三月三十日――。
『次は、奈良中央。奈良中央です。お降りの際は足元にご注意ください。』
車内アナウンスが響き、列車がゆっくりとホームへ滑り込む。
平城知は網棚から旅行鞄を降ろし、小さく息を吐いた。
「着いたか……。」
ホームへ降り立つと、春先の柔らかな風が頬を撫でる。
京都とは違う、それでいてどこか懐かしさを感じる空気。
駅舎は近代的に整備されているが、木材をふんだんに使った造りや瓦屋根を模した装飾が、古都らしい落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
改札を抜けたところで、スマートフォンが震える。
画面には叔母・霞からのメッセージが表示されていた。
『知、ごめんね。 迎えに行く予定だったんだけど、急なお客様が入っちゃってお店を離れられなくなっちゃったの。 場所を送るから、お店まで来てもらえる? 店の名前は【割烹 霞】よ。 せっかくだし、街を見ながらゆっくり来てね。』
知は小さく笑みを浮かべる。
『分かりました。向かいます。』
返信を送り、地図アプリを開く。
目的地は、叔母が営む店――割烹 霞。
「とりあえず向かうか。」
キャリーバッグを引きながら駅前通りを歩き始める。
石畳の歩道。
軒先に吊るされた提灯。
昔ながらの和菓子屋や茶屋の隣には、おしゃれなカフェや雑貨店が並んでいる。
新しい街なのに、不思議と歴史を感じさせる。
「京都とはまた違う雰囲気だな。」
そんな景色を眺めながら歩いていると、不意に妙な声が耳へ飛び込んできた。
「うぅ〜……重たいでありんす……。」
知は足を止める。
声のした方へ目を向けると、小柄な少女が大きな木箱を必死に引きずっていた。
年齢は十二、三歳ほどだろうか。
陽の光を受けて輝く銀色の長髪。
青い簪でまとめられた髪。
藍色を基調とした着物。
現代の街並みの中ではひときわ目を引く姿だった。
「うぅ……なんでこんなに重たいでありんすか……。」
少女は木箱を引っ張っては止まり、また引っ張る。
見かねた知は思わず一歩踏み出しかけた。
その瞬間。
少女と目が合う。
何となく気恥ずかしくなり、知は反射的に視線を逸らした。
「ちょっと!」
元気な声が飛んでくる。
気付けば少女が目の前まで来ていた。
「今、目を逸らしたでありんすね?」
「え?」
「こんな可憐な少女が重たい荷物を運んでいるでありんす。」
少女は頬を膨らませながら両手を腰に当てる。
「普通なら助けるところでありんしょう?」
「いや、その……助けようとは思ったんだけど。」
「思っただけじゃ意味がないでありんす。」
そう言うと、少女は木箱を指差した。
「ということで、荷物持ち決定でありんす!」
「……決定なんだ。」
知は苦笑しながら木箱の取っ手を持つ。
見た目ほど重くはない。
「どこまで運べばいい?」
「もう少し先でありんす!」
少女は満足そうに歩き出した。
二人は並んで住宅街を歩く。
少女は鼻歌を歌いながら、時折振り返っては知が付いてきているか確認していた。
「そういえば。」
知が口を開く。
「君、一人で運ぶつもりだったの?」
「もちろんでありんす。」
「でも重そうだったよ。」
「気合いで何とかする予定だったでありんす。」
「予定だったんだ。」
「途中で誰か優しい人が助けてくれると思ってたでありんす。」
「それ、結構他人任せじゃない?」
「結果的に助けてもらえたので問題なしでありんす!」
胸を張る少女に、知は思わず笑ってしまう。
少し変わった子だ。
それでも、一緒に歩いていると自然と肩の力が抜ける。
「ここでいいでありんす。」
少女が立ち止まり、知は木箱を地面へ下ろした。
「ありがとうでありんした。」
「これくらいなら気にしなくていいよ。」
「それでは困るでありんす。」
少女は袖の中をごそごそ探り、小さな桐箱を取り出した。
「助けてもらったお礼でありんす。」
箱の中には一本の腕時計。
黒を基調とした本体に、深い蒼色のラインが幾何学模様のように走っている。
時計というより、どこか工芸品のような美しさを持っていた。
「いや、これは受け取れないよ。」
「どうしてでありんす?」
「見るからに高そうだし。」
「問題ないでありんす。」
少女は自慢げに笑う。
「こう見えて時計職人でありんす。」
「時計職人?」
「そうでありんす。」
そう言って胸を張る姿は、どう見ても職人というより年相応の少女だった。
「でも、荷物を運んだだけだよ?」
「だからこそでありんす。」
「助けてもらったのに何も返さなかったら、主に叱られてしまうでありんす。」
「主?」
「あっ……。」
少女は慌てて口を押さえる。
「今のは聞かなかったことにするでありんす!」
「え?」
「と、とにかく受け取るでありんす!」
「でも……。」
知が遠慮すると、少女は腕を組んで考え込んだ。
「では、一年間貸すでありんす。」
「貸す?」
「一年後、その子が主殿に馴染んでいたら、そのまま差し上げるでありんす。」
「もし馴染まなければ、その時は返してもらうでありんす。」
「それなら問題ないでありんしょう?」
そこまで言われてしまえば断れない。
「……分かった。」
知は腕時計を右腕へ装着する。
カチリ、と小気味よい音が鳴る。
驚くほど自然に腕へ馴染んだ。
まるで、自分のために作られたかのように。
その瞬間。
蒼いラインが、一瞬だけ淡く輝いた。
知は気付かない。
だが少女は、その光を見届けると満足そうに微笑んだ。
「やっぱり……。」
「何か言った?」
「なんでもないでありんす。」
少女は木箱を抱え直し、くるりと背を向ける。
「また近いうちに会うでありんす。」
「待って!」
知は思わず呼び止めた。
「まだ名前を聞いてない。」
少女は足を止める。
少しだけ振り返り、いたずらっぽく笑った。
「名前は、今は秘密でありんす。」
「でも――」
その笑顔が、少しだけ大人びて見えた。
「きっと、すぐにまた会うでありんすよ。」
そう言い残し、少女は細い路地へ入っていく。
知も急いで後を追う。
だが、路地の先には誰もいなかった。
「……消えた?」
一本道のはずだった。
隠れる場所もない。
それなのに、少女の姿は跡形もなく消えていた。
「本当に何者なんだ……。」
知は右腕の時計を見つめる。
静かな文字盤。
何の変哲もない腕時計にしか見えない。
しかし、その奥では誰にも聞こえないほど微かな音で、何かが目覚め始めていた――。
知は首をかしげながらも、再び地図アプリを開き、叔母の待つ割烹 霞へ向かって歩き始めた。
――第3話「割烹 霞」へ続く。
2話!