知と雷斗が並んで姿鏡を見つめていると、不意に背後から誰かに押されたような感覚が走った。
「――えっ!?」
「うおっ!」
二人の体勢が大きく崩れる。
咄嗟に踏ん張ろうとしたが足元に力が入らない。
まるで床が消えたような浮遊感。
鏡の表面が水面のように波打ち、二人の身体を飲み込んでいく。
「なっ……!」
景色が反転する。
世界が歪む。
そして――。
視界が真っ白に染まった。
◇
「おい! 起きろ!」
肩を大きく揺さぶられる感覚で、知はゆっくりと目を開けた。
「おい、大丈夫か!」
目の前には雷斗の顔があった。
「……雷斗。」
「良かった! 意識あるな!」
知はゆっくりと体を起こす。
頭が少し重い。
「ここは……。」
見渡す。
見覚えのある廊下。
だが何かがおかしい。
窓の外は灰色の空。
床には黒い染みが広がり、壁には無数の亀裂が走っている。
照明は点滅を繰り返し、不気味な静寂が校舎全体を包んでいた。
「学校……?」
「俺も最初そう思った。」
雷斗は周囲を警戒しながら答える。
「でも人が一人もいねぇ。」
知は立ち上がる。
さっきまでいた生徒会室とはまるで別世界だった。
廊下はどこまでも続いている。
外へ出ようにも出口が見当たらない。
「職員室へ行こう。」
「いや、だからその根拠は?」
「先生なら何か知ってるかもしれない。」
「まぁ……それしかねぇか。」
二人は廊下を歩き始めた。
五分。
十分。
歩いても歩いても景色は変わらない。
「おかしい。」
知が立ち止まる。
「普通なら職員室に着いてる。」
「だよなぁ。」
雷斗も頭を掻く。
「この学校、広いとは思ってたけど、ここまでじゃねぇ。」
その時だった。
「やぁ、こんにちは。」
突然、前方から声が響く。
二人が顔を上げる。
そこには一人の男子生徒が立っていた。
遷都学園の制服。
腕には『生徒会長』と書かれた腕章。
整えられた髪。
余裕に満ちた笑み。
「小田上……?」
雷斗が顔をしかめる。
「知り合い?」
「三年だ。」
雷斗は露骨に嫌そうな顔をする。
「小田上圭吾。生徒会長選挙に出てる奴だ。」
小田上は優雅に笑う。
「やぁ雷斗くん。相変わらず元気そうで何よりだ。」
「まだ選挙終わってねぇだろ。その腕章、気が早すぎるんじゃねぇか?」
「気が早い?」
小田上は肩をすくめる。
「違うよ。結果は最初から決まっている。」
「だから僕はもう生徒会長なんだ。」
雷斗は舌打ちする。
「相変わらず気に食わねぇ奴。」
知は静かに尋ねる。
「知り合いなの?」
「ああ。」
雷斗は苦々しい表情で頷く。
「結果しか見ねぇ奴だ。」
「負けた部活は価値がないって言って、予算を削ったり廃部にしたりする。」
「親が市議会議員だから好き放題だ。」
「テコンドー部もあいつに潰された。」
知は雷斗を見る。
「君はテコンドーを?」
「去年の県大会個人優勝。」
短く答える。
「だった。」
その一言だけで十分だった。
知はそれ以上聞かなかった。
小田上は楽しそうに拍手する。
「いいねぇ。昔話は感動する。」
「でも現実は違う。」
「勝った者だけが正義なんだ。」
雷斗は睨み返す。
「お前……!」
「ところで。」
小田上は知へ視線を向けた。
「そっちの転校生。」
「君は巻き込まれ事故だったね。」
「運が悪かった。」
知は何も答えない。
小田上は笑みを深める。
「まぁいい。」
「せっかくだ。」
「この世界のルールを教えてあげよう。」
その瞬間。
パンッ!
小田上が指を鳴らした。
廊下の奥。
教室。
階段。
至る所から人影が現れる。
「なっ……。」
知は目を細めた。
制服姿の生徒。
しかし顔は真っ黒で何もない。
帽子を深く被り、腕には『役員』と書かれた腕章。
まるで感情を持たない人形だった。
「何だ……あれ。」
雷斗も息を呑む。
人数は十体以上。
無言で二人を囲み始める。
小田上は満足そうに笑った。
「彼らは役員。」
「僕の命令には絶対服従。」
「つまり。」
「この学校の秩序そのものだ。」
雷斗は拳を握る。
「ふざけんな。」
「そんなもん秩序でも何でもねぇ!」
「そうかな?」
小田上は鼻で笑う。
「勝者がルールを決める。」
「それが社会だ。」
「だから君は負けた。」
「だから君の部は消えた。」
雷斗の表情が変わる。
「……!」
怒りが一気に込み上げる。
「てめぇぇぇ!」
飛び出そうとする雷斗の腕を知が掴んだ。
「待って。」
「離せ!」
「数が多い。」
知は冷静に状況を見る。
「勝てない。」
雷斗も周囲を見回す。
前後左右。
完全に囲まれていた。
小田上は笑う。
「逃げる?」
「いいよ。」
「逃げられるならね。」
その瞬間。
役員たちの体が黒い霧に包まれる。
制服が裂ける。
腕が異様に伸びる。
帽子が溶けるように消え、巨大なカボチャのような頭部へ変化していく。
目だけが妖しく光る異形。
「シャァァァ……!」
「何だよ……これ。」
雷斗の顔から血の気が引く。
知も息を呑む。
「化け物……。」
小田上は楽しそうに笑った。
「さあ。」
「鬼ごっこの始まりだ。」
異形たちが、一斉に二人へ向かって歩き始めた