夢の跡地から戻るあいだ、四人とも口数は多くなかった。
疲れていたわけではない。
ただ、それぞれの中で、さっき見たものがまだうまく収まりきっていなかった。
町へ戻る道の先に、サンヨウジムがある。
昨日の時点では、洒落た店にしか見えなかったあの建物が、今はちゃんと“越えるべきもの”の形をしていた。
ベルが最初に口を開いたのは、ジムの通りが見えはじめた頃だった。
「……行くんだよね」
「ここまで来てやめる気か?」
シンが言うと、ベルはすぐには返さなかった。
しばらく唇を引き結んでから、小さく首を振る。
「やめない。やめたくない」
その言い方は、自分に言い聞かせているようでもあった。
チェレンがそんなベルを見て、静かに言う。
「無理に平気なふりをしなくていいよ。不安があるのは普通だ」
「……うん」
「ただ、不安があることと、挑まないことは別だ」
その言葉に、ベルは少しだけ目を瞬かせた。
やがて、こくりと頷く。
トウヤがその空気を少しだけ軽くするように笑った。
「じゃあ、今日はみんな少しえらいな」
「何だよそれ」
シンが言う。
「だってさ。怖いとか、不安とか、そういうのあるのに来てるわけだろ」
トウヤは肩をすくめた。
「それって、ちゃんとえらいじゃん」
ベルが小さく吹き出す。
「それ、トウヤが言うと変だけど、ちょっと分かる」
「変は余計だな」
そんなやり取りをしているうちに、サンヨウジムの前へ着いた。
昼の光の下でも、相変わらずそこはレストランみたいだった。
磨かれた窓。
整えられた看板。
扉の向こうから、かすかに温かな香りまで流れてくる。
勝負の場より、食事の場に見える。
だが昨日より、その違和感に惑わされる感じは薄かった。
見た目がどうであれ、ここが最初の壁だ。
その事実だけは、もう揺らがない。
「……入るぞ」
シンがそう言って扉へ手をかける。
誰も止めなかった。
店内へ入ると、やはりまず感じるのは匂いだった。
焼きたてのパンのような香りと、温かな料理を思わせる空気。
内装も落ち着いていて、木目の床や整ったテーブルが視界に入る。
ジムに来たはずなのに、本当にどこかの店へ迷いこんだような気になる。
ただ、その奥にある視線だけは違った。
昨日と同じ三人が、すでにこちらを待っていた。
「ようこそ」
静かに言ったのはデントだった。
その隣で、ポッドがにっと笑う。
「今日は見学じゃなさそうだね」
コーンも柔らかな目で四人を見た。
「顔つきが少し変わってる」
ベルがその言葉にぴくりと反応する。
シンも、ほんの少しだけ息を飲んだ。
たった一日で、そんなものが見えるのかと思う。
だがこの三人なら、そういう変化を見逃さないのかもしれなかった。
チェレンが一歩分だけ前へ出る。
「挑戦に来ました」
はっきりした声だった。
デントが頷く。
「歓迎します」
その返事は穏やかだったが、ただ優しいだけの響きではない。
店の空気が少しだけ締まる。
最初の壁に触れた、という感じがした。
ポッドが四人を見回した。
「四人とも挑むのかい?」
「そのつもりだよ」
トウヤが答える。
「順番はどうする?」
コーンの問いに、少しだけ間があく。
誰かが最初に行くことになる。
分かっていたことなのに、いざ口にされると、その重みが急に現実になる。
ベルは明らかに迷っていた。
チェレンは表情を変えないまま考えている。
トウヤは落ち着いているが、誰かに譲るつもりもなさそうだった。
シンはその三人を見て、それから前へ出た。
「俺が先でいい」
ベルがすぐに顔を上げる。
「シン?」
「別に深い意味はない」
そう言いながら、半分は嘘だと思う。
本当に何もないわけじゃない。
夢の跡地で見たもののあとだからこそ、変に順番を譲りたくなかった。
自分とミジュマルが、今どこまでやれるのかを先に確かめたかった。
チェレンは一度だけシンを見て、何も言わず頷いた。
トウヤは軽く笑う。
「似合うよ、一番手」
「うるせえ」
ベルは少しだけ不安そうだったが、最後には口を引き結んで言った。
「……がんばって」
短い言葉だったが、軽くはなかった。
シンは返事の代わりに肩をすくめた。
デントが一歩進み出る。
「では、最初の挑戦者はシンさん、ですね」
名前を呼ばれた瞬間、逃げ道がきれいに消えた気がした。
それが嫌ではなかった。
むしろ、ようやく余計な迷いが削ぎ落とされた感じがする。
デントは店の奥へ手を向ける。
「こちらへ」
案内された先は、食事をするホールのさらに奥にある空間だった。
木の扉を抜けると、そこはもう完全にバトルの場だった。
床は整えられ、中央には対戦用のスペースが取られている。
けれど照明の色はどこか柔らかく、無機質な競技場とは違う。
ジムでありながら、レストランの延長線上にあるような不思議な空間だ。
「へえ……」
トウヤが小さく声を漏らす。
「思ってたより、ちゃんとジムだ」
「思ってたよりって何」
ベルが横から言う。
「いや、店のまま戦うのかと」
「それはそれで変でしょ」
ポッドが笑った。
「そこまでひねくれてないよ」
「でも、少しはひねってるだろ」
シンが言うと、コーンが楽しそうに目を細めた。
「否定はしない」
デントが向き直る。
「サンヨウジムでは、ジム戦の前に簡単なテストがあります」
「テスト?」
ベルが思わず聞き返す。
「はい」
デントは落ち着いて頷いた。
「難しいものではありません。トレーナーとして、相手を見ること。自分の手持ちを見ること。そして、噛み合う場所を見つけること」
最後の言葉に、シンの胸がわずかに引っかかった。
あの言い回しを、また思い出す。
だが今度は不快感だけではなかった。
自分の中に、もう少し別の形で残っている。
「こちらです」
デントに促され、シンはさらに奥へ進む。
そこにあったのは、三つのテーブルだった。
それぞれに蓋つきの銀皿が置かれている。
レストランらしい演出だと思った次の瞬間、ポッドが説明した。
「三つの皿の下には、それぞれ違うポケモンのシルエットが描かれてる」
コーンが続ける。
「君の相棒にとって、いちばん厄介な相手を選んでほしい」
ベルが目を丸くする。
「え、厄介な相手を?」
「避けるためじゃないよ」
デントが言う。
「知るためです」
シンは三つの皿を見た。
ひとつめを開く。
丸い耳と長いしっぽ。ミネズミだ。
ふたつめ。
犬らしい輪郭。ヨーテリー。
みっつめ。
小さな猿のような影。頭の葉の形で、シンにも分かった。
「ヤナップ……」
デントが頷く。
「そうです」
くさタイプ。
ミジュマルにとって、相性は悪い。
最初にそれを選べと言われている。
分かりやすい意地悪にも思えたが、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、ここで目を逸らすほうが気持ち悪い。
シンは迷わず三つめの皿に手を置いた。
「これだ」
ポッドがにやっとする。
「即答だね」
「分かりやすいからな」
シンが言う。
「強いとか弱いとか以前に、相性が悪い」
「それだけ?」
コーンが穏やかに問う。
シンは少しだけ考えた。
ミジュマルを見下ろす。
相棒も皿の上のシルエットを見つめていた。
「……それでも、やれないって意味じゃない」
自分で口にして、少し驚く。
けれど、嘘ではなかった。
デントの目が少しだけ細くなる。
「いい答えです」
そして、空気が切り替わった。
「では、ジム戦へ進みましょう」
ベルが小さく息を呑むのが聞こえた。
トウヤも、チェレンも、黙ってシンの背中を見ている。
ここから先は、もう観察ではない。
実際にぶつかる時間だ。
デントが対戦位置へ歩いていく。
その背中には、さっきまでの給仕の柔らかさが残っている。
けれど同時に、もうひとつ別の輪郭がはっきり現れていた。
ジムリーダーとして立つ人間の姿だ。
「サンヨウジム、ジムリーダーのデントです」
静かな声が、広い空間によく通る。
「ジム戦は一対一。使用ポケモンは一匹ずつ。相手が戦闘不能になった時点で決着とします」
シンも位置につく。
「シンだ」
短く名乗る。
余計なことは要らなかった。
いま必要なのは、自分とミジュマルがここでどう立つかだけだ。
デントがボールを手に取る。
「あなたの相棒はミジュマル」
「見れば分かるだろ」
「ええ」
デントは笑った。
「でも、見えているものをきちんと言葉にするのも、案外大事なんです」
その返しに、シンは少しだけ目を細める。
やっぱりこの男は、穏やかそうに見えて油断ならない。
「でしたら、こちらもはっきりお見せしましょう」
デントがボールを投げた。
白い光が弧を描く。
その中から現れたのは、やはりヤナップだった。
緑の髪を思わせる葉を頭に乗せた、小柄な猿のポケモン。
身軽そうで、目つきも鋭い。
ミジュマルが低く鳴く。
分かっていた相手でも、実際に目の前へ立たれると空気が変わる。
デントが静かに構えた。
「タイプ相性は、たしかにひとつの基準です」
「……だろうな」
シンも視線を逸らさない。
「ですが、それだけで決まるほど単純でもない」
「こっちも同意見だ」
返しながら、心臓の音が少し大きいのを感じる。
怖くないわけじゃない。
勝てる保証もない。
でも、ここで引きたいとは思わなかった。
デントが手を上げる。
「では――始めましょう」
その声と同時に、ベルが外から小さく息を呑んだのが聞こえた。
チェレンはきっと黙って見ている。
トウヤはたぶん、少しだけ笑っている。
全部、見なくても分かる気がした。
でも、いま見るべきなのは前じゃない。
目の前にいる相手と、隣にいる相棒だ。
ミジュマルが一歩、床を踏みしめる。
シンも呼吸を整えた。
最初の皿は、もう開けた。
ここからは、出てきたものをどう受け止めるかだけだ。
サンヨウジム最初の一戦が、静かに火をつけようとしていた。