三月二十九日、午後十時四十三分。
奈良中央市――私立遷都学園。
昼間は三千人を超える生徒たちの笑い声で賑わう校舎も、夜になると静寂だけが支配していた。
蛍光灯が等間隔に並ぶ廊下を、一人の男子生徒が小走りで進んでいく。
「まいったな……。」
教科書を忘れたことに気付いたのは、家に着いてからだった。
明日は小テスト。
取りに戻るしかない。
「先生も帰っちゃったみたいだし、急いで帰るか。」
教室で忘れ物を回収し、職員室へ一言声を掛けようと廊下を歩いていた、その時だった。
「……ん?」
廊下の突き当たり。
生徒会室の扉が、わずかに開いている。
しかも、その隙間から青白い光が漏れていた。
「誰かいるのか?」
生徒会役員が残っているのかと思い、扉をそっと押し開ける。
部屋の中には誰もいない。
あるのは歴代生徒会長の写真。
応接用のソファ。
そして――
「なんだ……あれ。」
部屋の中央。
巨大な姿鏡が静かに佇んでいた。
高さは二メートルほど。
鏡の縁には、龍が絡み合うような精巧な彫刻が施されている。
そして鏡面だけが、水面のようにゆらゆらと揺れていた。
「こんなの……あったか?」
見たことがない。
それなのに、どこか懐かしい。
吸い寄せられるように鏡へ近付いていく。
「綺麗だな……。」
無意識に手を伸ばす。
その瞬間。
ズブリ。
「……え?」
鏡へ触れた手が、そのまま中へ沈んだ。
「な、なんだこれ!?」
慌てて引き抜こうとする。
しかし。
鏡の奥から黒い腕が伸びた。
一本。
二本。
三本。
次々と。
「う、うわぁっ!」
腕が足を掴む。
身体を掴む。
制服を掴む。
「やめろ! 離せ!」
抵抗も虚しく、身体は鏡の中へ引きずり込まれていく。
「助け――!!」
悲鳴だけが、生徒会室へ響いた。
鏡は静かに波紋を広げる。
そして何事もなかったかのように、元の鏡へ戻っていた。
床には、一冊の教科書だけが残されていた。
三月十八日。
警察庁公安部。
重苦しい空気が漂う会議室。
壁に映し出されたモニターには、二十三人分の顔写真が並んでいる。
学生。
教師。
会社員。
飲食店従業員。
年齢も性別も職業もバラバラ。
共通しているのは、一つだけ。
全員が奈良中央市で失踪し、一週間後に意識不明のまま発見されていること。
「久しぶりだな。」
低く落ち着いた声が会議室に響く。
長谷川善吉は背筋を伸ばし、敬礼した。
「お久しぶりです、鏑木監理官。」
「楽にしてくれ。」
鏑木監理官は資料を机の上へ滑らせる。
「早速だが、本題に入る。」
「はい。」
「この失踪事件を担当してもらいたい。」
善吉は資料を開きながら頷く。
「……関西で続いている連続失踪事件ですね。」
鏑木は少しだけ口角を上げた。
「察しがいい。」
「被害者は二十三名。」
「発見時は全員昏睡状態。」
「外傷なし。」
「薬物反応なし。」
「脳波は睡眠に近い状態。」
善吉はページをめくる。
「医学的にも原因不明……ですか。」
「そうだ。」
鏑木は次のページを指差した。
そこには一枚の校舎の写真。
大きく書かれた校名。
私立遷都学園。
「失踪者の多くが、この学園と接点を持っている。」
「学生だけじゃありませんね。」
「教師、事務員、給食調理員……。」
「共通点が多すぎる。」
「だからこそ、お前には教師として潜入してもらう。」
「教師ですか。」
善吉は苦笑する。
「高校生相手なら、三年前に嫌というほど経験しましたからね。」
脳裏に浮かぶのは、あの個性的すぎる怪盗団の面々。
竜司の無鉄砲さ。
双葉の自由奔放さ。
杏の明るさ。
祐介の天然ぶり。
そして、誰よりも静かに仲間を引っ張っていたあのリーダー。
「評価していただけるのはありがたいですが……。」
善吉は肩をすくめた。
「教師なんて柄じゃないですよ。」
「そうか?」
鏑木は笑みを浮かべる。
「それに最近、京都の実家へ帰っていないそうだな。」
善吉の表情が少しだけ柔らかくなる。
「あかねも高校三年生だ。」
「高校最後の一年くらい、父親らしいことをしてこい。」
「……ありがとうございます。」
善吉は照れくさそうに頭を掻いた。
「潜入任務、引き受けます。」
「よろしく頼む。」
鏑木は頷く。
「それと今回は、お前一人じゃない。」
「補助を一人付ける。」
「補助、ですか?」
「教師免許を持っている優秀な人材だ。」
「現地で力になってくれるだろう。」
「分かりました。」
敬礼を済ませ、善吉は会議室を後にした。
公安部休憩室。
「はぁ……。」
缶コーヒーを片手にソファへ腰掛ける。
「公安になってまで高校教師か。」
「人生、分かんねぇもんだな。」
小さく笑いながら缶を開ける。
「しかも補助付きって。」
「どうせ坂本みたいなのが来たら胃がもたねぇぞ……。」
「ため息なんて珍しいですね、長谷川さん。」
聞き慣れた声に振り返る。
「……。」
「……。」
「新島!? 何でここに!」
黒髪を揺らしながら、一人の女性が軽く会釈した。
新島真。
公安へ配属されたばかりの新人警察官。
そして、かつて怪盗団で『クイーン』と呼ばれた仲間だった。
「私が今回の補助を担当します。」
「……お前が?」
「はい。」
「大学卒業後に警察学校へ進み、その後、公安へ配属されました。」
「教師免許も取得していますので、今回の潜入任務でもお力になれると思います。」
善吉は思わず頭を掻く。
「いや、お前が優秀なのは知ってるんだけどよ。」
「ついこの前まで大学生だったろ?」
真は少しだけ笑った。
「そうですね。」
「私も、こんなに早く潜入任務を任されるとは思っていませんでした。」
「でも、任された以上は全力を尽くします。」
「何かあれば、私がしっかりフォローしますから。」
善吉は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「頼りにしてるぜ。」
そう言って右手を差し出す。
「クイーン。」
真も柔らかく微笑み、その手を握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
「ウルフ。」
二人の表情から笑みが消える。
これは潜入捜査。
そして、誰も正体を知らない"怪異"との戦いの始まりだった。
この一週間後、一人の転校生――平城知が奈良中央市へやって来ることを、まだ誰も知らない。
――第2話「転校生と銀髪の時計職人」へ続く。
また見てね!