スマートフォンの地図を頼りに歩いていくと、賑やかな駅前通りは少しずつ落ち着いた町並みへと変わっていった。
石畳の道の両脇には、瓦屋根の建物や格子戸の店が並び、どこか懐かしい雰囲気を感じさせる。
昔ながらの和菓子屋、陶器店、茶屋。
その中に、一軒だけ凛とした空気をまとった店があった。
割烹 霞
黒く艶のある木製の引き戸には、力強く「霞」と彫られている。
入口の脇には二つの金魚鉢。
一つには赤い金魚。
もう一つには黒い金魚が静かに泳いでいた。
「……高そうなお店だな。」
思わず本音が漏れる。
暖簾をくぐるのに少しだけ勇気が必要だった。
意を決して引き戸を開ける。
カラン、と鈴の音が静かな店内へ響いた。
「いらっしゃいませ。本日は貸し切りで――」
厨房から顔を出した女性が、知を見るなりぱっと笑顔になる。
「あら、知じゃなぁい!」
白い割烹着に身を包んだ女性は、軽く手を振った。
「思ったより早かったわね。」
「こんにちは、霞さん。」
「いらっしゃい。長旅お疲れさま。」
知が店内を見渡すと、カウンター席に一人の男性が座っていた。
紺色のスーツをきっちり着こなし、湯飲みを手にしている。
年齢は四十代半ばほど。
穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「霞ちゃん、その子が?」
「そうなんですよ。」
霞は嬉しそうに頷く。
「姉の息子です。両親が海外へ赴任することになったので、一年間うちで預かることになりまして。」
「なるほど。」
男性は立ち上がり、知へ軽く頭を下げた。
「初めまして。」
「大和大河です。」
「この近くで和菓子屋を営んでいます。」
知も慌てて頭を下げる。
「平城知です。よろしくお願いします。」
「礼儀正しい子だね。」
大河は柔らかく笑った。
「遷都学園へ通うそうだね。」
「はい。」
「それなら、うちの子どもたちと同じ学校だ。」
知は少し驚く。
「そうなんですか。」
「ああ。」
「息子の雷斗と、娘の風子。」
「二人とも面倒見がいいから、困ったことがあったら頼ってあげて。」
「ありがとうございます。」
知は素直に頭を下げた。
この時はまだ、その息子と数日後に思いもよらない出会いを果たすことになるとは思ってもいなかった。
「さて。」
大河は湯飲みを置き、立ち上がる。
「今日もご馳走さま。」
「いつもありがとうございます。」
霞が頭を下げる。
「今度、新作を持ってくるよ。」
「楽しみにしています。」
大河は知へもう一度微笑みかけると、静かに店を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、知は尋ねる。
「いい人そうだったね。」
「ええ。」
霞は頷いた。
「大和さんは、この辺じゃ有名な老舗和菓子店の当主なの。」
「うちで出している和菓子も全部あのお店から仕入れてるのよ。」
「そうだったんだ。」
「腕も人柄も一流。」
「昔から家族ぐるみのお付き合いなの。」
そう話しながら、霞は知のキャリーバッグを軽々と持ち上げた。
「さぁ、部屋へ案内するわ。」
「ありがとうございます。」
「そんなにかしこまらなくていいの。」
霞は笑う。
「一年間は家族なんだから。」
店の奥へ進み、階段を上がる。
二階は住居スペースになっており、廊下の突き当たりで霞が襖を開けた。
「ここが知の部屋。」
「元々は宴会用の和室だったんだけど、今は使ってないから自由に使って。」
十畳ほどある広々とした和室。
窓からは小さな中庭が見え、風に揺れる竹の葉が心地よい音を立てている。
部屋の隅には、京都から送っていた段ボールが二つ。
押し入れには新しい布団が用意されていた。
「……広い。」
「一人で使うにはもったいないくらいですね。」
「慣れればちょうど良く感じるわよ。」
霞は笑いながら窓を開ける。
春風が部屋へ流れ込んできた。
「私は隣の家に住んでるから、夜は基本的にあっちにいるわ。」
「食事は下の冷蔵庫に用意しておくから、温めて食べてね。」
「ご飯は炊飯器にあるから自由によそっていいわ。」
「ありがとうございます。」
「その代わり。」
霞は人差し指を立てた。
「忙しい日はお店を手伝ってもらうわよ?」
知は思わず笑う。
「もちろんです。」
「それくらいなら喜んで。」
「よろしい。」
霞は満足そうに頷いた。
「今日は荷ほどきだけして、ゆっくり休みなさい。」
「明日は学校へ挨拶に行くんだから。」
「はい。」
「夜更かしは禁止。」
「分かりました。」
霞が部屋を出る。
静かになった和室で、知は段ボールを開き始めた。
制服をハンガーへ掛け、本を本棚へ並べる。
必要最低限の荷物しか持ってきていないため、荷ほどきは一時間も掛からなかった。
夕食は霞が用意してくれた煮魚と炊きたてのご飯、味噌汁。
どれも料亭らしい優しい味付けで、思わず箸が進んだ。
「……美味しい。」
思わず独り言が漏れる。
風呂を済ませ、部屋へ戻る。
布団へ腰掛けると、今日一日の出来事が頭をよぎった。
奈良へ来たこと。
銀髪の少女との出会い。
右腕にはめられた、不思議な腕時計。
知はそっと右腕を見つめる。
「結局、名前も聞けなかったな。」
時計は何事もなかったように時を刻んでいる。
だが、その奥では誰にも気付かれないほど微かに、青い光が一瞬だけ揺らめいた。
知はその変化に気付くことなく、布団へ身体を預ける。
初めて暮らす街。
初めての部屋。
そして、明日は遷都学園への挨拶。
どんな先生がいて、どんな生徒たちと出会うのか。
期待と少しの不安を胸に、知はゆっくりと目を閉じた。
この時はまだ知らない。
自分が足を踏み入れる学園に、**"もう一つの世界"**へ繋がる鏡が眠っていることを――。
3話!