンは少し驚いた。

 

そこまで一息で辿り着くのか、と思った。

 

「できる。むしろ強い」

 

「なるほど」

 

チェレンは一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。

 

「分かった。二対三でいい」

 

「いいのか」

 

「君が言った条件が、君の今の形なんだろう」

 

チェレンはボールを構えた。

 

「なら、その形で来い。数を合わせるために出させて、それで君の中の何かが壊れるほうが問題だ」

 

シンは少しだけ、口の端が動きそうになるのをこらえた。

 

こいつは変わっていない。理屈っぽいところも、その理屈の使い方が最後には人のほうを向くところも。

 

「ありがとう」

 

「礼を言われる筋合いはないよ」

 

チェレンは短く言って、ボールを投げた。

 

「ハーデリア」

 

「ハデッ!」

 

最初に出てきたのは、四つ足の茶色い体だった。低く構え、こちらを見据える。

 

「フシデ」

 

「フシ!」

 

シンも最初はフシデを選んだ。

 

理由は単純だ。ハーデリアは正面から押してくるタイプに見える。フシデは正面で受ける相手ではない。だが、正面を外して崩す相手としては噛み合う。

 

「始めていいか」

 

「うん」

 

チェレンが手を上げる。

 

「ハーデリア、たいあたり」

 

最初の一歩が速かった。

 

シッポウのアロエが使っていた個体とは違う。あれは崩れても前に出る強さだった。チェレンのハーデリアは、崩れないように整えて出てくる。踏み込みに無駄がない。

 

「フシデ、正面外せ!」

 

「フシッ」

 

フシデが半歩ずれる。ハーデリアの体当たりが横を抜けた。掠める。だが、まともには入らない。

 

「どくばり!」

 

紫の針が、抜けたハーデリアの後脚へ飛ぶ。

 

「戻して受けろ」

 

チェレンの指示は早い。ハーデリアが体をひねり、針を肩の毛で受ける。効いてはいるが、致命的ではない。

 

「上手いな」

 

シンが言うと、チェレンは表情を変えずに返した。

 

「見てから避けるより、当たる場所を選ぶほうが早い」

 

「そういうやり方するようになったのか」

 

「ずっとやってる。君が気づかなかっただけだ」

 

軽口の応酬の裏で、ハーデリアはもう次の踏み込みに入っていた。

 

「たいあたり、もう一度」

 

来る。

 

シンはそこで、フシデを引かせなかった。

 

「ころがる!」

 

フシデが丸まって前へ出る。真正面ではない。ハーデリアの踏み込みの外側、体重の乗り切る手前へ横から入る。

 

鈍い音がした。

 

ハーデリアの向きが崩れる。倒れはしない。だが、前へ出る勢いが完全に殺された。

 

「そのまま、どくばり!」

 

「シデェッ!」

 

崩れた側面へ、針が入る。今度は深い。

 

ハーデリアが低く唸った。

 

「ハデッ……」

 

「効いてるな」

 

「効いてる」

 

チェレンはあっさり認めた。

 

「でも、その子はもう一度同じことができるか?」

 

シンの背筋が冷えた。

 

「ハーデリア、下がれ。距離を取れ」

 

ハーデリアが後ろへ跳ぶ。追わせない。

 

そうだ。フシデのころがるは、当たれば効く。だが、当てるまでに踏み込みを読む必要がある。距離を取られれば、その読みは使えない。

 

「ハトーボー、交代」

 

「ポポォ!」

 

屋根から見ていたハトーボーが、羽ばたきながら降りてくる。

 

空だ。

 

シンは奥歯を噛んだ。

 

フシデは飛べない。地面の相手なら踏み込みを読める。だが、空から来る相手には、その読みが通らない。

 

「フシデ、無理に狙うな」

 

「フシ」

 

「上を見ろ。降りてくる瞬間だけでいい」

 

「ハトーボー、つばさでうつ」

 

上から鋭い弧を描いて、ハトーボーが降下してくる。

 

フシデが丸まって受けた。

 

「シデェッ!」

 

外骨格が鳴る。ダメージは通っている。だが倒れない。

 

「もう一度」

 

二撃目。

 

今度はフシデの体が横へ飛んだ。草の上を転がり、止まる。

 

「フシデ!」

 

起き上がる。だが、脚の動きが明らかに鈍い。

 

シンは判断した。

 

「一発だけ、当てられるか」

 

フシデが顔を上げる。

 

触角が、はっきりこちらを向いた。

 

「なら、次の降下だ」

 

「ハトーボー、決めろ」

 

三撃目が来る。

 

「今だ、まるくなれ!」

 

フシデが体を固める。ハトーボーが真上から突っ込む。

 

そして、ぶつかる瞬間。

 

「ころがる!」

 

固めた体が、その場で弾けた。

 

上へ、ではない。斜めへ。降下してくるハトーボーの軌道の内側へ、下から潜り込むように転がる。

 

「ポポッ!?」

 

翼が空を打ち、体勢が崩れた。

 

「どくばり!」

 

至近距離から針が飛ぶ。羽の付け根に刺さった。

 

ハトーボーが高度を落とし、地面すれすれで立て直す。だが、片方の翼の動きがぎこちない。

 

「毒か」

 

チェレンが小さく言った。

 

「入った」

 

「……なるほど。当てられないなら、当たりに来させるのか」

 

「そっちが決めろって言ったから」

 

「言ったな」

 

チェレンの口元が、ほんのわずかに動いた。

 

だが、そこで終わらせない。

 

「ハトーボー、そのまま押せ」

 

毒を受けたまま、ハトーボーが突っ込んでくる。

 

フシデはもう、避けられなかった。

 

三度目の翼が入り、小さな体が草の上に転がる。

 

今度は起き上がらなかった。

 

「フシデ、戻れ」

 

赤い光がフシデを包む。

 

「よくやった。次に繋いだ」

 

シンはボールをしまい、次を手に取った。

 

「フタチマル」

 

「フタチッ!」

 

現れたフタチマルは、着地と同時に腰の殻へ手をかけた。

 

昨日ゼブライカを斬った動きが、まだ体に残っているらしい。

 

チェレンの目が、そこで少し細くなった。

 

「……その構え」

 

「なんだ」

 

「いや」

 

チェレンは首を振った。

 

「君のミジュマルは、もっと勢いで前に出る子だったと思っただけだ」

 

「今もそうだよ」

 

「今のは違う」

 

「進化したからな」

 

シンはそう答えたが、自分でも半分嘘だと思っていた。

 

進化だけではない。昨日、あの一瞬でフタチマルが掴んだものが残っている。それを言葉で説明する方法を、シンはまだ持っていなかった。

 

「ハトーボー、上」

 

毒を受けたハトーボーが、それでも高度を取る。

 

「フタチマル、追うな」

 

「フタチ?」

 

「待て」

 

昨日と同じだ。

 

空を取られている相手を、地上から追っても届かない。追えば消耗するだけだ。

 

「降りてくる瞬間だけ見ろ」

 

「つばさでうつ!」

 

来る。

 

昨日のエモンガより速い。だが、昨日より読める。

 

「殻を上げろ!」

 

フタチマルが腰の殻を抜き、真上へ構えた。

 

翼と殻がぶつかる。

 

「ポポッ!」

 

弾かれたのはハトーボーだった。速度に乗った体は止まれない。軌道を殺されて、草の上に落ちる。

 

「みずでっぽう、ゼロ距離!」

 

「フタチッ!」

 

倒れたハトーボーへ、水が真上から降り注いだ。

 

毒がすでに回っている体には、それで十分だった。

 

ハトーボーは二度ほど羽をばたつかせて、動かなくなる。

 

「ハトーボー、戻れ」

 

チェレンがボールを構える。声に動揺はない。

 

「……フシデが刺した毒が効いたな」

 

「あいつが繋いだ」

 

「そうだね」

 

チェレンは素直に認めた。

 

「君のやり方だ。前の一手を無駄にしない」

 

そして、次のボールを投げた。

 

「ハーデリア、もう一度」

 

回復してはいない。

 

さっきフシデのころがるとどくばりを受けた分は、そのまま残っている。それでもハーデリアの構えは崩れていなかった。

 

「ハデッ」

 

低く、太い声だった。

 

「フタチマル、来るぞ」

 

「フタチッ」

 

「ハーデリア、たいあたり!」

 

来る。速い。

 

「殻で受けろ——いや」

 

シンは途中で言い直した。

 

「外せ! 半歩!」

 

フタチマルが横へずれる。

 

ハーデリアの突進が空を抜け、その勢いのまま数歩流れる。

 

「みずでっぽう!」

 

背中へ水が当たった。効いてはいる。だが、崩れない。

 

「ハーデリア、振り向いてかみつく」

 

速い切り返し。

 

フタチマルの腕に牙が入りかけた。

 

「殻!」

 

貝で挟むように受ける。歯が硬い殻を噛み、耳障りな音が鳴った。

 

「そのまま押し込め」

 

チェレンの声。

 

ハーデリアが体重をかけてくる。フタチマルの足が草を削って後ろへ滑る。

 

体格が違う。押し合いでは勝てない。

 

「フタチマル、投げろ!」

 

「フタチ!?」

 

「噛ませたまま、下だ!」

 

フタチマルが腰を落とした。

 

噛みつかれた殻を軸にして、体をひねる。押し込んできたハーデリアの力を、そのまま下へ流す。

 

ハーデリアの前脚が浮いた。

 

「今!」

 

フタチマルが殻を抜き放つ。

 

噛んでいた対象が急になくなり、ハーデリアが前のめりに崩れる。

 

「もう一枚!」

 

もう片方の殻が、真横から入った。

 

刃は伸びていない。ただの貝殻の打撃だ。それでも、崩れた体勢に真横から入れば効く。

 

ハーデリアが横倒しになった。

 

「みずでっぽう!」

 

至近距離の水が追い打ちをかける。

 

ハーデリアは立ち上がろうとして、途中で膝を折った。

 

「……戻れ」

 

チェレンがボールを構える。

 

その手が、一瞬だけ止まった。

 

「シン」

 

「なんだ」

 

「今のは、二枚使ったな」

 

シンは自分でも気づいていなかった。

 

言われて、フタチマルの腰を見る。殻は二つ。片方を投げるように抜き、もう片方で打った。

 

昨日は片方しか使っていない。

 

「……そうだな」

 

「使い分けてる」

 

チェレンは静かに言った。

 

「片方で受けて、片方で斬る。その形を、君は昨日から練習したわけじゃないだろう」

 

「してない」

 

「なら、その子が自分でやってる」

 

フタチマルが、自分の腰を見下ろした。

 

そこにある二枚の殻を、確かめるように。

 

「フタチ……」

 

「最後だ」

 

チェレンが最後のボールを取り出した。

 

「チャオブー」

 

「ブオ!」

 

現れた瞬間、空気の重さが変わった。

 

シンはそれを、はっきり肌で感じた。

 

ヒウンのジムで進化したときも、チャオブーは強かった。だが、あのときは進化直後の勢いだった。今は違う。三か月分、この体で戦ってきた重さがある。

 

「フタチマル」

 

「フタチッ」

 

フタチマルも構え直した。二枚の殻を、両手に。

 

「水と炎だ。相性はそっちが上だな」

 

チェレンが言う。

 

「でも、それで決まるほど単純じゃない」

 

「知ってる」

 

シンは短く答えた。

 

サンヨウで、デントのヤナップに勝った日から知っている。

 

「ならいい。——チャオブー、ひのこ」

 

火が散った。

 

だが、フタチマルへ向けてではない。手前の草へ落ちる。

 

草が焦げ、細い煙が立った。

 

「なっ——」

 

視界だ。

 

薄い煙が、フタチマルとチャオブーのあいだに膜を作る。

 

「たいあたり!」

 

煙の向こうから、重い影が突っ込んでくる。

 

「フタチマル、右!」

 

間に合わない。

 

肩口に入った。フタチマルの体が横へ飛び、草の上を転がる。

 

「フタチッ……!」

 

「立て!」

 

すぐに立ち上がる。だが、肩を押さえている。

 

「重いな」

 

シンが言うと、チェレンは頷いた。

 

「そういう子だ」

 

チャオブーは煙の中で待っている。追ってはこない。

 

シンは考えた。

 

煙を消すのは簡単だ。みずでっぽうを撃てばいい。だが、撃った瞬間に位置が分かる。チェレンはそれを待っている。

 

だったら。

 

「フタチマル、動くな」

 

「フタチ?」

 

「そこにいろ」

 

フタチマルが止まる。

 

シンも動かない。

 

沈黙が落ちた。

 

煙がゆっくり流れていく。風が右から左へ、少しずつ薄くしていく。

 

チェレンの声が飛んだ。

 

「動かないなら、こっちが行くだけだ。チャオブー、たいあたり」

 

来る。

 

音がした。草を踏む音。四つ足が地面を蹴る、重い音。

 

シンはその音だけを聞いていた。

 

近い。

 

もっと近い。

 

「——今!」

 

フタチマルが動いた。

 

避けたのではない。前へ出た。

 

煙の中へ、自分から踏み込む。

 

「なっ」

 

チェレンの声が初めて崩れた。

 

煙の中で、二つの影がぶつかる。

 

「殻!」

 

片方の殻でチャオブーの突進を受け、その勢いを横へ流す。

 

そして、もう片方。

 

「フタチマルッ!」

 

抜いた殻の縁に、青白い光が伸びた。

 

シンにも、その名前はまだ分からない。

 

けれど、昨日と同じものだった。

 

すれ違いざま、光の刃が走る。

 

紙を裂くような、小さな音。

 

煙が割れた。

 

風に流されて散っていく煙の中で、チャオブーは数歩走り抜けてから止まった。

 

「……ブ、オ」

 

そして、前脚が折れた。

 

しばらく、誰も動かなかった。

 

チェレンはチャオブーを見つめたまま立っている。フタチマルは殻を握った腕を下ろし、肩で息をしていた。光の刃は、もう消えている。

 

やがて、チェレンが小さく息を吐いた。

 

「……そうか」

 

ボールを構え、チャオブーを戻す。

 

「僕の負けだ」

 

シンはすぐには返事ができなかった。

 

勝った、という実感より先に、いまの一撃が何だったのかを考えていた。

 

昨日は、届かなかった距離を埋めるために出た。

 

今日は、見えない場所へ自分から踏み込むために出た。

 

同じ技のはずなのに、使い方が違う。

 

「フタチマル」

 

呼ぶと、フタチマルが振り返った。

 

「フタチ」

 

疲れた声だった。だが、目は晴れている。

 

「……よくやった」

 

そう言うのが、精一杯だった。

 

チェレンは休憩所へ戻り、ベンチに腰を下ろした。

 

シンもその隣に座る。フタチマルは足元に座り込み、しばらく動かなかった。

 

「あの技」

 

チェレンが口を開く。

 

「名前は」

 

「知らない」

 

「知らない?」

 

「教えてない。図鑑にも載ってない」

 

チェレンは眼鏡を押し上げた。

 

「……つまり、その子が勝手に使ってるのか」

 

「そうなる」

 

「面白いな」

 

言い方は淡々としていたが、目は本気だった。

 

「昨日進化して、今日にはもう二枚を使い分けてる。しかも、今の一撃は煙の中だ。見えないところへ自分から入った」

 

「あれは俺が言った」

 

「言ったのは君でも、踏み込んだのはその子だろう」

 

シンは何も返せなかった。

 

その通りだったからだ。

 

チェレンは足元のチャオブーのボールを見て、それから言った。

 

「僕は、負け方を間違えたよ」

 

「どういう意味だ」

 

「煙を張って待ったのは正しい。でも、待つと決めたぶん、こっちも動きの選択肢を減らしてた」

 

「読まれてたって?」

 

「いや、逆だ」

 

チェレンは首を振る。

 

「君が動かなかったせいで、僕のほうが先に動かされた」

 

シンは少し考えて、それから納得した。

 

「……それは、俺じゃない」

 

「じゃあ誰だ」

 

「フタチマル」

 

「フタチ」

 

足元で短く鳴く声がした。

 

チェレンが小さく笑った。本当に小さく、口の端だけで。

 

「そういうところは変わらないな、君は」

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

五番道路の音が遠くから届く。誰かが楽器を鳴らし、どこかで子どもが笑っている。牧場のほうからは、バッフロンの低い声が聞こえた。

 

やがて、チェレンが言った。

 

「さっきの話だけど」

 

「どれだ」

 

「戦えない子のこと」

 

シンは膝の上で手を組んだ。

 

「聞くか」

 

「聞きたい。でも、言いたくないなら聞かない」

 

その言い方が、いかにもチェレンだった。

 

シンは少し考えてから、口を開いた。

 

「ライモンで会った」

 

「野生?」

 

「たぶん。怪我してて、何かから逃げてた」

 

「保護したのか」

 

「してない」

 

シンは首を振る。

 

「水を置いて、離れて、待った。それだけだ。近づけば逃げるから」

 

チェレンは黙って聞いている。

 

「何日かかけて、向こうが自分でこっちに寄ってきた。最後は自分からボールに触った」

 

「捕まえたんじゃなくて」

 

「入ってきた」

 

「……なるほど」

 

チェレンは足元の草を見つめた。

 

「それで、戦わせようとしたら固まったのか」

 

「そうだ」

 

シンは頷いた。

 

「一昨日、バトルコートで出した。動かなかった。前脚が震えて、目が別のところを見てた」

 

「原因は」

 

「分からない」

 

「聞いたのか」

 

「聞かない」

 

シンははっきり言った。

 

「言葉が通じないからじゃない。あいつが言いたくないんだと思う」

 

チェレンは長く黙った。

 

それから、静かに言った。

 

「君は、それでいいと思ってるんだな」

 

「いい、とは思ってない」

 

シンは正直に答えた。

 

「戦ってほしいとは思ってる。ずっと後ろにいるのは、あいつだってきついはずだ」

 

「じゃあ」

 

「でも、それは今じゃない」

 

風が吹いて、休憩所の屋根が小さく鳴った。

 

「無理に立たせて、震えたまま戦わせて、それで勝っても意味がない」

 

言ってから、シンは少し照れくさくなった。二日前に自分で言った言葉を、そのまま繰り返している。

 

だが、チェレンは笑わなかった。

 

「……それは、僕には言えなかったことだな」

 

「え?」

 

「ヒウンのジムで」

 

チェレンは前を見たまま言った。

 

「僕はポカブを急がせた。勝ちたくて、証明したくて、その子の足で踏むべきじゃない場所まで踏ませた」

 

シンは、あの試合を思い出した。

 

チェレンがアーティのハハコモリに正面から挑み、ポカブがチャオブーへ進化した、あの一戦。

 

「勝っただろ」

 

「勝った。でも、あれは僕が正しかったからじゃない」

 

チェレンは眼鏡を押し上げる。

 

「途中で気づいて、やり方を変えたからだ。気づかなかったら、たぶん潰してた」

 

そこで、初めてシンのほうを見た。

 

「君は、最初から気づいてる」

 

「気づいてるわけじゃない」

 

シンは首を振った。

 

「怖いだけだ。壊しそうで」

 

「同じことだよ」

 

チェレンはそう言って、それ以上は続けなかった。

 

「そういえば」

 

シンが思い出したように言った。

 

「ベルは」

 

チェレンの肩が、目に見えて跳ねた。

 

「……なぜ今その話を」

 

「別に。会ったのかと思って」

 

「会ってない」

 

即答だった。

 

「連絡も?」

 

「取ってない」

 

「そうか」

 

シンは深追いしなかった。

 

だが、チェレンが本を開いて視線を落としたその動作が、明らかに何かをごまかすためのものだということには気づいていた。

 

しばらくして、チェレンが本を閉じた。

 

「……ヒウンで別れたとき、約束はしないと言ったのは僕だ」

 

「言ったな」

 

「あれは間違ってなかったと思ってる」

 

「うん」

 

「でも」

 

チェレンは言葉を選んでいた。

 

「思っていたより、気になるものだな」

 

シンは何も言わなかった。

 

言わないほうがいい気がした。

 

その時だった。

 

道のほうから、大きな声が響いた。

 

「おお! カミツレではないか!」

 

シンとチェレンが同時に顔を上げる。

 

道の中ほど、パフォーマーたちの舞台の近くに、二つの人影があった。

 

一人は昨日会ったばかりだ。金髪をショートに切りそろえ、黄色と黒のコートを着た背の高い女性。

 

そしてもう一人。

 

背丈はカミツレより高い。厚みのある体つき。褐色の肌に、白いものの混じった髭。旅装というより、山を歩く人間の格好をしていた。

 

年配なのは一目で分かる。だが、老いているという感じは少しもしなかった。

 

「フェスティバルはよいな! 人生は楽しまねばな!」

 

その男が、両手を広げて笑っていた。

 

「……誰だ」

 

シンが呟く。

 

チェレンは眉を寄せた。

 

「知らない。でも、カミツレさんが普通に話してる」

 

二人が近づいてくる。

 

カミツレがこちらに気づいて、片手を上げた。

 

「あら。待ってたわよ」

 

「橋の件ですか」

 

「そう。もう少しで話がつくわ」

 

そこまで言って、カミツレは隣の男を示した。

 

「こちら、アデクさん」

 

チェレンが立ち上がりかけて、止まった。

 

「アデク……」

 

「イッシュ地方のチャンピオンよ」

 

シンの体が、勝手にこわばった。

 

チャンピオン。

 

その言葉の重さが、遅れて胸に落ちてくる。

 

チェレンの声が上ずった。

 

「チャンピオン!? どうしてチャンピオンが、こんなところで遊んでいるのですか」

 

言ってから、自分の言い方に気づいたらしい。

 

だが、遅かった。

 

アデクは目を丸くして、それから豪快に笑った。

 

「……聞こえたが、なんとも手厳しい若者だな」

 

「あ、いえ、その」

 

「はじめまして。わしの名前はアデク。イッシュポケモンリーグのチャンピオンだよ」

 

そして、指を一本立てた。

 

「ちなみに遊んでいるのではなく、旅をしているのだ! イッシュの隅々まで知っておるぞ」

 

その堂々とした言い方に、チェレンが一瞬だけ言葉を失った。

 

シンも同じだった。

 

強そうだとか、偉そうだとか、そういう感想が出てこない。ただ、この人がここにいるということが、場の重さを変えている。

 

「……自分は、カノコタウン出身のチェレンといいます」

 

チェレンが姿勢を正した。

 

「トレーナーとしての目的は、チャンピオンです」

 

アデクの目が、そこで少しだけ変わった。

 

「ほう!」

 

大きな声だった。

 

「そうやって夢を述べることは、素晴らしいことだ」

 

そして、続けた。

 

「それでチャンピオンになったら、どうするつもりかね?」

 

チェレンが、詰まった。

 

シンは横目でそれを見た。

 

チェレンが言葉に詰まるのは、珍しい。

 

「……より良く務めます」

 

やっと出た答えだった。

 

「それ以上に、何かあるのですか。いちばん良いトレーナー。それがチャンピオンでしょう」

 

アデクは、すぐには答えなかった。

 

髭を撫でながら、少しだけ首を傾げる。

 

「ふむふむ。良くなる、か」

 

「はい」

 

「良くなるとは……それだけを考えていて、よいのかね?」

 

チェレンの眉が動いた。

 

「どういう意味です」

 

「人もポケモンも、力がある。それを否定しているわけではない」

 

アデクは草の上に立ったまま、両手を軽く広げた。

 

「わしはこう思う。ポケモンに強くなってもらう。そのあとで、強くなったぶん、どう生きるかを考える」

 

シンはその言葉を、頭の中でもう一度なぞった。

 

強くなったあとで、どう生きるか。

 

「その答えを、わしはまだ探しておる」

 

チェレンは黙っていた。

 

反論したいのに、その反論が形にならない。そういう顔だった。

 

アデクはその様子を見て、また笑った。

 

「難しい顔をするな。答えを今すぐ出せとは言っておらん」

 

そして、シンのほうを見た。

 

「そちらの若者は」

 

「……シンです」

 

「うむ。君も、そこの若者と勝負したのかね」

 

「はい」

 

「どちらが勝った」

 

シンは一瞬迷ってから、正直に答えた。

 

「俺です」

 

チェレンが横で小さく息を吐いた。悔しがっているというより、隠す気がないという吐き方だった。

 

アデクの目が、シンの足元へ落ちる。

 

フタチマル。座り込んだまま、まだ息を整えている。

 

「その子、ずいぶんやったな」

 

「はい」

 

「……ふむ」

 

アデクはしばらくフタチマルを見ていた。

 

それから、少しだけ声の調子を変えた。

 

「一つ聞くが。君は、その子が今うれしいか、そうでないか、分かるかね」

 

シンは、すぐには答えられなかった。

 

見下ろす。

 

フタチマルは疲れている。肩を押さえているし、呼吸も浅い。

 

だが。

 

「……うれしいと思います」

 

「なぜ」

 

「勝ったからじゃなくて」

 

シンは言葉を探した。

 

「たぶん、自分でやれたからです」

 

アデクの目が細くなった。

 

「ほう」

 

短い声だった。

 

だが、その一言に含まれているものが、さっきまでとは違った。

 

「うむ。……よいな」

 

アデクは満足そうに頷いた。

 

「強くなるだけでは足りん。強くなったその子が、どう感じているか。それを見られるようになって、ようやく半分だ」

 

「半分ですか」

 

「そうだ。残り半分は、これから見つけるのだ」

 

そう言って、アデクはチェレンのほうへも顔を向けた。

 

「若者よ。君は真っ直ぐで、頭がいい。それは大きな武器だ」

 

「……ありがとうございます」

 

「だが、真っ直ぐな道ほど、途中の景色を見落とす」

 

チェレンの肩が、わずかに動いた。

 

「わしはそれで、何度も転んだ」

 

そこでカミツレが手を叩いた。

 

「あ、そうだった」

 

「なんだ、カミツレ」

 

「ホドモエの跳ね橋の話。ごめんなさい、忘れてたわ」

 

「忘れとったのか」

 

「アデクさんの話が面白かったので」

 

しれっと言うので、アデクがまた笑った。

 

カミツレはこちらを向く。

 

「橋、動かせるようになりそうよ。今日中には無理だけど、明日には」

 

「本当ですか」

 

「ジムリーダーの名前は、こういうときのためにあるの」

 

そう言ってから、彼女は少しだけ真面目な顔になった。

 

「ただし、ホドモエは今、少し面倒なことになってる」

 

「面倒?」

 

「詳しくは私も知らない。でも、あそこのジムリーダーが動いてるってことは、そういうことよ」

 

シンとチェレンは顔を見合わせた。

 

プラズマ団。

 

言葉にはしなかったが、同じことを考えたのは分かった。

 

「じゃあ、私は先に行くわ」

 

カミツレはコートの裾を翻した。

 

「テレビの仕事があるの。それが終わったら、ジムに戻る」

 

「忙しいですね」

 

「ライモンでポケモンつよいもん」

 

「……それ、二回目です」

 

「あら。覚えててくれたのね」

 

彼女は満足そうに笑って、歩いていった。

 

アデクもそれに続く。

 

「わしも行くとしよう。まだイッシュには見ていない場所がある」

 

「アデクさん」

 

チェレンが呼び止めた。

 

アデクが振り返る。

 

「……さっきの答え。すぐには出ません」

 

「うむ」

 

「でも、考えます」

 

アデクは深く頷いた。

 

「それでよい。考える気があるうちは、道は続く」

 

そして、二人は道の向こうへ消えていった。

 

残されたシンとチェレンは、しばらく黙っていた。

 

先に口を開いたのはチェレンだった。

 

「……行くよ」

 

「ホドモエか」

 

「うん。橋が明日開くなら、ゲートの近くまで行っておきたい」

 

「今日中に着くのか」

 

「着かない。でも、近いほうがいい」

 

チェレンは荷物を背負い直した。

 

「君は」

 

「もう少しここにいる」

 

シンは足元のフタチマルを見た。

 

「こいつら、休ませたい」

 

「そうだな」

 

チェレンは頷いた。

 

そして、少しだけ間を置いてから言った。

 

「シン」

 

「なんだ」

 

「今日の負けは、悔しい」

 

まっすぐな言い方だった。

 

「でも、嫌な負けじゃなかった」

 

シンは何も返さなかった。返す言葉が見つからなかった。

 

「君は、ヒウンで別れたときより強くなってる。しかも、増やした手持ちを出さずにだ」

 

チェレンは前を向いた。

 

「次は、僕もそういう勝ち方をしたい」

 

「意味が分からないぞ」

 

「分からなくていい」

 

そう言って、チェレンは歩き出した。

 

数歩進んでから、振り返らずに言う。

 

「その子に、いつか会わせてくれ」

 

シンは目を見開いた。

 

「戦えない子だ」

 

「ああ」

 

「戦わなくていい。ただ、君がそこまで気にかける相手を見てみたい」

 

「……分かった」

 

「じゃあ」

 

「うん」

 

短いやり取りだった。

 

チェレンの背中が、五番道路の人混みの中へ紛れていく。

 

ヒウンで見送ったときより、その背中は少しだけ大きく見えた。

 

日が傾き始めたころ、シンは牧場の柵の近くまで移動して、そこで腰を下ろした。

 

道の喧騒からは少し離れている。人通りも減った。

 

シンはボールを三つ、草の上に並べた。

 

フタチマルを出す。フシデを出す。

 

そして、最後の一つ。

 

「……出るか」

 

白い光が草の上に落ちて、ケルディオが現れた。

 

夕方の光の中で、青い体がはっきり見えた。

 

ケルディオはまず周囲を見た。牧場。柵。遠くのバッフロン。人の少ない道。それから、シンを見る。

 

「戦いは終わった」

 

シンは短く言った。

 

「勝った。二匹で」

 

ケルディオの耳が動く。

 

「お前は、出さなかった」

 

そこで、シンは少しだけ言葉を切った。

 

「でも、隠したわけじゃない」

 

草の匂いがした。牧場のほうから、風に乗って甘い草の匂いが流れてくる。

 

「チェレンってやつに、話した。お前のこと」

 

ケルディオの首が、わずかに上がった。

 

「戦えないやつがいるって言った。理由は分からないって言った」

 

シンは膝を抱えるように座り直す。

 

「そしたらあいつ、いつか会わせろって言った」

 

返事はない。

 

「戦わなくていいから、見てみたいって」

 

風が吹いた。

 

フタチマルが草の上で伸びをして、フシデはその横で丸くなっている。二匹とも、今日はよく戦った。

 

ケルディオは、しばらく立ったままだった。

 

やがて、ゆっくりと前脚を折り、草の上に体を落ち着けた。

 

シンの座っている場所から、三歩ほど。

 

ライモンの点検スペースにいた頃と、同じくらいの距離だった。

 

だが、あのときとは違う。

 

あのときは、逃げられる位置だった。今は、休める位置だ。

 

「……そうか」

 

シンはそれだけ言って、空を見た。

 

五番道路の夕方は、ライモンより広い。建物がないぶん、空がそのまま落ちてくる。遠くで誰かが楽器を鳴らしていて、その音が風に乗って途切れ途切れに届いた。

 

明日、橋が開く。

 

その先はホドモエだ。プラズマ団が何かをやっている街。

 

トウヤがいるかもしれない。ベルがいるかもしれない。

 

聞きたいことは、ひとつ増えたままだ。

 

「明日から、また歩くぞ」

 

シンが言うと、フタチマルが顔を上げた。

 

「フタチ」

 

フシデも短く体を揺らす。

 

「フシ」

 

ケルディオは、何も言わなかった。

 

けれど、その耳はこちらを向いていた。

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