BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第9話 最初の皿は、まだ運ばれていない

夢の跡地から戻るあいだ、四人とも口数は多くなかった。

 

疲れていたわけではない。

 

ただ、それぞれの中で、さっき見たものがまだうまく収まりきっていなかった。

 

町へ戻る道の先に、サンヨウジムがある。

 

昨日の時点では、洒落た店にしか見えなかったあの建物が、今はちゃんと“越えるべきもの”の形をしていた。

 

ベルが最初に口を開いたのは、ジムの通りが見えはじめた頃だった。

 

「……行くんだよね」

 

「ここまで来てやめる気か?」

 

シンが言うと、ベルはすぐには返さなかった。

 

しばらく唇を引き結んでから、小さく首を振る。

 

「やめない。やめたくない」

 

その言い方は、自分に言い聞かせているようでもあった。

 

チェレンがそんなベルを見て、静かに言う。

 

「無理に平気なふりをしなくていいよ。不安があるのは普通だ」

 

「……うん」

 

「ただ、不安があることと、挑まないことは別だ」

 

その言葉に、ベルは少しだけ目を瞬かせた。

 

やがて、こくりと頷く。

 

トウヤがその空気を少しだけ軽くするように笑った。

 

「じゃあ、今日はみんな少しえらいな」

 

「何だよそれ」

 

シンが言う。

 

「だってさ。怖いとか、不安とか、そういうのあるのに来てるわけだろ」

 

トウヤは肩をすくめた。

 

「それって、ちゃんとえらいじゃん」

 

ベルが小さく吹き出す。

 

「それ、トウヤが言うと変だけど、ちょっと分かる」

 

「変は余計だな」

 

そんなやり取りをしているうちに、サンヨウジムの前へ着いた。

 

昼の光の下でも、相変わらずそこはレストランみたいだった。

 

磨かれた窓。

 

整えられた看板。

 

扉の向こうから、かすかに温かな香りまで流れてくる。

 

勝負の場より、食事の場に見える。

 

だが昨日より、その違和感に惑わされる感じは薄かった。

 

見た目がどうであれ、ここが最初の壁だ。

 

その事実だけは、もう揺らがない。

 

「……入るぞ」

 

シンがそう言って扉へ手をかける。

 

誰も止めなかった。

 

店内へ入ると、やはりまず感じるのは匂いだった。

 

焼きたてのパンのような香りと、温かな料理を思わせる空気。

 

内装も落ち着いていて、木目の床や整ったテーブルが視界に入る。

 

ジムに来たはずなのに、本当にどこかの店へ迷いこんだような気になる。

 

ただ、その奥にある視線だけは違った。

 

昨日と同じ三人が、すでにこちらを待っていた。

 

「ようこそ」

 

静かに言ったのはデントだった。

 

その隣で、ポッドがにっと笑う。

 

「今日は見学じゃなさそうだね」

 

コーンも柔らかな目で四人を見た。

 

「顔つきが少し変わってる」

 

ベルがその言葉にぴくりと反応する。

 

シンも、ほんの少しだけ息を飲んだ。

 

たった一日で、そんなものが見えるのかと思う。

 

だがこの三人なら、そういう変化を見逃さないのかもしれなかった。

 

チェレンが一歩分だけ前へ出る。

 

「挑戦に来ました」

 

はっきりした声だった。

 

デントが頷く。

 

「歓迎します」

 

その返事は穏やかだったが、ただ優しいだけの響きではない。

 

店の空気が少しだけ締まる。

 

最初の壁に触れた、という感じがした。

 

ポッドが四人を見回した。

 

「四人とも挑むのかい?」

 

「そのつもりだよ」

 

トウヤが答える。

 

「順番はどうする?」

 

コーンの問いに、少しだけ間があく。

 

誰かが最初に行くことになる。

 

分かっていたことなのに、いざ口にされると、その重みが急に現実になる。

 

ベルは明らかに迷っていた。

 

チェレンは表情を変えないまま考えている。

 

トウヤは落ち着いているが、誰かに譲るつもりもなさそうだった。

 

シンはその三人を見て、それから前へ出た。

 

「俺が先でいい」

 

ベルがすぐに顔を上げる。

 

「シン?」

 

「別に深い意味はない」

 

そう言いながら、半分は嘘だと思う。

 

本当に何もないわけじゃない。

 

夢の跡地で見たもののあとだからこそ、変に順番を譲りたくなかった。

 

自分とミジュマルが、今どこまでやれるのかを先に確かめたかった。

 

チェレンは一度だけシンを見て、何も言わず頷いた。

 

トウヤは軽く笑う。

 

「似合うよ、一番手」

 

「うるせえ」

 

ベルは少しだけ不安そうだったが、最後には口を引き結んで言った。

 

「……がんばって」

 

短い言葉だったが、軽くはなかった。

 

シンは返事の代わりに肩をすくめた。

 

デントが一歩進み出る。

 

「では、最初の挑戦者はシンさん、ですね」

 

名前を呼ばれた瞬間、逃げ道がきれいに消えた気がした。

 

それが嫌ではなかった。

 

むしろ、ようやく余計な迷いが削ぎ落とされた感じがする。

 

デントは店の奥へ手を向ける。

 

「こちらへ」

 

案内された先は、食事をするホールのさらに奥にある空間だった。

 

木の扉を抜けると、そこはもう完全にバトルの場だった。

 

床は整えられ、中央には対戦用のスペースが取られている。

 

けれど照明の色はどこか柔らかく、無機質な競技場とは違う。

 

ジムでありながら、レストランの延長線上にあるような不思議な空間だ。

 

「へえ……」

 

トウヤが小さく声を漏らす。

 

「思ってたより、ちゃんとジムだ」

 

「思ってたよりって何」

 

ベルが横から言う。

 

「いや、店のまま戦うのかと」

 

「それはそれで変でしょ」

 

ポッドが笑った。

 

「そこまでひねくれてないよ」

 

「でも、少しはひねってるだろ」

 

シンが言うと、コーンが楽しそうに目を細めた。

 

「否定はしない」

 

デントが向き直る。

 

「サンヨウジムでは、ジム戦の前に簡単なテストがあります」

 

「テスト?」

 

ベルが思わず聞き返す。

 

「はい」

 

デントは落ち着いて頷いた。

 

「難しいものではありません。トレーナーとして、相手を見ること。自分の手持ちを見ること。そして、噛み合う場所を見つけること」

 

最後の言葉に、シンの胸がわずかに引っかかった。

 

あの言い回しを、また思い出す。

 

だが今度は不快感だけではなかった。

 

自分の中に、もう少し別の形で残っている。

 

「こちらです」

 

デントに促され、シンはさらに奥へ進む。

 

そこにあったのは、三つのテーブルだった。

 

それぞれに蓋つきの銀皿が置かれている。

 

レストランらしい演出だと思った次の瞬間、ポッドが説明した。

 

「三つの皿の下には、それぞれ違うポケモンのシルエットが描かれてる」

 

コーンが続ける。

 

「君の相棒にとって、いちばん厄介な相手を選んでほしい」

 

ベルが目を丸くする。

 

「え、厄介な相手を?」

 

「避けるためじゃないよ」

 

デントが言う。

 

「知るためです」

 

シンは三つの皿を見た。

 

ひとつめを開く。

 

丸い耳と長いしっぽ。ミネズミだ。

 

ふたつめ。

 

犬らしい輪郭。ヨーテリー。

 

みっつめ。

 

小さな猿のような影。頭の葉の形で、シンにも分かった。

 

「ヤナップ……」

 

デントが頷く。

 

「そうです」

 

くさタイプ。

 

ミジュマルにとって、相性は悪い。

 

最初にそれを選べと言われている。

 

分かりやすい意地悪にも思えたが、不思議と腹は立たなかった。

 

むしろ、ここで目を逸らすほうが気持ち悪い。

 

シンは迷わず三つめの皿に手を置いた。

 

「これだ」

 

ポッドがにやっとする。

 

「即答だね」

 

「分かりやすいからな」

 

シンが言う。

 

「強いとか弱いとか以前に、相性が悪い」

 

「それだけ?」

 

コーンが穏やかに問う。

 

シンは少しだけ考えた。

 

ミジュマルを見下ろす。

 

相棒も皿の上のシルエットを見つめていた。

 

「……それでも、やれないって意味じゃない」

 

自分で口にして、少し驚く。

 

けれど、嘘ではなかった。

 

デントの目が少しだけ細くなる。

 

「いい答えです」

 

そして、空気が切り替わった。

 

「では、ジム戦へ進みましょう」

 

ベルが小さく息を呑むのが聞こえた。

 

トウヤも、チェレンも、黙ってシンの背中を見ている。

 

ここから先は、もう観察ではない。

 

実際にぶつかる時間だ。

 

デントが対戦位置へ歩いていく。

 

その背中には、さっきまでの給仕の柔らかさが残っている。

 

けれど同時に、もうひとつ別の輪郭がはっきり現れていた。

 

ジムリーダーとして立つ人間の姿だ。

 

「サンヨウジム、ジムリーダーのデントです」

 

静かな声が、広い空間によく通る。

 

「ジム戦は一対一。使用ポケモンは一匹ずつ。相手が戦闘不能になった時点で決着とします」

 

シンも位置につく。

 

「シンだ」

 

短く名乗る。

 

余計なことは要らなかった。

 

いま必要なのは、自分とミジュマルがここでどう立つかだけだ。

 

デントがボールを手に取る。

 

「あなたの相棒はミジュマル」

 

「見れば分かるだろ」

 

「ええ」

 

デントは笑った。

 

「でも、見えているものをきちんと言葉にするのも、案外大事なんです」

 

その返しに、シンは少しだけ目を細める。

 

やっぱりこの男は、穏やかそうに見えて油断ならない。

 

「でしたら、こちらもはっきりお見せしましょう」

 

デントがボールを投げた。

 

白い光が弧を描く。

 

その中から現れたのは、やはりヤナップだった。

 

緑の髪を思わせる葉を頭に乗せた、小柄な猿のポケモン。

 

身軽そうで、目つきも鋭い。

 

ミジュマルが低く鳴く。

 

分かっていた相手でも、実際に目の前へ立たれると空気が変わる。

 

デントが静かに構えた。

 

「タイプ相性は、たしかにひとつの基準です」

 

「……だろうな」

 

シンも視線を逸らさない。

 

「ですが、それだけで決まるほど単純でもない」

 

「こっちも同意見だ」

 

返しながら、心臓の音が少し大きいのを感じる。

 

怖くないわけじゃない。

 

勝てる保証もない。

 

でも、ここで引きたいとは思わなかった。

 

デントが手を上げる。

 

「では――始めましょう」

 

その声と同時に、ベルが外から小さく息を呑んだのが聞こえた。

 

チェレンはきっと黙って見ている。

 

トウヤはたぶん、少しだけ笑っている。

 

全部、見なくても分かる気がした。

 

でも、いま見るべきなのは前じゃない。

 

目の前にいる相手と、隣にいる相棒だ。

 

ミジュマルが一歩、床を踏みしめる。

 

シンも呼吸を整えた。

 

最初の皿は、もう開けた。

 

ここからは、出てきたものをどう受け止めるかだけだ。

 

サンヨウジム最初の一戦が、静かに火をつけようとしていた。

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